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日経ビジネス オンライントップ>$global_theme_name>次の巨大災害への備えはあるか
首都直下型地震が起きれば日本は破綻する
まずは大災害で経済社会が激変するという認識を持て
2012年3月14日 水曜日
家入 龍太
東日本大震災から1年が経った。マグニチュード9の激震は、「1000年に1度」とも言われる巨大な津波を引き起こし、東北地方の太平洋側を中心に広域にわたって甚大な被害をもたらした。津波による死者と行方不明者は約2万人に上る。
今後も地震だけでも首都圏直下型地震や東海・東南海・南海の3連動地震といった大規模地震の発生が予想されているほか、洪水や台風、火山の噴火などの自然災害に感染症のパンデミック(世界的大流行)、テロと、社会経済に深刻な影響を及ぼすリスクが日本には山積している。にもかかわらず、震災から時間が経過するとともに、危機意識が薄らぐ傾向が見え始めている。
今回の連載では、東日本大震災がこの国に突きつけた課題を受けて、防災やリスクマネジメントの専門家に、日本で起こり得る災害のリスク、そして社会や企業、個人の備えはどうあるべきかを聞く。
初回の今回に登場していただくのは、政府が設置した東日本大震災復興構想会議の委員を務める河田惠昭・関西大学社会安全学部学部長。東日本大震災が起きる前に、近著『津波災害─減災社会を築く』(岩波新書)で大津波による被害について警鐘を鳴らしていた河田学部長は、人々から巨大災害に対する危機感が薄れている現状を憂慮し、日常から取り組むべきことを具体的に示す。
(取材構成は、家入龍太=フリーライター)
東日本大震災後、復興庁が発足し、23兆円規模の第3次補正予算も成立した。事後処理として抜けているものはないと言えるだろう。がれきの処理など遅れているものも確かにあるが、時間やお金が足らないというレベルの問題で、抜本的な課題は残っていない。
災害に対する危機意識を政権内部で共有
2011年10月11日には政府の中央防災会議の新たな専門調査会として「防災対策推進検討会議」が設置された。この会議には閣僚が最初から8人参加。ここで5つのことを議論している。
1つ目は首都直下型地震対策、2つ目は東海・東南海・南海地震対策、3つ目は大規模風水害対策の見直し、4つ目は全国に広域避難している被災者10万人以上に対する不十分な対応の例ともいえる災害救助法や災害対策基本法の法制の見直し、そして5つ目が東日本大震災で取った政府の対応が良かったかどうかの検証だ。
この調査会はこれまで5回開かれており、3月7日に中間報告を決定した。今夏には5つの課題について、最終報告をまとめる予定だ。
これまでの調査会と違うのは、閣僚が8人も入っていることだ。藤村修・官房長官が座長を務め、平野達男・東日本大震災総括担当大臣と中川正春・防災担当大臣が座長代理として入っている。学識経験者だけではないので、政策に展開できるスピード感が、これまで以上にある。災害に対する危機意識は以前に比べると随分と高くなり、政権の中で共有できている。
江戸から明治への転換は、僕たちが日本史で習ったように外圧と内圧で変わったのではない。1854年12月23日、24日に安政東海・安政南海地震が32時間差で起こり、翌1855年11月11日に安政・江戸地震が起こって1万人余りが亡くなり、1万5000戸の家が倒壊した。さらにその翌年、1856年9月23日に東京湾を台風が襲い15万戸の家が倒れた。東京には当時、18万戸しかなかったので、大半の家が壊れたことになる。
この3連発の複合災害で、江戸幕府の行政能力は大幅に低下した。ペリーの黒船来航や、薩長(さっちょう)の尊皇攘夷(じょうい)などよりも、実はこれらの災害が江戸幕府の倒れる要因だったのだ。
大阪に津波が来ると地下鉄全線が水没する
今回も東日本大震災だけでなく、さらに首都直下型地震などが起これば大変なことになる。被害額は東日本大震災の5倍くらいになる。日本は立ち行かなくなってしまうだろう。日本の国債も8割を日本人が持っているので安心だというが、もし、「ダメだ」と売りに出したら大変なことになる。大きな災害で社会・経済情勢が激変するという前提に立っていないのが問題なのだ。
河田 惠昭(かわた・よしあき)氏
