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(回答先: Under Pressure 歌舞伎京劇つうかカストラートか・才能は素晴らしいんだろうけど・やっぱデビッドボォイ変態だわ 投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 10 月 27 日 00:07:31)
http://blogs.yahoo.co.jp/nietzsche_rimbaud/29843573.html
2006年3月26日
コリン・ウィルソン
『アウトサイダー』
1975 紀伊國屋書店・1988 集英社
Colin Wilson : The Outsider 1956
福田恆存・中村保男 訳
1931年生まれ。学校を中退し労働者として職業を転々とした。アカデミックな教育は全く受けていない。家を出て土管に住み、昼は大英図書館に日参し、夜は皿洗いなどで暮らした。毎日毎日大英図書館で書き物をしているコリン・ウィルソンの姿を評論家のアンガス・ウィルソンが見て、いつか原稿ができたら見てあげようと言った。そしてアンガス・ウィルソンに認められ、1956年ロンドンのVictor Gollanz社から出版。この書は発売と同時に大ベストセラーとなり非常な世界的センセイションを巻き起こした。
松岡正剛のところにもこんな風に書いてある。
ともかく中学校しか出ていないウィルソンが本書をひっさげて登場したときは、世界中がびっくりした。こんな書きっぷりをした男はいなかった。26歳のときの出版だ。
第一章 盲人の国
「才能もなく、達成すべき使命もなく、これといって伝えるべき感情もない。私はなにも所有せず、なにものにも値しない。が、それでもなお、なんらかの報いを私は欲する。。。彼はあまりに深くあまりに多くを見とおす。」
こういう人間は犯罪者になるか、新興宗教者になるか、精神病院行きか、破滅者になるかぐらいしかない。文芸かアートか芸能に進む場合も多いが、才能もないので成功はしない。
こういうアウトサイダーの運命を背負わされた人はどうすべきか、どうしたらよいかを探っていく本だ。
まずはアンリ・バルビュスの『地獄』をとりあげ、この神経症患者の分析と破獄を試みる。
そしてH.G.ウェルズを考察し、健康人は盲人の国にいて自分の眼が見えないことに気づかないが、アウトサイダーは目が見えるのでそれで健康人より苦しまねばならない人間だとする。
ウェルズの主人公は答える。「盲人の国では片目の人間が王である」
第2章 無価値の世界
アウトサイダーは実存的な言葉で自己表現する傾向がある。バルビュスの主人公を社会に適応できぬ人間とか精神病者と片付けても、サルトルの「嘔吐」のロカンタンになると形而上学の用語を持ってする以外に攻撃できない。
ここではサルトルとカミュの異邦人が取り上げられる。この主人公の共通点は、非現実感と無価値感だ。
なにごとにせよ、それが可能で意味のあることだと信じぬ限り、それをなそうという気はおこらぬものだ。
なすべき価値のあることはなんだろう。
実存主義的アウトサイダーからはここまでしか答えをひきだせないので、ウィルソンは今度は、ロマン主義的アウトサイダーを考察する。
第3章 ロマン主義的アウトサイダー
実存主義的アウトサイダーの世界は気持ちよく呼吸のできる世界ではない。何をする理由もないと考え、自室から一歩も出ぬ、彼らは無機質で反生命的である。ロマン主義的アウトサイダーが、活動的でないのは無価値の世界にいるからではなく、本質的に夢想家であり、「別世界を夢見る者」だからである。そして恋愛に脱出口を見つけようとする傾向もある。
ゲーテはアウトサイダーではないが、ゲーテ以前は恋に悩む青年は喜劇的人物であった。
ゲーテはウェルテルによって、蒼面だが男らしい教養ある恋に悩む青年詩人を世に送りこのタイプが定着した。またドイツには教養小説というまさに哲学的回答を求めるのが主眼の文学の流れがあった。
ロマン主義的アウトサイダーとしてここで分析されるのはヘルマンヘッセだ。荒野の狼ハリーハラーの手記はまさに「アウトサイダー論」に他ならない。
第4章 制御への試み
ウィルソンは今度は小説の主人公から目を転じ、人生においてアウトサイダーたらんとしたものに目を向ける。
アラビアのロレンス(思考に悩まされる性質)
画家ゴッホ
天才舞踊家ニジンスキー
この章でウィルソンは、明瞭に区別しうる3種類の「アウトサイダー」と各自が自分の「アウトサイダー」らしさと戦うための修練を検討する。3種類の修練とは、智能、感情、肉体(智能がロレンス、感情がゴッホ、肉体がニジンスキー)にたいする修練であるが、これらのうちどの一つもそれのみでは完全なものではないことがわかる。ゴッホとニジンスキーは発狂した。ロレンスは精神的自殺である。
第5章 苦痛の閾
