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映画史上最凶トラウマ動画、ダンサーインザダークの処刑シーン
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【映画】ダンサーインザダーク
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ダンサー・イン・ザ・ダーク
ビョーク (出演), カトリーヌ・ドヌーブ (出演), ラース・フォン・トリアー(監督)
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このメールマガジン「映画の中のクラシック音楽」では、以前にアニメの「新世紀エヴァンゲリオン」の劇場版における音楽の使用の意図を考えました。そして、そこでの引用方法は「無音」という形での引用でした。5分間の実質的な無音部分を作り、これを強調することで、マーラーの交響曲第2番を引用していたわけ。
今回のラース・フォン・トリアー監督の映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では「無音」ではなく、「無光」というスタイルでの引用です。
映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、劇場版においては、スクリーンに何も写っていない状態から、静かに音楽が立ち上ってくるわけです。
言うまでもなく、このような冒頭はワーグナーの舞台祭典劇の「ニーベルングの指環」の第1作目、つまり序夜の「ラインの黄金」の冒頭部分と同じです。
ちなみに、このような手法は劇場でしか使えませんね。家庭内での鑑賞を前提としたヴィデオとかDVDで、このような真っ暗な中から音楽が立ち上ってくる・・・ということは不可能ですからね。
家庭内の照明は、映画の監督が指示できるものではありません。ヘタをすれば、「これは不良品だ!」などと、せっかちな人からクレームがついたり、ヴィデオの早送りでさっさと処理されるのがオチでしょう。
ということで、劇場版では無光だったのが、ヴィデオ版では単純な映像がついています。
しかし、冒頭の音楽そのものは、弦楽器の低い音にホルンが絡んでくる・・・という音響で、音響そのものも「ラインの黄金」と同じですね。
逆に言うと、監督が劇場のライトを指定できる劇場版においては、ヴィデオ版とは違った表現をしているわけ。その部分にこだわりがないのなら、劇場版でも、ヴィデオ版と同じように、単純な映像をつけるでしょう。
フォン・トリアーは、あえて、光のない劇場から、音響が立ち上ってくるという状況を作り出しているわけです。
ということで、ラース・フォン・トリアー監督は、意識的にワーグナーを引用しているわけです。
ラース・フォン・トリアー監督は重症のワグネリアンですよね。
「タンホイザー」の音楽は、確か別の作品でも使っています。
では、彼にとってワーグナーの音楽とは何でしょうか?
それは「聖」と「毒」の絡み合った世界ということなんだろうと思います。
実際に、ワーグナーの音楽には「毒」がありますよね?
モーツァルトとかベートーヴェンの音楽には「毒」なんてなく、「聖」なるものしかありませんよ。モーツァルトもベートーヴェンも、いっそのことドビュッシーもウェーベルンも、その音楽を毒々しいとはいえないでしょ?
そして、ワーグナーの音楽には「聖」なるものもたっぷりありますよね?
劇音楽らしい、作られた「聖」と言えるのかもしれませんが、「毒」と一緒に存在することによって、「聖」の部分も、より一層際立つといえるんだと思います。
このように、「聖」と「毒」が一緒にあるために、「ワグネリアン」なるワーグナー信者が生まれ、社会に多大な影響を与えることになる。「聖」なるものだけでは、人を惑わすことはできませんし、「毒」だけでも無視されちゃいますよ。
この「聖」と「毒」が一緒に存在する世界・・・
このようなワーグナーの世界は、ある意味において、ヨーロッパの精神世界そのものと言えるでしょう。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」と同じラース・フォン・トリアー監督の「キングダム」という作品の冒頭のモノローグは
「この魑魅魍魎の渦巻く沼地の上に建てられた、近代科学の粋を集めた病院」
という言葉でしたが、この言葉はヨーロッパの精神の比喩そのものでしょ?
「神」による「聖」なるもの、それに対する「毒」、あるいは「近代科学」・・・すべてあってこそヨーロッパと言えるのだとフォン・トリアー監督は考えているようですね。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の冒頭の、全く光のない劇場に弦楽器とホルンによって立ち上ってくる音響は、ワーグナーの引用であり、この映画が「聖なるもの」と「毒々しいもの」を含んだ「ヨーロッパの精神」をテーマにした作品であることを聴き手?に印象つけるわけです。
しかし、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に舞台はアメリカですよね?
