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陣中見舞い氏のリクエストにお応えして、大本教と日月神示のその後について
動画や音楽を取り混ぜ、スペクタクルに展開していきたいと思います。
まずは石原兄弟、殊に慎太郎の『カルトの申し子』ともいうべき側面を照射します。
では最初に彼らのルーツを探っていきましょう。
佐野眞一「てっぺん野郎」より順不同に抜粋します。
慎太郎、裕次郎兄弟には生まれついての「いいとこのおぼっちゃん」育ちのようにみえながら、どこか、それだけにはおさまりきれない粗野な雰囲気を醸しだしている。両家のおぼっちゃんでありながら、不良めいている。そのアンバランスが、彼らの魅力といえばいえる。
太陽の季節
僕は世間をたぶらかす名優。“石原慎太郎”という悪役を演じている。
続き
明治三十二年(一八九九)年十二月二日長浜で生まれた慎太郎の父・潔が、郷里の英雄視されつつあった亀三郎が興した山下汽船に入社したのは、同社が飛躍するきっかけとなった第一次世界大戦が勃発する大正三(一九一四)年のことだった。当時、潔はまだ十四歳の少年だった。
頼まれれば何の疑いももたず、どこにでもなんでも運ぶ渡り職人、トランパーを自負した山下汽船は、そうした日本人を最も獰猛な形で表現した海運会社ではなかったか。同社は戦時中、大日本兵器株式会社という軍需産業を設立し、最盛期には二万人もの従業員を擁して、海軍軍用機の搭載機銃の大半を生産している。
アメリカの西部開拓が、アリゾナの金を目指す男たちの、いわゆるゴールドラッシュによってなされたことはよく知られている。タダ同然の樺太材を乱伐して内地に狂ったように積み出す男たちのラッシュは、その日本版だったともいえる。その先兵の一人が石原潔だった。潔は外国航路の船長だったというイメージが、なぜか広く流布している。しかし、潔の現実の仕事は、板子一枚下は地獄の北海の荒海で、荒くれ人夫を棒で叩くようにして、強制労働同然にこき使う汚れ仕事中の汚れ仕事だった。
小樽発展の起爆剤となったのは、明治三十八(一九〇五)年の日露戦争後の南樺太領有だった。北緯五〇度線を境にして樺太の南半分を獲得したことにより、小樽は樺太交易の中心地となった。これを機に、小樽には三井、三菱などの財閥企業が争って進出することになった。
♪みなさん、最近やたらと日中戦争のシミュレーションみたいなのが出て、
煽っている連中がいますね。
でもねすべての戦争はシナリオがあるんです。
カルトのほうにミッドウエー海戦のヤラセを検証してあるので、
よかったら暇なとき見てみてください。あれって日本が圧勝してたんですよ。
それを日米共同演出でひっくり返したっていうのが真相です。
詐欺犯罪なんです。
それを補強するためにゴードン・プランゲに千早正隆(旧海軍出身)が全面協力、
ヤラセ当事者の源田実、淵田美津雄、草鹿龍之介にインタヴュー、
PHPの奥宮正武もグルになって偽先史資料が作成されたんです。
日露戦争の逆バージョンなんですね。
最近マスコミが海上自衛隊の雄姿をぶち抜きでグラビア特集しています。
『すべての戦争は仕組まれて起こされる八百長である』
この定理で『日本海海戦』の圧勝を解いてみてください。
『政治において偶然に起こることは何もない』
この定理で311、611、尖閣諸島紛糾、憲法改正等、
あらゆる今日の問題を逆照射してみてください。
すべてが長期スタンスで周到に用意されたシナリオであることが見えてくるでしょう。
続き
小樽の殷賑を決定づける樺太の森林開発に先鞭をつけたのは、のちに王子製紙社長となる藤原銀次郎と、官制となってから三代目の樺太庁長官に就任した平岡定太郎だった。平岡はのちに慎太郎が親しく交友することになるあの三島由紀夫の祖父である。明治四十三(一九一〇)年、樺太から上京した平岡は、浜町の料亭に一夜席を設け、三井物産の幹部を招いた。そのなかに、当時三井文さん木材部長の藤原もいた。平岡はその席で、樺太は海岸から一里も入ると、はかりしれないほどの森林資源がある。そこで、三井の手で樺太の開発をやってもらえないだろうか、切り出した木材は無料で提供してもいい、といって三井の幹部連をくどいた。
からっ風野郎
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MrHofner5001さんが 2011/05/04 にアップロード
MrHofner5001さんのコメント
『1960年に公開された日本映画。製作・配給は 大映(東京撮影所)。三島由紀夫と楯の会についての映画製作記念としてUP!
