01. 2012年12月02日 08:55:00
: HNPlrBDYLM
日本国民は無責任なんじゃなくてみんな鳩山由紀夫君なんだよ:由紀夫くんはいい子ちゃん 昔の映画でこんなセリフがあったんだそう。 「考えるな!感じるんだ!」 香港のカンフー映画の大スターだったブルース・リーの映画のセリフです。と言っても私はその映画を見ていないんですが。 ただ、有名なセリフらしく、その言葉をもったいぶって引用したりする人がいたりするもの。 まあ、カンフーというか、格闘というか、大立ち回りの最中だったら、考えているヒマなんてありませんよ。その場その場の瞬時の感覚的判断が必要になるでしょ? と同時に、そのセリフの言わんとしているのは、「直感的な洞察力を大切にしろ!」そんな意味なのでは? 「研ぎ澄まされた第六感こそが重要なんだ!」 だから「感じるんだ!」という言葉の「感」は、「観」に近いニュアンスなのでは? しかし、上記のセリフは安っぽく使われることも多く、「ボクは考えるよりも感性で生きるタイプだからなぁ・・・」などと言った言葉が、お気楽に登場したりするもの。 それこそ、映画などについて、人とやり取りする際においても、コチラが色々と説明したりすると、「ボクは感性で生きているからなぁ・・・難しいことはわからないよ!」なんて返事が返ってくることもある。 それはいいとして、じゃあ、その人ご自慢の「感性」って、そんなにスゴイの? この私が驚嘆するくらいの、細かな感性を持っているの? 研ぎ澄まされた第六感と言えるの? そんな、自称「感性で生きる」人が、映画などを語ったりすると、それこそ「泣いたよ!スゴイよ!」そんな言葉しか出てこない。 あるいは、最近だったら「萌ぇ〜」くらい。 そうなんですね! 感性で生きているというよりも、思考力とか言語能力が低いというだけ。 あるいは、作品の雰囲気にのまれているだけで、直感的な観察眼があるわけではない。 そのご自慢とやらの感性だって、私よりも、ケタ違いに鈍い。 ただ、思考力とか言語能力は、さらに輪をかけて鈍いので、相対的に、感性で生きているだけ。 何も、感性や思考力や言語能力が低いのがダメダメだと申し上げているわけではありませんよ。「ワタシは言語能力がアナタほどではない。」という言葉なら、ビックリも、軽蔑もしませんよ。しょーもない感性を、「オレは感性で生きている。」なんて自慢されても、困ってしまうというだけです。「この私に感性を語るのかよ!このタコ!」とビックリするだけ。 本当に自分の感性が鳴動するような体験をしたら、それを表現するために、色々と言葉を探しますよ。だから、表現能力も付いてくる。それに、受けた衝撃について自分なりに考えることになる。だから、それなりに思考力も付いてきますよ。表現されたもののレヴェルが低いということは、それだけ、自分自身が相手に対して伝えたいこと、それ自体が存在しないわけです。自称「感性で生きる」人は、自分の思考力や言語能力の低さを、別の言葉で言っているだけ。 映画における「感じるんだ!」の「感」は、「観」に近い・・・そう書きましたが、抑圧的なダメダメ人間は、そんな直感的な洞察力なんてものとは無縁。 だから、そんなダメダメ人間が使う「感じるんだ!」という言葉の「感」は、どっちかというと、「雰囲気を察知する」それくらいのニュアンスとなっている。 その場の「空気に乗って」、人に合わせることになる。 まさに「自分で考えるな!空気を読むんだ!」となってしまう。 そもそも、自分自身でやり遂げたいものがないので、発想が減点法。 発生したマイナスに過剰に反応することになる。 だから、やり取りの相手が、「不快感を表明」したりすると、過剰に反応してしまう。 あるいは、被害を主張されてしまうと、過剰に食いついてしまう。 いわば「加害者認定への耐性が低い」。 そうなったら、自分なりの考えやポリシーを、自分の言語で相手に対して説明すればいいだけなんですが、そもそも、自称「感性で生きている」人は、思考力も言語能力も実質として低い。だから、相手に対して、自分の言葉で説明することができない。と言うか、自分自身の考えそのものがない。 とにもかくにも、「必死で人に合わせている」だけ。 相手に合わせるのが目的化されている状態なので、ヘタに語って、相手がもっと怒り出すのが怖い。 