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死んでもやっかいなチャベス
[コラム]チャベスとボリバリアン革命
ウォン・ヨンス(図書出版タハリール編集長) 2013.03.07 17:07
1960年にチェ・ゲバラが平壌を訪問したように、1999年にチャベスは韓国を訪問して金大中(キム・デジュン)と会った。どんな話をしたのだろうか。わからない。だが金大中はチャベスの友人ではなかった。少なくともチャベスの観点から見れば、米国帝国主義の子分だった。冗談だが、金大中がチャベスの同盟者になっていれば、恐らく韓国の運転手はこの10数年間、半額の石油を享受していたかもしれない。
歪曲と不公正で綴られた韓国の報道機関とその影響から自由ではない大衆にとって、チャベスは遠い国のドンキホーテのような独裁者だった。彼の突発的言動は、国際ニュースより海外トピックスの人気コーナーで、彼の死も似た文脈で興味本位に扱われるだけだ。いわゆる進歩言論もあまり違わない。その理由はチャベスがそれほど簡単に理解することができない人間であり、政治指導者であるからだ。
[出処:http://links.org.au画面キャプチャー]
問題の人間、チャベス
ウゴ・チャベスより多くのものを持った政治的指導者は、多分いないだろう。政権を奪われたベネズエラの既得権勢力は、彼らが所有する言論を通じ、チャベスを悪魔化し、米国政府も裏庭を奪ったチャベスを許さなかった。物理的な証拠が少なく、悪の枢軸、テロ国家に入れることができなかっただけだ。
その上、クーデターの前歴を持つ軍人出身の政治家というイメージは民主主義や社会主義よりポピュリズム扇動政治家にふさわしく、歴代の米政府は巧妙なイメージ操作でチャベスを独裁の化身として、扇動政治家にする国際的なキャンペーンを展開した。しかしさすがチャベス。彼はしょげることも、臆することもせず、米国と新自由主義に立ち向かった。
個人としてのチャベスは、今までのどんな歴史の本にも存在しないスタイルの人間だった。軍人が革命家の道を選択した事例はあっても、クーデターの失敗を率直に認め、責任を取り、大衆的アイコンとして登場し、政治や運動に何の縁故もなく丸腰で立候補して大統領に当選したのはすべて例外的な事例だった。
そして執権後、大統領として彼の動きはよどみなかった。米国も周辺国の右派政権も区別せず、街頭の民衆と共に話し、歌い、会う人ごとに自分の考えを吐き出した。寡頭勢力の言論独占で、唯一利用できる国営放送で大衆と対話するしくみとして「アロー、プレシデンテ(こんにちは、大統領)』という番組を作り、何時間も大衆と対話した。
チャベスはベネズエラの民衆とボリバリアン革命の支持者を除けば、左右どちらも不愉快にさせる存在だった。問題を解決するより問題を提起して、対立を作る問題児だった。彼は反乱者であり、革命家であった。自ら駆けまわり、社会を変え、世界を変化させた。彼の58年の生涯は、一日も風が収まる日なく、そのように過ぎた。このエネルギーの塊のような強大な肉体的活動力は、ただ癌細胞にしか止められなかった。
チャベスは、ベネズエラとラテンアメリカの階級闘争、社会変革の過程と共に変化し、成長した。チャベスの敵は、ボリバリアン革命と21世紀の社会主義を絶えず嘲笑したが、チャベスは1998年に社会主義と資本主義の間の第3の道路線から出発し、2002年にはクーデター、石油サボタージュ、2003年のリコール投票に至る闘争の過程で、大衆とともに政治的、イデオロギー的進化の道を歩んだ。そして、その結果が21世紀社会主義プロジェクトとしての「ボリバリアン革命」だった。
ドンキホーテ、チャベスが成し遂げた変化
ウゴ・チャベスの個人的スタイルを越え、彼はベネズエラの民衆と共に巨大な歴史的成果を上げた。これは以後、チャベスのいないボリバリアン革命の運命とは無関係にその影響力を行使するだろう。
まずチャベス革命は、既存の政治体制を完全に崩壊させた。プント・フィホ体制 (1958年形成された連合政治)の二つの主役だった左右政党(民主行動党ADとキリスト社会党COPEI)は、痕跡なく消滅し、新しい政治地形が創られた。いわゆる野党は誰か? 既存の制度政党の残党と、その周辺勢力のごった煮であり、米国と石油収入に寄生して現在の富を維持する勢力だ。
次に、チャベス革命は20世紀左派のジレンマだった選挙革命不可能論を払拭させた。1973年、チリのアジェンデ政権がピノチェトのクーデターで崩壊して、世界の左派は選挙革命不可能論を語り、制度政治に閉じ込められた左派も選挙による革命的左派の執権は不可能だと感じた。しかし1998年大統領選挙から 2012年の大統領選挙まで、チャベスは僅差で負けた2008年の改憲国民投票を除けば、すべての選挙と投票で勝利した。むしろいわゆる野党勢力が選挙無用論の擁護者になった。
三つ目、チャベス革命は米国の専売特許である反動クーデターをひっくり返した。2002年のクーデターは、20世紀のラテンアメリカと世界を席巻したCIA主演の政権交代ドラマの繰返しだったが、1998年から2002年まで、闘争で覚醒したベネズエラ民衆の力でチャベスをミラフロス大統領宮に復帰させた。これは、クーデターがもはや反動的右派と帝国主義の武器ではないことを示す歴史的な事例だった(2008年ホンジュラスと2010年パラグアイのクーデターはこの流れを逆転させた不幸な事例だ)。