http://www.wakamatsukoji.¬org/blog/
1960年3月20日発売。
三島は作詞と歌唱を担当。作曲とギター演奏は深沢七郎。』
深沢七郎の名作『楢山節考』
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SHOCHIKUchさんが 2012/08/29 に公開
SHOCHIKUchさんのコメント
『時代を超えても決して色褪せる事ない名作群を、木下作品を知らない世代や若い映画ファンにも伝えたいという熱い想いを込め、オリジナル予告編を日本映画界をリードし、木下¬監督と木下映画から多大な影響を受けたと語る3監督により新たに制作します。『楢山節考』の予告篇を手掛けるのは、『河童のクゥと夏休み』『カラフル』の原恵一監督。』
現代の楢山節考『でんでら』
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entermeiteleeiganaviさんが 2011/04/20 にアップロード
entermeiteleeiganaviさんのコメント
『「楢山節考」から28年、姥捨山伝説が再び蘇る』
続き
紙なしには新聞も印刷できないし、雑誌も刊行できない。もし、樺太の紙がなかったら、日本のメデイア状況、もっといえば日本の大衆社会化状況の到来はかなり遅れたものになっただろう。「船」によって獲得した島の森林を「紙」にかえる。日本の近代は間違いなく船と紙によってつくられた。うすぐらいタコ部屋にとぐろをまく積み取り人夫を引き連れて小樽と樺太の間を往復した石原潔は、その典型的な先導役だった。
小樽の地名は、アイヌ語で砂だらけの沢を意味するオタルナイからきたものだという。小樽近海は元々北海道でも屈指の漁場だった。交通の発達と経済的発展にともなって、ヤン衆と呼ばれる男たちが海をうめつくすといわれたニシンを求めてこの地に群がった。
♪ごめ〜が鳴くからニシンが来ると赤いツッポのヤン衆が騒ぐ
北原ミレイ 石狩挽歌
続き
明治四(一八七一)年、開拓使は、それまで浜にムシロ掛けをしただけの店で漁師相手の商売をしていた浜千鳥と呼ばれる女たちを、小樽南端を流れる勝納川ぞいの金曇町一帯に集め、官営の遊郭とした。ここは北海道開拓のための労働力確保という狙いを持ち、営業にあたっては国からの補助金が存分に出た。
小樽駅から車で十分ほど行った長橋三丁目に興聖寺という寺がある。その境内を進むと、一番奥まったところに、無縁供養塔、鎮魂と掘りこまれた石碑と、六角形の台座に乗った観音様の座像がみえてくる。二つの石碑は昭和二年八月に建立されたもので、樺太で死んだ名もなき積み取り人夫や女郎たちを弔うための慰霊碑である。昭和十(一九三五)年六月に建立された観音像の台座に目を凝らすと、六角形の石板の一面ごとに約二百人の無縁仏の名前が彫られているのがわかる。その半分は女性で占められ、梅毒などの性病で死んでいった遊郭づとめの女郎だと思われた。
小樽の発展は、その日暮らしの労働者がたむろする安下宿と、彼らに体を売って生活をしのぐ女郎屋によって下支えされてきた。いまでもその面影は残っており、興聖寺からさほど離れていない清水町の界隈には、大きな物置小屋のような下宿が廃墟同然に残っている。その三角屋根の木造の建物は、下宿というより、収容所といった方がよさそうな安普請なつくりである。ここにパイスケと呼ばれた石炭人夫や沖仲仕たちがつめこまれ、監獄にも近い生活を送った。
小樽には、官営売春発祥の地の金曇町の地名はもうない。しかし、かつて色街があった勝納川のすぐ西の信香、若松の一帯を歩くと、かすかに女郎街の匂いが漂ってくる。一見ふつうにみえる民家も、よくみると、みな庇がやや深い。玄関の背は低く、小腰をかがめないと入れないようなつくりになっている。石原潔が積み取り人夫を調達した能登組のタコ部屋も、かつてここにあった。
小樽は北のウオール街といわれた石造りの銀行街と、古い倉庫群が立ちならぶ運河、それに、かつては積み取り人夫や沖仲仕相手の安女郎街があった場所と目と鼻の先にある石原裕次郎記念館の人気で、観光客は連日ひきもきらない。運河沿いの石畳の歩道はソフトクリームを舐めながらそぞろ歩く若いカップルだらけだし、裕次郎記念館の駐車場は、かつて裕ちゃん映画と彼の歌に熱狂した初老の男女を満載した観光バスで朝から満杯である。
摘み取り人夫のタコ部屋や、彼ら相手の女郎街がひしめいていた場所から、道路一本へだてただけの裕次郎記念館の入り口には、石原兄弟が愛用していたという豪華ヨットのコンテッサ(貴婦人)号が、そんなくらい過去とは縁もゆかりもない風情で、華麗に展示されている。
俺の小樽 石原裕次郎
小樽は決して、観光客たちが石原兄弟のイメージに勝手に重ね合わせて思い描くようなロマンチックな街ではない。小樽の海は、積み取り人夫たちが絞りに絞り取られた膏血と、女郎たちの流した涙と血で、真っ赤に染まっている。
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