感性というのは、何かから印象を受けることでしょ? 感覚情報がない状態では感性などは、発生しないでしょ? つまり、感性とは、自分以外の他の存在に依存した状態とも言えるでしょ? それだけ、自分自身から逃避しているんですね。 何かから印象を受けるのはいいとして、その印象が断片的なのか?それとも、自分の心にまで到達するのか?それによって、大きく違っているでしょ? 「何かから強い印象を受けて、それがいつまでも心の中に残って、それを自分なりに表現したい・・・」 それこそが、本当の意味での感性というものなのでは? ところが、自称「感性で生きている」という人は、その場面ごとに何かから印象を受けて、次には、別のもので印象を受けて、また別の場面では、別のものに印象を受けて・・・と、実に断片的となっている。そして、その印象を自分の中で統合しようとは考えない。 断片的な印象を統合もせずに放置し、そのままで吐き出のが、自称「感性で生きている人」の現実の姿と言えるでしょ? 自己逃避であるがゆえに、受けた印象も、その都度、自分自身を素通りしてしまう。 本当に「考えるな!感じるんだ!」と思うのなら、それはそれで結構ですが、その感じた成果として何があるの?自称「感性で生きている」人は、何も成果がないでしょ? ただ、空気を読んで人に合わせているだけでしょ? 最近(09年)の鳩山首相がそんなパターンなのでは? 沖縄のアメリカ軍基地の移設の問題で、方向性が何も出せずに、右往左往していらっしゃいますよね? とうとうアメリカ大使にまで怒られる始末。アメリカ大統領との会談も拒否されたとか。 政治的には前代未聞の光景と言えるのでしょうが、あんな光景は、ダメダメ家庭の出身者にはありがちなこと。 皆さんの中にも、身に覚えのある方もいらっしゃるのでは? 「嫌われたくない!」と人に合わせるのはいいとして、複数の人に合わせようとして、パニック状態になってしまう。 鳩山さんとしては、やり取りの相手の気分を悪くしないように必死なんですね。 別に意図的にウソを言ったり、悪気があるわけではない。 まさに、その場その場で「考えるな!感じるんだ!」で生きているだけ。 しかし、目の前の人に合わせていたら、合わせている相手によって言っていることが違ってきてしまうわけですから、相手も怒り出すことになる。だから相手から嫌われる。 その怒りの雰囲気を「感じて」ますますパニックが進行してしまう。 そうなったら、感じてはダメなんですね。自分なりに考えて、自分の言葉で相手に伝えるしかない。相手を見るのではなく、自分自身を見る必要がある。以前に小泉元首相が言っていましたが、鈍感力が必要になるわけです。 しかし、その場の空気に合わせるだけの、感性で生きている鳩山さんは、そんな鈍感力とは無縁。 鳩山さんとしては、その場面において、相手の気持ちを害さないようにと必死で配慮している状態。 だからこそ、一貫性もなくなってきてしまう。その場その場の相手の感情が優先され、相手に伝えたいものがなくなってしまう。 しかし、「感性で生きている」いい子である鳩山さんは、マイナス面を感じると、パニックになってしまう。だからこそ、そんな場所からトンズラしたり、見ないようにしたりすることになる。だから、ますます相手も怒り出す。 ちなみに、たびたび引用しておりますマルグリット・デュラスが語る「面白くない本」の定義ですが、また引用してみましょう。『感じがよくて、何も残らず、夜がなく、沈黙がなく、真の作者がなく、昼間向きで、時間つぶしに最適で、よき旅行のお供・・・』 ・・・これって、まさに鳩山さんのキャラクターそのものでしょ? 彼だって、国家の指導者としては不適ですが、だからこそ、旅行のお供としてはすばらしい人材ですよ。 そんな姿は、意外にも、多くの日本人のメンタリティを共通しているのでは? トラブルがあったら、そのトラブルに対して応急処置を施して、それを見ないという対処を取りたがるのは、多くの日本人がやっていることですからね。 現在の日本人としては、眼前にある不都合な事態から目をそらしたいと思っている。鳩山さんはそんな役割には最適な人物といえるのでは? 国の問題を解決するのに最適な人というよりも、一緒に旅行するのに最適な人。 