01. 2013年3月01日 10:38:05
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『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンド氏に聞く 「伝統的社会」から学べること 2013年3月1日(金) 石黒 千賀子 世界はなぜ、富と権力がかくも不均衡な状態にあるのか――。人類はなぜ、それぞれの大陸でこれほど異なる歴史をたどり、異なる発展を遂げてきたのか――。なぜ、ごく一部の社会が世界を支配するに至ったのか。 それは、民族間の生物学的な差異によるものではなく、たまたま生産性が高く、栽培しやすい野生植物や飼育しやすい野生動物が存在する地域に居合わせたおかげで、早くから農業を発展させることができ、そのおかげで食料生産はもとより、人口増大、技術革新、国家の樹立を推し進め、政治的にも、軍事的の優位に立てたからである――。つまり、食料生産ができる居住環境に存在したかどうかが大きな分かれ目だったということを見事に解き明かした著書『銃・病原菌・鉄』でジャレド・ダイアモンド氏は1998年、ピュリッツァー賞を受賞した。同氏はこのほど、ニューギニアをはじめ40年以上にわたり調査・研究を続けてきた伝統的社会を現代の社会と比較することを通じて、人類が抱える課題を最新作『昨日までの世界――文明の源流と人類の未来』であらためて浮き彫りにし、世界で話題を集めている。このほどその日本語版の出版にあわせて来日したダイアモンド氏に、現代人が伝統的社会から学ぶべきポイントの一部を聞いた。 ジャレド・メイスン・ダイアモンド(Jared Mason Diamond) 1937年9月米ボストン生まれ。1958年に米ハーバード大学で生物学の学士号を取得後、1961年に英ケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得。その後、生理学者として分子生理学の研究を続けながら、進化生物学、生物地理学へと研究領域を広げた。特に鳥類に興味を持ち、ニューギニアなどでのフィールドワークを行なった。そこでのニューギニアの人々との交流から人類の発展に関心を深め、その研究成果の一部が『銃・病原菌・鉄』として結実した。 アメリカ科学アカデミー、アメリカ芸術科学アカデミー、アメリカ哲学協会会員。アメリカ国家科学賞。マッカーサー・フェローシップ、ルイス・トマス賞など受賞多数。200本以上の論文を発表したほか一般書も多く出版。おもな著書に『銃・病原菌・鉄』『セックスはなぜ楽しいか』『文明崩壊』などがある。 (撮影:村田和聡、以下同) 今回の著書の中で、ニューギニアで経験した様々な身の危険について書かれています。若き研究者だった頃、野鳥観察を終えてニューギニア沖の島からニューギニア本島にエンジン付きのカヌーで戻ろうとした時、乗組員の操縦が乱暴だったことからカヌーが転覆、日没前に海に放り出されて危うく命を落としそうになったこと。また、ニューギニアではシャワーを浴びる際も、唇についた数滴の汚染水を舐めただけで赤痢にかかったりするため、唇をきつく結んでいなければならないことなど…。かくも厳しい環境であっても26歳の時からニューギニアを訪れ続けているのはなぜなのでしょう。何に惹かれるのでしょうか。 ダイアモンド:ニューギニアは非常に変化に富むところです。地形はもちろん、赤道上に位置し、熱帯地域に属するものの富士山より高い標高5000メートル以上の山もある。つまり、氷河も存在する。東アフリカのキリマンジャロと南米のアンデス山脈も赤道上に位置しながら氷河が存在するが、いずれも相当内陸部です。しかし、ニューギニアは島なので、世界で唯一、珊瑚礁の上に立ちながら青い空に氷河を頂く山を見ることができる。あるいは氷河の頂上に立ちながら、珊瑚礁を見下ろすことができる。 