http://www.asyura2.com/12/jisin18/msg/214.html
Tweet |
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20120404/230564/
伊東 乾の「常識の源流探訪」
日経ビジネス オンライントップ>IT・技術>伊東 乾の「常識の源流探訪」
どうして古都は水害を受けやすいのか?
あれから1年、正しく怖がる放射能【4】
2012年4月6日 金曜日 伊東 乾
前回ご紹介した「海辺の田んぼ」の都市化、たまたま陸前高田の例を挙げましたが、リンクした東大のウェブサイトを見ていただければお分かりいただけました通り、決して陸前高田だけではない、宮古(田老町)、石巻・・・被災地はもとより日本全国で見られる一般的な現象にほかなりません。
震災以降、必ずしも紙面をにぎわせなくなった地球温暖化の議論で「海面上昇」という現象があります。二酸化炭素などによる温室効果で南極北極の氷が解けると海面が上昇してしまう。キリバスのような島嶼国家では国土が消えてなくなってしまう危機もある。しかしこの海面上昇、地球全体の歴史で見るなら、氷河期と間氷期の間を往復して、地球全体の海面はコンスタントに昇ったり下ったりしています。
もっとも「最近」の海面上昇は先史時代に起きた「縄文海進」と呼ばれるもので、日本列島は100メートルから海面水位が上がった。ということは、それまでは100メートル級の深い谷だったところが、湾や湖になっていったということを示します。
こうした例の代表的なケースは大阪の「河内湾」でしょう。現在の東大阪市近辺、上町台地と生駒山脈に囲まれたエリアは有史以前、湾でした。海流、そして淀川などの河川がさまざまな堆積物を持ち込み、河内湾は河内湖になり、やがて河内の湿地になってゆきました。
さて、前回ご紹介した陸前高田など被災地土地利用変遷を整理された、東京大学理学部の茅根創教授は「沖積低地」という言葉を教えて下さいました。土地の形で言うなら、三角州とか扇状地とか呼ばれるような場所。山から注ぎ込んだ泥などの堆積物が、元来は入り江だったところに土地を作る。
このやわらかい土地は、山の固い土とは比較にならないほど、人間の手で掘り起こしたりするのが容易です。そしてそうした「やわらかい土地」、木や石で作った粗末な道具でも容易に耕すことが出来る土地に、人類は「定住農耕文明」というものを花咲かせたのにほかなりません。
人類文明発祥のゆりかごとなった沖積低地
いま、歴史を振り返るとして、世界の四大文明を見てみましょう。エジプトはナイルの賜物といいます。毎年のナイル河の氾濫で、上流のアフリカ奥地のジャングルから肥沃な表土が大量に齎(もたら)され、そこで農耕文明が繁栄する。ナイル・デルタは扇状地、つまり沖積低地そのものです。インダス文明、黄河文明、みな同様に大河のほとりで発生しました。メソポタミア文明にいたっては「メソ」=中間(メゾソプラノ、なんていいますよね)「ポタミア」(ヒポポタマス=河馬のポタマスと同語源。水、河)名前からしてつまり河の中間の文明で、チグリス川、ユーフラテス川という二つの豊かな流れに挟まれた「肥沃な三角地帯」である沖積低地で、定住農耕文明が栄えたのにほかなりません。太古の都市文明は、その殆どが沖積低地の上に成立している。
沖積低地は柔らかい地盤ですから、上に都市文明を作ったとき、地震に襲われると揺れがひどく、損傷が著しい。メソポタミア古代の伝承である「バベルの塔」の崩壊神話は、こうした地学的な「地盤」の上に成立する、史実に基づくものと思われます。それがもっと如実なのは「ノアの洪水」でしょう。神から啓示を受けたノアたち一家は箱舟を作り、押し寄せる洪水を箱舟上に避難することで乗り切ります。最終的にノアの箱舟が流れ着いたのはアルメニアのアララト山頂といわれます。そこまで高くはないにしろ、山の上に船が流されるという記述から、ノアたちが経験した「洪水」は、かなりの確率で津波だったと思われます。記述の具体性から、これらは現実にあった水害、津波被害に基づいて語り継がれるようになったものでしょう。
神話を決してバカにしてはいけません。そこには、約8000年に渡って人類文明が経験してきた巨大災害の記憶が残されている可能性があります。もし本当にまじめに「1000年に一度の災害にどう備えるか?」と考えるなら、第一に検証すべきひとつに、数千年に渡って人類が記してきた記録、神話や伝承があると思います。
