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(回答先: 日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない 投稿者 中川隆 日時 2012 年 10 月 15 日 23:51:41)
極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」
長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
越系と思われるY-DNA「O2a」、
呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び
黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。ただし
黄河系直系のY-DNA「O3a1」と
黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」はデータが不十分なので見送りました。
日本はGlobalで発表された12論文から試算した頻度と、県別のデータがあった5論文から県別の人口比率を頻度試算に盛り込んだ人口比率補正した頻度を合わせてリスト化しました。
Y-DNA「R1b」と世界の覇権を争っているのが黄河系漢系遺伝子Y-DNA「O3」です。
http://galapagojp.exblog.jp/16668161/
●長江文明系の楚系と思われるY-DNA「O1a」の出現する民族はそれほど多くはありません。台湾の先住民が最も頻度が高く、楚が滅んだ際に長江河口から台湾に逃げ込み、島の中で各部族に別れ先住民族化したようです。他に南下した集団もいたようです。
●長江文明系の越系と思われるY-DNA「O2a」は越が滅んだ際に江南に留まり少数民族化した集団もあれば、更に南下しインドにまで逃げた集団も相当多くいます。ドラヴィダ民族の中のタミール系Asur地域民はなんと64%が越系「O2a」遺伝子になっています。この「O2a」がタミール人に水田稲作農耕系の文化と語彙を持ち込んだため、弥生系日本語彙と出自を同じくする長江農耕民系の単語がタミール語に多く残り、大野教授が日本語の祖先はタミール語と誤解する原因になりました。遺伝子調査による民族の逃避・移動がわかった現在では、残念ながらタミール語祖先説は成り立ちません、同様に東北アジア系騎馬民族(Y-DNA「C3c」)も日本列島には入ってきてはいません。
日本語の祖先はこれまで書いたようにY-DNA「D2」の話していた縄文語です。現在世界でY-DNA「D」語を祖先にしているのは、わかっている範囲ではチベット語と「D*」100%のアンダマン諸島のJarawa族とOnge族だけです。Y-DNA「D」72%の雲南のPumi族は未調査です。つまりY-DNA「D」語は孤立言語です。遺伝子調査で初めて理解できたことです。しかもY-DNA「D」は人類が出アフリカを果たした際の形質を最も残していると欧米の研究者は述べています。ということは縄文語が最も古いホモサピエンスの言葉を残している可能性もあるのです。Jarawa族やOnge族、Pumi族の語彙を徹底的に追いかければ解明できそうですが、日本の御用学者ではない欧米の気鋭の言語学者が研究してくれるとありがたいですね!
現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。丹念に追えば語彙には「D」語の痕跡が残っているかもしれません。日本列島のように「D2」が圧倒的な人口多数派だったなら「D」語が残ったかもしれませんが、人口そのものが少なかった北海道では文化も言語も語彙も古代ニヴフ語に変わってしまっている可能性が大です。
●長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだあと楚や越の遺民や奴隷を交えて、南下した越とは反対の北方に逃げ満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、稲作適地を求めて南下し韓半島南部で水田稲作農耕をおこない遺伝子は現在に至っています。韓民族の30%を占めるほど韓半島の農民層として定住・定着したようです。「O2b」は更に水田稲作適地を求めてあるいは中華王朝の韓半島出先機関の圧政から逃れるためか南下しボートピープルとして日本列島に逃げ込みここで弥生文化を花咲かせたわけです。この間縄文遺伝子のY-DNA「D2」と密に交配し「O2b1」に分化し、未分化の「O2b」と併せ日本列島でも韓半島とおなじく30%の呉系遺伝子頻度を現在持っています。「O2b」は基本的に満州族、韓(朝鮮)族と日本人(琉球民族も含む)のみに高頻度で現れる特殊な遺伝子子亜型なのです。
この両民族の30%を占める呉系度が両国の近さの証明であり、縄文遺伝子を持たない韓国が一方で遠い国の証明なのです。しかしどちらも支配層は見事に黄河系「O3」で同じなのです。ここも近さの証明となります。つまり日本人の50%強は韓族と同じ出自を持つ同根なのです。そして漢民族とも同根なのです。残念ながら! なんでこんなに文化が違うのだろう?約50%弱を占める基層の縄文文化のあることが日本を中韓両国とは全く異なる風土を育んでいるのです。3.11でも称賛された日本人の国民性はY-DNA「D2」「C1」「C3a」(及びmtDNA「M」)縄文人が持つどちらかと言うと古代的な民族性なのです。
そして「C1」と「C3a」も日本独自の遺伝子子亜型で、「C1」は海洋性ハンターで日本人の一部が持つ海洋性気質のオリジンです。「C3a」は同じハンターですが内陸性ハンターです。過去にはナウマン象を追っていたはずです。やはり一部の日本人の持つ大陸性気質のオリジンです。両者は共に彫深顔のいわゆるソース顔イケメンのオリジンなのです。両者はまた縄文土器の製作者という技能集団で、日本人の技能的民族性のオリジンでもあります。隼人・熊襲・蝦夷等の母体のはずです。しかし縄文人のコアであった圧倒的多数派の「D2」はとりえはなさそうですが黙々と働く勤勉な日本人気質のオリジンなのです。
●現在世界の覇権を狙っているのがY-DNA「O3」です。東ユーラシアからオセアニアまで広く進出しています。ニューギニアのY-DNA「C2」92%のDani 族の残り8%は「O3」です。なんでこんなところにまで進出したのか?なにかメリットがあったのか?拉致されたのか?不思議です。
ともかく純血を守ろうとした「O3」部族は残念ながら少数民族化してしまいましたが、交配をいとわなかった集団は漢族系として現在アジア諸国の支配層として日本を含むアジア各国に君臨しています。大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。それを認めてきた縄文・弥生交配集団の何とお人好しなことか!?
第二次大戦後に一気に縄文・弥生系と侵略者「O3」系との交配が進んだため、現在の日本人は階級意識が薄れていますが、長い間「O3」は支配集団として、身分が違うと称して、交配を拒んできたのです。支配欲の塊の嫌なやつらですが、支配するプロなのです。だからこそ西欧文明の覇者のY-DNA「R1b」と渡り合うことができるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16672971/
当ブログで報告している縄文人を構成する3種のY-DNAは「D2」、「C1a」及び「C3a」ですが、遺伝子調査のおまけに、日本人のガラパゴス的民族性の基層を担う縄文文化を構成した上記3ハプロタイプの兄弟遺伝子頻度から縄文人近縁度を調べて見ました。
Y-DNA「D*」、「D1」、D2」と「D3」及び
Y-DNA「C1」、「C2」
Y-DNA「C3a」、「C3b」の
頻度合計順に並べて見ました。
これでわかることは「C」系縄文人の近縁遺伝子が住むのは圧倒的にオセアニアが多いことがわかります。「D」系はスンダランドから北上し東シナ海-黄海ランドからユーラシア大陸極東部に入り羌族、Pumi族などチベット系諸部族となりましたが、「C」系のかなりの部分がスンダランドをそのまま更に東進したようです。北上組みの中からその後寒冷地適応集団「C3c」~「C3f」が生まれました。
●日本人でありながら、中国地方の縄文度の低さは目を見はるものがあります。また長江文明の楚系と考えられるY-DNA「O1a」が突出して多いのも中国地方です。大国主神話の特殊性や吉備の豪族一族などもしかすると楚系の文化・部族なのかもしれませんね。ともかく中国地方は日本の中で特異な遺伝子地域であり、遺伝子的に異なる部族が住み独特の華南系文化を立ち上げていた可能性が極めて高いのです。大和朝廷族が韓半島を追い出され流浪の武装集団として大和に向かった時に先住部族として立ちはだかった可能性は極めて高いと思います。もう少し突っ込んで調べる価値はありそうです。
●日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。
●日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。
●しかし遺伝子調査が明確になるに従い部族の移動が見えてきた現在、記紀の神話の世界の中でイザナミ・イザナギ神話は東ユーラシア大陸に最初に上陸した部族である羌族を核とするY-DNA「D」族の伝承してきた中国神話の伏羲・女媧神話であることが見えてきました。
●大国主神話は呉系か楚系の長江文明系神話で間違いないでしょうが、どちらかは調査ができていません。
過去の神話学は明らかになってきた遺伝子と部族の動きがわからない時代の研究結果ばかりです。新しい遺伝子情報を基に再構築する必要がありそうですね。
