09. 2012年9月28日 12:48:41
: tO4wp5FrYo
↑ 副島隆彦のリークは信憑性が高い。 ただし中曽根は当時防衛庁長官である。 そして原発利権の場合と同様、 使い走りの小僧に過ぎないだろう。 音楽の話題を逸れるが、 『MISIMA』の映画を紹介した動画投稿に関連して、 三島事件の本質について補足しておきたい。
山本舜勝(きよかつ)の一連の著書より抜粋する。
「陸上自衛隊に情報部門が設けられたのは昭和二十七年秋のことである。朝鮮戦争の勃発に際して創設された警察予備隊は保安隊に名を変えていた。その保安隊に私は応募し、入隊した。朝鮮戦争とその年の”血のメーデー”は私の心を揺さぶり、安穏としてはいられないとの思いからだった。」 「私は米陸軍機甲学校、機甲師団などで学び、さらにフォート・ブラッグの特殊戦学校で情報勤務と不可分の米軍式遊撃戦を二か月余り学んだ。私に道を開いたのは、三十二年に調査学校の二代目校長に就任していた藤原岩市陸将補だった。かつて参謀本部第二部・第八課員として勤務し、私と同じ旧陸軍中野学校の教官も兼務したが、太平洋戦争開始とともにマレー半島に渡り、インド国民軍を組織してインド解放に活躍した傑物である。」
「のちに私を三島に紹介することになる、この藤原校長からの学校勤務推薦の私信を受け取ったのは、フォート・ブラッグだった。その昭和三十三年、ベトナムでは、北ベトナムのゲリラ軍が南に入ろうとしており、米軍在ベトナム軍事顧問団も強化されて、特殊戦が展開されんとしていた。」 注 米軍による軍事顧問団の特殊性についてはいくら強調しても足りない。 ベトナム人民はタヴィストックのプログラムの実験に供されたのだ。 この成果は本国アメリカで実地に試されている。 名付けて「フェニックス・プログラム」という。 5%の人間が残り95%を支配する恐怖プログラムである。 いずれ世界人間牧場で使う予定でいるのだろうか。 「かつて私は戦後唯一のクーデター未遂事件と言われる”三無事件”の内部調査を命じられた。その際、計画が直前に発覚し、首謀者たちが一網打尽になる前夜、神楽坂でH陸相らがこの首謀者たちと密会し、酒を酌み交わしていたことを部下の報告で知った。さらに調査を命じたSも一味とは旧知の仲であった。私はジェネラルたちが、自衛隊によるクーデターの機会を求め、事件の陰で暗躍したことを知った。」 注 H陸相の人柄を考えるとクーデターの機会を求めたとは思えない。 不穏分子を一網打尽にすべく、罠を仕掛けるよう頼まれたのだろう。 「こうした中、三島由紀夫が自衛隊で訓練を受け、自衛隊と連携した行動をとるようになった。その道を開いたのは調査学校校長であった藤原岩市である。三島は私と知り合い、訓練をともにするようになってからも、藤原とは接触を持っていた。」 「三島はまた、アメリカ陸軍やCIAなどとの間にパイプを持つH陸相らとも何らかの関係があったようである。H陸相は藤原とともに戦時中は軍中央に勤務し、戦後は自衛隊の新設に関わり、米軍とは密接な関係にあった。」 「Hやのちに自衛隊トップに就任するSは、敗戦が決定的になった昭和二十年頃、中央の方針に背き米側に向けて密かに終戦工作を画策した。戦後、米国による日本の事実上の再軍備が決定される中で、彼ら”親米派”軍人は次々と復帰を果たす。」 注 HやSは大元帥陛下・昭和天皇の方針に忠実であった。
「私が三島とともに行っていた訓練をSや藤原らは知っており、公認もしていた。だから三島が彼らに会うことには何の不思議もなかった。だが、その会見や話し合いが、かなり具体的行動に踏み込んだものであることを知ったのは、私たちの訓練がだいぶ進んだ秋口、楯の会が結成された頃である。」 「H陸相は、まだ私が三島に会っていなかった頃、このようなことを漏らしたことがある。”おい、カモがネギをしょってきたぞ”」 「藤原は三島の構想に耳を傾けながら、参議院議員選挙立候補の準備を進めていた。今にして考えれば、参議院議員をめざすということは、部隊を動かす立場を自ら外れることになる。仮にクーデター計画が実行されたとしても、その責任を免れる立場に逃げ込んだとも言えるのではないか。いずれにせよ二人のジェネラルは、自らの立場を危うくされることを恐れ、一度は認めた構想を握りつぶしてしまったのであろう。」 注 三島を焚き付けてから逃げるのは既定のシナリオだったのだろう。 「元楯の会会員の一人は”三島は最後まで治安出動からクーデターに持っていく計画をあきらめなかった”と語っている。警視庁の当該部署に確かな情報源を持っていた三島は、当日の警備状況とともに、その日の街頭闘争がどのような展開になり得るか、詳細な情報分析を事前に知っていた。」 「十月二十一日までに彼がその可能性を求め続けた”クーデター計画”を阻んだ者がいる。それは誰だったか。