関西大学社会安全学部教授・同学部長。1946年生まれ。74年京都大学大学院工学研究科博士課程土木工学専攻を修了し、工学博士号を取得。京都大学防災研究所教授、同研究所長などを経て、2010年4月から現職。2011年4月に東日本大震災復興構想会議の委員に就任。主な著書に『津波災害─減災社会を築く』(岩波新書)など(写真:陶山 勉、以下同)
災害への危機意識が希薄なのは大阪だ。東海・東南海・南海地震の3連動が起こると、マグニチュードはこれまで想定していた8.7より大きな地震となり、もし南海地震のマグニチュードが9.0なら大阪湾に到来する津波の高さはこれまで想定していた2.4メートルの倍となる5メートルになることが予想される。
JR大阪駅や難波からは海が見えないが、このあたりはゼロメートル地帯だ。もし高さ5メートルの津波が来ると、堤防を乗り越える。
安治川、木津川、尻無川の河口には船が通れるように跳ね上げ式のアーチ型水門が付いている。これで高潮を食い止められるので、その内側にある河川堤防の高さは1メートル程度低くしてある。これまで、高さ2.4メートルの津波が来ても、大阪市の中心部を流れる堂島川や土佐堀川の護岸はそれより20センチメートル高いということで安心していた。
ところが、マグニチュード8.4より大きな地震が起こったら、海岸の堤防からではなく大阪の中心部を貫く川の堤防から、水があふれてしまうのだ。浸水するスピードは相当に速いだろう。こうしたリスクを府民も市民もほとんど知らない。
平野の下に造られた大阪市営地下鉄も危ない。大阪市は1934年の室戸台風、1950年のジェーン台風、1961年の第2室戸台風で高潮氾濫水害を受けているので、地下鉄への出入り口は、止水板を取り付けることによって水深75センチメートルまでは水が入らないように設計されている。
大阪管区気象台は高潮がやってくる6時間前に高潮警報を出すことになっている。河口の水門は30分あれば閉められるが、港に停泊している船を川筋に逃がすのに時間がかかる。つまり6時間で地下鉄の出入り口の閉鎖や船の退避逃が可能だと思われてきた。
ところが南海地震が起こったら、津波は2時間で来る。津波による市街地氾濫が起こったら水深は75センチメートルどころではない高さになる。そうなると、地下鉄に流入する水をコントロールする術はなくなる。そして、その水は地下鉄のトンネル全線を浸水させてしまうのだ。
東京メトロは、トンネル内に水門が10カ所、取り付けてあるので全部が水没することはない。それに対して、大阪市営地下鉄は電車が地上へ出る阿波座と中津、八尾に水門があるだけで、トンネル内には水門がゼロだ。
例えば、本町あたりから水が入ったら、止めようがない。地下鉄が黒字になったからといって、料金を20円下げるのではなく、水門やゲートなど、安全対策にもっと投資するべきだ。これは政治家の務めである。
東日本大震災やタイのチャオプラヤ川の洪水では、サプライチェーンが大きな打撃を受けた。タイではまだ工場の生産が再開していないこともある。津波による2次的、3次的な被害もあることは、政府もよく分かっており、3月7日に出された防災対策推進検討会議の中間報告にも記載されている。
東日本大震災から1年がたち、被災地以外では危機感も薄れがちになりがちだ。意識の格差が大きくなっていることは心配である。私は2010年12月に「津波災害─減災社会を築く」(岩波新書)という本を出版した。
初版1万8000部の帯には「必ず起こる」と書いていたところ、約3カ月後に東日本大震災が本当に起こってしまった。その後の版では、さすがに帯の文言も変えてしまった。昨年3月11日以降、微小地震が増えているので、危機意識を持ち続けてほしいと思う。
すぐに避難すれば助かるのに家に残る人が多い理由
この本で私は、津波は「避難すれば助かる」と書いた。東日本大震災で内閣府と国土交通省が調査したところによると、それぞれ40%近い住民がすぐに避難していなかったことが分かった。
内閣府は生存者870人に調査した。うち、いったん家に帰った人が31%いた。すぐに逃げた人は57%、津波に追いつかれたり水の中を逃げたりした人は11%もいた。もともと安全なところにいたという人はたった1%だった。
