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少々フライイングですがご了承ください。
モーツァルトの交響曲40番は、25番と共に短調で出来ていて、41曲の中でたった2つしかない。
モーツァルトの短調の曲はその数の少なさや、モーツァルトの意外性をも感じることから人気が高く、40番はその典型だろう。
「モーツァルトのト短調」といえば40番交響曲あるいは弦楽五重奏をさす。
40番を語るに際し、どうしても耳から離れないことが、特にわれわれ世代か、それ以前の先輩世代のクラシック愛好家には幅広く存在するようだ。
それは、小林秀雄(1902年生)が執筆し、1946年に出版た「モオツァルト」「無常ということ」のエッセイの影響である。
小林は、1946年12月に青山二郎と「創元」を編集しているから、それに先立って書いたものかもしれない。
青山二郎は装丁家としての仕事の傍ら、独特の審美眼で骨董をめでた人で、白洲雅子の師匠と言われた人だ。
小林は骨董を巡って青山二郎と交際し、やがて仲たがいしていくことが、白洲雅子の「なぜ今青山二郎か」に書かれている。
小林ものちに骨董に興味をもち、かなりの審美眼を持っていたことが推される。
「壺中居」 という日本橋の骨董商によく出入りしたらしい。
小林といえば「考えるヒント」が受験問題に良く出たから、少しは読んだことがあるぐらいだったが、「モオツァルト」に接したのは大学時代になってからだった。
難解な文章で、理解するには相当苦労したが、それでもわからないことだらけだった記憶だ。
『もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついていた時、突然、このト短調シンフォニイの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。』
以上のフレーズは断片的にだが、覚えていて(調べて正確なものを記した)、40番は小林の抱いた感覚を、かなり自分に摩り込ませて耳に入れたところがある。
同じト短調の弦楽五重奏曲第4番冒頭を、「走る悲しみ」と評した言葉とが、ぐるぐる頭を駆け巡らないではいられない状態でもあった。
『モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青や海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法を知っていた”かなし”という言葉の様にかなしい。
こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先にもない。
まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駈け抜ける。』
「かなし」は感情が痛切に迫って心が強く打たれるさまを表す意が原義、と辞書にあるが、小林の解釈はこれでよいのだろうか。
悲しでも哀しでも古語の愛しでも含んでいるような言い方である。
「低音部がない生涯」ということは、言い換えれば「不安定なモーツァルトの生涯」ということなのだろうか。
頼るものが誰もいなかったことを意味するのだろうか。
こんな文章は、学生時代には文字面を追いかけただけ、理解はできなくて当然のような気がするが、今は何となくわかりそうな気配がするのも、年をとったせいだろう。
「疾走するかなしさ」、これには引用元があり、アンリ・ゲオンの著書「モーツァルトとの散歩」の中で、「走る悲しみ」といったことに寄るのだが、小生はそのことを知らずにいた。
道頓堀で響いたのは40番の終楽章であるということだが、「走る哀しみ」の文章が40番に対してのことだったか、弦楽五重奏だったか確かな記憶がない。(もう一度読み替えす気力がない)
また両方とも「アレグロだし、曲想も哀しいと言えばそう聞こえるから、終楽章にでも1楽章にでも言えそうである。
平たく言ってしまえば「ト短調」すべてに言えるのかもしれない。
ブタペスト/トランプラーが聞きこんだ音盤だが、アマデウスの弦楽五重奏1楽章が営巣とともにあったので貼り付けた。
まだ確認作業はしていないが、多分同じト短調のアレグロを持つ弦楽五重奏に、小林は言及したのだろう。
しかし上の言葉は、先に言ったように40番と五重奏どちらにも当てはまるのではないかと思うから、どちらのことでも大した問題ではないように思う。
室内楽を積極的には聞いてない時期に、ブタペストSQ/トランプラーの音盤は手元にあったぐらい評価が高かったし、サークルでも評判になった音盤だった。。
小林の言及も手伝ってだろう、モーツァルトの短調曲には、何か特別なものがが付加されるようになった。
いや小生の大学時代には、すでにそうなっていた感がある。
小生は木林の呪縛から逃れようとしたことが何回もあったが、今になってもうその抵抗はやめにしようと、なぜか思っていて、そのことに関して、小林の頭で響いた演奏は一体誰のものか、逆にそれに興味を持った。
40番についてを文章にするに当たり、今日はそのことに迫ってみたいと思う。
小林が道頓堀の雑踏にいた時代は、「今から20年も前のこと・・・」というから、出版の年≒出筆の年と仮定すると、小林はまだ若き22.3歳ということになる。
しかしながら、「20年も前」という記述は、あいまいな記憶の諸相を残すから、それを考慮すれば、20歳から30歳ぐらいと範囲を広めることは出来そうだ。
小林が20歳から30歳、つまり1922年から1932年あたりに範囲を広げるのが、適切であるかは確信がないが、演奏会にしろSP録音にしろ、小林が40番をどこかで聞いた、しかも記憶をとどめるほど熱心に聞いたことは間違いないであろう。
