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裁判員裁判を貶める「最悪の判決」 2012年9月号 DEEP
姉を殺したアスペルガー症候群の男性に、求刑を4年も上回るとは、どうかしている。
姉を刺殺したとして起訴された42歳の男性に対し、懲役20年を宣告した裁判員裁判の大阪地裁判決が司法や医療・福祉の関係者から「偏見に満ちている」と袋叩きにあっている。生まれつきの発達障害とされるアスペルガー症候群という事情を酌量しないばかりか、再犯のおそれが強いから長く刑務所に入れておくべきだとして検察官の求刑を4年も上回ったからだ。
始まって3年が過ぎた裁判員裁判で「最悪」(司法関係者)と評されるが、裁判官だけの裁判より量刑の幅が広がっている裁判員裁判の現状を知るいい機会なのかもしれない。
偏見強い裁判員が主導?
大阪地裁の判決が言い渡されたのは7月30日。小学5年から不登校となった男性は、引きこもりを姉のせいと思い込み、恨みを募らせた末、昨年7月、自宅を訪れた姉を包丁で多数回刺し、殺害したとされる。
最も批判されているのは次の部分だ。
「健全な社会常識という観点からは、いかに病気の影響があるとはいえ、十分な反省のないまま社会に復帰すれば、被告人の意に沿わない者に対して同様の犯行におよぶことが心配される。被告人の母や次姉が同居を断り、社会内でアスペルガー症候群に対応できる受け皿は何ら用意されておらず、許される限り長期間刑務所に収容することが社会秩序の維持にも資する」
翌日の各紙朝刊で、まず兵庫県自閉症協会の会長は
「再犯の恐れがあるとの根拠を障害に求めるのは納得できず、障害を持つ人が事件を起こしやすいかのような偏見を持たれるのではないか」
と憤慨したコメント。また判決は「受け皿」はないとしているが、実は、発達障害者支援法が2005年に施行され、各都道府県には支援センターが開設されている。刑務所や少年院から出た障害者の社会復帰を助けるための地域生活定着支援センターも各地にあり、支援団体の「共生社会を創る愛の基金」は「受け皿を各地で拡充する取り組みは進んでいる。隔離の論理だけが罷り通っている」と非難した。
大阪弁護士会の会長も声明で
「(発達障害は)本人の責めに帰すべきことではなく、刑法の責任主義に反する」
と指摘。責任主義は、ある人が罪を犯し、正当防衛などの事情もないが、その人を道義的に非難できなければ刑罰は科さないという考え方で、刑法は14歳未満と精神障害による心神喪失者の責任能力を否定し、罰しないと定めている。責任能力を一部欠く心神耗弱は刑が減軽される。在阪の弁護士は
「発達障害の場合、刑の減軽が検討されるべきなのに重くするとは、法に基づかない判決だ」
と会長声明を解説し、呆れ返る。朝日新聞は8月4日朝刊の社説で「前提を誤った判決は控訴審で是正してもらいたい」と主張した。
問題のアスペルガー症候群とは、生来の脳機能障害から対人関係が苦手で、限られた人や活動に執着するとされている。記憶力など際立った能力を発揮する人がいる一方で、対人関係の障害や高じた執着心から、事件を起こすケースも少なくない。
たとえば、
京都府宇治市の学習塾で小6女児が殺害された事件(05年)や
奈良県田原本町の母子3人放火殺人(06年)、
岡山駅で男性がホームから突き落とされて死亡した事件(08年)
などの加害者はアスペルガー症候群と認定され、裁判で一定程度は酌量されてきた。09年から裁判員裁判が始まったが、東京、山口、岐阜地裁などでアスペルガー症候群の被告人は同様に裁かれ、大阪地裁のような判断は示されていない。
「大阪地裁の裁判員6人の中に障害者への偏見が強く、しかも評議で声の大きい人がいたのだろう。判決は裁判官1人以上を含む過半数で決まるから、裁判官3人のうち最低1人は抗しきれなかったではないか」
とベテランの司法記者はみる。河原俊也裁判長は家裁や最高裁家庭局で少年事件を担当したことがあり
「発達障害には詳しいはず。同種事件の判決がベースの求刑をほとんど無視する判断には与しないだろう」
(元裁判官)という見方もある。とはいえ、裁判員裁判で求刑を超える判決は26件(7月20日現在)もあり、判決は求刑の八掛けが相場とされてきた裁判官の裁判と状況は異なっている。
