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みなさん、こんにちは。
以下は私の個人的メモである。大半の人にはどうでもいいからスルーを。
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いまや「日本の良心」となった観のあるのが、理論物理学者の藤永茂博士。
「私の闇の奥」にある、最近の藤永博士の言説は非常に興味深い。以下のものである。
寄ってたかって北朝鮮をいじめるな
我が心まさに折れなんとす。「筆を折る」という言葉は辞書にありますが、「心が折れる」という言葉はないようです。しかし、この表現は私の今の気持にぴったりです。以下の事柄を、私は、一つのはっきりした覚悟を持って書いて行きます。
私の父は中国吉林省の長春、昔の満州国新京で産婦人科を開業していました。中国人や白系ロシア人の間でも人気があり、父も母もその医療業務に忙しく、幼い私の相手は、もっぱら、往診用人力車の車夫兼暖房用ボイラー焚きの中国人男性でした。地下のボイラーの脇に彼の居室があり、そこで彼は、随分の時間、赤ん坊の私をあやし、あれこれの世話を見てくれました。仕事の性質上、彼には暇な時間が多かったのでしょう。そんなわけで、父母の話では、私が口にした最初の言語は彼から習った中国語でした。たしか私が三歳の頃、ある日、彼は私一人を家族の家に連れて行きました。すっかり彼になついた私を皆に見せびらかすつもりだったのかも知れません。沢山の顔と賑やかな声に取り囲まれて少し怖かったのを漠然と憶えています。私の最も古い記憶の一つです。残念なことに私は中国語を忘れてしまいました。
私が勤務していたアルバータ大学の化学教室で、私たちより一世代若い韓国人夫妻と知り合いになりました。温和で心の広い立派なご夫婦で、旦那さんは極めて優秀な研究者でした。ある時、彼が「韓国語は中国語より日本語に似ているから勉強してみませんか」と勧められたので、教えて貰うのを始めたのですが、彼の職場が変わって絶えてしまいました。もう一つ。やはり職場の同僚で、私にとって大切な友人であったスペイン人の御母堂からスペイン語を習う機会が与えられたのですが、怠惰心からその幸運を逸してしまいました。
今となっては、中国語も朝鮮語もスペイン語も、学ぶための良いチャンスを与えられながら、怠けてしまったことが大変悔やまれます。もしこれらの言語を読み、そして、聞くことが出来れば、中国のこと、朝鮮半島のこと、キューバやベネズエラのことを、もっと詳しく、もっと正確に、理解し判断することが出来たでしょう。
しかし、言語的な能力が欠けていても、一つの対象について、時間的に長く持続的な関心を持ち続けることで、第一資料ではなく二次的資料、さらには、プロパガンダの嵐に耳を澄ますことからでさえ、物の真相を窺い知ることは出来ます。1960年、三井三池争議たけなわの頃、たまたま九大教養部で物理学教師をしていた偶然から、新しく開校して間もない飯塚市の朝鮮学校を参観したことがありました。その時の印象が私の北朝鮮観の原点です。
核兵器は絶対悪であるという立場を私は取ります。したがって、北朝鮮の核兵器実験には絶対反対です。如何なる国の核実験にも核兵器保有にも絶対反対です。しかし、北鮮が核実験をしたことで、世界中が、寄ってたかって北朝鮮を非難攻撃するのを容認することは出来ません。これは、核兵器は絶対悪であるという立場を取る限り、全く必然的な結論であります。特に、アメリカ、ロシア、中国、イスラエル等の核兵器保有国には、それを許しません。
何の罪もない日本人を拉致して、当人とその家族にひどい苦しみと悲しみを与えたのだから、核実験のことがなくとも、日本が北朝鮮にきびしい制裁を加えるのは当然であるという立場もありえます。しかし、その場合には、日本の側にそれに類似する罪業があれば、等しく非難されるべきであります。前回のブログで、カナダ政府とキリスト教宗教団体が実施したインディアン寄宿学校制度の下で、先住民の幼児たちが家族からむしり取られて無理矢理に遠方に拉致され、心身ともに虐待を受け、死んで行った話をしました。個々の先住民児童とその家族が経験した悲しみと苦しみが日本人被拉致家族のそれより軽かったとは、決して言ってはなりません。こうした場合の個々の人間の悲嘆に上下があるという考えを私は断固として拒否します。