国交省は昨年12月に4400人にヒアリング調査した。28%は当初、避難しておらず、11%は津波が来たのを見て逃げた。この39%は危なかった。40%近い人たちは、積極的に逃げていない。これを何とかしなければいけない。
ただ、ことはそう簡単ではない。宮城県石巻市では3777人が亡くなった。うち約1000人はクルマの中で亡くなった。松原地区は津波の高さは6メートルくらいだったが、市内で最も多い93人が亡くなった。うち3分の2は女性だった。家の外で亡くなったのは6人で、87人は家の中にいた。亡くなった年代で多いのは80歳代で36人、70代、60代と続く。
ここで問題なのは、避難勧告が早く出たかどうかということではない。避難場所の小学校までの距離は800メートルあった。亡くなった人の最高齢は98歳のおばあちゃんだった。とても800メートルは歩かせられない。危機意識がないために家にとどまるのではなくて、高齢のため遠い避難場所まで歩けないのだ。家の中にいたという理由の大半は、そんな理由だったのだ。
また、松原地区はもともと松林だったところを切り拓いて造成された住宅地だったため、他の地区から移り住んできた人が大半だった。つまり、住民に津波の経験はなかった。陸前高田も同様だ。津波に対する未体験による被害という側面が大きかった。
逆に助かり、避難所で顔を合わせた人たちは、いつも避難訓練に参加している人ばかりだったという話もある。避難訓練に参加していなかった人は逃げていないのだ。
僕が言いたいのは、避難訓練に参加して体を動かせということだ。いくら頭で分かっていても、いざという時に体が覚えていないと動けない。
訓練で98歳のおばあちゃんを車イスに乗せて押してあげたり、避難する時に誰のクルマに誰が乗るのかをちゃんと決めておいて台数を減らしたりすることも必要だろう。
そしてルールを守る訓練も行わなければいけない。今回の生存者のうちクルマで逃げた人は生存者の57%だった。そのうちの30%が渋滞を経験していた。山道があっても、その入り口でクルマを適当に停めて逃げたのではその後に渋滞が起こり、後の人たちが逃げられなくなる。2003年の十勝沖地震でも同じようなことが起こった。山に抜ける道路が渋滞し、結局60キロも走ってきた根室ナンバーのクルマの人がいた。
そこで山道の入り口にフラッシュライトなどを付けた道路標識を設置し、3キロ先までは停まってはいけないなどルールを作り、守ることが大切だ。そのためには速度制限や進入禁止など、日常の交通ルールだけを考えた交通標識ではなく、浸水しているから行ってはいけないとか、非常時の避難のことを考えた標識を作ることも考えなくてはいけない。
英ロンドンのテムズ川河畔には堤防がないため、河畔に降りる道には洪水時に「このフラッシュライトがついている時は、これより先に行っては行けない」という標識がある。道路標識は防災や減災のためにも使う必要がある。
個人レベルでも日頃の行動に工夫を
阪神・淡路大震災でも東日本大震災でも同じことが言えるが、災害時には日頃からやっていることしかできないのだ。これは行政レベルから個人レベルまでに言える。
東日本大震災から1年たったが、各県と被災自治体との連携はほとんどない。国と県もそれほどうまく連携していない。それは、がれきの処理を巡っても分かる。行政レベルの連携は文化のようなものだ。だから、宮城でも岩手でも連携がうまくいっているのは土木や建築だけだ。
土木では道路を作る、川を改修するといった時、地元の了解が不可欠なので、県道工事でも市町村と協議する。災害には「現場」がある。日頃から現場を持っていた土木や建築は災害時にも地元との連携が機能するのだ。逆に県の総務や企画などの部署は、日頃から市町村と連携していないから失敗する。
災害時には日頃からやっていることしかできないということは、個人でも言える。例えば安否確認も電話でしかできないような生活をやっていたのではダメだ。家族の間でも、それぞれのメンバーが何時から何時まで、どこに行っている、という情報を共有していれば、安否確認は簡単になる。
東京ディズニーランドなどに遊びに行った時でも、はぐれた場合に備えて待ち合わせの目印の場所を2カ所決めておき、バラバラになった時にそこに集まる。15分待って来なかったら、もう1つの場所に行く、というようなことを決めておけば、災害時にも安心だ。ローテクな方法だが、確実だ。