むろん高地に作られた文明など例外もあると思いますが、人類発祥と定住農耕文明の原点に近い「古都」に関する限り、大河の氾濫や大洋の津波など、水の害を受けやすい立地にあることが多いといえそうです。
動かぬ証拠:津波堆積物
東京大学理学部の茅根先生は言われます。沖積低地をボーリング調査してゆくと、一定の間隔を置いて貝殻や砂の層が現れる、と。
どうして、元来は深い入り江だった場所の地面をボーリングすると、砂や貝殻が現れるのか? それらはどこからやってくるのか? ・・・普通に考えて、海から来ると思うのが自然でしょう。こうした地層の堆積物は「津波堆積物」と呼ばれているそうです。一定の頻度で起こる巨大地震と、それに伴う津波は、太古からの地層の中に確実にその歴史を刻んでいる。
神話など人間が遺した記録とともに、堆積物という動かざる証拠、つまり「災害の物証」を、あるがままに謙虚に、精緻に正確に検討するなら、ひとつの結論が導かれるでしょう。
「海辺の沖積低地は、コンスタントに津波に襲われ続けてきた」
いままで何百、何千年、そうであったのと同様に、今後何十、何百年が経過しても、地球全体の気候風土が激変しない限り・・・例えば遠い未来、再び氷河期に突入して、海面が100メートル下がったりすれば、話は変わってきますが・・・その土地の基本的な属性として「水害に弱い」「地震に弱い」という特徴がある、と最初からわきまえておくのが、科学的な態度だと思うのです。
もっと大雑把に言ってしまうなら「平野」と呼ばれる地域の大半は、岩盤としては谷間に当たる部分に、土砂やら何やらが降り積もって、ちょっと平らになっているというのが実情で、その一番上の表土が肥えていることで、私たちは田畑を耕し、第一次産業つまり農業生産を行うことが出来るのに他ならない。こうした人間社会の拠って立つ地盤、基盤を、大本から考え直し、国土交通計画、エネルギー供給計画の全体を、根本的に再反省してみる必要があるのではないか? そのように思います。
日本全国の海辺の土地では「ここより浜側に家を作るべからず」という言い伝えがあり、何百年という間、私たちの祖先はそれを守ってきた。言い伝えが軽視され、ウオーターフロントが本格的に開発されるようになったのは戦後、高度成長期、ないし安定成長に入り第三次産業が拡大してきた、ごくごく最近のことだと、再認識する必要があると思います。
現場を見よう・・・相馬・原釜地区のケース
急峻な岩山。石切り場になっている(相馬市にて)
前回は先に古地図や航空写真で全体像をつかむようにしましたが、今回は現地を見てみることにしましょう。陸前高田と同様の地理的条件を持つ、全国いたるところにある場所のひとつとして、相馬の現場を確認してみます。
福島駅から伊達市の横を経て真西に進んでゆくとだんだんと海岸線に近づいてきます。岩山である霊山を越えると、谷あいがだんだん開けてきます。山と山の間には小川が流れ、川沿いには田が作られている。のどかな田園風景です。
この谷あい、海抜100メートルはないでしょう。ということは、いまより100メートル海抜が高ければ、ここも深い入り江になるはずです。例えて言えば長崎、諫早湾のような場所だったのかもしれない。それがいまではこんな山の田んぼになっている。
山と山に挟まれた谷あいの田んぼ(相馬市にて)
山あいから太平洋を目指す(相馬市にて)
山田の脇を太平洋、相馬港を目指して進んでゆきます。道に沿ったエリアはずっと田んぼ続き、つまりこんな場所も、実は「海辺の田んぼ」、典型的な「沖積低地」なのです。家は山際に作られている。田んぼは広く、そのまままっすぐ海岸線まで続いています。
相馬港に隣接する田地。遠くに見えるのは浜の松原
ところが、もう少し海側に進むと、平地は平地なのですが様子が変わってきます。地面が整地されていたり、アスファルト舗装が施されたりしている。しかし建物はほとんど何もない。
明らかに、かつて海辺の田んぼだったとわかる場所がアスファルト舗装されている。倒れているものをよく見たら・・・
舗装された地面の脇に何かが倒れたままになっているので、近づいてみてみたら交通を示す青い看板の支柱が津波で破壊されたものでした。
津波で破壊された、交通を示す標識柱。田んぼの側だったので、露骨に水圧を受けたと思われる。少し離れた反対車線用のものは立って残っていたが、圧力のため歪んでいた
