01. 2013年3月11日 16:25:34
: kPOeurwFuo
【第1回】 2013年3月11日 池上正樹 [ジャーナリスト] 【新連載】 現地再建か、内陸移転か 町の再建に揺れる被災地・宮城県名取市閖上の確執宮城県名取市閖上地区のいま Photo by Yoriko Kato 東日本大震災の津波によって、800人近い犠牲者を出した宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区。そのうち40人以上が、いまも行方不明のままだ。 仙台藩直轄の漁港があった閖上は、「日本一の赤貝の水揚げ量」でも知られる、風光明媚な住宅地だった。 5600人余りの人口のうち、当時、在宅していたのは4000人弱。実に5人に1人が犠牲になっており、その割合は突出している。 そういう意味でも、原発被害に揺れる福島を除けば、児童・教職員84人が犠牲になった石巻市立大川小学校の惨事と並んで、今回の震災の問題を象徴するような悲劇の舞台となった。 そんな閖上地区ではいま、町の再建を巡って、家を失った被災者と名取市側の間で、大きな隔たりが生まれている。 なぜ、住民と行政の間で亀裂が生じてしまったのか。それは、市の設置した協議会で、津波によって人々や家が流され、ほぼ更地になった閖上地区の地盤を再開発。海抜5メートルまでかさ上げして町を作り出すという現地再建の方向性が示され、進めようとしているからだ。 「閖上に戻りたくない」住民と 「町を現地再建したい」名取市 市の行ったアンケートによると、家族を失った被災者の中には「津波が来た高さの土地には住みたくない」という人もいる。「揺れが起きるたびに、当時を思い出す」という人もいる。 「閖上に戻りたい」と答えた住民はおよそ3分の1。残りの約3分の2は「戻りたくない」という意向だったという。 新たな町を現地再建したい市側と、「いずれ風化して、また津波が来たときに悲劇を繰り返す」などと内陸への移転を希望する住民側の意見が、真っ向から食い違っているのである。 「戻りたい人は戻れるように、戻りたくない人は(仙台東部道路から内陸寄りの)西側に移転できるよう選択肢を与えればいいのに。選択肢を与えないから、こういうことになってるんだ」 震災後、市側の対応のまずさに不信感を抱き、内陸部に家を購入した閖上の被災者は、そう憤る。 市は現在、現地再建案以外の選択肢は示していない。そこで、住民たちは選択肢を設けるよう、この2月、請願を市議会に提出した。 「仮設は(余震で)ずいぶん揺れるし、昨夜も寒かった。まずは災害住宅を作って、そんな行くところのない人たちを救ってほしい」(仮設住宅に住む閖上の被災者) ただ、市の防災担当者は、こう思いを明かす。 「市としては、一定の人口規模がないと、店やスーパー、病院などができない。お年寄りばかりの町になる。10年、20年経ったら、ゴーストタウンになりかねない。だから、ある程度、まとまった人数に住んでもらいたいという思いがあるのです」 市の計画では、再建する現地と県道などの約120ヘクタールを5メートルかさ上げして、海岸に7.2メートル、貞山運河に6メートルの2つの防潮堤を設置。かさ上げと合わせて3重に守られた、人口3000人の町をつくりたいという。 しかし、かさ上げした地盤が本当に安全なのかどうか、疑問視する声もある。 「コミュニティを崩したくない」人たちと、「戻りたくない」人たちの間で、同じ閖上地区に住んでいたはずの住民が分断され、合意はなかなか見出せないままだ。 こうして、市が進めようとしている現地再建計画は、いまも暗礁に乗り上げている。 なぜあの日、防災無線は鳴らなかったか 多くの犠牲者を出した「4つの謎」 一方で、閖上地区で数多くの犠牲者が出た背景には、「想定外の自然災害」では済まされない問題があったこともいくつかわかってきている。 その原因の1つは、あの日、市の全域で、大津波を知らせるはずの防災無線が鳴らなかったことだ。 震災の2日前に起きた3月9日の地震のときや、昭和35年のチリ地震津波のとき、防災無線は鳴った。それにもかかわらず、いったいなぜ、あの日、防災無線は故障していたのか。そのまま放置された結果、多くの住民は、津波の危険を知らされることなく、自宅に残ったままだった。 また、市の指定避難場所であった「閖上公民館」に避難していた被災者たちは、突然、「閖上中学」へ移動するよう避難誘導された。その移動途中、多くの人たちが津波にのみこまれている。いったい誰がなぜ、閖上中学への移動を指示したのか。 当時、公民館に避難していた住民は約200人。そのうち、公民館に残って生存したのは、わずか30人ほどだったという。 また、津波が来るまでの間、大津波警報の発令や、高台、指定避難所への避難を呼びかけるための市の広報車などが1台も町に繰り出さなかったことも明らかになっている。 さらに、2001年に製作された「名取市浸水予測マップ」によれば、閖上地区の大半の町が、津波予報4メートルまでの浸水想定範囲から外れていた。こうしたマップの存在も、津波に対する潜在的な安心感につながる結果になったのではないか。 第三者委員会設置で検証へ 震災2年だからこそ見えてきた課題 こうした様々な疑問に対し、閖上地区の遺族でつくる「震災犠牲者を悼む会」では、これまで3回にわたり、公開質問状を佐々木一十郎市長に提出。しかし、「回答に納得できない」として、4000人の署名を集めて第三者検証委員会の設置を求めた市議会への請願は昨年12月13日、全会一致で採択された。 「悼む会」が2012年11月に行った震災時のアンケートによると、92人中75人は、名取市からの避難指示が「何もなかった」と回答。大津波警報の発令は「ラジオ」37人、「友人・知人」29人…と続き、行政から知らされた住民は、1人もいない。 大津波警報が発令された場合、どこに避難すればいいと認識していたかを聞いたところ、「閖上公民館」は、半数近くの45人に上った。 2011年に行われた「津波調査」で、ある40代女性被災者は、こう綴る。 <まだ新しい街で、避難場所さえ周知なく、サイレンも鳴らないし、警戒の広報アナウンスもなかった。揺れから約1時間後に大津波が襲って、私は孤立した。もっと早くに警報なりサイレンなりがあれば、逃げることができたのに、悔しい…> 名取市では2011年10月頃から、震災の教訓を市の防災対策に生かそうと、国の復興交付金を使って、「津波等ソフト化対策事業」がスタート。当時の状況や事前の準備、避難所の運営などについて検証するため、翌2012年11月末、「津波等ソフト化対策協議会」を発足させた。 その協議会の会員には、宮城県の防災対策に関わってきた東北大学の首藤伸夫名誉教授をはじめ、町内会長や中学校長ら8人と、市の幹部9人が名を連ねている。 しかし、市によると、震災発生後から1時間余りの間に起きた避難誘導や公民館の問題などについては、市議会が採択した第三者検証委員会の検証のほうが優先されるという。 「悼む会」では今年に入って、遺族が推薦する検証委員候補者名簿を市に提出。発足に向けて、現在、人選等が進められている。 こうした問題は、閖上地区だけで起こることではない。他の被災地や、今後、被災が考えられる地域でも直面する可能性がある。 なぜ5分の1もの住民が、津波の犠牲になったのか。これだけ大きな被害を出さずに済む手だては他になかったのか。 この連載では、閖上地区を具体例としながら、震災から2年経ったいまだからこそ見えてきた被災地の問題を明らかにしていく。 |