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(回答先: 自己の感性を取り戻す探求の旅 1.8 投稿者 金十字架 日時 2014 年 10 月 08 日 01:04:47)
自分の思想、主義、考えとするものによって人は成長が促されます。
そしてまたそれは衣服と同じで、自分が変化していく過程にあっては、
それらはすべて自分の身にどんどん古く小さなものとなっていくように感じられます。
故にその都度、成長する度に自分の身の丈に馴染む衣服を求めるのは自然な事です。
人は"衣服に着られ"るもの。
学生、看護士、公務員、警察官、政治家、裁判官、検察官、
もしくは、青年、壮年、老年、大衆、学者、権威者、無職、
それら肩書きを無視しない場合、そうした「衣装を着る」事により、
にわかにそれに見合った経験のパターンが意識に加わるようになります。
自分がそれを求めている段階において、成長とは見込めるものです。
勿論それらは、価値観を共有する者のみに通用する社会常識と云った、
固定観念の枠組みの中でのみ有効とするものです。
「私は人である」「私は親である」「私は女である」といった観念もまた、
それら制服と同じで、それらはより身体そのもののように感じられるかもしれません。
そのように自分の中で当然すぎる主義主張は、核となる観念として、
その周囲には、よりその考えに正当性を付与する、様々な補強観念を引き寄せることとなります。
そしてやがてそれは巨大な恒星のように迄育ち、意識の中で輝きを放つようになります。
もし、その一人の意識の中に、それら恒星としての観念が二つ以上有り、
ひとつはもう一方に対立する観念として存在していたとする場合、
その矛盾性は自分の自然な振る舞いを制限し、抑え込むように働きます。
人類の持つ基本的な対極性の概念の中にあらゆるものは成長するとみるため、
それは大抵、善悪といった基本的な対立の構図を解釈するものとして見る事が出来ます。
例えば、「私は善人である」と云う観念を主要な成分として持っていた人が居たとします。
そうすると、その人の中には同時的に「善」という概念にまつわる様々な観念を呼び寄せ、そこに際立たせることとなります。
もし、そこでその人の意識に、「善人は貧しい暮らしを送っている」と云った考え方が自然な考えとして入り込んできた場合、
それは、「悪人は金もちである」という別の考え方から齎された観念であるかもしれません。
すると、自分がお金を持っていない事が、何となく正当な根拠に支持されているかの様に感じられるかもしれません。
更にそこでは、楽をしてお金を手に入れる事に葛藤を覚えたり、
逆にお金を持たない事が気が楽だ、という考え方以外は普通ではないと云う事になります。
もし、そこで当人がお金持ちである場合、比較的労働をせず大金を得る事に罪悪感を覚えたり、
社会に正当性を訴える必要性に駆られたり、また開き直った態度をとるかもしれません。
そしてまたそうした考えの元では、貧しい人の怒りは善側、つまり正義の声だと云う事になります。
そのように、そこには更なる正当性を与える考え方が引き寄せられてくる事となり、
それらが集まって、ひとつの巨大な価値観を形成するのです。
つまりそうした考え方を受け容れ、尚かつそうする必要を感じていれば、
更なる実感に至る為に必要な出来事が、その人の経験として呼び寄せられ、具現化すると云う事です。
謂わばそれは、人が倖せと云うものを掴むには、社会では大金が必要だと考えている事がある訳で、
それに対して、もう一方ではそこに必要な行動パターンを採らせないように、
対立観念が無意識的に割り込み、自然な行動を抑制するように働いて居ると云う訳です。
どちらの観念も意識の中では恒星の様に大きな輝きを放っているのに、
その人はそのどちらのエネルギーをも自然に運用する事ができず、
敢えて、対立した考えに挟まれて、事ある毎に行動を切り替えて、
不活性なエネルギーに転換したもののみを取り出し、利用する他無くなります。
そこには感性と理性の対立と云ったような、
善悪の概念による対立観念が強く影響していると云う事が理解出来る筈です。
しかしその考えのどちらも自分の自然な振る舞いとして産まれたものであり、
どちらかが自分の中から消し去らなければならない「悪」とするものなどでは無いのです。
つづく―
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