02. 五月晴郎 2012年6月08日 00:28:32
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「ティン・タンといえばメキシコを代表するコミック・タレントであり、それほどポピュラーカルチャーに詳しくないわたしでもそのくらいは知っている。」http://d.hatena.ne.jp/Cine-de-sabosashi/20110228/1298869022 パチューコということばをはじめて聞いたのはもちろんオクタビオ・パスの著作でのことであった。 北部の奇抜な恰好やら言葉遣いをするひとたちということで、チカノとも似ているが、よりアイデンティティに意識的である。 ようするにメキシコと米国という相対立する文化のなかで育まれた、あるいは切磋琢磨されてきたひとたちである。 ティン・タンといえばメキシコを代表するコミック・タレントであり、それほどポピュラーカルチャーに詳しくないわたしでもそのくらいは知っている。 しかし恥ずかしながら、このティン・タン、あのフアレス市出身で、メキシコシティに出てきたものの、当初はその振る舞いについて反撥をしばしばかったという。 しかし新語続出させつつ、そのスタイルは一世を風靡する。 メキシコ映画史上で、スクリーンにてもっとも多くの女優さんとキッスした俳優さんなのだという。 なぜこれほどまでメキシコで受けた人物なのか。 その笑いの質が高かったというのがいちばんで、唄もうまかった。 軽薄そうでいて、お調子者、理想のメキシコ人とはあまりにもかけ離れているが、それでも好かれるのだ。 ***** パチューコ Pachuco 1930年代末から40年代にかけて、大都市に住む若いメキシコ系アメリカ人のライフスタイルから生まれたサブカルチャー、およびその文化的当事者を指す。米墨戦争に伴うガダルーペ・イダルゴ条約(1848)によって米国メキシコ間の国境が移動して以来、サウスウエスト諸州では数世代にわたるメキシコ系アメリカ人の生活が営まれてきたが、そのコミュニティはアングロ・サクソン社会へ同化するものとそうでないものへ二極化していった。パチューコは、貧困のためバリオ(貧民街)から脱することができなかった後者のコミュニティから生まれた。その親世代は典型的なメキシコ伝統文化の継承者であり、パチューコ世代は規範化されたその継承を拒否するものの、同時にアングロ社会に同化することもできず、二重に疎外された真にマージナルな存在であったことがまず指摘される。パチューコに対するアングロ社会からの攻撃も激しく、その衝突の最も象徴的な例として1943年6月3日-13日、ロサンゼルスで起きた「ズートスーツの暴動」が挙げられよう。そのような社会的緊張をはらみつつも他方で、パチューコは独自の文化様式を生み出した。例えばファッションにおける「ズートスーツ」、改造自動車文化である「ホットロッド」などがあるが、美術史的には特に「プラカ(Placa)」と呼ばれるグラフィティ様式が重要である。パチューコ固有の言語体系である「カロ」を記号化したこの書体は、コミュニティの連帯意識とコミュニケーションのために壁などの公共空間にかかれ、70年代以降、東海岸のモダン・グラフィティが西海岸に伝搬すると、プラカと混ざったユニークなチョロ・スタイル・グラフィティがロサンゼルスなどで発展していく。パチューコ文化全体としては、60年代以降に活性化したメキシコ系アメリカ人の社会的・文化的な自律意識を提唱するチカーノ運動と、それに伴うチカーノ・アートの勃興のなかで、運動を記号的に束ねるための起源的表象として再評価され、取りあげられることになる。また、オクタビオ・パスは50年の著書『孤独の迷宮』において、他に先駆けてパチューコ文化を評価している。 http://www.artscape.ne.jp/artwords_beta/%e3%83%91%e3%83%81%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b3 |