気の弱い裁判官も問題
主な求刑超え判決を表にまとめたが、大阪地裁では、傷害致死事件で殺人罪並みの懲役15年の判決も出ている。
これは1歳8カ月の娘を虐待死させた両親に対するもので、裁判員は判決後の記者会見で「個人的には殺人罪より重いと考えた」と打ち明けた。
大阪地裁では、少女2人に覚醒剤を外国から密輸させた男性も求刑より3年重い判決だった。
東京地裁の殺人は再犯者なのに求刑が軽すぎるとして、強盗致傷では、共犯者より年少なので求刑は軽かったが、共犯者と同じ刑が宣告された。
さいたま、宇都宮、徳島地裁と静岡地裁沼津支部は性犯罪。
裁判員は会見で「これまで刑が軽すぎた」と口々に述べている。
「性犯罪は厳罰化し、求刑も次第に重くなっている。ただ強姦致傷は被害者にけがをさせたものの、途中で逃げて強姦が未遂でも成立する。こうしたケースは、裁判官だけだと酌量してくれたが、裁判員裁判では、精神的被害は同じとして既遂に近い刑になるのはおかしい」
と前出の弁護士。
残る沼津の危険運転致死は、知人のバイクを車で追走し、あおり立てて知人を事故死させたケース。求刑を2年上回る判決では、あおり行為の危険性が強調され、車の同乗者に口止めしていたことが非難された。
反対に求刑を大幅に下回る判決もある。病気の子供を救うために覚醒剤を密輸したと認定された被告人は求刑の半分の懲役6年(千葉地裁)。家庭内で暴力を振るう長男を殺害した男性は懲役13年を求刑されたが、懲役5年(佐賀地裁)にとどまり、裁判員は「自分に置き換えて考えた」と感想を語った。
「量刑の幅が広がることは予想していたし、それ自体はいいことだ。しかし偏見による判決や殺人と傷害致死の区別がつかないような判決は信頼を損なう。気の弱い裁判官が与して、今後も続くようだと、裁判員は有罪か無罪かだけを判断し、量刑は裁判官という意見も出てくるだろう」
と前出の元裁判官は警告している。
http://facta.co.jp/article/201209006.html
http://facta.co.jp/article/201209006002.html
法に則ったリンチと化した裁判員裁判 2011/7/21(木)
無期懲役の判決となるのは、100%確実だった。
しかし、この判決は決して裁判員によって出されたものではない。
主に商業マスコミの扇動により作り上げられた世論(のようなもの)が、極刑やむなしの空気を作り上げ、それに基づいて裁判員が判断したにすぎない。
それにしても、例えば「逃亡期間が長かったから反省してない」などという与太が罷り通るようでは、この国の司法も末期症状を呈しており、裁判などやるだけムダ。時間と費用の浪費である。
前に述べたように、理解不能の最高裁判決に象徴される、司法の機能不全は、そもそもなんのための法であったのかという原点を忘れ去り、金と力を持つ者
のための道具となり果てた。
裁判員裁判は、ちゃんとお前たち庶民に決めさせてるじゃねえかという体裁のために、ドシロウトに専門的な仕事をさせるという暴挙であり、その当然の帰結としての厳罰化は、結果的に金と力を持つ者を利することにしかならない。
庶民が庶民を痛めつけるの図を、高みの見物することほどの楽しみもなかろう。
世の人々は納得の上で、少しずつ自分で自分の首を絞め続けている。これについて、心ある人々、ジャーナリストにしろ有識者にしろが、沈黙を守っているのは、一体なぜなのだろうか。
法治国家の崩壊は、即ち民主主義の自殺である。
http://blogs.yahoo.co.jp/r21if36z/64991618.html
裁判員制度は市民に唯一合法的殺人を認めてやる制度だと思う
6/30、千葉地裁は千葉大女子学生殺害で死刑判決を出しました。これで裁判員裁判による死刑は8件目となりました。
かつて「裁判員制度は死刑を減らすのではないか」という淡い期待がおもに裁判員制度を推進する弁護士側から主張されました。 しかし、市井の人間が死刑判決を躊躇し、死刑が減る、というのは幻想にすぎないことがどんどん実証されてきています。
猪野亨弁護士が次のようなエントリーを書いていらっしゃいます。
ますます自信を持つ裁判員?