しかも島でありながら赤道から北極という生息環境がすべて存在し、山を登ればそのすべてが見られます。島独自のほ乳類や世界で最も美しい鳥も多く存在します。その意味では、小さな大陸というべきかもしれない。そして、その閉ざされた小さな島には1000以上もの部族が存在し、1000以上の言語があります。言語の数が多いだけでなく、それぞれが極めて異なっており、どれも中国語と英語、あるいはアラビア語ほどに違う。 各部族はそれぞれ特有の習慣を持ち、異なる社会を築いています。そして、政治的には正しくない表現ですが、ほんの最近まで「primitive(未発達な、原始的)」な生活をしてきた。石器を使い、文字は持たず、伝統的な王も政府もない生活をしてきた。つまり、人類が1万年前までやってきたような生活を続けてきたわけで、そこは美しい場所であるだけでなく、人類について学べる宝庫のような場所です。だから行き続けているのです。 「建設的なパラノイア」〜今そこにある危険を認識せよ〜 ちなみに文字も持たない部族社会というのは、小規模血縁集団よりは規模が大きいですが、数百人規模の局地的な集団で、成員は互いに顔見知りで比較的平等主義で、政治的指導者も存在せず、経済活動の専門化が進んでいない段階を言います。 そうした人々の生活と、技術革新を重ね巨大国家のもとで暮らす私たち現代人との生活の違いは極めて大きいわけですが、それでも学ぶことは多い、と――。特に彼らの危険に対する認識の仕方には注目すべきだと指摘されています。 ダイアモンド:そう、私が「建設的なパラノイア(constructive paranoia)」と名づけたところの彼らの危険に対する姿勢です。これは我々が彼らから最も学ぶべき一例と言えると思います。 「建設的なパラノイア」ですか、、、 ダイアモンド:そう。例えば、私がそこで滑って転んで足を怪我したとしよう。大抵の場合、医者を呼ぶか病院に行けば足を治療してもらえる。死ぬことも身体障害者になることもまずない。しかし、ニューギニアの奥地で骨折すれば、外科医に手当てをしてもらうことはできない。医者がいないため、死ぬ可能性すらある。運が良くても一生、骨が曲がったままという運命を背負う可能性が極めて高い。だからニューギニアの人々は、怪我をしないよう常に非常に注意深い。 私は彼らから、ささいなことにでも注意を払うことがいかに大事であるか身をもって学びました。そのエピソードを紹介しましょう。 本の7章にも書いたが、まだ若い新米の研究者だった頃、ある鳥類の調査でニューギニアの密林の奥地に行った時のことです。ちょうど視界が開けた土地があり、谷底から舞い上がってくるタカやアマツバメを観察するには絶好の場所だった。しかもその片隅に見事な巨木がそそり立っていたので、その巨木の苔むした幹の脇のところにテントを張ろうとしたのです。ところが、調査に一緒に行ったニューギニア人たちがそれは嫌だと言う。 「あの巨木は既に枯れて死んでいるから、テントで夜、眠り込んでいる間に我々の上に倒れ込んできて我々を殺すかもしれない」 彼らは本当におびえていました。その時、彼らの怖がりようを私はほとんど被害妄想だと思いました。 「木の下のテントで寝るなら地べたで寝たほうがましだ」 確かに木は既に枯れてはいたが、「幹はまだしっかりしているし、ぐらついていない。腐ってはいないから、倒れるのは何年も先の話だ」と私は即、反論しました。だが、頑として受け入れない。それどころか、「あの木の下で寝るくらいなら、木から離れた場所で吹きさらしの地べたで寝るほうがましだ」とまで主張したのです。 しかし、その後数カ月間、ニューギニアの森で観察活動を続けていた私は木が倒れる音を耳にしない日は、1日としてなかったのです。ニューギニア人は森の中で野営することが多い。恐らく年間100日は野営している。すると人生40年としても、4000日は野営している計算になる。この計算でピンと来たのです。 1000回に1回しか死なないようなことでも、年100回それを行う生活をしていれば、10年以内に死ぬ確率は高くなる。