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ナチス、シオニズム、イスラエル。そしてガザ。
誤解している人がいる。もともとシオニズムはユダヤ系の人々の多数派だったわけではない。ナチスと対立していたわけでもない。ナチスが権力を握ったドイツで唯一合法的に機関紙を発行していたのはシオニズムのものだった。むしろシオニストはナチスと共犯関係にあったとすら言える。
アウシュビッツ、ダッハウ… そのホロコーストが、少なくともドイツにおけるユダヤ系の人々の中でシオニズムが「主流派」になるための決定的な歴史的与件だった。ユダヤ人差別はあった。けれどもユダヤ系ドイツ人にとって「シオンの丘にかえろう」という主張はとるにたらないものでしかなかった。彼らの大半はドイツにおいて他のドイツ国民と同等の扱いを求めることに問題意識があった。その圧倒的な少数派だったシオニストが「主流派」にのし上がるためには、政敵を排除する必要があった。そこでナチスとシオニストの利害が一致した。シオニズムはユダヤ人の大量虐殺のなかでこそのし上がることができた。
実際、ナチスとシオニストとの間には協定が結ばれ(ハーヴァラ協定)相互に協力関係が築かれた。
イスラエル建国は「迫害されたかわいそうなユダヤの人々が命からがら逃げ延び、作り上げた」のではない。ナチスはシオニストとそれ以外に明確な区別をしていた。すべてのユダヤ人がナチスの被害者だったのではない。そしてユダヤ人のパレスチナへの入植にナチスが協力していた。1930年代後半、ドイツからハイファへハーケンクロイツを掲げた船がユダヤ人入植者を運んでいた。
またジェロモー・サンド(イスラエルのユダヤ人歴史家)に言わせるならばいまパレスチナにいる人々こそがもともとあの地に住み続けた人たちで、2000年前に彼の地を追われた、だから戻るんだという人々は、実はほとんどパレスチナの出自ではないという。確かに2000年前にユダヤ教徒への迫害はあったが、すべての人々がそこから負われたわけではなかったという。むしろそこに多くの人が残り、残った人々はそこで生きていくために改宗したのだという。そのそうやってパレスチナに人々は生き続けてきた。
けれどもイスラエルは建国された。1948年NAKBA(大災厄)の名で語られる虐殺、強奪によって一つの国家がつくりあげられた。それからいったいいくつの生命が奪われたか。いくつの村が消されたか。二度とパレスチナ人が戻ることができないように生命の樹のようなオレンジとオリーブの木々をいったいどれほど切り倒したか。村の名前は地図上からもけされた。
イスラエルとハマスの対立・抗争のように描き出すマスコミがある。許しがたい歴史の歪曲だと思う。その歴史の歪曲から「双方に自制を求める」などという言辞が出てくる。
志葉玲氏のサイトで2008年から2009年のガザ侵攻直後の写真を見ることができる。その中の一枚の写真。
この写真は『ガザ通信』にも掲載された。その写真の下にはこうある。「イスラエル兵が投げ込んだ手榴弾によって目の前で両親を殺された少女たち。父親は首から上が吹っ飛び、母親は内臓を飛び出させて死んだ」(p101 サイード・アブデルワーヘド 青土社)。
以下、『ガザ通信』から引用する。これはサイード・アブデルワーヘド氏が必死に思いで途切れがちな電気のなか世界に向けて送り続けたメールを翻訳したものだ。
2009年1月2日1:41
真夜中のガザの姿とはどのようなものか?
完全な暗闇。ガザ市内の80%以上がすっかり闇に覆われている。
この暗闇のなかでは自分の指すら見えない!
一方、家の外では、無人機が頭上で唸り、軍用ヘリが空を徘徊している。
家の中に目を戻せば、子どもたちは就寝時間になっても、床につきたがらない! 悪夢や爆撃、爆発その他もろもろを恐れているのだ。
お決まりのように航空機の6日以上にわたり昼夜を問わず続いていたが、それが突然、消えた。
…爆発音。…継続する爆発音。…一連の爆発。…ほかにも身の毛のよだつ爆発が複数。…爆風…遠くで燃え盛る炎。…子どもたちがベッドから飛び上がる。怖がって…震え上がって…不安そうに…どうしたらよいか分からずに! どこかに身を隠したい、でも、行くところがないのだ。
まるでマットレスの下で爆発音がしているみたい、今夜はどうすればいいの?
ただ待つしかないんだ!
だがどうしたら子どもに待つことを納得させれられるだろう? しかも何を待つというのだ?
今度は救急車と消防車のサイレンが聞こえてくる。それで我にかえる。
2009年1月6日18:06
何千人かのパレスチナ人がUNRWAの複数の学校に避難した。そのうち40人が今日空からの攻撃で殺された!
2009年1月14日 1:16
…死者はおおよそ1000の命である。負傷者は4300人以上に達している!
死者のうち331人が子ども、99人が女性だ。遺体が未だ瓦礫の下や野原にある者たちは含まれていない。
今日、たとえば医療チームがようやく攻撃初日に亡くなった者の遺体にたどり着くことができた。
ガザ北部にあるジャバリーヤ難民キャンプ出身の93歳の老人の遺体だ。老人は白旗をかかげていた! 家族全員が行方知れずだったり、あるいは家族のある者たちは行方不明、またあるものたちは負傷したり、死亡したりといった家族についても無数に話がある。
爆撃で身体に障害をおった子どもたちや女性たちの話にも事欠かない! ショックやトラウマで心理的な手当を必要とする者達についての話もある。通りのそれぞれにたくさんの物語があり、家族それぞれにもいくつもの物語があるのだ!
けれどもガザの人々は屈してはいない。彼ら彼女らを「かわいそう」だと言うのはなにか違う気がする。彼ら・彼女らは、こうした60年を生き抜いてきた人々なのだ。あるパレスチナの人のサイトにこうあった。訳は適当に間違っているかもしれないが…
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