●縄文人のコアを形成する子亜型Y-DNA「D2」の兄弟遺伝子ハプロタイプは親亜型の「D*」と子亜型の「D1」と「D3」になります。
アンダマン諸島の「D*」のOnge族とJarawa族が縄文人祖形の直系子孫であることはいうまでもありません。戦中、日本軍がアンダマン諸島の「D*」を攻撃するという愚行を犯したのは残念ですが、御用学者ではない気鋭の言語学者が「D*」語、「D1」チベット語、「D2」古代アイヌ語(残っているなら...ですが)と生粋の東北弁や沖縄弁を比較言語学で研究すれば日本語の祖形が「D」語であることは証明されると思います。しかし日本の学会は大かた「O3」系御用学者が牛耳っているので都合の悪い説は隠蔽されます。でもいつかはY-DNA「D」語が日本祖語であることが証明されると願っています。
●縄文文化で土器製作技術や狩猟などを担ってきたと考えられる技術戦闘集団は人口的にはマイノリティだった海のハンターY-DNA「C1a」と陸のハンターY-DNA「C3a」です。「D2」と行動を共にし南方から北上し琉球列島に港川人の遺跡を残し日本列島に上陸したプロトオーストラロイドと考えられる「C1a」に最も近い弟遺伝子「C2」は、スンダランドから北上せず東進しオーストラロイドとして現在ニューギニア各地域や他のオセアニア諸島に分布しています。特にインドネシアに属する西ニューギニアのラニ族とTehit族は「C2」100%の生粋の縄文兄弟部族です。
一方、陸組みの「C3a」は日本列島には上陸せず、一部の「D2」と共に韓半島からユーラシア大陸の内陸に入り大型動物を追ってまだ温暖だったシベリヤに展開しましたが、寒冷化に従い「D2」は当時陸橋だった間宮海峡を渡りサハリンに入り、やはり陸橋だった宗谷海峡から北海道に入り古代アイヌとなり、一部は陸続きだった根室半島かカムチャッカ半島から陸続きだった千島に入り古代千島アイヌになったものと思われます。一方シベリアまで「D2」と行動を共にしていた「C3a」は「D2」とはそれ以上行動を共にせず寒冷化で南下した大型獣を追って南下し韓半島から日本列島に入ったようです。この時に南下せず新天地を求めてY-DNA「Q」や「R1」と共に当時陸続きだったベーリング海峡を渡り広大な大移動を決行したのが「C3b」になります。彼らは土器製作技術集団でもあったため北米南部から中米にかけて縄文土器似の土器を遺跡として残したようです。
●一方、Y-DNA「C3a」のもう一つの弟遺伝子で、南下もせずアメリカ大陸にも渡らずシベリア大地に留まり寒冷地適応をしながら東北アジアに定着したのが後にツングース族やモンゴル族の先祖となったY-DNA「C3c」です。騎馬民族となった彼らは日本列島にも渡り征服したと言う学説が戦後大ブームになりました、遺伝子解析の結果は見事で、征服したのは北海道の古代アイヌ族であり、本土ではなかったことが明解に証明されました。北海道を征服しオホーツク文化を立上げ現代アイヌ人を北方系文化に変えてしまったのは古代ニヴフ族になります。
残念ながら現代アイヌにどれくらい「D2」文化が残っているかは全く明らかにはなっていません、というより誰も研究していません。熊祭りなどそれほど東北アジア文化に変えられてしまったのです。現代アイヌ自身も「D2」の風俗習慣はもはや全くわからないでしょう。それでもY-DNAの約85%は今でもY-DNA「D2」であり縄文人「D2」と同根なのです。遺伝子は風俗・文化・言語等環境で変わりやすい表面形質ではわからない不変の血統を明らかにするのです。
●しかし本土の「D2」,「C1a」,「C3a」縄文系も、韓半島での勢力争いで敗れ半島を追い出され武装勢力として日本列島に落ちのびてきた落ち武者Y-DNA「O3」の大和朝廷族や武士団族に征服され、結局北海道の「D2」と同じ”被征服者”の運命を歩むことになりましたが、絶対人口が少なく古代ニヴフ文化に埋もれてしまった北海道「D2」文化に対し、本土では圧倒的多数派だった「D2」縄文集団は現代まで基層の縄文文化を我々現代人が感じる縄文精神文化としていまだに維持できています。3.11の時に世界から称賛された日本人の行動様式はこの縄文精神風土そのものなのです。土地に根付き勤勉で黙々と働き抜くのは縄文気質なのです。
●一方海洋性ハンターとして鯨を追ったりマグロを追いかけたり船を操り海の漁を展開する海洋性気質は同じ縄文人の少数派Y-DNA「C1a」がオリジンです。「C1a」縄文人は海に乗り出す海の民でもあるのです。
●もう一方のY-DNA「C3a」は陸のハンターとして大陸を股に掛ける日本人の大陸的な気質のオリジンなのです。「C3b」は北米大陸まで民族移動を行い、「C3c」ジンギスカンはユーラシア大陸を駆け回りヨーロッパまで届くモンゴル帝国を築きヨーロッパに低頻度ではありますがY-DNA「C3c」遺伝子を植え付けることに成功しました。
http://galapagojp.exblog.jp/16831514/
日本民族 Y-DNA調査まとめ 日本人は三重遺伝子構造の民族だ!
日本人が縄文文化系、呉系弥生文化系及び侵略者漢族系の3大遺伝子起源から成り立つことは完全に証明されたと言って良いようです。
縄文系はさらに「D2」、「C1」及び「C3」の3タイプから構成されることも間違いないようです。当ガラパゴス史観ではこの3タイプは日本列島で1万年間交配しあい、それぞれ子亜型に分化したため、日本列島独自のY-DNAハプロタイプが分化し、韓半島と遺伝子が大きく異なることが証明されました。
Y-DNa「C1」は現在ニューギニアやオーストラリアでオーストラロイドと称される集団の中の海洋性ハンターで、各地に残る鯨漁などの基地は「C1a」の居住地の名残でしょう。Y-DNA「C3a」も内陸型大型獣ハンターで現在のアメリカインディアン「C3b」(ネイティヴアメリカン)が最も近い遺伝子で九州を中心に日本列島に拡大しています。山岳系集団の起源のはずです。このY-DNA「C」はネアンデルタール度が「D2」より高く、日本列島の彫深・鼻高・面長顔のイケメンの起源遺伝子のはずです。(「D2」はジャガイモ顔です)
遅れて日本列島にボートピープルとして耕作適地を求めて長江→満州→韓半島から南下した呉系長江人の弥生系のコア遺伝子Y-DNA「O2b」は日本列島に上陸後「D2」と密に交配し、稲作が意外に早く東北まで展開された要因となり満州と韓半島には存在しない「O2b1」に分化し、「D2」もさらに新しい子亜型に分化しています。
このように日本列島独自のY-DNA遺伝子タイプが日本列島の大半を占めることが、似ているようで実はかなり異なる日本人と韓国人の違いとなっています。しかし「O2b1」に分化していない呉系長江人「O2b」も日本列島には或る程度存在することが韓半島との過去の同一呉系水田稲作農耕文化圏に基づく「近さ」の要因になっています。
そして日本列島で3番目を占めるのが大和朝廷族や武士団族などの韓半島の中華王朝出先機関から生き残りに負けて日本列島に流れてきたY-DNA「O3」漢族の侵略者遺伝子群です。
Y-DNA「O3」は黄河文化直系のプロト漢族、「O3a1」は華北の周辺民族との交配で生まれた黄河系(華北系)漢族、「O3a2」は黄河系漢族と長江文化華南系との交配漢族になります。漢族は単独遺伝子ではなく、約50%強の「O3XX」亜型群をコアに現在少数民族となっている「O1」「O2」「F」「P」「NO」N」「C3c」など50以上の民族との交配の結果生まれた複雑な遺伝子構成の集団ですが、支配階級は「O3XX」なので「O3」で代表されます(面白いことに他の遺伝子との交配を嫌った純粋「O3」の少数民族もいるのです)。
いずれにせよ日本列島で検出できる「O3」の子亜型は全て中華大陸で検出できます。つまり韓半島の「O3」とも全く同じです。つまり「O3」漢族は支配階級として日本列島先住民だった縄文−弥生集団との交配を行ってこなかったことを意味します。あくまで自分たちはエスタブリッシュメントとして先住縄文−弥生集団を見下していたわけです。
この「O3」は韓半島の支配階級でもあったため、早い話しが韓半島も日本列島も漢族の支配した土地であったことがよくわかります。支配したがり屋、出世したがり屋が「O3」の本性です。政治家や上級官僚などの大半は「O3」のはずです。だから彼らは縄文−弥生の子孫がほとんどを占める田舎の3.11の犠牲者などそっちのけで政争・抗争に明け暮れていられるのです。「O3」は基本的に3.11等興味がなく、気にしているのは増税と原発の再稼働だけなのです。下々の暮らしなどどうでも良いのです。
日本列島は残念ながら今でも「O3」封建体制のままなのです。自分たちのために政治・統治を行いますが、縄文−弥生が占める下々のことなど知ったことではないのです。それでも縄文−弥生遺伝子集団は基本的におとなしく、黙々と働き、年長者を敬い、和をもって貴しとなす集団のため、俺が俺がの「O3」には支配されるしかないのです。
もしかするとY-DNA「C1a」だった可能性もある蘇我氏も絶えて久しく、「C1a」国家だったかもしれない邪馬台国も絶えて久しく(以前の記事で触れましたが卑弥呼は「C1a」国家のシャーマンだった可能性があります。ということは邪馬台国は海洋性集団で海辺に存在したのではないかと言うのが遺伝子調査から推測できる予測です)、日本列島は「O3」が支配する土地と変貌しています。
ここまでくれば、われわれ縄文−弥生交配集団は大人しく「O3」政治家や官僚に巻かれて、FEO3P(極東「O3」経済共栄圏)を同じ「O3」が支配層の、中国、韓国、台湾、ヴェトナム、フィリピン、インドネシアと我が日本で構築し、アメリカ「R1b」が主導するTTPを潰すべきなのです。
結局今の世界は欧米白色Y-DNA「R1b」と極東黄色Y-DNA「O3」の覇権争いの真っただ中なのです。だけど縄文−弥生交配集団の子孫としては、頭ではその方が日本列島に取っては良いことだとわかっていても、やっぱり「O3」に協力するのは抵抗があるなぁ!