しばしばアフリカの北朝鮮と呼ばれる国があります。エチオピアとスーダンの隣りの小国エリトリアです。エリトリアは核兵器を持たず、持つつもりもありませんが、いじめぬかれて苦境にある点では北朝鮮と同じです。この国については、2012年の5月と6月に『エリトリアが滅ぼされないように』(1)〜(3)で取り上げました。最近の状況を少し。スーダンとエチオピアに接する国境地帯でエリトリアの若者たちが多数拉致されています。拉致を行なっている側は若者たちを教育して反エリトリア勢力を結成するのが目的です。この1月21日にはエリトリアの情報省の建物に少数の兵士が乱入してクーデターが企てられたとアルジャジーラが報じました。2月24日には、スウェーデン国内の3カ所のエリトリア人コミュニティ・センターが放火爆破の被害にあいました。「国境なき記者団」の『世界報道自由インデックス2013(WORLD PRESS FREEDOM INDEX 2013)』によると、エリトリアはドン底最低の179位、北朝鮮は一つ上の178位を占めています。それでも、国と国民と独立運動の成果を何とか守ろうとする独裁者イサイアス・アフェウェルキの苦衷は、私のところまで届いて来ます。
(http://fr.rsf.org/IMG/pdf/classement_2013_gb-bd.pdf)
「このまま放置すれば、東京は北鮮から核爆弾攻撃を受けて150万の死者が出ることになりかねない」という議論があるようですが、もしそうなったらどうするのですか?同盟国のアメリカに頼んで、北朝鮮の2400万人を、核爆弾で、ワイプアウトしてしまうのですか?アメリカがその気になれば、それは十分可能です。それとも、日本の優れた核エネルギー関係技術とロケット技術を急遽総動員して核抑止力を備えますか?
核兵器が絶対悪であるという私の立場については、2010年の4月と5月に、『核抑止と核廃絶』(1)〜(6)という長いシリーズに書きました。そこで述べた理由から、私は日本の核軍備に絶対反対です。私の個人的立場は『核抑止と核廃絶』(5)の終りに書いた、畏友ダグ・マクリーンの立場と同じです。
藤永 茂 (2013年2月27日)
藤永博士の心情はよく分かる。
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私などは、むしろ逆にイルミナティーであろうが、NWOであろうが、シオニストであろうが、白人であろうが、黒人であろうが、東洋人であろうが、アラブ人であろうが、エイリアンであろうが、在日であろうが、日本人であろうがなかろうが、「悪い奴は皆殺しで結構」と考えているほどである。
いっそのこと、こんなに金、女、変態、地位、名誉などの物欲、性欲、支配欲に支配されきってしまった人類など絶滅しても良かろう、と思うほどである。
さらに、いっそのこと、いったんは、そんなに地球が欲しければ、NWOであろうが、シオニストのソロモン王国であろうが、連中に国を作らせてやれ。そして経営させてみろ。いったいどうなるか?
一度民主党に政権交代すれば良かろう? そうすれば何事もわかるはずだ。
この3年半で、ミンス党に一度政権運営させたら、どうなったか?
これと同じことが起こるに違いない。
私はそう感じている。
かつて西洋の歴史では、ギリシャ帝国、ローマ帝国、神聖ローマ帝国、スペイン帝国などなどいろいろ大帝国が支配した時期があった。その頃の人たちは、ひとたびそんな帝国に支配されたら人類は滅び去ると思ったものである。
ところが、それから千年、数百年と経っても結局人類は滅びなかった。
いまも同じである。
仮にユダヤのソロモン帝国が実現したとしても、それでいくらひどい世界が実現したとしても、そんなことでは人類は滅びない。
かつて、第二次世界大戦中、このままでは日本人は滅ぶとだれもが思ったらしいが、戦後になり、日本人は滅びなかった。
仮にTPPを締結して、日本全国の農地が大企業に買われてしまったとしても、そんなことでは日本人は滅びないだろう。
だから、本当の問題はそういうことではない。きっと何か別の意図が働いていると私は見ている。
おそらく、NWOは、有名な「アングロサクソン・ミッション」を実行してきていることはまちがいないが、彼らのタイムスケジュール通りになかなか進まない。最初の計画では、キャメロットインタビューのビル・ライアンの話のように、西洋でイランーイスラエル間で核戦争を起こさせようとしていた。ところが、なかなか拉致あかない。そこで、方針を変更して、アジアの極東で局地的な核戦争を起こす方に来たのだろうということである。