ここでニーチェの考察が始まる。ニーチェはまず第4章の結論「頭脳の修練だけでは不十分だ」に到達する。ツァラトゥストラはまず知性家であると同時にゴッホと同様の詩人であり、自然神秘家でもある。さらにニジンスキーと同じく肉体を愛する人でもある。ニーチェはこれまでにあげたどの人物にもまして「アウトサイダー」をよく理解していた、とウィルソンは言う。ロレンスとゴッホは暗中模索の人であったが、ニーチェはさらに一歩進んだのである。
智力だけでは不十分だとニーチェは気づいている。にもかかわらず彼はあくまでも哲学者の武器によってこの問題を攻め続けた哲学者にとどまった(コリンウィルソンの意見です)
しかしツァラトゥストラはどの方向に解答があるかをあきらかにしてくれた。芸術家兼心理学者、直感の思想家、それがめざすべき目標である。そのような人物は、世界の文学にきわめて少数しかいない。芸術家であり思想家、これら2つの機能を兼ね備えた大人物を次に検討する。
第6章 自我の本体
ドストエフスキー「地下生活者の手記」「罪と罰」
「地下生活者の手記」の虫けら人間は、「なすに値することは何か」と問うが、感情的貧血症状によって複雑になっている。彼は楽しんだり苦しんだりする以上にはるかに考え事ばかりをしていた。それにくらべるとラスコリーニコフは幾分ましである。不幸によってかれの全身全霊が嫌悪と憐憫の入り混じった感情と一体になる。なかでも(ロレンスの毛嫌いしていた)「低級な俗な人間」にたいする彼の気持ちには曖昧なところがまったくない。
いまかりに、孤島に大きな城があって、そこにはまず脱出不能な地下牢があるとしよう。牢番は囚人の逃走を防ぐためのあらゆる装置を設けた上で、もっとも重大な最後の予防策を講じる。すなわち、囚人たちを催眠術にかけておき、おまえたちとこの牢獄とは一つのものだと暗示するのである。さて、囚人の一人が、自分は自由になりたがっているのだと気づいて、他の囚人にそれを伝えると、みんなはびっくりしてその顔を眺め、「なにから自由になりたいというのだ?おれたちはこの城じゃないか」という。
ところが、「アウトサイダー」が気づくのはまさに自分が自由でないというこの事実に他ならぬ。その解決策は一つしかない。場内をつぶさに調べ上げ、その弱点がどこにあるかを推測し、単独で脱走計画を練らねばならない。「城を知る」ということはすなわち第4章で述べた「アウトサイダーの最初にするべき仕事は自分を知ることだ」と同じことである
第7章 大いなる総合
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の考察
第8章 幻を見るアウトサイダー
ウィリアム ブレークの考察
第9章 回路からの脱出
ラーマクリシュナ グルジェフの考察
超宗教っていう感じで終わる。
というこんな感じの本です。
1950年代の大ベストセラーです。一夜にしてスターになったらしい。立花隆が「アウトサイダー」はおもしろかったと言って、コリンウィルソンに取材に行くビデオもNHKにある。
それからこれに便乗して河上徹太郎が「日本のアウトサイダー」という本を出していますがこれはおもしろくない。
アカデミックな人達はアウトサイダーの定義がはっきりしないから論じることもできないと批判した。これにはもう
誰でもの入場はお断り。入場は狂人だけ ヘッセ というしかない。
その後ウィルソンは成功しましたが、自分でハングリー精神がなくなって自分がだめになったと盛んに書きます。そして
オカルト(ユリゲラー取材本とか)
宗教本
幻を見る→知能右脳開発
SF小説
犯罪者列伝(殺人百科)
博物学の本(荒俣宏は昔日本のコリン・ウィルソンといわれた)
科学技術入門書 天文学(スターシーカーズ)とか(時間とは何か)(竹内均がほめてた)
とかを執筆した。
ほらね、アウトサイダーの行きつくところは(今のわたしと同じ)科学技術です。そうなるしかないじゃん。オカルトも犯罪もやだし。
大学に大コリン・ウィルソン崇拝者がいて(哲学教授になるための単位を取るため学士編入してきた)高学歴者で語学もできるので大学院も2次試験まで行くんだけど、コリン・ウィルソンと言うと落とされた。そこで最後に中世哲学がやりたいですといって大学院にいった。私のコリン・ウィルソン論はこの人の影響を受けています。この人絶対大学教授になるといっていましたが、今は予備校で知能開発やっています。(大学教授になるのって難しいんですね。ていうかこの人生まれつきの難病という問題もあったが)それとアウトサイダーの進路としてはこういう知能開発の仕事に進むという場合も多いと思います。私が英才教育に興味があるのもそういう理由です。
ネタにはまってしまった。いまごろコリンウィルソンについて書くのはとっても時期はずれですが。
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