●地方別データまとめ
県別のデータではサンプル数が少なすぎ県民論は追えませんでしたが、地方別になると、地方単位で調査したGlobal論文もあり、それなりに追える場面も出てきました。それでも関西圏などまだサンプル数が少なく、調査結果に偏りがあり過ぎ論じるのは難しいようです。
Webで関西のGlobalデータを見つけました。このCavalhoデータは亜型の設定がやや大雑把のため他のGlobalデータと比較をしにくいのですが、逆に縄文系、弥生系、侵略者系の大くくりには使えるため加えました。特徴はY-DNA「C」が高めなのです。関西(近畿)圏は和歌山の太地の鯨漁などで予想される海洋性ハンターY-DNA「C1」の居住地、まだ修験道などで予想される内陸型ハンターY-DNA「C3a」の居住地でもあるはずです。Y-DNA「C」が多めなのは充分納得できます。またNonakaデータではなかった「O3」もあり、むしろCavalhoデータの方が納得できるくらいです。
県民性ではまだ論じることはできませんでしたが、地方性では傾向が見えてきました。
●北海道は、明治維新後の屯田兵など開拓民に縄文系が多かったことが言えます。貧民が多かった縄文系は海外移民と同じ発想で新天地として北海道に開拓民として入ったことが予想されます。当然支配階級の「O3」は厳しい自然の土地には政府の役人以外は行かなかったのではないかと予想できます。
●東北も、縄文−弥生の土地ですが、寒冷地適応系と考えられるY-DNA「NO」、「N1」「N1c1」の比率が最も高く、寒さに強かったため適応できたのでしょう。東北アジアに住んでいた時から高緯度地適応で色白だったはずなので、東北に多い色白美人の要因かもしれません。これまで蝦夷はY-DNA「C1a」ではないかと推測していたのですが、「NO」N1」「N1c1」の東北アジア起源集団も蝦夷の一員であった可能性が見えてきました。この東北アジア集団は韓半島を追い出された「O3」と一緒に対馬海峡を渡ったはずですが、故地に似た気候を求めて日本列島を北上した可能性があります。「O3」は全地方で最低でした。奈良時代、平安時代と支配階級の「O3」は蝦夷との抗争がありましたが、積極的に住むことはしなかったようです。
●関東は意外に縄文系Y-DNA「D2」頻度が高い土地でした。新開拓地の北海道を除くと、沖縄以上の「D2」地方になります。しかも人口比率では日本列島最大なので、縄文系の頻度を押し上げることになります。海や山が充分ではないため縄文ハンター系「C」の頻度は少なく全地方で最低でしたが、人口比率が大きいため実人口数は他の地方より多いはずです。
●中部は、広いため地方としてはまとめにくいのですが、特に大きく取り上げる特徴はないようですが、あえて言えば「O3」の中で最も古い「O3」の頻度が高いことです。「O3」の中でもオリジナルの黄河系が韓半島に多く居住し「O3」の中でも新しい子亜型の進出で韓半島を追い出されたようです。ちなみに「O3」「O3a1」は黄河(華北)直系漢族、「O3a2」は黄河系と長江(華南)系の交配系漢族です。
●関西(近畿)は、まだ特殊なデータしかなくもっと調査が必要ですが、先に書いたように意外に縄文ハンター「C」が多い土地です。しかし大阪、京都、奈良の大和朝廷族が侵略占拠した県のデータがそろうと圧倒的な「O3」地方になる可能性が極めて大です。また当ブログで以前卑弥呼は海洋性ハンターの呪術師で支配者ではなかったかと書きましたが、日本列島の全地方で最も「C」頻度の高い関西か四国が卑弥呼の居住地としては候補地でしょう。もしかすると入鹿、馬子、蝦夷などの名前を持つ蘇我氏はこの「C」遺伝子集団だった可能性は充分にあります。もしそうなら「C1a」だと思いますが...。
●中国は、大国主神話もあり予想された葦原の国通り、弥生系が圧倒的に多い土地です。当然ながら「O3」侵略軍の頭領神武や別の「O3」侵略軍も「O2b」の抵抗にあい相当苦労して山陽道を進軍したはずです。そして「O2b」集団を征服するたびに「O3」支配者を常駐・在地化させコントロールしてきたため、「O3」頻度も全地方最大なのでしょう。その代わり縄文頻度は全地方最低です。最も日本らしくない地方です。
●四国は、やや特異な遺伝子構成でY-DNA「D2」頻度は中国地方に次いで低いのですが「C1」はかなり高く海洋性ハンター漁民が多く住みついた土地であることを示しています。一方「O3」も多いと言うことは、大和朝廷族集団もしくは前後して日本列島にやってきた別の「O3」侵略者集団も瀬戸内海の南北を要所として抑えながら東遷したことを伺わせます。恐らく瀬戸内海側3県と太平洋側の高知県は、もっと詳細データが集まるとはっきりと区別できるのではないかと予想できます。瀬戸内海側は「O3」頻度が高いはずです。
●九州は、
縄文系Y-DNA「D2」「C1」は南から北上して青森までの行程の通過点だったことと、
同じ縄文系「C3a」はシベリア→韓半島→九州と大型獣を追って南下してきた到達点
(列島で最大の「C3a」頻度)です。
弥生系にとっては満州→韓半島→九州と耕作適地を求めて南下してきた到達点だった
がここから日本列島全土に拡大した。
侵略漢族「O3」にとっては、韓半島を追い出された逃げ込み先で、旧唐書に言う「日本」
なる上陸拠点を確立した足がかりの土地のはずです。
●沖縄は、北琉球は国内データでは本土とほぼ同じ遺伝子構成であくまで日本列島の一部ですが、 南琉球はどうも違うようです。「O2b1」の土地のようですが詳細なGlobal論文を期待します。琉球全土(特に北琉球)は南から北上してきた縄文系が住みついたためか、関東と並ぶ縄文頻度です。特にオーストラロイドと判明した港川人は当然Y-DNA「C1a」だったはずです。予想通り「C1a」頻度が高い土地です。南琉球はもし国内データ通りの「O2b1」地域なら「D2」との交配で「O2b」→「O2b1」に分化した弥生系が九州から後代に南下し「D2」を駆逐して住み着いたことになります。もし「O2b」なら韓半島から一気に南下し定住したことになります。いずれにせよ「D2」との交配より駆逐を選択したのかもしれません。
●アイヌ民族は、当ブログで繰り返し触れているように、縄文遺伝子Y-DNA「D2」が85%を占めるのですが、本土が「O3」侵略漢族に征服されたのに対し、アイヌは「C3c」古代ニヴフ族に征服され、お互い被征服民族でしたが、本土では圧倒的な人口だったため先住民化せず、残念ながら北海道では支配者ともども現代アイヌ民族として先住民化してしまいました。これが歴史のあやなのです。同じY-DNA「D2」にも関わらず随分境遇が変わってしまいました。
●県別データまとめ
当ガラパゴス史観はこれまで日本列島全土の遺伝子比率を使用し、琉球とアイヌのみを外出しにして論じてきました。しかし、もし県別のデータがあれば違うアプローチの方法もあるのではないかと考え、これまで参考にしてきたGlobal論文を調べ、その元になった県別のデータが一部入手できましたのでリストにして見ました。
先にご紹介したGlobal論文の中で県別の調査データが報告されていましたので、御紹介します。このリストを見るとこの程度のサンプル数で民族論が論じられるのかかなり疑問になってきましたが、自分では調査できないので、背伸びせずにガラパゴス的民族性を論じたいと思います。とりあえず縄文系、弥生系、侵略者系と分けて頻度を出してみました。ご参考に!
最も利用されるNonaka et al.、Tajima et al.とHammer et al.の論文の他にNonakaが参考にしたUchihi et al.とSasaki & Dehiyaの論文が県民と地方のY-DNAに触れていましたので、それらの情報をまとめてリスト化しました。
日本人の合計データで見ると気がつかなかったのですが、県別(一部都市)で見ると1県あたりのサンプル数は極めて少ないのです。これで何か物を言えるのだろうか?と極めて心配になります。
このリストで最も疑問なのは大阪で2サンプルしかないにもかかわらず、しかもY-DNA「NO」がそのうちの1件を占めたため、大阪は人口比率の大きいことから頻度にかなり影響をしています。研究者は何故疑問をもたなかったのでしょうか?無作為抽出2人のうち1人が日本人の極少数派に当たるのは宝くじに当たるようなものです。しかも関西圏は全てY-DNA「O3」が検出されていないのです。侵略者大和朝廷族のお膝元にもかかわらずです。
この論文の著者たちはこの宝くじ的な確立で出現したハプロタイプに何故再調査を行わなかったのでしょうか?目的が日本人全体なので全国で見れば誤差範囲と考えたのでしょうか?
