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【第7回】 2013年10月18日 仲野博文 [ジャーナリスト]
【最終回】
テロ対策強化がかえって脅威を増長させる
悪循環に嵌る米国は麻痺状態から抜け出せない
――リュボミール・トパロフ 明治大学政治経済学部特任講師インタビュー
「脅えるアメリカ社会」ではボストンマラソン爆弾事件を中心に据え、様々な角度からテロ事件の余波やアメリカ社会に存在する恐怖心を紹介してきた。本連載は今回で最終回となるが、取材期間も含めた連載中に感じた疑問について、テロリズムの歴史や各国の対テロ政策にも詳しい明治大学政治経済学部のリュボミール・トパロフ特任講師に聞いた。ブルガリア出身のトパロフ氏はボストンのノースイースタン大学で国際政治やテロリズムについて教鞭をとり、2010年より日本を拠点としている。
テロリズムは政治暴力の一つ
かつては支持された手法だった
リュボーミル・トパロフ (Liubomir Topaloff)
1973年ブルガリア・ソフィア生まれ。父は著名な作家で現バチカン大使。ソフィア大学を卒業後、アメリカにわたり、シカゴ大学で修士を、ノースイースタン大学で博士号を取得(専門は世界の安全保障問題)。2005年から2010年までノースイースタン大学で講師として勤務し、2010年夏に来日。現在は明治大学政治経済学部で特任講師を務める傍ら、アジアの安全保障問題についてもブルガリアのメディアに寄稿している。
――ボストンマラソン爆弾事件のようなテロと、冷戦時代に世界各地で発生したテロでは、何か違いはあるのでしょうか? 時とともにテロリズムの定義は変わっていくのでしょうか?
私の見解としては、テロリズムとは暴力的な手段を用いて社会に不安を与えることで、市民の国家や社会に対する怒りや不満を誘発させる行動だ。意外なことに19世紀末まではテロリストに対する社会的な支持が強い国もいくつか存在し、テロリストも自らをテロリストと呼ぶことに誇りを持っていたほどだ。
帝政ロシアのアナーキストも自らをテロリストと呼び活動したが、帝政に不満を抱く一般市民からの支持率はかなり高かった。現在では考えられないが、テロリストがポジティブなニュアンスを持たれる時代が存在したのだ。彼らはテロそのものが当時の政治体制を転覆させるとは考えていなかったが、当時の政府が市民に対する締め付けを強化せざるを得ないような状況を作り出し、それによって民衆による革命が始まると考えていた。
テロリズムは政治暴力における戦術の一つであり、ある時期までは体制の中心にいる人々に恐怖を与え、民衆の体制に対する不満を煽ることが大きな目的だった。しかし、政治家や軍の高官から一般大衆に攻撃対象がシフトすると、テロリズムに対する受け止め方も大きく変化していく。
20世紀以降のテロは、その多くが無差別テロであるが、テロリストは自暴自棄になって無差別攻撃をしているわけではなく、彼らなりの言い分が存在するのも事実。例を挙げると、アルカイダは2001年にハイジャックした2機の旅客機でニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込み、建物内にいた2500人以上が死亡した。
亡くなられた方の政治的信条や職業はバラバラだが、アメリカ政府に税金を納め、合衆国大統領を投票で選んだのなら、アルカイダにとっては間接的に敵という認識になるのだ。
――テロリスト達の動機はいったい何なのでしょうか? 今も政治的なイデオロギーが動機になっているのでしょうか?
場所がどこであれ、そして過去の歴史を振り返っても、テロリストの動機には政治暴力が存在する。特定の人物の暗殺から無差別殺傷にいたるまで、それらの背景に政治的な動機が存在してきたのは事実であるし、根本的な信条では帝政ロシア時代に活動したアナーキストとアルカイダに大きな違いはない。自分にとって不都合な制度や、不利益を与える者を廃止・排除するための手段はいくつもあり、最も暴力的なものがテロリズムだと考えてもらっていいだろう。
余談になるが、「平和的な手段で行われる政治暴力」が民主主義であり、国家元首や政治体制を変えるために、民衆は投票という手段を用いるのだ。爆弾のような直接的な暴力のイメージはないが、体制を変える手段の1つであることに間違いはない。
テロと無差別殺人の違いは
政治的な思想の有無
――チェチェン人兄弟によって引き起こされたボストンマラソン爆弾事件は、2007年のロンドン爆破テロのような、いわゆる「ホームグロウン・テロ(民主主義国で生まれ、民主主義の価値観を持つ者が、過激な思想に共鳴し、自国で起こすテロ行為)」の代表例として報じられています。しかし、アメリカでは凶悪な暴力犯罪が連日発生しており、コネチカット州の小学校やコロラド州の映画館での無差別乱射事件では多くの市民が殺害されました。彼らのような大量殺人犯はテロリストと呼べるのでしょうか?