http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-348.html
2011/06/24(金) 18:49:57
横浜地裁は、2011年6月17日、津田寿美年被告に対し、死刑判決を下しましたが、判決後に語っている裁判員たちの感想が異様に感じます。
前回、横浜地裁で死刑判決が下されたとき、裁判長は、控訴を勧めていました。その後の裁判員の感想も同様でした。
しかし、今回の感想は、神奈川新聞2011年6月18日配信によると、
「会見に出た6人のうち、5人が「控訴しないでほしい」と語った。」
とあります。 前回の死刑判決とは、180度の違いです。
この自信は、どこから来るのでしょうか。
しかも、その理由は、「罪と向き合う」だそうです。
しかし、手続きとしては控訴は当然の手続きであり、権利保障です。それが罪と向き合うと何故、重要な控訴権を行使するな、ということになるのでしょうか。そこにある発想は、適正手続きとは全く無縁です。犯罪を犯した以上、何をされても文句を言うなというものであって、このような発想の人たちに裁かれること自体が問題といえます。
ますます自信を深める裁判員 松戸女子大生殺害死刑判決
http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-353.html
2011年6月30日、松戸女子大生殺害事件で、千葉地裁は、死刑判決を下しました。
ここで問題となっているのは、いわゆる「永山基準」です。 被害者の数も考慮すべき事情とされ、被害者が1人の場合には、死刑回避の根拠にもなることもありました。
さて、そのような中で、裁判員、補充裁判員の感想が報道されています。
産経新聞2011年6月30日配信 判決に裁判員ら「自分たちの意見反映された」
毎日新聞2011年7月1日配信 検証・松戸女子大生殺害判決 上
「裁判員を務めた女性は
「他の死刑判例とは殺害された人数が1人のみと異なるが、事件の残忍性などを見ると同じように比べることはできない」
と述べた。永山基準については「指標としては揺るぎない柱」としながらも、
「(項目の)一つ一つに事件内容を当てはめて判断する必要はないのでは」
とした。」(産経)
要は、「感覚」の判断なのでしょうね。一体、何を検討したのかというよりも、全体の印象で決めてしまったという感があります。
また別の補充裁判員の感想は、
「補充裁判員の男性も
「死刑を判断する事案については(永山基準に)こだわることはないと思う」
との考えを示した。」(産経)
「裁判員経験者と補充裁判員経験者計3人が記者会見に応じ、永山基準が死刑判断に影響しなかったことを明かした。3人は「基準にはこだわらなかった」と口をそろえ、補充裁判員を務めた男性は「それぞれの判断で決めていくのがいいと思う」と述べた。」(毎日)
だそうですが、要は基準ではなく、自分の感覚だと言ってはばからないということです。 基準などあってないようなもの、という次元以前に基準すら要らないということでは、本当に公正な裁判が実現できるのでしょうか。
さらに死刑判決については、
「裁判員を務めた男性は「本当にこれでよかったのか疑問が残る」と戸惑いを口にする一方、裁判員を務めた女性は「評議を重ねた結果で結論に悔いはない」と言い切った。」(毎日)
最初に裁判員裁判で死刑判決が下されたときは、控訴して欲しい、悩むという感想だったものが、先日の横浜地裁での死刑判決では、控訴するなとまで言い、そして、今回もまた、悔いはないと言い切ったということで、ますます裁判員裁判における死刑判決が常態化しています。
今回の事件でも記者会見に応じたのが、3人だったということもあり、非常な自信家だけが応じたのかもしれませんが、全体の状況としては遠からずだと思われます。
そういう人ばかりが、裁判員として選任されていくのではないかという危惧感も拭えません。
そのような評議の中に身を置いてしまったとき、堂々と死刑には反対であると言える雰囲気はもはや残っていないでしょう。上記裁判員の感想からは、そのような雰囲気が強く伝わってきます。まともな感覚があれば、このような中に身をおけず、裁判員となることを拒否するでしょうし、それが裁判員をやりたくない国民が8割という数字に現れているのだと思います。
ところで、産経新聞は、以下のように主張しています。
2011年7月1日配信 「千葉大生殺害死刑「永山基準」を再考したい」