大阪は天皇陵古墳が存在する土地で大和朝廷族の本拠地でもあったにもかかわらず、です。おまけに平城京の奈良県はサンプル数「0」です。著者はこの特異な場所であるはずの関西圏で一体どんな人を対象にサンプルを抽出したのでしょうか?もし農村部や山間部を中心にサンプルを故意に抽出すれば当然大和朝廷族のY-DNAは出てきません。大阪でうっかり抽出すると近代の韓半島系の出身者を調査する可能性は極めて大です。にもかかわずY-DNA「O3」の頻度が「0」という結果はわざとデータを操作した可能性が大きいのです。関西は圧倒的な「O3」圏のはずだからです。
地域で最も平均的な頻度分布を持っているのは全国から人が集まっている東京と北海道だと思っていましたが、東京はほぼ予想通りでした。しかし旭川は圧倒的な高縄文度の土地でした。恐らく海外移民組も同じではないかと想像できますが、江戸時代まで抑圧されてきた貧民だった縄文の子孫が多く屯田兵や移民として移住したからではないかと考えると納得できそうです。海外の日系移民のY-DNA頻度を調査できると面白い結果が得られるかもしれませんね。
この結果は、県単位でサンプルを集めることの大変さと抽出のマジックを教えてくれます。目的が日本列島全体の遺伝子分布と縄文−弥生の二重構造をあぶりだすことだったので、限界があるのは仕方がありません。やはり研究者単位ではなく国が主導して調査をしないと高度な解釈は難しいようですね。
しかしそれでもこの県別調査で、大和朝廷族や武士団族に代表される侵略漢族のY-DNA「O3」が日本列島にしっかりと根付いていることと、Y-DNA「C3c」に代表される東北アジア系騎馬民族、いわゆるツングース系騎馬民族王朝、は日本列島に全く乗り込んできていないことは改めて明らかになりました。恐らく韓半島にいた中国王朝出先機関の漢族役人たちも韓半島や周囲の先住民族たちと抗争するために騎馬民族的な風習を一部取り入れていた可能性は否定できませんが、あくまで漢族「O3」です。
縄文遺伝子Y-DNA「D2」と「C1」「C3」は日本列島で10000年もの長期間に渡り交配しお互いに子亜型に分化しています。また4000年前頃から徐々にボートピープルとして満州→韓半島→日本列島に水田稲作の耕作適地を求めて逃げてきた弥生遺伝子の呉系長江系Y-DNA「O2b」も縄文遺伝子「D2」との数1000年の長期間にわたる交配で「D2」は更に新しい子亜型に分化し、韓半島と共通の「O2b」も日本独自の「O2b1」に分化しています。この結果は狭い日本列島で縄文−弥生集団が互いに武装集団・戦闘集団ではないため、意外に敵対せず共存−交配をしてきたことを如実に説明しています。
ところが、侵略者であった武装集団・戦闘集団の漢族Y-DNA「O3」は、日本列島上陸後1500年は経っているにもかかわらず、日本列島独自の子亜型が全く存在せず、中国大陸にあるそのままの子亜型のみしか検出されません。つまり支配階級はエリート層として縄文−弥生集団を見下し差別し交配を進めてこなかったことを如実に物語っています。「O3」層が縄文弥生集団と交配をするようになったのは階級分化が崩れてきた戦後のことです。戦前はまだ身分の違いとかでめったに交配は起きてはいないのです。今は世界の最先端を担う我が日本ですが、戦前までは「O3」の封建制がまだまだ根強く残っていたのです。
まだ良く理解できていないのはY-DNA「D1」です。集中的に見つかるのは旭川です。何故でしょうか?まさかチベットからの移民がいたとは考えられませんので、「D2」が全く存在せず「D1」が数%存在する韓半島からの近代の移住者しか可能性はありません。韓半島の「D1」はチベットと同じ「羌」族出自の姜集団になるはずです。或る時期に彼らが近代日本列島に移住し最終地に旭川を選んだのでしょう。もしこの論文の報告に間違いがなければ...ですが。2000年の論文なのでまだY-DNA同定技術が”稚拙”だった可能性は充分にありますが..。
残りのY-DNA遺伝子ハプロタイプは、韓半島時代の中国出先機関(帯方郡、楽浪郡などで代表される)の「O3」支配下にあった東北アジア系の民族でしょう。特に「NO」「N」「Q」や「C3c」などは寒冷地適応し典型的なフラットフェースの一重瞼だったはずです。
http://galapagojp.exblog.jp/15687326/
渡来した漢族系侵略者・支配階級
日本人の支配階級のY-DNA「O3」
日本人の原風景に全く無関係で、韓半島から勢力争いに負けて追い出され流れてきた好戦的な戦闘集団が、日本列島に逃れてきて旧唐書にあるように日本なる小さな上陸拠点を恐らく九州当たりに作りそこを足がかりに勢力を増強しながら、先に韓半島から逃れてきていて勢力を持っていた先住「O3」集団や縄文−弥生集団を武力で征服しながら東征を行ったのが大和朝廷族と考えられます。
韓半島は中華王朝の出先機関が置かれ、Y-DNA「C3c」系のツングース集団や北方系北狄国家などとの戦闘などで負けた集団の一部が、都度断続的に日本列島に逃げてきたものと思われます。日本列島にツングース遺伝子(Y-DNA「C3c」が今まで発見されていないと言うことは、騎馬民族王朝など日本列島には全く来ていなかったことを証明しています。ツングースは負けて逃げるなら北の故郷に向かって逃げるはずで、南下するはずはありません。中華王朝の出先機関が負けた時に逃げ込んできた可能性は大です。
現在報告されている日本列島のY-DNA「O3」の遺伝子の亜型、子亜型は中華大陸の型と全く同じ (研究が進めば分類は変わる可能性はありますが、まだそこまで研究は進んでいません)だと言うことは、日本列島で「O3」集団は征服した縄文−弥生集団との交配をしてこなかったことを示しています。
これだけ見ても「O3」集団は支配者階級意識の強い嫌な連中だったことが良くわかります。
しかし、研究が進み「O3」集団も黄河文明系遺伝子だけではないことがわかってきました。長江文明系の血統が小亜型に大量に交配しているのです。中華大陸で長江文明系の集団遺伝子は「O1」と「O2」ですが、現在残っている亜型は意外に少ないのです。つまり長江文明系は周囲の他の遺伝子との交配をあまり進めてこなかったようです。このため中国の少数民族には「O1」や「O2」が多いのです。
一方「O3」の方は長い歴史で「O1や「O2」とかなり交配を進め小亜型に分化しています。そして少数民族化せずそのまま漢民族の中に取り込んできたようです (「O3」の中にもDerung族のように他遺伝子との交配を嫌った集団も「O3」の故地の江南特に雲南省辺りに残っています。どんな集団にも保守的な守旧派のグループはいるものです。そしてそのようなグループは少数民族化しエネルギーが弱まり、衰退してゆくのです。
日本人の「O3」亜型の小亜型をご紹介します。日本列島の「O3」合計は約19%です。日本人男性の5人に1人は「O3」なのです。
O3 雲南省あたりで「O2」から分化した亜型 日本列島では2.2%
O3a
O3a1 漢民族の20%を占める。黄河文明の直系の亜型かもしれない。
O3a1c 日本列島では5.7%もある。
O3a2 漢民族の35%を占める。長江文明人と交配し分化した長江文明系「O3」
日本列島では3.3%
O3a2b 長江文明の大溪文化(5000年〜7000年前頃)人と交配した遺伝子らしい。
O3a2b1a ミャオ族特有の「O3」
O3a2b1b シェ族特有の「O3」
O2a2b2 ヤオ族特有の「O3」
O3a2c1 シナ―チベット語族特有の「O3」 日本列島では約3.1%
O3a2c1a 漢民族系特有の「O3」 日本列島では約4.6%
O3a2c1b チベット−ビルマ語系特有の「O3」
以上を見ると黄河文明人=漢民族ではないことがよくわかります。漢民族は黄河文明人を基盤に長江文明人と交配しながら出来上がり、周王朝辺りから自分たちを固有民族として自覚し始め、漢王朝辺りから漢民族として確立していったようです。中国の漢民族内の頻度的には55%の「O3」の中で、黄河文明系の直系が10%程度なのに対し長江文明との交配系は残りの45%を占め、漢民族は黄河文明系と長江文明系の完全融合体であることが良くわかります。文化的には北方系の黄河系文化が中国の主流となりましたが、遺伝子頻度的には江南系の南方遺伝子系の方がはるかに多いのです。
では日本列島にやってきたのはどんな「O3」なのでしょうか?まだ答えは出ていませんが、
・坂東武者の先祖と考えられる高句麗の戦闘集団
・Y-DNA「O2b」が非支配層と考えられる、3国によって取ってかわられた3韓の支配層。
・滅ぼされた百済王朝系のエスタブリッシュメント一派+戦闘部隊(平家か?)
・源氏の先祖と思われる新羅の花朗集団
・この中に長江文明交配系「O3」が特に知識層に多く、漢字の発音の呉音を持ち込んだようです。
等など、折につけ韓半島での抗争に負けた「O3」が日本列島に南下してきたものと思われます。長江文明交配系の「O3」が多いため「南下」することには抵抗がなかったものと思われます。
それでは日本人にもよく見られる、蒙古襞目でフラットフェースの寒冷地適応した新モンゴロイドはどの「O3」なのでしょうか?日本で二重瞼が一重に対し優性遺伝をするところから考えると、長江文明系と交配史文化したY-DNA「O3a2b」は当然フラットフェースですが二重瞼でしょう。原亜型のY-DNA「O3」も故地が江南で寒冷地とは関係ないことを考えると、寒冷地適応型は黄河文明直系と考えられる。Y-DNA「O3a1」と思われますが、しかし黄砂適応もしているはずなので、フラット化/一重瞼化した理由はどちらかはよくわかりません、あるいは相乗効果かもしれません。
明らかに寒冷地適応をしているのはシベリア系のY-DNA「N1」と「Q1」ですこの両遺伝子は恐らく完璧な寒冷地適応型と考えられます。日本人は良く観察するといわゆる典型的なフラットフェースで一重瞼の新モンゴロイドフェースは意外に少ないのです。モンゴロイドの定義はやはり顔ではなく肌の色なのでしょう。このためフラットフェースでなく二重瞼の集団を苦し紛れに古モンゴロイドと分類して逃げているのです。これなら人種分類など止めてしまえば良い。遺伝子分類だけに統一すればよいのです。しかし白人優越主義を維持したい連中は差別化のためにコーカソイド以外を劣等人種と位置付けておきたいだけなのです。
大体、遺伝子から見れば、ほとんどの欧州白人どもにもアフリカ系のY-DNA「E」が少なからず混じっており、アラブ・セム系の「J」も混じっており、そもそもメソポタミア文明は「J」によって興されたのです。ヒットラーだって「E」です。これでも「人種」にこだわるのは何故?色白を自慢したいのか?それならラテン系の褐色はどうするのか?矛盾だらけでが、とにかく人種差別と白人優位を守りたいのです。本当にやな連中!
http://galapagojp.exblog.jp/15243803/
「日本」の名称 最古の例か
今朝の朝日新聞で、西安で見つかった678年に亡くなった「祢軍」という軍人の墓誌に「日本」の文字が鮮明に記載されていました。実物は盗掘をされていたそうですが、拓本が古美術市場に流通し研究されたそうです。
当ガラパゴス史観では、韓半島経由で日本列島に軍事侵攻してきたY-DNA「O3」大和朝廷族が、最初に列島の九州当たりの一角に「日本」という占領拠点を作り、記紀で言う「初国知らす」大王の時代に縄文−弥生交配人が緩やかな連合を組んでいた「倭国」と中国史で呼ばれる本州の中心地を目指し軍事進攻を開始し、大和に占領軍の大本営を築くことに成功し、大和朝廷を興したのです。
当ブログ管理人のように縄文・弥生交配族の子孫を自認する立場からすると、大和朝廷族一派は勝手に軍事侵略してきた占領軍に過ぎません。その最初の占領拠点が日向であったかは定かではありませんが、軍事侵略者なら上陸地点の豊前辺りに侵略拠点を築くのではないかと疑問を持っています。何故日向なのか?西都原古墳群が(百済系)大和朝廷族の最初の旧跡なのか?上陸協力者の旧跡だったのか?あるいは百済系になる前の侵略軍の基地だったのか?DNA解析ではここまでが推論の限度ですね!