四つ目、チャベス革命は、ベネズエラの国境の中に留まらず、ラテンアメリカの反帝国主義汎ラテンアメリカ主義を復活させた。1967年のチェ・ゲバラの死で消えたラテンアメリカ解放の夢が現実として登場した、特に、ALBA(ラテンアメリカのためのボリバール代案)、バンコデルスール(南米銀行)、テレスール (中南米テレビ放送ネットワーク)など、米国の裏庭でラテンアメリカの自主的な発展の基礎が磨かれ、ラテンアメリカで政治的な孤立から脱け出したキューバと共に、ボリビア、コスタリカ、ニカラグアなど歴史的左派政権の登場と、ラテン左派ブロックを形成する歴史的成果もあげた。
五つ目、チャベス革命は、世界的な反新自由主義-反帝国主義の先鋒だった。特に9.11事態以後、テロとの戦争という名で強行された米国の覇権主義に対抗し、反新自由主義-反帝国主義ブロックの形成にチャベスは決定的役割を果たした。
この15年間、チャベスの登場と共にベネズエラが経験した政治的・社会的変化は、グローバルな新自由主義の全面的な支配構造の下ではとてつもない変化だ。特に、ポスト冷戦体制の米国中心の覇権構造の下で、ほぼ唯一の進歩的変化であり、その中心にチャベスとボリバリアン革命があった。
[出処:http://aporrea.org]
左派にもやっかいなチャビスモ(Chavismo)
自称左派にとっても、チャベスはやっかいな存在だった。絶えず喚き出して、予測できない行動を続け、特にリビアのカダフィやイランのアマディネジャドと同盟を結び、米国に立ち向かうチャベスの現実主義を理解するのは容易ではなかった。さらに、21世紀社会主義という名で左派のライセンスまで持っていき、少なからぬ左派を怒らせ、激烈な論争に火をつけた。
ゴリゴリの極左は、チャビスモをポピュリズムと定義することで、誇らしくも帝国主義に加担した。チャベスの反労働者的行為を暴露し、21世紀社会主義が改良主義だという非難もはばからなかった。圧倒的にチャベスに票を投じるベネズエラの大衆が、いつかインチキ社会主義勢力のチャベス政権を打倒する闘いに立ち上がるという、きわめて主観的な希望を表明した。
チャベスとチャビスモ(チャベス社会主義)に対する左派的な批判に全く根拠がないわけではないが、左派が国内外的に理論と実践において停滞し、突破口を探せない状況で、ベネズエラの革命は既存の理論的フレームで説明するのは難しい多くのジレンマを提起していることを忘れてはならない。まるで準備された前衛が、一糸不乱に階級闘争と蜂起を遂行し、社会主義政権を樹立して反動階級を粛清するという1917年のシナリオの反復だけに期待することは、自らユートピア的妄想にかかっていることの告白だ。
ボリバリアン革命は、チャベス個人への依存と、主体としての組織/党の問題、社会主義的な再編戦略などで多くの限界と問題を持っている。しかし、これらの問題は、それ自体が固定された限界というより進行中の革命の課題でもある。したがって、チャビスモへの批判のかなりの部分は、ちょうど、天才カール・マルクスが20世紀資本主義を間違って予測したから誤りだと批判するように、根拠のない批判のための批判であり、ただひとつの解決策と答しか存在しないという形而上学的な盲信を仮定するものだ。
ベネズエラの左派運動も自由でない。1991年のクーデターの時に革命軍と協力することにした民間運動勢力は、偉業の当日に姿をけし、1994年の釈放以後、チャベスはすべての運動勢力に協力を要請したが拒否された。1998年に大統領選挙に突入し、チャベスが有力候補として登場すると、一部の勢力が参加したが、革命以後もいわゆる伝統的左派は大衆運動の成長の中でも成長できず、ベネズエラ統合社会主義党(PSUV)の周辺か野党陣営で少数派として存続している。
死んでもやっかいなチャベス
人生と死の問題は、いつも難解だ。ウゴ・チャベス・フリアスの肉体的な死がベネズエラの社会に、ラテンアメリカに、世界にどんな影響を持たらすのだろうか。米国とベネズエラの反動勢力は、彼の死を喜ぶ。その反対で、彼の死を悲しみ、革命の守護を叫ぶチャビスモの支持者がいる。その間で混乱の感情で沈黙する多数がいる。
運動と現実政治を行き来して、ベネズエラ社会とラテンアメリカを揺るがしたドンキホーテは、死んでもやっかいな存在だ。もしボリバリアン革命が失敗し、寡頭的反動勢力が復帰して、彼が実現した成果が失われたら? 多分その時にはチャベスの力と成果が可視的に実体化されるかも知れない。
チャベスは問題児だった。しかし問題は、彼は死んでも死なないので、さらに問題的な人間だ。ある意味、ウゴ・チャベスの肉体的な消滅で、ボリバリアン革命に新しい課題を投げかけたようだ。外形上の変化や指標ではなくこの15年に作られ、鍛練された民衆権力が、ベネズエラの未来を決めるだろう。たとえ革命が短期的に失敗してもチャビスモの記憶はチャベスにより、シモン・ボリバールが復活するように、解放と革命の神話で絶えず復活するためだ。
真実は常にやっかいだ。支配エリート生産工場のある国立大学の教訓が『真理は私の光』(verita lux mea)という状況で、象牙の塔の中の真理は詐欺だ。いくらやっかいでも、真実には対面しなければならない。チャベスとボリバリアン革命は、地球の反対側のエピソードではなく、今日この土地で起きている闘争と連結している。今必要なことは、追慕や評価ではなく、共同の課題としての 21世紀社会主義に対する激しい摸索と実践だ。
翻訳/文責:安田(ゆ)
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