主人公のセルマはチェコからの移民ですが・・・
つまり、この作品の設定は、「アメリカの中のヨーロッパ人」そして「アメリカ文化?の中のヨーロッパ精神」になっているわけです。
「ニーベルングの指環」を使って観客にワーグナー・・・ひいてはヨーロッパ精神を印象つけたフォン・トリアー監督ですが、別の音楽も引用しています。
クラシック音楽ではありませんが、皆さん御存知の音楽であるミュージカルの「サウンド・オヴ・ミュージック」です。主人公のセルマが映画作品中で上演の練習をいたします。一種の劇中劇となっているわけ。
この「サウンド・オヴ・ミュージック」という作品は、皆さん御存知のとおり、ナチスに反対しヨーロッパを逃れ、アメリカに渡ったフォン・トラップファミリーの話。
ヨーロッパとアメリカの対立?というテーマがここでも喚起されているわけです。
先ほど書きましたが、ヨーロッパには「聖」と「毒」がある。少なくともフォン・トリアー監督はそう考えているようです。
では、アメリカ精神には何があるの?
それは「正義」と「悪」ですね。
アメリカにはこの世を越えた「聖」はなくても、この世の規範である「正義」はあるでしょ?
自らを蝕む「毒」はない代わりに、他者を裁く「悪」がある。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、そのようなヨーロッパの「聖」と「毒」が明確に描かれています。
「聖」なるものの代表例は言うまでもなく、教会です。
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では不思議なくらいに教会が出てこない。
共産圏から移住してきたセルマが教会に行かないのは、分からないでもありませんが、その他の人が教会に行くシーンもありません。
これが単に映画の尺の関係ではないことは、刑務所での死刑の場面を思い起こせばスグわかります。
通常このような死刑のシーンにつきものの、聖職者(牧師とか神父)がいないでしょ?
映画における普通の死刑のシーンでは、刑の執行される前に聖職者と会話するシーンがつきものです。一番感動するシーンですからね。では、どうしてないの?
この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、このような「聖」を思い起こすような人物は注意深く避けられているわけです。
キリスト教関係でいうと、セルマが刑務所のダクトから聞こえる賛美歌と、囚人の部屋にある1枚のキリストの肖像くらいです。
ダクトから聞こえる賛美歌・・・この賛美歌は一体どこから聞こえるのでしょうか?
他の人には聞こえない賛美歌・・・セルマの心にしか聞こえない音楽・・・
これはヨーロッパから聞こえる・・・と言えるでしょう。勿論、物理的には無理ですが、心では聴こえているわけ。
つまり賛美歌を喜んで聴くセルマにもかかわらず、死刑において神父の立会いもない・・・これくらいアメリカには「聖」から距離がある・・・
とフォン・トリアー監督は言っているわけです。
では、ヨーロッパの「毒」とは?
それはまさにこの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では、遺伝性の病気として示されているわけです。
「遺伝することがわかっているのに、何故に子供を作ったのか?」
という疑問は、
「毒に満ちて閉塞感の漂うヨーロッパ文化を伝承することに、価値や意味があるのか?」
という、監督のフォン・トリアーの自問でもあるわけです。
毒に満ちた文化を伝承することによって、その「毒」も伝承される。
その価値と覚悟・・・
それがラース・フォン・トリアー監督が、この作品で言いたかったことでしょう。
ヨーロッパの持っている出口のない状況と、未来一杯のアメリカ。
シリアスなヨーロッパの表現と、能天気なミュージカル仕立てのアメリカ風表現。
精神主義のヨーロッパと、商業主義から抜け出せないアメリカ家族。
約束を守るヨーロッパ人と、約束を無視するアメリカ家族。
勿論のこと、映画の中での区分けですので随分ステレオタイプな分け方ですが、この作品においての、ヨーロッパとアメリカとの切り分けはこのようなところです。
例の事件のあった家族の庭に星条旗がはためいているのは偶然ではないわけ。
あの家族がアメリカ人の典型だ!とフォン・トリアー監督は言っているわけです。
あるいは、あの家における知性の欠落は、本棚を見ればスグわかるようになっています。
何かの全集ものがキレイに並んでいるんですね。本棚の本がズラーと並んでいて、外見上もキレイなのは、本を読んでいない証拠。これは映画上ではよくある表現です。
勿論、アメリカ人にも善意はありますよ。問題はそれ以外の部分ですね。
そうそう、この「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という作品は「息子を守る母の強い愛!!!」とかのキャッチコピーで宣伝されましたが、今まで書いてきたように、フォン・トリアー監督の意図は別のところなんでしょう。
ただ主役を演じたビョークにしてみれば、やっぱり「母の愛」の方が興味があったでしょうね。フォン・トリアー監督とビョークは、撮影中に随分ぶつかったそうですが・・・
まあ、映画作品は監督の思惑どおりに行き過ぎると面白くない面もあったりします。
特にフォン・トリアー監督はちょっと「頭」で映画を作るようなところもありますしね、他の作品などに見え隠れします。
また、この作品ではカトリーヌ・ドヌーヴ演じるキャシーがいい効果を生んでいます。
作品中ではこのキャシーがどこの国から来たのか?生粋のアメリカ人なのか?示されてはいません。いわば、すべての国の人と言うことなんでしょう。
彼女は観客の代弁者なんですね。映画を見ている観客が思っていることを、その都度、観客の代わりに映画の中で言っているわけです。ヘンな話、ドヌーヴ演じるキャシーなんていなくても、ドラマの上では問題はないわけです。そもそもキャシーなんて名前は、ドヌーヴの名前カトリーヌを英語読みしただけでしょ?