旧唐書の日本はもと小国で倭の地を併せたりというのが真実に最も近いのではないかと考えられます。その日本は「O3」国家で「D2」「O2b1」が中心の倭とは全く関係ない侵略軍の拠点のことだったと思われます。残念ながらスタートは我が縄文-弥生交配集団の倭の子孫としては面白くない「日本」という名前の出所になってしまいそうですが、これも歴史のなせることで、仕方がないことなのです。「O3」黄河文明集団に極東ユーラシア大陸を追い出され、日本列島まで逃げて来たにもかかわらず、またその「O3」に虐げられてきたのが縄文-弥生遺伝子交配集団なのです。結局これ以上逃げるところがなかったご先祖の「倭国連合体」は「日本」に吸収されたのです。
いずれにせよ、記紀は後の百済系になった百済系大和朝廷族が自身の過去の歴史を永く見せるためにそれまでの新羅系や物部系、他のY-DNA「O3」先行侵略軍の神話を取り込み、縄文―弥生交配族の神話まで取り込み懐柔のために練りに練って周到に作りあげた書物でしょう。どうであれ占領軍の話なのでどうでも良いことですが...。
http://galapagojp.exblog.jp/14791546/
遺伝子の大移動の復習です:
古代遺伝子Y-DNA「D」と「C」は行動を共にしスンダランドから北上し、東シナ海-黄海ランドで3手に別れ
1隊は西進し中原に入り先住民族・羌族(Y-DNA「D1」)(「C」はまだ未解析)となったよう。別の1隊は日本海南岸部のほぼ陸橋弧であった日本列島部分に入りブラキストン線(津軽海峡)で留まり石器・縄文人(Y-DNA「D2」、「C1」)となり、残りの1隊の一部は日本海の北岸部を北上し陸続きだったサハリンから南下し北海道や千島列島に分布し原アイヌ民族(Y-DNA「D2」)と古住シベリア族(Y-DNA「C3」)となったようです。
これらの古代遺伝子は中国神話にもほとんど現れず、共工を始祖神とする羌族としてかろじて留められているに過ぎないもよう。日本神話では全く触れられていない(もしかすると記紀に土蜘蛛とか国巣とか書かれているのがそうかもしれない)。神話をまとめた支配階級・大和朝廷族のY-DNA「O3」から抹殺されたのです。こうして日本人男性の48%を占める古代遺伝子Y-DNA「D2」「C1a」「C3a」の過去は、石器・縄文遺跡という遺跡としてしか残っていないのです。
このように4種の古代遺伝子のうちY-DNA「C」「D」(アフリカでは「E」も)は遺伝子としてスンダランドで亜型以上に分化せず、古代性を留めたままアジアの先住民族となったのです。(唯一大型獣ハンターY-DNA「C3」の亜型の「C3c」がのちにハンターの子孫らしくモンゴル族の元帝国としてユーラシア大陸を東西に席巻しましたが、そこで終わりました。)スンダランドは古代遺伝子Y-DNA「D」「C」が亜型に分化した場所と思われるのですが、”アジア先住民族”の故郷だったのです。
そのころ最後の古代遺伝子Y-DNA「F」は留まったインド亜大陸でその後の世界を動かす劇的な変化を遂げたのです。Y-DNA「G」以降の全ての新興遺伝子が「F」から分化してきたのです。インド亜大陸はアジア人どころかほとんど全ての欧米人の故郷にもなったのです。スンダランドはアジア先住民の故郷なのですが、現代アジア人と欧米人の故郷はインド亜大陸なのです。
では何故「F」のみが更なる分化を遂げることができたのでしょうか?
遺伝子が変異する要因は「破壊する創造者」は4つあるといっています。
・突然変異
・共生発生(Virus+Evolution=Virolution)
・異種交配
・エピジェネティクス=後天的獲得形質(遺伝子そのものは変異せず、発現の仕方が変異する)
インド亜大陸で「F」に突然変異が生じたか、未知のレトロウイルスと遭遇したか異種交配があったかどれかなのです。まだガラパゴス史観は全く出来ていませんが、妄想すると
小柄なホモサピエンスは出アフリカ後中東で遭遇した大型化した先輩人類の旧人ネアンデルタール人との亜種間交配の結果、古代遺伝子「D」「E」のYAP組と「C」「F」組に分化しました。似たようなことがインド亜大陸でおきたのかも知れません。アジアには北京原人、ジャワ原人やフローレス人、デニソワ人など原人・旧人が生きていた広大な土地だったのです。新たな亜種間交配がおきたと考えても不思議ではありません。
またmtDNA「M」系列から最後にmtDNA「D」が白血病ウイルスとの共生で分化したと考えれられるように
新しいウイルスと遭遇した可能性も充分にあります。
「F」が分化した理由はまだ全く想像付きませんが、とにかく特筆すべきなのは結局現代世界を動かしている「R1b」も「O3」も「F」から分化した遺伝子なのです。ネアンデルタール人から受け継いだ肉食系の遺伝子が行動の基礎になったのがY-DNA「R」、サハラで生き延びるために雑食系になった形質を受け継いだのがY-DNA「O」のようです。
とは言っても人類は60000年近くの時間でかなり交配が進み遺伝子のハプロタイプは連綿と受け継がれていますが、現代に至るまでに交配したmtDNAのハプロタイプによって形質はかなり左右され、特に男系は母親の形質を強く受け継ぐらしいので、Y-DNA「O」と行動を共にしたmtDNAは雑食性が強い女性集団だったのではないかと思われます。アジア最大のmtDNA「D」のような気がしますが、Y-DNAとmtDNAを同時に調査した論文がまだ見つかっていないのでなんとも言えません。
http://galapagojp.exblog.jp/15016028/
遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考
これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。
日本語とは、
●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。
●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。
●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。
このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。
一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。
●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。
この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。
そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!
●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。
●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。
●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。
以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/14860205/
日本民族の中国化考
今朝の朝日新聞の記事で気鋭の学者 與那覇 潤氏の日本の西欧化の次に中国化が始まっている、という日本論が紹介されていました。
なかなか壮大な視点による歴史の解析で、不覚にも当方ガラパゴス史観もタイトルしか知らなかった未読の日本論でした。正に当ガラパゴス史観が主張するY-DNA「O3」連合による極東O3共栄圏構想「FEO3P」の芯になりそうな理論です。
何故なら、当ガラパゴス史観が主張しているように日本の中国化−正しく言うと漢化−もっと正しく言うとY-DNA「O3」化、は最近始まったことではなく、大和朝廷族や武士団族が韓半島での抗争に負けて半島を追い出され、ボートピープルとして日本列島に戦闘力を持って断続的に流れてきたことに端を発するのです。
記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。
記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。
日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。何故歩み寄ったのかは今後の調査が必要です。
当ガラパゴス史観で繰り返し主張しているように、極東アジアはY-DNA「O3」支配の地域です。中国は55%、韓国は40%、日本は20%の「O3」支配層がその他の遺伝子集団をコントロールしてきました。その他、ヴェトナムもインドネシアも台湾もアジアの新興諸国のエスタブリッシュメント層は押しなべて「O3」です。「O3」は西欧エスタブリッシュメント層のY-DNA「R1b」と対抗できる唯一の遺伝子であり、覇権争いの真っ最中であります。少し前の「O3」は、明治維新以来日本が引っ張ってきましたが、少数民族の「清」化で没落した中国が、ここに来て圧倒的な人口力で「O3」のリーダー国家にのし上がってきました。残念ながら一人当たりのGDPが日本の1/10しかなく真のリーダーにはまだ当分なれませんが、日本と組めば恐らく世界の覇権は握れるはずである、が、互いにそのような思惑はまだないようですが...。
日本は陳腐なTPPなどに浮かれず、中国との連合を本格的に議論する時期に来ていると思います。とは言っても縄文−弥生交配遺伝子の子孫を自認する当ガラパゴス史観にとって、「O3」は韓半島を追い出され逃げてきた流れ者の侵略者でしかないため本音では認めたくはないのですが、現実は「O3」が支配層になっているのを、時代を巻き戻すことは出来ません。現実に順応しやすいのも縄文−弥生交配遺伝子の特徴なのです。負け犬根性と言ってもよいかも知れませんが、そこまで卑下する必要はないでしょう。
http://galapagojp.exblog.jp/15362496/
日本民族ガラパゴス的概論
12. 日本民族考 まとめ
●日本民族の源流考から
最新の進化論Virolution「破壊する創造者」のメッセージから、遺伝子の進化・変化は
1) 突然変異
2) ウイルスとの共生発生
3) 異種交配
4) 後天的な獲得形質(エピジェネティクス)
の4タイプあることがわかりました。
そして遺伝子そのものが変化するのは1)〜3)の3タイプで、4)は遺伝子の発現を変化させることも学びました。更に比較的短い時間軸で変化をするのは2)と3)であるとわかりました。
2)で有名なのは白血病の原因となるHTLV-1ウイルス(ヒトT細胞白血病ウイルス1型)です。発見者は日本人医師、分離したのも日本人学者です。これはレトロウイルスの代表例なのです。九州に多く母子感染で特徴的に分布しています。感染地域は他にアメリカ、ペルー、コロンビア、エクアドル、アフリカ、カリブ海地域、オーストラリアのアボリジニ、カナダのイヌイットだそうですが、アフリカとアフリカ出身者が大多数のカリブ海地域とアボリジニ以外はすべてY-DNA「C3」の移動の跡地ばかりです。オーストラリアのアボリジニもY-DNA「C4」なので「C3」で受けた変化が当然受け継がれています。もしかするとY-DNA「C」の亜型への分化にHTLV-1ウイルスが関与したのかもしれませんね。
一方、mtDNA側から見ると、アフリカも含め全てに共通するのはmtDNA「M」で、日本と南北アメリカ大陸で共通するのはmtDNAから分化したハプロタイプmtDNA「D」です。勿論mtDNA「A」と「C」も共通なのですが頻度が小さいため、可能性は低いのです。
では、3)の異種交配の可能性はどうでしょうか?