いわば、以前に大阪の知事をなさっていた横山ノックさんがインテリになったようなもの。トップとしての機能としては同じでしょ? しかし、何も対処しないままなので、まさにトルストイ描くアンナ・カレーニナのように、ドッカーンと行ってしまうことになる。 鳩山さんは、まさに、先送りの連続で、絵に描いたようにアンナ・カレーニナ街道を驀進していらっしゃる。 ちなみに、鳩山さんには弟さんがいらっしゃいますよね? 昔はともかく、今は、あまり「仲がよくはなさそう」・・・ 以前に兄の由紀夫さんが、「弟はボクに対してコンプレックスがあるんですよ。」とか言っていました。そのせいで、弟と仲が悪くなってしまったんだ・・・そう言いたいんでしょう。 まあ、優秀な兄に対して、出来の悪い弟がコンプレックスを持つのはよくある話。 しかし、鳩山さんの弟の邦夫さんは、出来が悪い人じゃない。 国会議員になったのだって、弟さんの方が十年早い。それに弟さんは東京大学の法学部で首席を争った人なんだそう。学問的な優秀さという点では、兄に対してコンプレックスを持つ必要もないのでは? それに・・・邦夫さんの言動は、コンプレックスを持っている人の言動ではありませんよ。思っていることをその場その場でポンポンと言うだけの人。 コンプレックスを持っている人は、あんな感じで、思っていることをポンポンと言いませんよ。耐え難きを耐え・・・なんて、まさにコンプレックスな雰囲気で言ったりするもの。 実際に、邦夫さんの部下だった人は、「邦夫さんは、その場で思っていることを言っているだけで、権謀などは、何も考えていない人」と、邦夫さんの放言を弁護?していました。 少なくとも弟の邦夫さんは、「空気を読んで」「人に合わせて」行動するタイプではないでしょ? ヘンな話ですが、兄の由紀夫さんの方が、そんなポンポンと発言し行動する弟さんにコンプレックスがあるのでは? 人は往々にして自分の欠点を、他者に投影して、その投影した欠点を非難したりする。 なんでも、鳩山さんは3人兄弟で、由紀夫さんの上に姉がいるんだそう。 由紀夫さんは、自由奔放な弟から突き上げられて、威張っている姉から色々と言われて、必死に空気を読んで、人に合わせる子供時代を送ってきたのでは? ただ、鳩山さんは、兄の由紀夫さんも、弟の邦夫さんも、統合性というか、一貫性という点において欠陥がある点は共通しています。 彼らは、その都度、人に合わせたり、その都度、思っていることをポンポン言うだけで、一貫した信念がないでしょ?双方とも、断片状態に留まってしまっている。 たぶん、養育環境に多大なる問題があったんでしょうね。 以前にこのメールマガジンでは、現外務大臣(09年当時)の岡田さんを取り上げました。 彼も、3人兄弟の真ん中で、「いい子ちゃん」志向が強い人。 「いい子ちゃん」というものは、発想が常に減点法であって、一見は頼れる雰囲気に見えたりするわけですが、自分がいい子としての認定が崩壊するような状態になったら、どうしていいのかわからなくなってしまう。 しかし、逆に言うと、そのようなキャラクターをトップにしておくと、減点面を見ないようにしてくれる人としては、それなりに役に立つ。 ダメダメ家庭の人間は「信頼と好意の区別が付かない」。 というよりも、信頼というものが理解できないことは、このメールマガジンで頻繁に書いています。 そんな観点から見てみると、鳩山由紀夫さんの言動というか、そのブレのスタイルも一貫しているでしょ?好意を求め、嫌われないようにしようとして、信頼を失ってしまっている。 常に断片状態という摩訶不思議な状況となっている。 自身でやりたいものがなく、その場その場で人に合わせているだけ。だから組織のトップとしての判断はしない。 相手の気持ちに配慮しようとして、結局は信頼を失い、嫌われる。 相手に伝えたいことそれ自体がないので、逆に言うと、「アナタに会いたい!」などと言い出すことになる。「このことを分かってもらう。」という発想がなくなってしまい、顔を合わせることが目的化してしまう。 そして、「ボクは悪くない!」と言いたいために、立派な「大義にすがってしまう」。 会話の能力がなく、そして「いい子」としての自分を見せたいので、「恵んであげる立場」を求めてしまう。 そんな人を求めてしまった日本は、まさに現実から目をそらしたい状態なんでしょうね。 