ただ、観客の代弁者が常にスクリーンでがんばっているので、観客はドラマに入りやすい。俗に言う「オイシイ」役と言えますよね。
というわけで、フォン・トリアー監督の割には、観客に配慮している作品と言えます。まあ、だからヒットしたんでしょう。
ただ、フォン・トリアー監督がワーグナーのオペラや「サウンド・オヴ・ミュージック」を引用したり、あるいは「聖なるものの象徴としての教会」を排除してドラマを作っている意味も考えると、「母の愛」以外の面も見えてくるわけです。
まあ、フォン・トリアー監督がアメリカの単純さに距離を置く人であることは明白ですね。
「あんなに単純で生きられたらラクだろうなぁ・・・」
と思っているのかな?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/old/03-12/03-12-16.htm
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死刑を支持してる連 中って、凶悪事件が起きるたびに、頭の中で
「犯人殺せ!犯人殺せ!」
とかつぶやいてるのかねえ。空しくないのか?
まったく、心の ひもじい連中だぜ。 死刑によって何がもたらされる?
犯人が死ねばそれで満足?
殺された人間が生き返るのか?
そうじゃない。もう一人の人間が死ぬだけだ。新たな「死」がもたらされるだけ。
「遺族の心情を考えると」などと建前をほざいて、実は自分が憂さを晴らしたいだけなんだからな。まったくかわいそうな連中だ。
まあ、「赤穂浪士」なんて馬鹿共が崇拝されている国だから無理もないか。あの馬鹿共によって復讐という行為がいかに間抜けな行為かがよく分かる。浅野が死んで、更に吉良や四十七士までまとめて死んでるんだからな。墓穴を掘るとはまさにこのことだ。日本の恥さらしだ。復讐なんて、小学生かヤクザがやるもんだろ。
だいたい、死刑なんて日本国憲法25条「生存権」違反なんだよ。おまけに「絞首刑は残虐な刑罰じゃない」なんて最高裁が間抜けな判決まで出してる。
「残虐じゃない死刑」なんて存在するのか?
絞首刑なんていってみれば首吊りだよ。首吊り死体なんて悲惨なもんだ。
ベロは飛び出し、糞尿垂れ流しだよ。
死刑判決が出てから数年間、死刑囚はいつ来るとも分からない執行の日まで、毎日死の恐怖におびえるんだ。これのどこが残虐じゃないっていうんだ。
日本政府はずる賢いことに、死刑について国会での追及を避けるために、国会が休会してる日を選んで死刑を執行してるっていうんだ。死刑を執行するとき、直接死刑囚を「殺す」のは刑務官だぜ。
刑務官なんて悲惨なもんだ。なんせ、「人を殺す」のが仕事だもんな。親の仕事が刑務官って分かったとたん、 子供は学校でいじめにあうんだぜ。
やーいお前の父ちゃん人殺しってな。
なんなら、処刑の仕事を国民から募集したらどうだ?