日本列島最古の遺伝子はシーラカンス遺伝子のY-DNA「C1」と「D2」および「C3」です。Y-DNA「C」の最も古い亜型「C1」が日本列島にのみ存在するのは極めて驚きです。
・Y-DNA「D」と「C」は一緒に出アフリカする前に既に分化していたという研究者もい
ますが、大勢は中東で分化したと考えているようです。亜種のネアンデルタール人との
交配の度合いで分化したのなら大変興味深いのですが....。交配の度合いは果たし
て「DE」か「CF」のどちらが濃いのでしょうか...?いずれにせよ50000年以上前の
話です。オーストラリア大陸に人類は50000年前頃には到達していた様なので、インド
洋の海岸線を東遷した現代人類の移動の速度は想像以上に早かったようです。一気
にスンダランドの森林・雨林地帯に到達しそこで北と東に更に拡散をしたようです。
当時陸続きだった日本列島の大陸棚部分に「D2」、「C1」と「C3」が到達したのは
縄文草創期よりかなり前のことと想像できますが、120mもの海面上昇で、当時の遺跡
があったとしても全て100m以上もの深い海の中です。「D2」と「C1」はそのままブラキ
ストン線(津軽海峡)まで到達し、残念ながら海峡に阻まれ、その後東北地方に「C1」色
の濃い独自の縄文文化を花開かせ、一方「C3」の中心部隊は北進せず九州を中心に
拡散しHTLV-1ウイルスを定着させたのかもしれません。
・一方、「C」と共通の祖遺伝子を持つと考えられている「F」はコーカサスなどインドの
北部経由で中国江南に進出しアジアの遺伝子であるY-DNA「O」に分化し、「O1a」
「O2a」のいずれかまたは共に長江文明を開花させ(どれかが楚、呉、越の先祖と考え
られているようです)、特に「O2a」は水田稲作文化を完成させたと考えられています。
ところが若干遅れて現れた黄河文明により、中原は漢民族「O3」文化圏となり、「O1」
「O2」は江南の異民族として扱われ、最終的に敗れた百越が北と南に逃れたらしいと
言われ、Y-DNA「O2a」は江南の少数民族に落ち、一部は南インドまで逃れ、ドラヴィダ
人の遺伝子の14.5%を占める存在になり、日本語のなかの弥生系/水田稲作文化
系の単語と似た単語がドラヴィダ語に存在する明らかな理由になりました。
ところが「O2a」は北へも逃れ、欧米の研究者は満洲辺りで「O2b」に分化したと考えているようです。新しいウイルスに感染したか、異遺伝子との交配があったのかは全く解りませんがとにかく分化はしても稲作に適した土地を求めて韓半島部を南下し定着し、韓半島に今でも30%もの頻度を持つ大遺伝子集団を形成しています。ところがもっと稲作に適した土地を求めてボートピープルとして既に列島化していた日本列島の北九州に上陸した「O2b」は、先住民だった縄文集団の「D2」「C3」「C1」と、最初はそれぞれの狩猟採集と水田稲作に適した土地に棲み分けをしながら、異遺伝子交配を進め「O2b1」に分化したはずです。このことが意外に早く東北まで水田稲作が受け入れられ普及した理由ではないでしょうか。
大物の最後はY-DNA「O3」ですが、黄河流域の黄砂環境や寒冷地適応はエピジェネティクスであって、遺伝子の変化は伴わないそうなので、「O2」から「O3」に分化した理由はまだ全くわかりません。とにかく大規模な異遺伝子との交配がなければ、もしくはウイルスとの遭遇がなければ遺伝子進化はしないはずです。北京原人の生き残りがいたなら面白いのですが、時代が違いすぎます。
無理やり考えるとその頃中原に先住民としていたのは「D1」および「C3」です。これらの遺伝子との交配の結果とも考えられないことはありません。交配した「O2」集団は「O3」に、「D1」は「D3」に分化し、交配しなかった「D1」集団は当然へき地に追われチベット高原にたどり着き、「C3」集団は北のモンゴル高原まで追われたのではないでしょうか。
しかし今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だったと、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。
妄想すると、百済の古名の「百残」は「百越の残党」と言う意味だと面白いですね。そうすれば韓半島の30%も占めるY-DNA「O2b」の存在の意味が理解できるからです。
いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。
もうひとつ妄想すると、蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。
また脱線してきましたのでこのへんでやめ各論に入ります。
●石器時代:
石器時代にホモサピエンスとは異なる独自の遺伝子の集団が日本列島にいたかどうかは、遺骨が出ないため全くわかりません。 しかし原人や旧人、デニソワ人などが列島に来ていたとしても現代に遺伝子が残っていない以上、現状では来ていなかったと考えるほうが自然です。北京原人辺りが日本に来ていたら面白いとは思うんですが...。
むしろ5万年前にはY-DNA「C」がサフールランド(ニューギニア・オーストラリア大陸)に上陸していたと欧米の専門家が認めている以上、日本列島に来ていた石器時代人は、オーストラロイドと判明した港川人なども含め、Y-DNA「C1」と考えられます。しかも東海大が加わった研究で判明したように高度な海事技術力を持っていたと考えられる航海可能集団でした。となると、「C」と一緒に移動していたと推測されているY-DNA「D」も石器時代の日本列島に来ていた可能性は大です。しかし技術力から考えると石器を作成した集団はY-DNA「C1」と考えるのが妥当でしょう。いづれにしても現代のY-DNA「D*」100%のOnge族、Jarawa族や「C2」100%のLani族、95%のDani族などがそうであるように古代シーラカンス遺伝子の古代人類は基本的にネグリート、つまり倭人の遺伝子です。
●縄文時代:
縄文時代を構成した遺伝子はY-DNA「D2」、「C1」と「C3a」です。しかし土器を作成する技能集団は少数派の沿岸漁労系ハンター集団の「C1」と内陸系のハンター集団の「C3a」です。 特に縄文土器の本格的な発展は陸上大型動物ハンターだった「C3a」が大型動物の肉の煮炊き用で極めたものです。そして呪術性を求めた「D2」のために開発した土器が火焔土器です。「C3a」の兄弟遺伝子でアメリカ大陸に移住をした「C3b」が作成した土器が中米で時おり発見される縄文土器似の土器です。
縄文時代を構成した3遺伝子はいずれも古代シーラカンス遺伝子特有の小柄な集団、つまり「倭人」でした。当然ですが古代集団の習慣として鯨面文身でした。しかし昨年の発掘で大柄な縄文人がいたことも明らかになったように、中東で大柄なネアンデルタール人と交配したホモサピエンスは大柄な遺伝子を受け継いだ個体が現れ始めていたようです。
●弥生時代:
縄文後期には既にY-DNA「O2b」の移動が始まり、晩期水田稲作が始まっていたと考えられます。最初に来たのは真っ先に長江河口を追い出されたY-DNA「O1」集団で熱帯ジャポニカ稲を列島に持ち込んだようです。韓半島にも日本列島より頻度の高い「O1a」が存在すると言うことは韓半島経由で一部が日本列島に南下してきたと考えられます。「O1a」は台湾や、海南島、オセアニアに拡大していったので当然海洋性集団として航海技術は充分にあったようです。
次に韓半島経由で南下してきたのはY-DNA「O2b」集団になります。黄河文明に長江を追われた「呉民」系が中心だったらしい「O2b」は「O2a」の越民系と別行動をとり、百越などと共にヴェトナム等へ南下した一部を除き大部分が満州経由で韓半島へ、更に日本列島へ得意の航海技術を利用してボートピープルとして渡ってきたようです。
本来なら先住民の縄文集団と抗争が起きるはずですが、
・縄文集団がまだ呪術時代で好戦的ではなく比較的穏やかな集団だったこと。
・縄文集団の人口が圧倒的であったこと、
・日本列島(恐らく九州)が水田稲作に比較的適していたこと、
・そして更に逃げる先がなかったこと、
等々で
弥生集団は縄文集団と共存する道を選んだようです(Global論文ではなく日本語ローカルな論文ですが、南琉球のY-DNA「O2b1」の頻度が高く67%にもなる、と報告されていると言うことは水稲の適地を求めて更に南下した集団もいたようです)。そして食生活に対する稲作の安定性・優位性を認めた縄文集団は逆に進んで稲作を取り入れたようです。このため意外に早く青森まで稲作が進んだと考えられます。縄文人には最先端の水稲技術を受け入れる先取性がこの頃からあったと推測できます。「O1」の熱帯ジャポニカ稲が先に上陸をしていたので受け入れ易かったのかもしれません。
また視点がやや脱線すると、村上水軍などかつて日本の歴史にでてくる各地の水軍の発祥は、海洋系ハンターだったY-DNA「C1」ではないかと考えていますが、もしかすると長江文明人の子孫である「O1」、「O2」の中の戦闘性のあった一団が、農耕をしながら水軍を持った可能性も充分にあります。
Y-DNA「C」の持つ土器などの製作・加工技術、Y-DNA「O2b」の最先端の水田稲作技術など、日本列島は技術力を売り物にする(後のガラパゴス技術集団の先駆けになる)集団が当時から技術力を磨いていたのです。そして何も取り柄がなさそうなY-DNA「D2」集団は実はガラパゴス日本民族の持つ「新し物好き」な先取の気質があったようです。
●魏志倭人伝=魏志ネグリート伝考
当たり前のことですが縄文人の遺伝子はネグリートつまり倭人(小柄な人)です。当時の東アジアに魏志にわざわざ記載されるほど大規模な集団を形成したネグリート=倭人の古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」、「C」、「F」がいたのは、日本列島、チベット高原、ニューギニア、オーストラリアです。韓半島にも、台湾にも、海南島にもフィリピンにもいませんでした。当然「E」のいたアフリカ、ヨーロッパが魏志に出てくるはずはありません。従って倭人伝に出てくる国家的なまとまりをもった集団としてネグリート=倭人がいたのは日本列島とチベットだけです。