一人は私である。すでに述べてきたように。私は、クーデター計画に正面から反対した。第二に挙げられるのは、H陸将と藤原岩市である。彼らは、一度は三島の構想に理解を示しながら、最終的には自分たちが傷つくのを恐れ、うやむやにしてしまった。二階へ上げておいて梯子を外したといわれても仕方がないと思う。」 注 二階へ上げてから梯子を下ろせと指示されていたのだろう。 寄ってたかって三島を二階へ上げた連中の一人に田中清玄がいる。 「楯の会発足時に中心となっていたのは、”論争ジャーナル”という雑誌に依拠していたグループであった。その背後には、右翼運動の指導者である田中清玄の存在があった。田中は、戦前左翼運動に携わったが、逮捕され、獄中で転向した人物だった。政財界に隠然とした影響力をもっていた彼は、学生運動にも関心を示しており、第一次安保闘争時には、全学連に陰から資金援助していたことが知られている。そして田中は、新しい青年運動を目指す言論誌として創刊された””論争『ジャーナル」の後援者ともなったのである。」 注 田中清玄自伝には、昭和天皇と会見して命がけの尽力を誓うくだりがある。 以後、田中は天皇家のポチとして暗躍していたようだ。 「陛下にはその後、天皇誕生日なんかにおめでとうございますと書いてお届けす ると、入江さんが陛下のところへ持って行かれたようで、”田中は元気だね” って笑っておられたと伺ったことがあります。それから入江さんから電話があ って”この問題を田中はどう言っておるか”と。それで入江さんとお会いし て、二人でよく話しました。」(『田中清玄自伝』より) 戦前戦中は入江と同じようなことを木戸内大臣がやっていた。 右翼とヤクザに人脈を持ち、便所の落書きまで憲兵にメモらせ、 下世話な世情に通じていた。高松宮も安藤組と懇意にしていた。
鬼塚英明はヤクザの頭目が昭和天皇の賓客であり、 右翼も御学問所から生まれた出自を持つことを検証している。 資金提供は三菱財閥である。 「自刃の年の七月、三島は、当時の保利官房長官から、防衛に関する意見を求められた。送られてきた書類は、その時三島が日頃からの持論を口述し、タイプ印刷しに付したものだ。佐藤栄作総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずだったが、実際には公表はされなかった。当時の中曽根康弘防衛庁長官が、閣僚会議に出すことを阻止したのではないかと、私は思う」 「もう一度いう。クーデターは行われるはずだった。クーデターによって憲法改正を行うには、アメリカの了解が不可欠であった。私は、アメリカの押し付けによる憲法を改正する以上、それが歴史的必然とも思った。しかしそれは、一方で、三島の言う、””自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わる”、すなわち米軍に従属することをも意味する。三島はクーデターによる憲法改正という大義のために、アメリカへの了解を得るという矛盾を受け入れたようだが、その矛盾を私は無視できなかった。」 「クーデター計画には二つの結末がある。一つは三島らの死である。彼らは崇高なる自己犠牲によって第二の結末、クーデター、憲法改正への道を開く。しかし、三島はその結末を見ることなく、自らを閉じてしまうのである。」(以上 山本舜勝著『自衛隊 影の部隊 三島由紀夫を殺した真実の告白』より) 「三島は率直な男だったが、楯の会についてすべてを私に語ったわけではない。彼の死後私は、彼が非常に有力な同盟者を二人持っていたことを知った。その二人というのは、一九六四年から一九七二年までの間日本の首相であった佐藤栄作と、時の防衛庁長官であり現在の首相である中曽根康弘である。」
「佐藤は楯の会の活動資金を財界から集め、中曽根は彼の軍隊を富士山麓の自衛隊基地内で訓練できるよう協力した。(日本の新聞は、この三島・中曽根・佐藤の関係について何ら公表していないが、ジャーナリストたちはこのことを熟知している)」(以上 山本舜勝著『サムライの挫折』より) 三島由紀夫はなぜ彼らに陥れられたのか?それを説く鍵は2・26にあると思う。 2・26は準備万端整えた昭和天皇側が、青年将校に仕掛けたものである。 遺族の高野司は、執念で田布施システムの一端に迫っている。 その経緯は鬼塚英明がDVD『日本の秘密』の中で解き明かしている。
三島由紀夫が高野司と懇意にしていたということは、 彼もまた禁域を垣間見ていたことを意味する。 高野司とは段違いに影響力を持つ三島を無視することはできない。
三島事件はまさに第二の2・26として仕掛けられたと思う。 あまりにソックリで連中のシニスムを感じる。
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