それではニューギニア人の平均余命40歳を全うすることはできません。 以来、私は彼らのこうした「パラノイア」は必ずしも“被害妄想”ではないが、「建設的なパラノイア」と呼び、自分もそうした発想をしています。 私たち現代人は、怪我や病気をすれば医者に行って治してもらえばいいと思ってしまいます。ワクチンで予防したり、病院や保険制度が存在したりと、制度が整備されて進化した社会であると言えるのでしょうが、「自らを自分で守る」という個々のレベルで見ると、部族社会よりむしろ後退しているように感じられます。
ダイアモンド氏:その通りです。私は今朝も大変、危険なことをしました。シャワーを浴びたのです。「シャワーくらい」と思うかも知れないが、私のような高齢者がシャワー室や濡れた廊下や階段で滑って転んで怪我をして、それが原因で死ぬケースがいかに多いことか。新聞の死亡記事を読めば分かります。 今後90歳までにシャワー室で5.5回転ぶ計算になる シャワー室で転ぶ確率は1000回に1回かもしれない。しかし、現在75歳の私は統計的には90歳まで生きる。毎日シャワーを浴びるとしたら、今後15年間で5475回浴びるわけで、1000回に1回しか転ばないとしても、今後15年間に5.5回は転ぶ計算になる。だから気をつけなければならないということだ。 事実、日本が大好きで久しぶりに私と一緒に来日することを楽しみにしていた私の妻は先週、洗面所で転び鎖骨を折ってしまった。幸い最終的には一緒に来日することができましたが、彼女は今、洗面所がいかに危険な場所か痛感しているはずです。 ニューギニア人は何度もやっていることに伴うリスクをきちんと理解している。1回、1回のリスクは小さくても、何千回も繰り返す行為であれば、いつかそのリスクが現実のものとなるという事態をきちんと想定して行動している。自分の人生における危険とは何かについて極めて明確に捉えている――。 これに対し、例えば米国でアメリカ人に「心配な危険とは何か」と聞くと、多くがテロや飛行機事故だと答える。テロで米国人が殺されたりすれば、新聞の1面に載ります。しかし、実際には交通事故やアルコール飲料の飲み過ぎ、高血圧症、心筋梗塞、糖尿病などで亡くなっている人の方が、テロや飛行機事故による死亡より圧倒的に多い。比較にならない。つまり、日常のありふれた危険にこそもっと注意を払うべきであることに気づくべきなのです。 文明が進むに従い、人々は危険に対して鈍感になっていく、、、。皮肉です。 原発のことだけを考えてはいけない ダイアモンド氏:文明が進むほど危険に対して注意を払うことをおろそかにしがちになるという傾向は、今の現代社会が抱える根本的問題そのものと言えます。 例えば日本は、福島第1原子力発電所の事故以来、原発を続けるべきかどうかという問題に直面している。しかし、この問題を考える時に、原発のことだけを考えてはいけない。選択肢は原発を続けるかゼロにするかという選択肢だけではないはずです。 原発に依存しない場合、選択肢として化石燃料に依存する可能性が高い。しかし、化石燃料を燃やして火力発電を行い、化石燃料を燃やしてクルマを運転し続けることのリスクも考える必要があります。世界は二酸化炭素(CO2)を排出し続けてきたことで、温暖化が進み、その影響は日本にも及んでいる。 温暖化は農業だけでなく、海の酸性度にも影響を及ぼしている。日本は海の幸に依存している国です。しかし、温暖化は確実に海産物の収穫量減少にもつながっています。つまり、脱原発を考えるとき、その代替策についてもよく考える必要がある、ということです。 イヌイットは冬の間、食料を確保する手段としてアザラシ猟をします。その方法は海に浮かぶ氷の穴の前に座ってひたすら空気を吸いに上がってくるアザラシを待ち、銛で突くというものです。この猟には、浮かんでいる氷が陸から離れ流されてしまうリスクが常に伴います。