無差別乱射などによる大量殺人は、社会に不安を与えるという点でテロリズムと同じようにも思える。ただ、大量殺人の容疑者が政治的な思想を明確に出していない場合、テロリズムではなく、単なる殺人事件の容疑者として扱われてしまうのが常だ。
賛否両論あるが、「人生にムシャクシャし、生きているのが嫌になった」という理由のみでの大量殺人はテロ事件にはカウントされない。人種や宗教といった理由からではなく、政治的な思想の有無によってテロリストか単なる犯罪者かの線引きがされるということだ。
コネチカット州のサンディ・フック小学校で発生した無差別乱射事件も、19世紀後半にロンドンを震撼させた「切り裂きジャック」にしても、事件の背景に政治的動機が見えないため、無差別殺人や猟奇殺人というカテゴリーに分類されている。
逆に、大量殺人を起こさなくとも、テロリストとして社会に不安を与え続けたケースもある。公民権運動が盛んだった1960年代には、白人至上主義組織が黒人への襲撃や、黒人の集まる教会への放火を繰り返した。彼らの行動はテロリズムとして認知されており、アメリカ各地にある民兵組織や白人至上主義組織もテロ団体として考えられるケースが少なくない。
また、政府や特定の人種に対する不満だけがテロを引き起こすわけではない。テロリズムとして分類されるケースのなかには、保守派キリスト教徒が人工中絶を行うクリニックや医師に対して放火や銃撃を仕掛けたというものもあり、特定の信念のもとに行動を起こし、結果的に社会を不安に陥れたという点でテロリズムと考えられている。
――歴史を紐解くと、テロリズムはアメリカという国家が誕生して以来、何百年にもわたって存在してきたものです。これまでに4人の大統領が暗殺され、20世紀初頭にはウォール街でアナーキストによる爆弾テロも発生しています。アメリカ人が現在のようなテロに対してここまで脅えるようになったのは、やはり911同時多発テロの影響が大きかったのでしょうか?
テロに対する不安というのは冷戦時代にも存在していた。ただし、アメリカ国内に限って言えば、白人至上主義組織のテロが圧倒的に多かった。
911同時多発テロが起こってからは、「ジハード」という言葉に注目が集まり、実際にニューヨークやカリフォルニアでパキスタン人やイエメン人によるテロ計画が捜査当局によって未然に防がれたこともあって、イスラム教徒は反米でテロを起こしかねないといったイメージが定着してしまった。
しかし、歴史的には白人至上主義者や、アメリカ政府に不満を持つ非イスラム教徒のアメリカ人によるテロ計画も多数あり、彼らのテロ計画が未遂に終わったというケースも少なくないのだ。
興味深いことだが、911同時多発テロをのぞけば、アメリカ国内外におけるアメリカ人に対するテロは冷戦時代と比べて減少傾向にある。しかし911テロがアメリカ人に与えた衝撃はあまりにも大きく、テロリズムに対する漠然とした脅えは冷戦時代よりも増大していると言わざるを得ない。
911テロはテロリズムの歴史の中で最も衝撃的なものの一つであり、テロの瞬間を世界中の人間がライブ中継で目撃したことも前代未聞だった。その時のショックや繰り返しテレビなどで流された映像が、アメリカ人のテロに対する脅えを最高潮にまで引き上げるスイッチとなったのだ。
可視化できないテロの脅威
対策が脅威を増長する悪循環を生む
――最近では多くの民間人が政府機関で機密情報を扱う仕事に従事しています。空港の身体検査で使われるスキャナーから無人飛行機まで、防衛産業は多くの高額契約を勝ち取っています。テロに対する脅えは、結果的にアメリカ国内で数十万のアメリカ人に向けて雇用を創出する新しい産業を作り上げたようにも思えます。まるで公共事業で橋やビルを建てるのと同じようにも思えますが、この「恐怖産業」についてはどうお考えですか?