「個々の事件にはそれぞれの事情があり、軽々に比較することはできない。しかし、1人殺害での死刑判断が2例目であることや、昨年11月には仙台地裁で2人を殺害した犯行時18歳の少年に死刑を言い渡したことなどを照らし合わせると、国民は残虐非道な事件に対し、厳罰を支持する傾向にあることは疑いようがない。」
一部の自信家の裁判員の判断が全体を支配していく風潮を作り出す、煽るマスコミ、8割の国民が裁判員になりたくないという声には一切、耳を傾けない。
裁判員制度がファシズム思想に基づく制度たる由縁です
「犯罪を犯した以上、何をされても文句を言うな」
「控訴するな」
「死刑を判断する時、一定の客観的な基準に基づく必要はない」
という、犯人憎しの感情に裁判が支配されることを正式に許すようでは、とても十分な審議を尽くした「公正な裁判」とは言えないし、およそ適正手続きが保障されているとはません。被告人には「公正な裁判を受ける権利」がありますが、裁判員裁判はそれを侵害するおそれがあると警鐘を鳴らされてきました。その懸念が現実化してきているとひしひし感じます。
そもそも司法改革とは適正手続保障の強化を指すものでなければなりません。司法改革の一環である裁判員制度だってそれが目的とされねばならないはずです。
しかし裁判員制度は適正手続保障の理念を裁判にも市民にも浸透させるどころかその逆であることが実証されてしまいました。どこが司法の「改革」なのでしょうか。司法の退行ではありませんか。
死刑判決とは唯一の合法的殺人です。かつてその合法的殺人は以前は司法という国家権力の特権でした。どんなことがあっても市井の人間が殺人が合法とされることはありませんでした。
しかし、裁判員制度によって一般市民もその特権を行使できる機会が与えられるようになりました。それが裁判員制度です。
凶悪犯罪者に対し合法的に殺人を宣告できるのは、一種「蜜の味」です。
この味を覚えることは、
「そんなやつは殺してしまえばいい。直ちに抹殺しろ!」
という風潮の強化、死刑制度の更なる強い支持に必ずフィードバックされるに違いありません。
次の猪野弁護士のエントリーもお読みください。
翼賛市民団体の企画
2011/06/19(日) 10:16:57
http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-344.html
朝日新聞2011年6月17日配信
「裁判員候補者になった人らでつくる大阪の市民団体「裁判への市民参加を進める会(裁判員ACT)」が、神戸市長田区のコミュニティーラジオ局「FMわぃわぃ」(77・8メガヘルツ)で、裁判員を務める意義や制度の課題などを発信する番組「裁判員さしすせそ」を始めた。」
「初回の5月7日には、日本弁護士連合会裁判員本部事務局次長の西村健(たけし)弁護士(52)=大阪弁護士会=が出演。川畑さんが
「裁判官が市民感覚を取り入れて裁判をすれば、市民参加の必要はないと思うのですが」
と問いかけると、西村弁護士は
「私たち自身が、私たちの社会の治安について判断することが大切です」
などと答えていた。」
日弁連の裁判員本部事務局次長の発言が極めつけです。治安維持のための制度だという裁判員制度の本質を見事なまでに語ってくれました。
そうです。裁判員制度は、「市民感覚の反映」とかいうことではなく、司法権の行使の中に国民を組み込むための制度なのです。
ましてや、一部の「左翼」弁護士や「左翼」学者が言っているような「冤罪防止」のための制度ではありません。
それを日弁連の裁判員本部事務局次長が本質を語ってくれたのです。
治安維持のための国民動員。
提灯持ちに成り下がった人たちに惑わされてはいけません
「統治主体意識」というやつですね。これが在野であるはずの弁護士(西村弁護士の方です)の口から語られるとは残念です。
(以前「現代思想10月号より、裁判員制度を考えるー「司法はポピュリズムの暴風にさらされている」というシリーズ1〜6まで書いたことがあります。統治主体意識についてはそこをお読みください。カテゴリー「裁判員制度」の中に入っています。)
ぽむさんから的確なコメントを頂いたことがありますので、最後にご紹介しましょう。
(裁判員制度は)市民による市民の監視ですね。圧倒的な死刑制度支持、人権意識の低さを考えればこういう結果になることは自明の理でした。EU加入の条件が死刑制度廃止ということも知らない人がほとんどでしょう。正規軍より民兵のほうが残忍であったりするように、こんな社会ではプロの裁判員より一般市民のくだす判決のほうが苛酷になるということです。