このほか、クルマのガソリンが半分に減ったら満タンにしておくとか、トイレには常に早めに行っておくといった日頃の行いも非常時に役立つ。また、震度6弱以上の地震が起こったら公衆電話は無料になるが、そこでも1人3分で交代するといったルールを作り、守っていくことが重要だ。
(次回は3月16日、海洋研究開発機構の金田義行・地震津波・防災研究プロジェクトリーダーのインタビューを掲載します)
このコラムについて
次の巨大災害への備えはあるか
東日本大震災の発生から1年。未曾有の巨大災害の鮮烈な印象は次第に遠のき、災害に対する危機感も徐々に薄れてきてはいないか。
しかし、首都直下型地震や「東海・東南海・南海」の3連動地震といった次の巨大災害のリスクが消滅したわけではない。新たな脅威に対する備えはどうあるべきか。改めて災害やリスクマネジメントの専門家に聞く。
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著者プロフィール
家入 龍太(いえいり・りょうた)
家入 龍太 建設ITジャーナリスト。京都大学大学院で耐震工学を研究し、日本鋼管(現・JFEホールディングス)で地震時の地盤液状化対策などに従事。その後、日経BP社に転職し日経コンストラクションやケンプラッツの編集などを務めた後、2010年フリーに。中小企業診断士や関西大学非常勤講師としても活動している。公式ブログ「建設ITワールド」のほか、ツイッターやfacebookでも発言している。
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日経ビジネス オンライントップ>企業・経営>被災地に通い続ける派遣社員兼画家の描いた1年
第6回 広がり始めた震災破たん、時間はもうあまりない
2011年7月23日(土)岩手県上閉伊郡大槌町にて
2012年3月14日 水曜日
鈴木 誠
岩手県大槌町は遠洋漁業や捕鯨の町としても名高い。
この第72昭栄丸も震災直後に津波で打ち上げられた大型遠洋船だ。
「汽笛はもう鳴らない」(岩手県上閉伊郡大槌町)
草原の中に朽ち果てたこの船を見た時、汽笛がふたたび鳴る日がくるのだろうか…と思い、この題名をつけた。
大型遠洋船・第72昭栄丸(2011年7月)
しかし、昨年末、盛岡での展示会の様子をテレビで見た船主から私に 連絡が入った。
「この船はドックまで曳引されて現在修理中になんです。もう少しし たらまた漁に出られるようになりますよ!」
そして、同様に打ち上げられた船のひとつはすでに復帰しサンマ漁に参加したとのことだった。
自分のつけた絵の題と現実は逆になったことが、とてもうれしかった。汽笛はまた鳴ったのだ。
海上七夕船・大船渡丸(2011年6月)
気仙沼でも打ち上げられた船が散在していた(2011年7月)
しかし、今年1月頃、この船が所属する大槌町漁業協同組合は約10億円の債務超過で経営破たんした。
現地の水産業をいかに支えるのか。時間が経てば経つほど、対応は難しくなる。このような震災破綻が、いつほかの漁協でもおきておかしくない。時間がもうあまり残されていないことを伝えていきたい。
4月27日(金)から5月7日(月)まで、宮城県南三陸町の「ホテル観洋」で開催される「東日本大震災の記録展」にて当掲載分を含む油絵が展示されます。
このコラムについて
被災地に通い続ける派遣社員兼画家の描いた1年
東日本大震災発生後から、被災地に入り風景画を描き続けてきたビジネスマンがいる。その数は、1年間で30枚。普段はIT関係の仕事に就きながら、現地に入り、1枚につき数時間をかけて描き上げてきた。その間の現地の人たちとの交流などを通しながら、復興にむけて何が必要なのかを文字通り描く。
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著者プロフィール
鈴木 誠(すずき・まこと)氏
洋画家
1972年岩手県生まれ。東京理科大学理学部卒業後、IT関係の仕事などに就く傍ら、洋画家・倉橋寛氏に師事。入賞・入選多数。所沢市美術連盟会員。今回の被災地での取り組みについてはテレビ、新聞などでも報じられているだけでなく、各地で展覧会も開いている。
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