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(回答先: シリア蜂起勢力の食人鬼、敵兵の心臓を食べる(ビデオ) 投稿者 墨染 日時 2013 年 5 月 16 日 09:54:40)
http://www.bllackz.com/2013/05/blog-post_15.html?utm_source=BP_recent
(*上記のURLでビデオを見ながら記事を・・・)
シリアで反体制派の兵士が、殺したシリア軍の兵士の心臓を死体からつかみ出して切り取り、「おまえたちの心臓と肝臓を食べることを、われわれは神に誓う」と叫んで貪り食おうとしていた動画がユーチューブに流されている。
自由シリア軍に所属している戦闘員だが、自由シリア軍はすぐにこれを戦争犯罪だと声明を出したという。
これについて多くの人々は「戦争の狂気」と表現しているのだが、本当だろうか。この心臓を食べることを神に誓った男は、もはや狂気の野獣となってそれをしているのだろうか。
動画を掲載しておくが、これを見て、狂気と言うには、何か男に冷静なところがあると感じた人はいないだろうか。
実は心臓食いのこの男は、一見「狂気」に憑かれているとしか思えない残虐行為をしているが、実はそうではないかもしれない。
積年に分かって積もりに積もった「憎悪」の解放だったかもしれないのだ。狂気と憎悪は違う。狂気は「我を忘れている」が、憎悪は「分かっていてやっている」ものだ。
この違いは非常に大きいものであり、見逃すべきではない。
反政府軍を熱心に支援するシリア国民もいる
今、シリアでは政府軍と、反政府軍が互いに残虐な皆殺しを繰り返していることはよく知られている。
内戦は内戦なのだが、現場では通常の戦争とはかけ離れた残虐なまでの「皆殺し」が起きており、その残虐性に国際世論が息を飲んで見つめている。
この自由シリア軍はシリア人だけで構成されているのではない。外国から金目当てにやってきたアルカイダや、欧米に金をもらって戦っている傭兵が多数含まれている。
だから、国民を殺すことについても、政府軍を虐殺することについても何ら躊躇がないと言われている。
彼らがシリアに入り、市街戦を演じ、大量虐殺を繰り広げる。そして、捕虜にした兵士は勝手に「処刑」している。
彼らは殺人記録が好きなので、処刑した人間をよく撮してインターネットに上げている。
これを見ると、反政府軍の兵士が政府軍を皆殺しにして喜んでいるように見えるのだが、実はこの反政府軍を熱心に支援するシリア国民も大勢いることだ。
彼らの残虐性を支持しない国民もいるのだが、逆に彼らを煽って残虐性を発揮するたびに歓声を上げる国民の姿も実は多く記録されている。
なぜ、シリア国民は政府軍が残虐に殺されていく場面を見て、「喜ぶ」のだろうか。彼らは戦争で「狂気」に駆られて頭がおかしくなってしまったのだろうか。
狂気があるのではない。憎悪がある
逆にアサド政権側も正義なのかというと、まったくそうではない。こちらもまた反体制側にある国民や村を片っ端から空爆し、破壊し、銃撃戦の中で市民虐殺に走っている。
どのように反体制派の兵士を「処刑」しているのかはこれを見れば分かるはずだ。
彼らのやっていることはサディスティックな「いたぶり殺人」である。
ナイフを手にして、捕虜となった反体制派の人間を、めった刺しにして、最後は自動小銃で死体を破壊するその姿が克明に記録されているのが分かる。
つまり、今シリアで起きているのは、正義ではないシリア軍と、正義ではない反政府軍が、国民を巻き込みながら互いに大量虐殺をしている図式である。
これがもう2年近くも繰り返されており、戦闘が長引けば長引くほど、相互憎悪が募って戦場が残虐になっている。
これは「狂気」なのだろうか?
いや、彼らは至って冷静に、しっかりとメッセージを発しながら残虐行為を行っていることをもう一度確認して欲しい。
彼らは我を失っていない。冷静なのだ。
心臓食いの兵士も「おまえたちの心臓と肝臓を食べることを、われわれは神に誓う」と、自分がやっていることを自覚している。だから、政府軍にメッセージを送ることができるのである。
狂気があるのではない。憎悪がある。
イスラム教徒でも、「違う」イスラム教徒がいる
ところで、シリアでは「同じ」イスラム教徒たちが互いに殺し合っているという印象を持つ人も多いかも知れないが、実際はそうではない。
イスラム教徒でも、「違う」イスラム教徒がいる。
仏教でもキリスト教でも分派があっていがみ合っているのと同じだ。イスラム教徒にも分派があって、いがみ合っている。
シリアも他の中東の国々と同じく、国内にスンニ派とシーア派が別れている。アサド政権はシーア派(アラウィ派)、そして国民の大半はスンニ派である。
つまり、シーア派が、スンニ派を支配している。分かりやすく言えば、少数派が多数派を支配下においている。
シリアのアサド政権が、独裁的な権力体制を志向していたのは、シーア派が少数派なので独裁というスタイルでないと、多数派を支配できないという事情もあるからだ。
2年前のシリアのデモは「独裁政権に反対する」という民主化運動の皮をまとっていた。
しかし、2年経ってみると、この内戦は、いつの間にか宗教闘争のような様相を帯びるようになっている。それは、このような事情があるからだ。
覚えておくべきは、少数派の民族がある国で目立つようになったとき、激しい恨みを買うということだ。
何しろ、自分たちの代表ではない人間が権力を総取りにして、自分たちの上に君臨する。それで、恨みを買わない方がおかしい。
権力を持った少数派は、多数派に殺されていく
君臨しようとする少数派は、必ず報復される。傲慢になった少数派は、いずれ憎悪の中で殺されていく。
必ず、憎しみの対象になって、国内が混乱したときに激しい報復を受けることになる。
シリアの場合は、反政府軍がアサド政権の兵士を殺したら、決まって市民が取り巻いて喜ぶ図式がある。たとえば、以下の映像を見て欲しい。
・建物の上から捨てられている死体は少数派の人間。
・投げているのは反体制派。
・歓声を上げて喜んでいるのは大多数派の国民。
なぜ、少数派の人間が殺されて建物の上から捨てられて見ている人が喜んでいるのか。
それは、大多数派の国民は少数派の人間に徹底して冷遇されていたからである。
戦争が始まって恨みが募ったのではなく、むしろ積もり積もった恨みが戦争で爆発的に解放されている。今まで我慢していた憎悪をここで晴らしているのだ。
それほど、少数派に支配されるというのは、国民にとって屈辱的なことであり、かつ憎悪を募らせる状況である。
どこの国でも、権力を持った少数派は、多数派の激しい憎悪によって殺されていく現象がある。
傲慢になっていった少数派は、やがて多数派のヘイトスピーチの渦に巻き込まれ、何らかのきっかけで大虐殺に巻き込まれて行く。
間違えてはいけない。そこには狂気があるのではなく、憎悪があるのだ。
憎悪が何を生み出すのか、そして憎悪の行き着く最終地点は何なのか、心臓食いの兵士を見ながら考えるのは無駄ではない。憎悪がある場所では、どこでも起こり得る行為だ。
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