「正義」のために、極悪人を成敗するんだからな。人を殺したくてたまらないおまえらに
とって、こんなふさわしい仕事はないぜ。死刑支持派のみのもんたさんや土本武司さんなんかうってつけだぜw w ww
刑場は12畳くらいの檜の板張りで、窓はなく、能舞台のような感じでした。
立会人の前は全面総ガラス張りで、ロープが吊るされている上の部分も、処刑される人が落ちていく下のほうも見えます。そこにはお経が流れていて、刑場の音はまったく聞こえませんでした。
処刑される人は白装束で目隠しをされ、手を後ろにくくられ、看守に付き添われて入ってきます。
刑場のほぼまんなかにある落ちる所に立たせて、職員が上から吊ってあるロープを首に巻きます。
所長の説明によると5つのボタンがあるそうですが、その場所は見えません。いっせいにボタンを押すとそのうちのどれかが作用して、まんなかにある部分が開き、落ちて、中吊りになります。
執行の瞬間の音響が合図のように、地下室のカーテンが開かれて、検死の医官が2名、続いて記録係、立ち会いの看守が、いまはもう意識もなくブラ下がっている彼のいる四方コンクリートの部屋に入っていった。
床から約0.3mの高さで宙に下がっている彼、二つの握りこぶしが間歇的に垂れ下がった両足とともに、グイッ、グイッと息を引き取る最後の大きなけいれんを続けている。
グンと引き締められた口許からは、乳白色の吐瀉物が少量ではあるがときどき押し出されるように下顎を伝って流れている。ガックリと前に垂れたその顔は、時がたつにつれて、次第に蒼白になっていき、けいれんもだんだん間が大きくなり、いつのまにか、なくなってしまった。
それまで黙って様子を見ていた医官が、1人は彼の胸をはだけて心臓に聴診器をあて、1人は脈拍を調べにかかった。
地下には刑に処された囚人がぶら下がっている。囚人は大抵、排泄物を垂れ流している。それらを洗い流しやすいように、1階の床には「プールの足洗い場」のような緩い傾斜がついており、一番底に排水口がある。
ロープから外された囚人の遺体は、隣接する霊安室に安置され、翌日、死刑囚専用門より、霊柩車で運び出されることになる。
刑を終えた一同は、拘置所内の食堂にて「無言の昼食」をとる。メニューは「とんかつ定食」と「缶ビール1本」。なぜか、決まっているらしい。
その後、職員達は「5600円」の「死刑執行手当て」を現金手渡しで受け取る。午後からの業務は免除され、帰宅を許される。
拘置所では死刑執行後24時間は遺体の搬出はできない。死刑囚遺族が遺体の引取りができるのは少なくとも翌日のことになる。なお、同時に遺品の受け渡しも行われるが、日記類は渡されないそうである。
しかし、ほとんどの死刑囚遺族は遺体の引取りをしない。この場合は拘置所で葬式が執り行われ火葬場で火葬に付される。遺骨・遺灰等も引き取り手のない場合は、拘置所のある行政地区の墓地に行旅死亡人と同様に無縁仏として納骨される。
黒塗りの車が拘置所の玄関に夕方すっと止まると、風呂敷包みをもった検察事務官がおりてくる。その中身は死刑執行の命令書。死刑は執行の命令から5日以内に行わなければならない。
「別れの間」の中に入ると、部屋はカーテンで仕切られ、半分が読経などをして最後のときを過ごす場所だ。死刑囚は仏壇に向き合う椅子に腰掛け、しばらくすると教育課長の指導で死刑囚は祭壇に進み、最後の祈りをささげる。読経が終わると、教育課長は仏壇に
供えられた生菓子を死刑囚に
「どれでも好きなだけ食べなさい」
とすすめる。その後、死刑囚を落ち着かせるため所長、教育課長、教誨師が講話を、最後に所長が
「○○君、もう何かいいたいことはありませんか?」
と最後の言葉を尋ねる。おわると、手錠、目隠しをして、刑務官が小刻みに震える死刑囚の両腕を抱え、カーテンの向こうへ移動する。
カーテンの向こうでは執行官が待っていて、約25ミリほどの首に当たる部分が皮でくるまれているロープを一人の刑務官が死刑囚の首にかけ、もう一人は絶命するまでに両足をバタつかせないように膝をひもで縛る。
そして、床が観音開きのように開き、地下室までまっ逆さまに落ちる。死刑囚は地下室の
床から30センチくらいのところで宙吊りになってぐるぐると回転する。
大小便を失禁し振りまかれるのを防ぐために、地下にいる刑務官は死刑囚を抱きとめる。死刑囚は窒息から来る激しいけいれんをおこし、両手両足がばらばらに動く。
吸うことのかなわなくなった空気を求めるように胸部が激しくふくれ、またしぼむ。やがて頭をがくっと折り、眼球が飛び出し、鼻血が噴き出すこともある。
心臓停止まで14分半ほど。決して即死ではない。
死刑執行後、法務省から死刑囚遺族に連絡が行く。これは死刑囚の遺体及び遺品の引渡しの確認のためである。同日に法務省から死刑執行がなされたことの発表を行われる。その際、死刑囚の氏名・犯罪事実・場所などは発表されないのが慣例となっている。つまり
「○月○日×名の死刑が執行された。」
というだけの簡単なものである。マスコミなどは死刑囚遺族等に連絡を取り、法務省からの連絡があったかどうかを確認し、死刑執行をされた人物の特定を行う。
死刑囚は多くの場合、死刑の執行そのものよりも、
「いつお迎えが来るか分からない」
「お迎えが来たとき、誰が執行されるか直前まで分からない」
のが恐ろしいという。
朝の掃除を終わって間もなくのことだった。突然、廊下に大勢の靴音が高らかに鳴り響いて来たのである。
お迎えだ!お迎えに違いない!