産業界からの意向で作り出されたとは考えにくいが、テロに対する国民の脅えが結果的にアメリカ国内に新しい産業を作り出し、多くの雇用を作り出したという点には同意できる。
最初に莫大な予算が政府の各省庁に配分され、そこから民間企業との間で様々な契約が発生する。テロ防止に貢献したプロジェクトも少なくないが、民間企業への発注には随意契約も多く、途中で計画が頓挫した話も珍しくない。政府機関は配分された予算を使い切ることを重視しているため、プロジェクトの質や意義は後回しにされてしまうのだ。
戦争では多くの戦死者が出て、戦闘が行われた地域のインフラなどが破壊されてしまうが、アメリカ国内の対テロ政策ではそういった危険性はゼロに近い。
戦争との大きな違いは、最終的な目的ではないだろうか。無条件降伏から停戦協定まで種類は様々だが、戦争は必ずどこかで終結させるために行われている。しかし、対テロ戦争やアメリカ国内のテロ政策はどのような条件下でいつ終わらせるかという明確なゴールがないまま続けられているため、半永久的に継続される可能性が高い。
――オハイオ州立大学のジョン・ミュラー教授によって行われた調査では、アメリカ政府が911同時多発テロ以降、テロリズム対策としてすでに1兆ドル以上を使っていたことが判明しています。連邦政府機関の閉鎖やデフォルトが大きな問題として連日取り上げられる中で、テロ対策に使われてきた1兆ドルという額についての見解を教えてください。
1兆ドルという金額はさすがにどれくらいのものか想像できないが、開発途上国における疾病や貧困といった問題が解決できてしまいそうな額だ。こういった分野に政府予算を使うことが、長期的には反米主義やテロを防ぐ手段になりうるかもしれないが、米政府内の各機関は911テロ後に大きく増やされた予算をこれからも確保し続けなければならないとそれぞれが考えている。そのため、どのようにして予算をキープするかに心血を注いでいるようにも思える。
アメリカに限った話ではないが、政府機関への予算は監査が入り、必要でないと判断され場合には当然予算カットが実施される。そのため本来はそれほど必要だとは思えない案件でも、それを担当する省庁はその案件がいかに重要かをアピールし、予算のキープや増額を狙っているのだ。
どこの国にも存在する話とはいえ、アメリカの、しかも対テロリズム予算となれば、額の桁が変わってくるため、担当省庁は予算をキープするために次々と新しいプロジェクトを発表し、その成果を国民や議会に向けてアピールする。
テロの脅威というのは可視化することのできない、非常にあいまいなものだが、国民が政府機関の活動を目にすることでさらにテロリズムに対して不安を抱くという悪循環が生まれている。
脅えで思考停止のアメリカ人
テロ対策の費用対効果は不明
――複数の米メディアの報道によると、米政府が年間に使う対テロ予算はアメリカ国内の警察で犯罪対策に使われる予算の総計よりも多いそうですが、911同時多発テロ事件以降にアメリカ国内でテロによって死亡したのは30人ほど。年間に数万人が殺人の犠牲者になる国で、対テロ対策で使われる予算の費用対効果は問題にはならないのでしょうか?
通常のビジネスにおいて費用対効果に最も敏感な国で、対テロリズムに対しては予算チェックがあまり厳しく行われていない現状は非常に興味深い。
1兆ドルを使ったからこそ犠牲者が30人ですんだのか、他に有益な予算の使い道がなかったのかは、評価のしようがない部分でもある。しかし、殺人事件や交通事故だけではなく、雷に打たれて亡くなった方ですらこの10年で30人は軽く超えている。テロの脅威は目に見えないものとはいえ、脅えがアメリカ人の思考を停止させている原因ではないかと思う。
――911同時多発テロ以降、対テロ政策の一環としてアメリカ政府内に多くの機関が新設されました。それを取りまとめているのが国土安全保障省ですが、対テロリズムを目的とした省庁の組織再編ははたして成功したと言えるのでしょうか?
現時点では成功したとは思えない。新設された機関には役割が被っているものも少なくなく、職員のパフォーマンスや予算の使い方から考えても決して効率的なものではないだろう。
やっている仕事にそれほど大きな違いが見えないにもかかわらず、なぜ似たような組織を新設し、大勢の職員を雇用するのか? 理由はやはり予算取りにあり、それぞれの組織に予算が細かく配分されていくことで、それをまとめる国土安全保障省の力が強くなるからだと思う。
911テロ後にFBIとCIAが情報共有といった組織間の協力体制を築かないことに批判が出たが、国土安全保障省の管轄下にある各組織が協力体制の構築に消極的なのには、単なる縄張り意識といったもの以外の理由がある。
協力することによって効率性が高まるが、対テロ政策における組織間の協力とそこから生まれる効率性は、結果的に利益の相反を生み出してしまうのだ。効率性は納税者にとって重要な関心事だが、政府機関にとっては異なる話なのだ。
http://diamond.jp/articles/print/43174
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