「いい子ちゃん志向の日本」としては、そんないい子ちゃん志向の総理大臣がフィットしているといえるのかも? ただ、いずれかはドッカーンと行ってしまうのも確実なんですが。 そんなシーンは、ダメダメにおいては、実に既視感のある光景なんですよ。 何も政治信条の問題を云々しているわけではないんですよ。 人に嫌われないように、必死で人に合わせたあげく、人から嫌われる姿は、ダメダメ家庭出身者の典型だと申し上げているだけです。 ヘンな話になりますが、私としては最近の鳩山さんの言葉の背景となる心理が手に取るように分かるんですよ。 この私が、よく分かると言っているんだから、色々な意味でシャレにならない。 トルストイの「アンナ・カレーニナ」において、レーウィンとキティ夫妻は、問題が発生したらその都度、真摯で激しい議論を行い、一つ一つ解決していくのに対し、アンナは、問題が起こっても、先送りに徹してしまっている。彼女は、問題から目をそらすために、余計なことに手を出す。実子をネグレクトしているのに、わざわざ養子をもらってきてかわいがる。そして「養子をかわいがるワタシって、なんていい人なの?!」と自画自賛。しかし、その横で、ネグレクトされた実子は悲しみの真っ最中。そんなアンナのように今の日本人がなってきてしまっている・・・鳩山さんはそのことの象徴なんですね。 ちなみに、そのアンナに対して、「彼女は自分の感情に誠実なんだ。」と評価する人が、結構いるそうです。「彼女は、自分の感情にウソをつかず、正直に行動している!すばらしいじゃないか!」と読んでしまう人も、この世にはいるらしい。 それって、まさに「感性で生きている。」という物言いが、判断から逃避していることの、便法にすぎないようなもの。 アンナがその折々の感情に従って生きているのはいいとして、じゃあ、彼女には信念はあるの?どうしてもやり遂げたいものはあるの?情夫のアレクセイとの恋にすべてを掛けるくらいの熱情があるの? 「感性で生きている。」と自称する人が、そのご自慢の感性を、自分なりに統合することができないように、アンナも、折々の感情から、自分の信念なり目標に統合することができない。どうしてもやり遂げたいものがないからこそ、一時的な感情だけに従っていられる。 この手の「感性で生きている。」とか「感情に誠実。」な人は、「1つの案件を、1つの文章にまとめる。」ことすらできないものなんですね。一本の手紙すら書けないものなんですよ。 当然のこととして、1つのタスクをやり遂げることなんてできない。 それだけ、断片止まりであり、統合性を失調しているわけです。 ただ、目の前に発生している減点面に過剰に反応しているだけ。 ただ、減点面への過剰な反応が、「いい子」としての外見を作ったりすることもある。 ボンクラな人は、その「いい子」としての外見と、過激に語られる嘆きの言葉に乗せられてしまう。 しかし、そんな「いい子」が何かを成し遂げたことなどはありませんし、それどころか、その周囲の人もメチャクチャにしてしまうものでしょ? (終了) *************************************************** 発信後記 何度も書きますが、政治信条の問題を議論しているわけではありません。 政治には「言葉」が必要だと申し上げているだけです。 1億人以上の人間を情緒でまとめようとしても無理がある。 しかし、友愛って、まさに情緒そのもの。 逆に言うと、情緒であるがゆえに、現実を見なくても済む。 以前に民主党の岡田さんが「自分たちだけが、幸せになっていいのか?」とおっしゃっていましたが、鳩山さんが語る「友愛」も含めてですが、じゃあ、自分の目の前の人間は、本当に幸せなのか? 目の前にいる人間が幸福であることが、あまりに大前提になっているようですが、それって、要は現実逃避なんですね。見たくないし、考えたくないだけ。まさに実子をネグレクトして、養子をかわいがるアンナ・カレーニナとそっくり。ちなみに、そんなことをまとめた文章はドラフトとしてあがっていますが、配信はちょっと後になると思います。 http://space.geocities.jp/kinoufuzennkazoku/09-12/09-12-12.html |