チベットは吐蕃王国など7世紀ごろから国家的な集団が出てきましたが、2-3世紀はまだ国家的な形態はなく、羌、吐谷渾、氐等のY-DNA「D1」、「D3」諸族が大きな民族集団として中国史に登場してくる状態でした。結局消去法で残るのは日本列島となります。日本列島が倭人=ネグリートの土地であったことは100%間違いありません。しかし卑弥呼のようなシャーマンが集団のリーダーだったかは定かではありません。
現代でも残っている古代先住民族は集団に必ずシャーマンがいて大きな力を持っていますが、男のシャーマンがほとんどです。日本列島の青森のイタコや沖縄のノロはY-DNA「C1」の古代遺伝子の多い場所なので、女性シャーマンはY-DNA「C1」の信仰だったと思われます。Y-DNA「C1」は本来海事技術力を持つ海洋性ハンター集団です。となると邪馬台国はY-DNA「C1」の集団でマグロ漁や捕鯨基地など漁労に適した海沿いの地域に存在していたと考えられます。つまり縄文人の人口の大部分を占めるY-DNA「D2」国家ではないと言うことになります。
●日本の成立考
何故百済や伽耶は日本列島の倭と連携をとることが多かったのでしょうか?理由は簡単で韓半島南部に位置したため非支配層がY-DNA「O2b」集団だったからです。ただし支配層は帯方郡などの中国王朝の出先機関から追い出されてきた漢族です。高句麗等の新興勢力との抗争に負けた出先機関の「O3」漢族が韓半島を南下し土着の「O2b」を支配し作ったのが百済でしょう。あくまで漢族支配王国なのです。
現在北朝鮮の遺伝子調査の報告は全くないため、韓半島北部の様子は皆目わかりません。しかし、日本列島にはないY-DNA「C3c」が南部(韓国)に13%近くあるということは、北部にあった高句麗が「C3c」ツングース族支配の王朝で、中国王朝の出先機関にいた漢族が非支配層である可能性は大です。しかし新羅は百済同様「O3」漢族支配国家で、非支配層も漢族(一部ツングース「C3c」もいたでしょう)でもある王朝ではないかと思います。高句麗は滅んだ後、支配層のツングースは留まったか北へ逃げ、非支配層の漢族戦闘部隊の一部は恐らく日本海側から日本列島に逃げ込み関東に定着し後に坂東武士団を形成したと思われます。
日本列島に逃げてきた「O3」集団は戦闘集団でもあったようです。旧唐書にあるように九州から日本海沿岸のどこかに「日本」なる上陸拠点を作り、そこを足場に戦力を増強し、日本列島の中心地と考えられていた畿内を目指し侵略軍を進めたのが後に大和朝廷族となった神武東征軍でしょう。我が縄文―弥生混成集団は本来戦闘集団ではなかったため、容易く征服されていったようです。どちらかと言うと手を焼いたのは同じ「O3」で先に韓半島から逃げてきていた同類の戦闘集団でしょう。要するに侵略軍同士で闘い勝ち抜いたのが大和朝廷族だったと言うことです。あくまでも侵略者です。
●侵略者の中の勝者=大和朝廷族
歴史は勝者がでっち上げる作り話し、と言うのは常識ですがそれでも真実はどこかに隠れていると思われます。記紀は大和朝廷族のでっち上げに等しい物ですが、先住の遺伝子集団の神話伝承を適当に盛り込みいかにも日本列島の正統な王統であるかを謳っています。
そして「O3」遺伝子戦闘集団同士の抗争で結局最後に残ったのが、百済系の桓武王朝です。途中南北朝に分裂したり、何処からか探し出してきた天皇がいたり、女性天皇がいたりとY-DNA遺伝子が連綿と続いているわけではないのですが、比較的素直・恭順な縄文−弥生交配集団を結局手なずけ列島に居座ることに成功し今に至っています。また傍流だった「O3」戦闘集団の武士団が政権を奪取しましたが、大和朝廷族にせよ武士団族にせよ結局勝者「O3」が歴史を作ってきたのです。
●新撰姓氏録考
大和朝廷族が勢力を誇っていた平安時代の畿内の勢力図がある程度わかります。さすがに欧米の論文でこれを研究した例はなかったので、自分で調べて見ました。
新撰姓氏録は平安時代になって平安京と畿内5カ国の815年当時の大和朝廷を構成する大和朝廷族(皇別・天孫)と、大陸系の官僚・技能(諸蕃)集団及び大和朝廷族が日本列島−畿内に侵略・占領軍つまりGHQとして乗り込む前に日本列島に乗り込んできていた先住侵略集団(天神)と弥生-縄文交配土着民の中で大和朝廷から見て無視できない規模の恐らく弥生人の農耕集団が持っていた祖先神(地祇)等が記されています。それでも畿内の情報は過半が登録されていないそうです。その過半の大半は縄文−弥生の子孫達だと思われます。要するに出自を伝承してないことと、政治・祭事的に取るに足らない集団のために無視されているだけなのです。
とは言っても何か情報を得たいので、現代人が手にしうる1184氏族の始祖情報をマイニングしてみました。 インターネットで公開されている、群馬県立女子大学国文学科北川研究室の労作である新撰姓氏録のリストを基に、当方専門のデータマイニングの手法で素人調査を行ってみました。
弥生時代の草創期、早期はどんどん遡り紀元前1000年〜800年頃と現在考えられていますが、つまりその頃Y-DNA「O2b1」遺伝子集団、つまり長江文明系水田稲作農耕民はボートピープルとして日本列島に上陸を始めたと考えてよいでしょう。新撰姓氏録が編纂される1800年〜1600年前ごろになります。現在の日本人は1200年前の平安時代の先祖のことでさえ、皇族と貴族と神官等の特殊な家系の末裔以外は全くわかりません。当時よくこれだけの祖先神が集められたものです。もしかすると現代日本人より当時の畿内の日本列島人の方が、まだ日本民族が確立する前なので、それぞれの出自を大切に伝承していた可能性は極めて高いです。
と言っても結果は悲惨なもので、結局は占領軍の大和朝廷族と官僚・技能集団のことしかわからず、土着化していたはずの縄文・弥生集団に関して得られた知見はほとんどありませんでした。残念ながら815年の畿内の支配層はすっかり大和朝廷族及び関連集団のY-DNA「O3」世界になっており、Y-DNA「D2」や「O2b1」の世界は闇の中のままでした。あえて触れるなら、「地祇」とされた神々の中の大国主命のような高床式弥生系と思われる出雲文化の痕跡が残っている程度でした。
また調査結果は、皇別の子孫のなんと32%を第8代孝元天皇の系統が占めるという予想外の結果でした。史上あまり有名ではない天皇ですが、特に孝元天皇の三代目の孫と言われる武内宿祢の一統がその中の50%以上を占め最も多いのです。伝説上の人物ですが、それだけ孝元天皇系統は新撰姓氏録を編纂したチームには認められていた実在した大きな存在だったのでしょう。もしかすると百済系初代天皇の可能性が大です。
次もあまり知られていない5代目孝昭天皇です。ほとんど習ったことがありません。あと祟人天皇、開化天皇と続きます。
そして不思議なのは15代応神天皇と26代継体天皇の間の10代の天皇は一切子孫が出てこないのです。素直に解釈すれば実在しない天皇なのでしょう。何らかの水増しする必要があったのか、もしくは他(新羅系など)の王朝出身者を取り込むための他の王朝の祖先王を天皇として組み込んだのかもしれません。いずれにせよY-DNA「O3」の中のはずです(縄文―弥生系の王は考えにくいのです可能性はゼロではないでしょうが)。
現在の大和朝廷族は桓武天皇以来百済系に変貌しましたが、第8代孝元天皇以外それまでの48代の天皇家は恐らく百済系ではなかったのだと考える方が自然です。もしかすると敵対していた新羅系の王朝の情報が消された可能性も十分あります。また大和朝廷族が上陸する前に先に日本列島を侵略していた漢族崩れかもしれません。いずれにせよ「O3」占領軍同士の話に過ぎないので、縄文−弥生交配系土着日本人の子孫を自認する当方には全く関係ありませんが....。
●弥生系のもたらしたもの
日本家屋は湿気対策のため先進国では珍しい高床式住居で、湿度が高い地域出身のオーストロアジア語族の伝統が守られ弥生文化の住居が日本列島庶民の正式な住居として現代まで続いています。縄文文化では住居は地面にべったりでまだ建物とはいえないレベルでしたが、稲作農耕文化を持ち込んだ長江文明の子孫は高度な住居も列島に持ち込みました。いっぽう黄河文明も地面べったり住居で住居レベルはまだ低かった。結局縄文人も「O3」渡来人も湿気の多い日本列島で、先進的な弥生式高床住居を採用したことで、弥生文化は水田稲作以外に高床式住居も日本列島に不動の文化として定着させることに成功したようです。
出雲大社の典型的な高床式建築はオーストロアジア語族出身のY-DNA「O2b1」の弥生文化の名残の一つで、出雲文化は弥生文化の末裔の1つです。弥生人達を懐柔するために組み込まれたのが出雲神話です。
では人口的に圧倒的に多数だった縄文人は?神話に組み込むほどの神話を持っていなかった可能性大です。恐らくY-DNA「C」の神話ではなかったかと思われる海幸彦「C1」と山幸彦「C3a」ぐらいでしょう。「D2」はアンダマン諸島を見ても記紀に取り込み懐柔するほどの神話らしい神話は無いように感じます。せいぜい国栖、土蜘蛛扱いでしょう。
● 「日本」の名称 最古の例は?
今朝の朝日新聞で、西安で見つかった678年に亡くなった「祢軍」という軍人の墓誌に「日本」の文字が鮮明に記載されていました。実物は盗掘をされていたそうですが、拓本が古美術市場に流通し研究されたそうです。
当ガラパゴス史観では、韓半島経由で日本列島に軍事侵攻してきたY-DNA「O3」大和朝廷族が、最初に列島の九州当たりの一角に「日本」という占領拠点を作り、記紀で言う「初国知らす」大王の時代に縄文−弥生交配人が緩やかな連合を組んでいた「倭国」と中国史で呼ばれる本州の中心地を目指し軍事進攻を開始し、大和に占領軍の大本営を築くことに成功し、大和朝廷を興したのです。
当ブログ管理人のように縄文・弥生交配族の子孫を自認する立場からすると、大和朝廷族一派は勝手に軍事侵略してきた占領軍に過ぎません。その最初の占領拠点が日向であったかは定かではありませんが、軍事侵略者なら上陸地点の豊前辺りに侵略拠点を築くのではないかと疑問を持っています。何故日向なのか?西都原古墳群が(百済系)大和朝廷族の最初の旧跡なのか?上陸協力者の旧跡だったのか?あるいは百済系になる前の侵略軍の基地だったのか?DNA解析ではここまでが推論の限度ですね!