さらに進んでゆくと・・・ぽつぽつと家が見えてきました。海辺の田んぼが都市化、宅地化し始めたのか、と思ったのですが、車を降りてみてそうではないことに気がつきました。「家がある」ではなく「流されなかった一部コンクリート製の家が残っている」というのがたぶん正確で、そのあたり一体が3月11日までは一面、宅地だった。そしてその大半、軽い家屋はすべて津波で流されてしまった。その跡地と判りました
遠目には家がポツポツ建っているように見えたが、実際には基礎だけが残され、市街全体が津波で流されてしまっていた
一面、比較的新しく建てられたと思われる、家の基礎だけが残った被災の跡地。古代の遺跡と変わらない、四角い基礎だけの連なりが、浜辺の堤防の直前までぎっしりと続いていた、相馬市原釜地区近辺の状況を確認、改めて言葉を失いました。
海岸道路直前の堤防まで、ぎっしりと家が林立していた様子を示す、基礎だけが残る家屋の跡
古地図や航空写真で全体像を鳥瞰し、時代時代の土地利用の移り変わりを見るなら、こうしたウオーターフロント開発の危険性は一目瞭然です。しかし、日ごろ見慣れた海岸線の道路際の町並みをみて、少なくとも私はそこにリスクなどまったく感じることがありませんでした。
町並みが変わり、景観に変化があっても、その土地の地理的条件が変わるわけではありません。相馬の少し北のほうには貝塚があります。また南に下ればちょっと珍しい「前方後方墳」である桜井古墳が、南相馬市立総合病院のすぐ近くに立っています。このあたりは石器時代この方、人類が住むのに適した、すばらしく豊かな土地だった。容易に耕せる農地、豊富な海産資源。おおくの人口を養うのに適した、広い農地。第一次産業が地域社会の根幹をなしていた、先史から明治大正、昭和初期までの長い長いあいだ、海辺の畑や田んぼは、農作物の豊かな恵みを齎すとともに、そこに人が住んではいけない「水の土地」だった。なぜなら、水が来るから。
これが、減反が政策的に実行され、農地が組織的に第二次産業用地に転化されるのは戦時中から戦後の高度成長期にかけてのこと。さらにこれらの土地の宅地化や観光開発など、産業の主流が第二次から第三次に移行してゆくのは、本当にごく最近のことに過ぎません。
基礎だけが残ったエリアでは、あきらかにそれとわかる、大手コンビニエンスストアチェーン特有のタイルなども目にしました。プレハブの建屋は跡形も残っていません。そんな中、あれだけの津波が来ても、浜の松原はほとんど姿を変えていないとのことでした。その強さと、人間の作った精緻な工夫の脆さ、弱さ。私たちが忘れていたこと、決して奢り昂ぶっていたわけではないと思うけれど、それでも近代文明の力を過信し、地誌に配慮しなかった弱点、盲点を、考え直してみる必要があるのではないか? そう思わずにはいられないのです。
もと「海辺の田んぼ」に立つ工場と、流された宅地の跡。変わらぬものは海辺の松原
(つづく)
伊東 乾の「常識の源流探訪」
私たちが常識として受け入れていること。その常識はなぜ生まれたのか、生まれる必然があったのかを、ほとんどの人は考えたことがないに違いない。しかし、そのルーツには意外な真実が隠れていることが多い。著名な音楽家として、また東京大学の准教授として世界中に知己の多い伊東乾氏が、その人脈によって得られた価値ある情報を基に、常識の源流を解き明かす。
⇒ 記事一覧
伊東 乾(いとう・けん)
1965年生まれ。作曲家=指揮者。ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督。東京大学大学院物理学専攻修士課程、同総合文化研究科博士課程修了。松村禎三、レナード・バーンスタイン、ピエール・ブーレーズらに学ぶ。2000年より東京大学大学院情報学環助教授(作曲=指揮・情報詩学研究室)、2007年より同准教授。東京藝術大学、慶応義塾大学SFC研究所などでも後進の指導に当たる。基礎研究と演奏創作、教育を横断するプロジェクトを推進。『さよなら、サイレント・ネイビー』(集英社)で物理学科時代の同級生でありオウムのサリン散布実行犯となった豊田亨の入信や死刑求刑にいたる過程を克明に描き、第4回開高健ノンフィクション賞受賞。科学技術政策や教育、倫理の問題にも深い関心を寄せる。他の著書に『表象のディスクール』(東大出版会)『知識・構造化ミッション』(日経BP)『反骨のコツ』(朝日新聞出版)『日本にノーベル賞が来る理由』(朝日新聞出版)など。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。