http://www.asyura2.com/12/music8/msg/859.html
Tweet |
BSフジ三国志を全編観た・・
歴史書の「三国志」 と「三国志演義」 のことは、
全く知らないので、BSフジのこのドラマに限ったコメントになるが・・
BSフジ三国志(かなり独自のアレンジがあるようであるが・・)で、
感じたことを以下に記す。
あくまでもBSフジの「三国志」をネタにした、
例によって私の独断と偏見である・・
三国志は誰が主役なのか?
誰の物語なのか?
単純に、曹操、孫権、劉備、魏、呉、蜀の三国の物語なのか?
一般的には、本国中国においても、
劉備や孔明を主役とし、
曹操をヒールとするのが、
一般的との話を聞く・・
じゃあ、なぜ、
三国を束ねることができなかったある意味では敗者である
劉備や孔明がヒーローなのか?
その理由を私は知らない・・
私が思うに・・彼らが強烈に
「漢室の中興」を謳い、信奉し、信仰していたからだと思う・・
正統である天子を頂点とし、それに付き従う、
そして、それに歯向かう者は逆賊とする・・・
劉備や孔明がくどいくらい、曹操のことを逆族扱いし、
「逆賊を討つ・・」と言っていたのが印象的である。
しかし、物語は皮肉な展開をしていく、
「漢室の中興」を、
まるで、「ラブ・イズ・ブラインド」よろしく信奉し、
はたまた、
強烈な宗教のように信仰していた劉備と孔明は、
それぞれ志半ばで、倒れる。
そして、物語の勝利者は意外なところに現れる。
皮肉にも、
劉家でも曹家でも孫家でもないところに現れるのである。
曹家の家臣である司馬懿がクーデターを起こし、
曹家を排除し、
最終的には司馬家が晋を起こし、
三国の統一をはたすという皮肉な結果に落ち着く。
私は、これらを、観て、三国志の真の勝利者は誰か?
と聞かれたら、
司馬家であり司馬懿であると答えるつもりである・・
主役は誰か?と聞かれたら、
司馬懿であると答えたいと思うのである・・
では、なにゆえに、勝者である司馬懿が英雄扱いされないのか?
それは、司馬懿が劉備がいう「漢室の末裔」ではないからである・・
司馬懿は劉備が言う「漢室の中興」とは無縁の男である・・
司馬懿は、劉備の言う「逆賊曹操」の部下であり、
その「逆賊曹家」をも滅ぼし、
司馬家による「ネオ天子」を創ったからだと思う・・
このような逆賊の中の逆賊を
英雄にしてはならないのである・・
司馬懿は、「漢室の中興」とか、
「天子は劉家」からとか、
劉備や孔明にありがちな型にはまった信仰的な思考は、
一切なく、あくまでも、臨機応変、
現実路線をただひたすら付き進む。
ようするに「司馬家」が隆盛を極めることに尽力したのである。
これでは、天子からみれば、司馬懿は逆賊の中の逆賊である・・
これでは、絶対に英雄や主役にはなれないのである・・
孔明との戦いでは、
孔明の術中に何度もはまり敗れるが、
何度も再起する・・
一度、孔明と二人きりで、話し合いの機会を持ち、
休戦というか和平の現実的な話し合いを行うが、
孔明の信仰にも似た頑なな、思考によって拒否される。
負けるが勝ち・・という言葉があるが、
この言葉は、
司馬懿と孔明の戦いにふさわしい言葉のような気がする・・
孔明は「司馬懿」からだけではなく、
身内である「李厳」や「劉備の息子」等からも、
蜀の平和と安定の為、
北伐はやめてほしいと懇願されるが、
孔明の北伐への強い信仰はゆるぎないもので、
これも断固拒否している・・
孔明は頭脳明晰で冷静・・洞察力に優れ・・云々・・
しかし、
熱烈な「漢室の中興」教の信者だったということである・・
孔明のような賢者にして、こういった弱点アリ・・
人間的で・・一般庶民には親しみが湧くことうけあいなのである・・
司馬懿がもし、蜀の人間で孔明と同じ立場なら、
たぶん、北伐に固執しなかったと思うのである。
「漢室の中興」なる信仰のある劉備と孔明が敗北し、
これらの具体的な信仰のない司馬懿が勝利する。
皮肉な物語が三国志という物語の本質である。
信仰は美化されるのである・・
「漢室の中興」は宗教ではないが、
十分支配者の支配の道具としての宗教的な効力を発揮している・・
そして、見事、その信仰心ゆえ、敗北し、破たんしている・・
しかし、その信仰心に対する批判や避難はまったくなく、
あいかわらず、「漢室の中興」に依拠しない輩は
すべて逆賊扱いである・・
ただ、一般庶民には、
「天子に付き従うのが一般庶民のあり方でありあるべき姿」
「天子であればその人間性は問われない」
「正統の一族であれば、無条件で自動的に天子になれる」
こういった具体的な支配の為の刷り込みが用意されている・・
これを、ダイレクトに言っちゃお終いだから・・
オブラートに包んだレトリック「漢室の中興」
なる美しき文言が出てくるのである・・
三国志とは何か?
と聞かれたら・・
「漢室の中興」という美しき文言で、
「正統の天子を美化し、正当化する」
「正統であれば、その人物の人間性や人格は問われず天子になれる」
それを信奉し、
何のためらいも見せなかった劉備と孔明を美化し、
英雄に仕立て上げ
それらを、一般大衆に刷り込む物語・・
と、私は答えるであろう・・
たぶん、趣もそっけもない、
ドライな評価ですね・・と言われそうだが・・
この物語を敗者の美学とか・・
滅びの美学だとか・・
一途になること(漢室の中興にこだわること)
をよしとする哲学だとか・・
放浪者の劉備が勇猛果敢な武将(関羽や張飛)や
孔明のような知将を集めて蜀の王になる波乱万丈のサクセスストーリーだとか・・
そのような、評価だとすると・・まさに、
「漢室の中興」教に刷り込まれる可能性はあるであろう・・
BSフジ三国志では、
そのように感じたのは、
私だけでないと思うのであるが・・
ただ、曹操と曹丕の親子ながらも相いれない独特の
緊張感・・(双方の心の探り合いをエネルギーとした・・)
曹操と司馬懿の緊張感
(双方の心の探り合いをエネルギーとした・・)
曹叡と司馬懿の緊張感はそれぞれ見応えがあった・・
(双方の心の探り合いをエネルギーとした・・)
蛇足だが、BS三国志で、
印象に残ったセリフがあったので、
それを以下に記して終わりにする
前にも書いたが
魯粛が孫権をたしなめるシーンで以下のようなセリフを言う
「支配者は民が死んでも、反省する必要はない」
「孫家の繁栄のみを考えるのが支配者の務めである・・」
曹操が司馬懿に以下のセリフを言う
「わしが支配者だ・・」
「わしが決めた法は、わしが、すぐに変えられる」
曹丕が天子の嫁に行った妹ととの会話で
「民は食べるものや、住まいを与えていれば、なにも要求してこない」
(ようするに、支配者が何をやろうと、一般人はある程度、飯が食えたら、簡単に支配できる・・という意味)
(まあ、家畜のようなものとでも、いいたげなセリフである・・)
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。