旧唐書の日本はもと小国で倭の地を併せたりというのが真実に最も近いのではないかと考えられます。その日本は「O3」国家で「D2」「O2b1」が中心の倭とは全く関係ない侵略軍の拠点のことだったと思われます。残念ながらスタートは我が縄文-弥生交配集団の倭の子孫としては面白くない「日本」という名前の出所になってしまいそうですが、これも歴史のなせることで、仕方がないことなのです。「O3」黄河文明集団に極東ユーラシア大陸を追い出され、日本列島まで逃げて来たにもかかわらず、またその「O3」に虐げられてきたのが縄文-弥生遺伝子交配集団なのです。結局これ以上逃げるところがなかったご先祖の「倭国連合体」は「日本」に吸収されたのです。
記紀は後の百済系になった百済系大和朝廷族が自身の過去の歴史を永く見せるためにそれまでの新羅系や物部系、他のY-DNA「O3」先行侵略軍の神話を取り込み、縄文―弥生交配族の神話まで取り込み懐柔のために練りに練って周到に作りあげた書物でしょう。
●番外編
蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷や入鹿など動植物の蔑称的な名前で記載されていますが、もしかすると縄文−弥生交配一族の可能性が充分にあります。もしそうなら縄文−弥生の子孫を自認する当方にとっては中大兄皇子や中臣鎌足などはとんでもない連中ですが...果たしてどうだったのでしょうか?
三河の土豪だった松平−徳川家は、新羅系「O3」花郎戦闘集団の子孫「源氏」武士団の子孫ではないのは当たり前ですが、と言っても百済系武士団の子孫かもしれない平氏でもなく、高句麗系武士団の子孫かもしれない坂東武者系でも無く、土着系の縄文−弥生の武士だった可能性もかなり高いのです。
http://galapagojp.exblog.jp/15270404/
隼人、熊襲、蝦夷
● 隼人と熊襲(球磨囎唹)そして蝦夷
縄文遺伝子の技術者集団だった漁労系ハンターY-DNA「C1」と内陸系大型獣ハンター「C3a」遺伝子は日本列島の各地から検出されていますが、九州や東北にも当然のことながらかなり居住していたと考えられます。
大和朝廷族の記紀などの情報では、隼人も熊襲も南九州の集団だったようです。
● 隼人考
Y-DNA「C1」は南方から「D」と共に陸だった東シナ海−黄海ランドを遡り、沖縄には港川人という石器時代の遺跡を残しオーストラロイドと最近判明しましたが、そのまま沿岸部を恐らく漁労に適した海辺で拠点を形成しながら、青森まで北上し津軽海峡(ブラキストン線)に行く手を阻まれ定着したため、現状のデータでは沖縄と青森に今でも「C1」としては列島で最大の遺伝子頻度8%以上を残しています。つまり約12人に1人は「C1」なのです、これは驚くべき頻度と言うことができます。オーストラロイドの遺伝子は意外に多いのです。これらから推察すると海と関連が深いような記述の多い隼人は当然「C1」で海洋性の海の男の原点遺伝子でしょう。しかし同じ「C1」遺伝子は沖縄から青森に至るまで沿岸(特に太平洋)各地に残ってきたはずなのです。本来なら隼人は日本列島各地に居住していたはずです。恐らく風土記を詳細に調べれば隼人と同じ風俗習慣の集団の記載が見つかるはずです。
● 熊襲考
一方Y-DNa「C3a」は韓半島から大型動物を追って南下して来た陸のハンター集団のため、沿岸部には居住せず内陸部に居住していたはずです。九州に「C3a」としては列島で最大の頻度8%を残しています。熊襲の記述は内陸的なので間違いなくY-DNA「C3a」でしょう。恐らく肥後もっこすの形質は「C3a」ではないかと考えられます。海幸彦が「C1a」なら、山幸彦が「C3a」で、大和朝廷族に恭順的だった海幸彦が記紀で良く描かれ反抗的だった熊襲の山幸彦は負けたように描かれたのでしょう。
陸のハンター「C3a」にとって大型動物、ナウマン象なども獲物だったはずで、長野県の野尻湖にナウマン象の化石が発見されることから、本州にも動物を追って「C3a」は移住したはずです。しかし沖縄では頻度が低く九州南部で多くは留まったようです。寒冷化し始めたシベリヤで寒冷地適応を若干受けた「C3a」は、オーストラロイドの形質そのものだった彫深でいかつい顔立ちの「C1」に対し、ややいかつさが減りツルっとした端正な彫深のイケメン顔立ちに変化をしていたはずです。交配が進んだ現在と異なり、当時は大和朝廷族や純粋な弥生人の子孫とはかなり異なる顔立ちだったはずです。
多くの弥生人は居住地域が似通っていた「D」のジャガイモ顔系の縄文主流系とは交配をしていたはずですが、ハンター系の「C」とは居住地域がかなり異なるため、古代には交配はあまりなかったと考えられます。
「C3a」は「C1」と較べて独立性や独自の風俗習慣を頑なに守り通そうとした集団だったようです。出シベリアしアメリカ大陸に渡る大冒険を行った「C3b」、ユーラシア大陸の東西に大モンゴル帝国を作った「C3c」など「C3」は大陸的な大冒険遺伝子の集団で、支配したがり屋の搾取遺伝子の「O3」大和朝廷族とは全く相容れないのは当然でした。このため大和朝廷族とは衝突を繰り返し、ハンター集団だったため武力もあり、大和側はかなり手こずったようです。
● 蝦夷考
Y-DNA「C1」と「C3a」は当然蝦夷の構成遺伝子だったはずです。日本列島で他に蝦夷を構成する遺伝子はありません。「D2」は大和朝廷族に対抗するような武力を持てたはずがありません。
坂上田村麻呂と戦った「阿弖流爲」等の武力から推察すると、「C1」より大型獣ハンターの「C3a」の方が蝦夷の軍事的な中核だったような気がします。従ってY-DNA「D2」だった当時の原アイヌは蝦夷では全くありません。無関係でしょう。では北日本に残る「ナイ」や「ベツ」などアイヌ語似の地名は何処から来たのでしょうか?
もっと時代が下がったオホーツク文化人のY-DNA「C3c」のニヴフ族が持ち込んだ内陸地系形を表す「C3c」単語と同じシベリア起源の古住シベリア民だった「C3a」が持ち込んだ単語が似ていた、と言うことだと思います。「D2」ではなく「C3」起源でしょう。もし「D2」なら日本中に「ナイ」や「ベツ」など似た地名が大量に残っているはずですが、そうではないので大和化が遅れた北日本にのみ蝦夷の中核だった「C3」の単語がかろうじて残ったのではないかと思います。
●雑考
「O2b」は庶民の中では上の土地持ち農民、「D2」は狩猟採集が中心の名もない小作人的な下等庶民だったと思われます。この体制は1000年以上続き、農地解放で小作人が農地を持つことが出来たことでやっと「D2」は名実共に名前が持てるようになったのです(苗字そのものは明治維新時に持てましたが、名実ともに1人の日本国民になったのは戦後で、マッカーサーがこなければ、日本列島は未だに支配階級の「O3」と地主の「O2b」がのさばり、「D2」は貧しい小作人のままだったでしょう。)
●補考
現代アイヌ民族は本当に北海道の先住民族でしょうか?これは非常に政治的に微妙な問題ですが、ガラパゴス史観的には避けて通れない命題です。もしY-DNA「D2」85%、「C3c」15%の現代アイヌ人が先住民族なら、日本列島に住む全てのY-DNA「D2」と「C1a」、「C3a」遺伝子国民も同様に石器-縄文時代から列島に住んできた先住民になります。人口が少なく近代化が遅れ古い文化を残してきたという理由だけで先住民扱いになるのは大いに疑問に感じます。
現在日本人として扱われている古代遺伝子「D2」「C1a」「C3a」は、侵略征服者が「O3」漢族で、現代アイヌ人の古代遺伝子「D2」は侵略征服者が「C3c」古代ニヴフ族だったと言うだけの違いでしかありません。
「O3」は大和朝廷族や武士団族を形成し、日本と言う国家を確立するために猪突猛進し、我々縄文−弥生交配族の子孫は従わされて、幸い近代化し今に至ります。一方古代ニヴフ族は「D2」に対し熊祭りなどシベリア民独特の辺境風俗習慣を押し付けましたが、旧態依然のまま近代化できず我々縄文の同胞の「D2」を辺境民族に陥らせた責任は重大です。現代アイヌ人の中の85%を占める「D2」遺伝子グループは同じ「D2」の日本人に同化することが歴史の自然の流れだと感じます。ただし残り15%の古代ニヴフ族直系の子孫「C3c」は望むなら先住民で残ってもおかしくはありません。mtDNAも同様で「M」系は日本人に、20%の「Y」系は古代ニヴフ族直系の子孫として先住民で良いかもしれません。
しかし漢族の歴史を見ると同じ民族でありながら、「O3」に同化した他遺伝子群は今は完全に漢族の一員で、同化しなかった群は53近くの少数民族として認定され辺境民扱いされています。土地が繋がっていても孤立化を選ぶ集団は必ずいます。しかし北海道はたまたま津軽海峡で隔離されていたため、「O3」の侵略が及ばず辺境に残っただけです。明治以降やっと「O3」の支配が北海道にも及ぶようになった現在、現代アイヌ民族として孤立の道を歩む必要は全くないはずです。日本各地にその土地の古い文化が継承されているように、アイヌ文化は北海道の土地の古い文化として日本文化に同化して残ればよいはずです。
これは歴史の必然のように感じます。われわれ縄文と弥生のご先祖が共存し交配し同化してきたように、望むなら「C3c」も今からでも同化すればよいのです。「O1a」の文化かもしれない”なまはげ”や”トシドン”だって奇祭です。「C3c」の熊祭りだって奇祭として残せばよいだけです。日本列島は様々な遺伝子が混じり合って出来上がった遺伝子集団です。本州以南には全くない「C3c」が新たに仲間として入って何もおかしくはありません。全てを飲み込むのが日本列島なのです。遺伝子集団とはそういうものです。
http://galapagojp.exblog.jp/15281541/
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