しかし、彼らにとってアザラシ猟が冬の唯一の食料調達法なので、あえて危険を冒してもこの猟を続けている。だから、もちろん常に細心の注意を怠らない。 こうした姿勢が現代人には欠けている気がします。発生する確率としては低いリスクでも、十分に注意を払う一方で、避けられないリスクであれば細心の注意を持って取り組む、という姿勢が彼らは徹底している。 我々現代人がもっと注意深くあり続けることができれば、原発の利用も含めていろんなことができるということでしょう。テロや飛行機事故ばかり心配するのではなく、階段の上り下りから、クルマの運転、食生活、原発に至るまでもっと危険に対する感度を上げれば生活は格段によくなるはずです。 もめ事を解決した後も人間関係を維持できる紛争解決法 争いごとが発生した際の解決方法についても、新作では伝統的社会から学べる点があると指摘されています。 ダイアモンド:はい、その分野もそうです。先進国、少なくとも米国の司法制度のもとでは、民事裁判と刑事裁判の2種類がありますが、いずれにおいても政府は何が正しくて何が間違っているかを決めることに重点を置いています。政府としては、裁判にかかわった人が互いに気持ちのうえで和解できたかどうかについては全く関心がありません。 夫と妻が離婚協議をしたり、あるいは兄弟姉妹が遺産を巡って司法の場で争ったりするケースは多々あります。米国では離婚が決まると、その過程を通じて夫婦の関係は改善するどころか大抵さらに悪化します。多くの離婚した夫婦は、離婚を通じて生涯憎しみ合うことになるが、その点に政府は全く関心を払っていない。特に子どもの親権を巡る話し合いは非常に厳しいものになる。遺産相続を巡る争いでも、裁判以降、兄弟が一生口を利かなくなるというケースも珍しくありません。 これに対し、ニューギニアなどの伝統的社会で争いごとを解決する場合は、何が正しくて、何が間違っているかを明確にすることに重点は置かれていない。多くの場合、相手は友人か少なくとも自分が知っている相手で、見知らぬ人ではないので、重点はもめ事が終わった後も、お互い生きている間はその人との関係を継続できるようにするという点に重点が置かれています。
つまり、互いが憎しみ合ったり、相手が怒っているに違いないと生涯恐れたりしなくていいような状況に持って行くことに重きが置かれているのです。 日本については知りませんが、米国、英国、ニュージーランド、カナダでは、「修復的司法(restorative justice)*」といって、裁判に関わった関係者の間で感情面における和解を促進、修復させようとする試みが一部進んでいますが、ほとんどのケースでは行われていない。そういう意味で、時間と努力が必要ですが、伝統的社会の紛争解決法から我々が学べる点は多くあると思います。 *犯罪の加害者、被害者、地域社会が話し合うことで、関係者の肉体的、精神的、経済的な損失の修復を図る手法 私は、すべての面でニューギニア人をまねればいいと言っているのではありません。例えば、もし私がニューギニア人で、数日前まであなたを全く知らなかったならば、この部屋で今日、会った時に私はあなたを殺していたでしょう。伝統的社会では、「知らない人」というのは「極めて危険な存在」とされており、「殺されていなかったら殺す」というのが彼らの考え方です。 また、現代社会では生まれた赤ちゃんが丈夫でなくても殺さなくていいし、ある部族社会で行われている夫が亡くなれば妻が自分の兄弟や親戚に頼んで自分を絞め殺してもらうといった慣習は排除されている。素晴らしいことです。 ただ、高齢者の扱い、子育ての仕方、多言語の修得法など、彼らから学べる点が多く存在することも事実です。それを本から少しでも分かってもらえれば嬉しいと思います。 石黒 千賀子(いしぐろ・ちかこ) 日経ビジネス副編集長。 キーパーソンに聞く
日経ビジネスのデスクが、話題の人、旬の人にインタビューします。このコラムを開けば毎日1人、新しいキーパーソンに出会えます。 |