村野瀬玲奈さんも裁判員裁判の死刑判決について書かれていらっしゃいました。
説得力のある内容ですので、お持ち帰りさせていただきます。
裁判員制度によって制約されそうな『裁判を受ける権利』
人三人を殺害したわけですから(※私註:横浜地裁の死刑判決の方です)、重罰に値する重大な結果であることに間違いはなく、遺族の方々の心痛を想像して心が痛みます。
しかし、裁判を受ける権利は誰にでもあるはずであり、それは憲法にも明記されています。控訴や上告による上訴審は、罪状をめぐって新たな検証をする機会でもあるはずです。重罰、特に死刑判決が視野に入る裁判であればなおさらのこと、法の支配を旨とする民主国家では上級審によってさらにていねいな審判を尽くし、少しでも緻密な裁きをしていくことが必要なはずだと思います。
そもそも、死刑というのは特別な刑罰です。とにかく死刑にすればよいという性質の刑罰ではないと思います。また、現実に死刑廃止国は増加しており、死刑存置国でも実際に死刑を執行した国は必ずしも多くないという世界の趨勢からしても、執行されないにこしたことはない刑罰です。ですから、死刑が視野にはいる裁判では審理は慎重であるべきである、といっても問題はないはずなのです。
しかし、この裁判に参加した裁判員のうち5名があえて「控訴しないでほしい」と記者会見で述べました。人が特定の事件についてそのような気持ちを持つことを止めることはできませんし、私的な場でそのようなことを述べることは各人の自由です。しかし、判決後の記者会見でそのような発言をすることは裁判を受ける権利の否定につながるのではないでしょうか。
判決後、職業裁判官は記者会見で判決についてあれこれ述べることはしないだけに、裁判員のこのような意思表明は被告弁護側への圧力となり、憲法上も人権原則上も確立しているはずの裁判を受ける権利を徐々に弱めていくと思われます。
「遺族の心痛があるから被告は控訴するな、死んで詫びよ」
というのは気持ちとしては理解できます。しかし、裁判後の記者会見で
「控訴しないでほしい」
と発言するのには違和感を持ちます。「早く死ね」と被告に言うに等しい内容だからです。
なお、誤解しないでいただきたいですが、ここではそのような遺族の心痛が正しいかどうかの話をしているのではありません。そのような遺族の心痛は自然なことであって、正しいも間違っているもありません。ここでの話は裁判の手続きについてです。
で、もし、そういう遺族の「心痛」の前に「裁判を受ける権利」や法的な手続きを否定しなければならないのであれば、そして、それを日本人が正しいと考えるのであれば、いっそ
「純粋な過失であれ意図的であれ人を死に至らしめた者は殺した人数や状況にかかわりなく全員死刑に処することによって遺族感情の慰撫をはかる」
と刑法を改正すべきだ、ということになるのではないでしょうか。遺族感情と制度を一直線に結びつけるというのはそういうことなのですが、はたしてそれでいいのでしょうか?
その問いへの私の「気持ち」をごく簡単に書くなら、「遺族の心痛」と「法的手続き」は混ぜるべきではなく、遺族感情の慰撫や遺族へのいろいろな支援は犯人を死刑にすること以外のあらゆる方法で行うべきであるということです。
この報道を見て、裁判員制度の帰結や日本の法意識の行く先に危ういものを感じてしまいました。
(中略)
(略)裁判を受ける権利を否定する方向で裁判員制度が動き始めたように感じました。
そのことをとても残念に思います。なぜなら、「裁判を受ける権利」を否定してはならないからです。
それと同時に、被害者遺族の支援とは犯人を死刑にすることであると単純に考える風潮も強まるという危惧を持ちます。日本は死刑を廃止している多くの国よりも犯罪発生率は少ないのに死刑を維持し、死刑判決や死刑執行を増やし続けることになると思われます。それは犯罪予防への取り組みを減らすことにもつながってしまいそうで、心配です。
被害者遺族感情の慰撫や被害者遺族へのいろいろな支援は、犯人を死刑にすること以外のあらゆる方法で行うべきだと私はもう一度言いたいと思います。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-726.html
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