もともとこの極東の海の海底はほとんど手付かずの状態だから、適当に紛争を起こして、だれも開発できないようにしておけばよろしい、というものが、ジョセフ・ナイのリポートにある計画だと考えられている。
しかし、ここに来て、ハルマゲドンを起こすのを中東から極東に変更中なのではないか、というのが、私の個人的分析である。
そのためには、北朝鮮、韓国、日本、中国を緊張の渦に引きこまなければならない。アメリカのシオニスト(偽ユダヤ人)にとって、米兵など道具にすぎない。むしろ犠牲者が出て、第二、第三の「リメンバー・パールハーバー」のための口実ができる方がよろしいのである。
こういう世界観に対して、藤永博士の見方は、経験的である。自分が育てられた昔の中国やよき韓国人との出会い。そうした個人の経験は何事よりもリアルに近いと感じるのだ、という立場である。
私も米留学中に、韓国人とサッカーをしたり、世界中の国々からの留学生の若者たちとサッカーをしたり、飲みに行ったりしたものである。ホンコニーズ(香港の中国人の英語)やチャイニーズ(メインランドの中国人の英語)やタイワニーズ(台湾の中国人の英語)と仲良く会話したり、昼食や夕食を共にしたものである。
藤永博士は、こういう経験こそかけがえのないものなのだ、ということを言いたいのである。まさにその通りかもしれない。
例えば、中国人が飛行機内でこどもがうんちしちゃったとか、ホテルや飛行機の備品を盗んでいったとか、いろんな弊害はある。しかし、それは1960年代や1970年代の我々の姿でもあった。当時の「農協の団体さん」たちは、世界中のどこにでもいって、旗持った添乗員といっしょに見て周り、適当な物品はもらって帰ったのである。似たようなものだ。
もっと昔の1920年代のゴールドラッシュのアメリカ人もそうだった。突然に金持ちになったものだから、欧州に旅行すれば、そこで見た珍しいものを拝借していったのである。
言ってみれば、こういうことは、朝鮮人であろうが、中国人であろうが、米人であろうが、ロシア人であろうが、古代イスラエル人であろうが、ユダヤ人であろうが、皆同じ。一定の知的水準や文化的水準に至るまでの間に、必ず一時期通過していく過程にすぎないのである。
だから、ちょっと前まで第三世界であった民族が、突然金持ちになれば、土地を買いたい、家を買いたい、車を買いたい、いい女を抱きたい、いい男と寝たい、そんなことを考えるのはごく自然の一種の通過儀礼のようなものなのである。
かつて私が米国に留学した頃、中国の本土からの留学生について噂されていたことがあった。それは、最初の1年はボケる。というものだった。私は本当かなと観察していたが、それは本当だった。
まったく自由も何もない世界から、世界最先端、世界最高の「自由の国アメリカ」へ留学したわけだ。車を買うのも運転するのも自由。何を買おうが、何をくおうが自由。そういう世界に初めて入ったわけだ。ボケるのは当然。探検したくなるのも当然。勉強がおろそかになるのも当然だろう。
そうして1年ぐらいたつと、やばい、勉強しないと本国に送り返される。ビザが停止される。奨学金が停止されるという現実を知って我に返るというわけであった。
そこへ行くと、我々日本人はまったくそういうことはない。単に日本とはちょっと違った建物、風物や人たちが住むというだけである。
いま日本に来ている韓国人や中国人もおそらく大半がそういう感じなのである。見るものが新鮮で珍しい。自分の国にはない。となれば、持って帰りたい。
まあ、そんな感じなのではないか。そう思う。
だから、いたずらに朝鮮人や中国人のそういうところを取り上げていじめるのはどうかという主張も頷ける。
我々が注意すべきは、あくまで「不遜な輩たち」に対してである。これは民族や人種を問わない。「不遜な外人」や「不遜な日本人」に対して、毅然とあたるべきだろうということになる。
なかなか難しい問題、難しいところだが、「一石を投じる」という意味では、藤永博士の考え方や意見は無視できない深みがあるといえるだろうネ。
まあ、いずれにせよ、欧米のイルミナティーやらシオニストは頑固で手強い。藤永博士がいくら正論を言ったところで、彼らの主流派の主張が代わるはずはないだろうが。
ところで、この期に及んでいまだに「スピリチュアル・メッセージ」がどうのこうのと言っているものがいるのはいったいなぜだろうか?
いやはや、世も末である。
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