地獄の使者のような靴音。瞬間僕の魂は震え上がった。僕は吸い寄せられるように扉に近づいた。胴震いしながら視察孔から廊下の左の方を伺った。僕の部屋から15mほど離れたところに。大きなつい立てがある。 胸の動悸を全身に感じながら、僕はそこを必死で見ていた。ついたての陰から、まず私服姿の小柄な教育部長が現れた。続いて、制服の役人が十人あまりはいって来た。そのとき事務室から、係長が出てきた。係長は、教育部長を挙手の礼で迎えた。それから僕の部屋を指して、そばの看守に目配せした。
僕は息が詰まった。もう外を見ていられなくなった。
僕は、弾かれたように扉のそばを離れた。首筋から背中にかけてゾッとするほど冷たいものがへばりついていた。 僕は机にもたれかかるようにして座った。
係長は確かに僕の部屋を指した。 うろたえてはいたけれど、はっきりとそれを見たのである。僕は胸の早鐘を聞きながら、人心地もなく机にしがみついた。粗末な机がガタガタ鳴った。
YもMもOもKも、僕より早く確定している。それなのに僕の方へ来やがった。
ついたてのところでいったん停まっていた靴音が、再びいっせいに鳴り始めた。地獄の使者はいよいよ迫ってきた。もう駄目である。靴音が、いっせいにやんだ。
急に静けさを取り戻した廊下で、部屋の入り口の柱に取り付けられている鍵穴に大きな鍵を差し込む独特の金属音に続いて、扉をがっちり止めていた鉄のアームが、がたんと下に落とされた音が聞こえた。
だがそれは、僕の部屋ではなかった。 向かい側だ。違っていた。僕はどうやら助かったらしい。胸が熱くなった。 涙がこみ上げてくる。
しかし、この涙は助かった安堵と喜びの涙ではなかった。窓の外には明るい太陽が輝き、雀達が生命の歌をさえずりあっているというのに、鉄格子のはまった冷たいこの部屋で、こんなにまで死におびえ、靴音に震え上がらなければならない自分が急にこの上もなく哀れに思えたのだ。しかも高い塀の向こうからは市電の唸りや、自動車のクラクションなど、活気にあふれた物音が絶え間なく響いてくるのである。
同じ人間に生まれながら、たった一度のつまづきが、こうまで人生を変えてしまうのだ。僕はあふれる涙を何度も手の甲でぬぐった。
僕は廊下の気配を伺った。お迎えはOらしい。
「Nさん、俺はもう少し生きたいんです」
二週間ほど前、涙を流しながらそういったOの言葉がよみがえってきた。今年27歳。人並み以上に自尊心の強い小柄なOが、首をうなだれてそういったのだ。
30分あまりたった時、Oは身支度を終えて廊下に出てきた。手には新約聖書らしいものを持っていた。 各部屋を順番に回って僕の所へきた。別れの挨拶である。食器口を開いて顔をだした。その顔は紅潮していた。泣いている。永遠の悔恨と永遠の悲哀をたたえた人間の顔である。Oは声もなく涙もなく泣いていたのだ。
こうしてOは出ていった。彼の一生は、あっけなく今日でおわるのである。
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