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米、縮む高等教育支援
宮田由紀夫・関西学院大教授
税金投入に批判/格差拡大・階層固定化も
関西学院大学の宮田由紀夫教授は、20世紀の強い米国を支えた要因の一つが、高等教育に対する手厚い公的支援だったが、最近はそれが縮減され、格差の拡大と社会階層の固定化を助長する側に回っていると指摘する。
「20世紀は米国の世紀」といわれるが、その要因の一つに建国以来、米国は公的資金で教育を支援するのに熱心な国だったことがあげられよう。
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米国では州政府・自治体が初等・中等教育を整備し、第2次世界大戦後も州政府が授業料の安い州立大学を建設・運営し、連邦政府が学生に奨学金を出す、という形で高等教育を公的に支援してきた。ところが、それが崩れつつある。
1980年代の「レーガン革命」以来の市場万能主義の高揚の中で、受益者負担論の立場から高等教育(大学)への公的支援に対する批判が強まっている。大学を卒業して利益を得るのは本人と親であるから、彼らが費用も負担すべきで税金を投入すべきではない、という議論である。
たしかに、2009年における大卒者の年収の中間値は高卒者の1.85倍であり、大学院卒者は2.80倍である。これは75年時点の1.57倍、2.13倍よりも拡大している。「モノづくり」から高度情報社会になるにつれて、高卒者と大卒者の収入格差が広がっているのである。
しかも、これは就業者同士の年収比較であり、高卒者の方が失業率が高いことを考えると、大卒者はますます大きな恩恵が得られるのだから費用も受益者本人が負担すべきだということになる。
しかし大学進学が経済的に重要であればこそ大学進学は社会階層移動の手段として重視されるべきである。親の所得階層で最下位20%に属する子供は、大学を卒業していないと45%がそのまま最下位20%にとどまり、最上位20%に移行できるのはわずか5%である。
ところが大学を卒業していると最下位20%にとどまるのは16%であり、19%は最上位20%に行くことができている。
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子供の人生が出身階層によって決まってしまうのは好ましくないので、社会階層の流動化という点からも公的支援が正当化されうる。ただ、残念ながら、米国版のセンター試験であるSATの成績は、親の所得とプラスの相関がある。年収2万ドル未満の家庭の高校生は数学の点数は800点満点で457点、10万〜12万ドルの家庭では538点、20万ドル超では579点である。
この結果、表が示すように、大学進学率は親の所得階層によって大きな差がある。学力の問題に加え、在学中に授業料が払えない学生も少なくなく、低所得者層出身者は高所得者層出身者に比べて卒業率での格差は進学率よりもさらに大きい。
さらに、教育には個人が受ける恩恵よりも社会全体が受ける恩恵の方が大きいという外部効果がある。周りの人間の能力が高いことは出世競争には不利だが、本人の生産性も高める。また、大卒者は所得が高いので、納税額も大きい半面、犯罪率は低く、福祉・医療補助の対象にもなりにくいので、財政支出の抑制に貢献する。社会にとって高等教育投資の収益率は10.3%に達するという試算もある。
ところが、連邦政府も州政府も財政難のため、受益者負担論の勢いに押され、高等教育への公的支援には逆風が吹いている。奨学金では返済義務がない給付に代わり貸与が増えた。92年度には給付63%、貸与35%だったのが、現在は拮抗している。
州立の研究大学(博士号を多く出し、研究が活発な大学)の収入を見ると、87年度には州政府からの資金が44.4%で授業料は16.0%だったのが、05年度には、前者が26.9%まで低下する一方で、後者は25.3%まで上昇した。初等中等教育と異なり高等教育では授業料を上げることができるので、州政府は州立大学への財政支援を抑制しがちで、州立大学の安易な授業料引き上げを招いてしまう。州政府からの資金が全収入の20%台の州立大学もあり、州立大学の実質的な私立大学化がおきている。
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一方、一流私立大学はリーマン・ショックで損失を出しはしたが、依然として豊かな資産を持ち、その運用益が大きな収入源になっている。ブランドイメージを維持する目的もあって一様に授業料が高い。ただ、大学は学生の質でも競っているので、大学独自の奨学金を出して優秀な学生を勧誘している。
従来は、入学者選抜では経済状況は考慮せず成績だけで決め(メリット基準)、入学後の奨学金授与者の選定では成績を考慮せず経済的困窮度のみで決める(ニード基準)ことが好ましいとされたが、優秀な学生の獲得競争の結果、成績優秀者は経済的困窮度にかかわらず奨学金がもらえるようになった。その分、本当に奨学金を必要とする学生に回る分が減ってしまう。
米国では高等教育が公共財でなく私的財となることによって、格差の拡大と社会階層の固定化を是正する側でなく、助長する側に回ってしまったのである。
日本はどうだろうか。もともと日本では高等教育大衆化の担い手は専ら親が高い授業料を負担する私立大学であった。難関国立大学は授業料は安いが、合格するには私立の中高一貫校が有利であり、そこに入るには塾費用もかかる。これらの費用は家庭が支えており、既に受益者負担の原則が貫かれている。
ところが、近年は国も自治体も財政難にあえいでいる。国立大学の運営費交付金や私立大学補助金の削減、公立大学のリストラなどが続き、社会で高等教育を支えるという姿勢が一段と後退している。格差拡大や社会階層の固定化という視点からも、これらの政策の社会的影響を注視していく必要がある。
[日経新聞11月5日朝刊P.18]
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