さらに、小林の父親という人は、蓄音機のルビー針を製作したというから、レコードで聞いた可能性は高いだろう。
レコードであれば飽きるほど聞けるのだから。
それでまず初めに、小林が聞いたとしたら、と思われる演奏会とそのプログラムを当たってみたが、モーツァルトの40番がプログラムにある演奏会は調べた資料では無かった。
おかげで戦中戦前の日本の楽団、「宮内省楽部、東京音楽学校管弦楽部、新交響楽団、中央交響楽団、星櫻吹奏楽団、東京放送管弦楽団、日本放送交響楽団、ハルビン交響楽団」の存在を知ることができた。
しかも、日本人が初めて耳にすることが出来たという、1925年(大14)4月26日「日露交歓交響管弦楽演奏会」開催の事実もわかった。
がしかしいずれもプログラムには、40番の名前はない。(38番、39番、41番はちらほら存在した)
このころ、40番はあまり人気がある曲ではなかったのか、単調だから時代の空気を助長したのだろうかなどと思ってしまう一方、40番はやはり小林によって広まり、人気が出たのかと推測してしまう。
しかし1957年のカラヤン/BPO公演でも40番は取り上げられず、35.38番だけが演奏されたようだから、もっとほかの要因が考えられそうだ。
また1954年単独来日しN響き振った時も40番は演奏してない。
しかし1959年10月27日、VPOを率いて来日した時初めて40番は取り上げられた。
NHKホール(旧)、東京
モーツアルト:交響曲第40番ト短調 KV550
ブラームス :交響曲第1番ハ短調 作品68
カラヤン人気は絶大だったから、この演奏会と評価が火付け役になったのかもしれない。
また小林のエッセイが後押ししたことが相乗効果を生んだとも考えられる。
以上のことから結論付けるにはやや総計だが、演奏会ではなく「録音」つまりSPレコードで聞いたという可能性が高くなった。
それでディスコグラフィーを探して、その時代の主なものをピックアップする作業に入ることにした。
結果、その中に可能性のある録音が3つあることが分かった。
1928/8/1、ブルーノ・ワルターベルリン国立歌劇場管弦楽団を指揮したモーツァルテウムザルツブルグ音楽祭での録音。
モーツァルト/ディベルティメント第15番
モーツァルト/バレエ音楽「レ・プティ・リアン」
モーツァルト/ピアノ協奏曲第21番
ルドルフ・ゼルキン(P)
モーツァルト/交響曲第40番
以上がプログラムである。
今ひとつが29/1/23、同じベルリン国立歌劇場との演奏、上のものと同一かはわからない。
さらに一番年代的に可能性が高いものとして、1927年、R・シュトラウス/ベルリン国立歌劇場管弦楽団がある。
1930年代以上は、小林が20歳代の対象にならないから、この3つに絞ってもよいと思われる。
シュトラウスは1927年、小林が25歳、ワルターは小林が27歳と28歳となる年の録音だ。
小林の文面を性格にトレースすると、R/シュトラウスの演奏録音が一番可能性があることになるが、『もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるが、・・・』と書いているように20年も昔というのが、もう少し広い巾を持つというのなら、ワルターの演奏録音の可能性も無くはない。
むしろモーツァルトを得意にしていたワルターの可能性が高いということになる。
はたして小林はだれの演奏を聞いたのだろう。
『まるで演奏されたように響いた・・・』と書いているから、よほど演奏が印象に残ったのではないかと推測して、ワルターの演奏を聞いてみた(といってもNAXOSの一部だ)1楽章ではポルタメントの使いどころが1950年代のVPOの優雅な演奏とは少し違うが使っている。終楽章のテンポは凄く速く、疾走するかのように演奏される。
感想としてはかなりザハリッヒ、後年のVPOのものとは大きく違う。
シュトラウスの演奏は聞く機会が無かったが、どのようなモーツァルトになったのか、興味津々だ。
さて小生が何をお気に入りとするかについてだが、ここは,小林にあやかって・・いや確定はしてないのだが、たぶんそうであったろうという大胆な推理の下に、小林が聞いたであろうベルリン歌劇場管弦楽団(15分しか聞いてないので)との演奏ではなく、ロマンシチズムにあふれるVPOの演奏を挙げておくことにする。
準備が整えば、今後両演奏の特に終楽章の比較もしていきたい。
SKBとの演奏は、ザッハリヒな演奏だが排除しきれないロマンチシズムがあるのに対し、VPOとの演奏はポルタメントもパウゼも入れ込んで、ロマン性を強く出した演奏だと思う。
コロムビアとの演奏では少しテンポを落とし、特徴だったポルタメントをなくしている、しかしロマンチックな演奏である。
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小生が一番古くから聞いてきた演奏はワルター/コロムビアの演奏で、このLPジャケットは今でもよく目立ち一発で探すことができたほど。
俗物主義的な金色ジャケットだが、今では逆にいとおしい。
35番39番40番という、つめこみのせいか1面に40番全曲と39番1楽章、2面に39番3つの楽章と35番という録音のLP。
こういうレコードは聴く側に負担だった。
従って、このワルターの音盤では40番しか聞かなくなってしまった。
VPOとの1952年のライブ演奏で1楽章を。
終楽章はこちら、ブルーノ・ワルター/VPO
これはお気に入り演奏の1つ、カイルベルト。1楽章
カイルベルトの終楽章。
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