http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/830.html
Tweet |
「委奴」は、イト国とナ国の連合で、現在の(イト=糸島地方)と(ナ=博多あたり)に存在したと考えている。
イト国は、三国志魏志東夷伝倭人で伊都国と書かれ、「世々王あり」と説明されているところである。(ナ国は奴国と表記されている)
この伊都国の何代か前の王が金印を得たと思われる。
このような見方は、「まぼろしの邪馬台国」で宮崎康平氏が提示している。イナ国で米作が広まったことから稲をイネと呼ぶとも説明されている。また、今は糸島半島であるが、糸島はれっきとした島であった。金印が発見された志賀島は、糸島と博多湾を挟んだ位置関係にある。
三国志魏志東夷伝倭人に書かれている「倭国大乱」は、イナ国の王権が崩壊し、共立された邪馬台国卑弥呼の王権が成立するまでの政治的対立期間を指していると思われる。
このような争乱を考えれば、イナ国の王権にとって権威の象徴であり政治的に極めて重要な金印が志賀島に埋もれていたとしても不思議ではない。
金印の真贋については、組成分析などでわかるが実施していないので不明。
====================================================================================================
[芸術と科学のあいだ]
(18) 金印、真偽の謎を越え燦然と
福岡伸一
バランス、対(つい)、版画、鏡文字、印影。そんなキーワードで世界の芸術と科学の足跡を眺めてきたが、印影といえば、わが国にもたいへんなお宝がある。
それは福岡市博物館奥の特設ガラスケース内に鎮座している。金印である。文句なく国宝。一辺23.5ミリ。もし手のひらにのせることがかなうなら、100グラムを超えるその重さに感動することだろう。
誰もが歴史の教科書で習ったとおり、金印は1784年、農民・甚兵衛が志賀島の土中からたまたま発見。貴重なものと直感し奉行所に届け出た。黒田藩の学者、亀井南冥(なんめい)はその印影から、これが、3世紀、後漢書東夷(とうい)伝にある「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」印であることをたちどころに言い当てた。すばらしい該博ぶりと見事な慧眼(けいがん)だった。南冥はこの功績で黒田藩校館長の地位を確固たるものとする。金印は代々黒田家が預かり、これが後に博物館に寄贈された。
ところが……なんとこの金印、偽物ではないかという風説がある。南冥の話は出来すぎているというのだ。
南冥は、黒田藩内のライバル学者に競り勝ち、自らのプレゼンスを一挙に高めたい野心があった。そこで書家、鋳物師、彫師などプロ集団と組んで一大プロット(陰謀)を仕掛けた。それが金印発見だった。そういわれてみると、長年土中に埋もれていたにしては金印には傷一つない。そもそも九州本土にあったはずの委奴国が授かった金印がどうして志賀島で見つかったのか。南冥はその後、突然、謎の失脚を遂げる。それもこの陰謀説に真実味を与える。
事の真偽を確かめる方法は科学的にはシンプルだ。金印を一部削り取り、それを元素質量解析と同位体分析にかける。すると金の由来と年代がわかる。ただし国宝にそんな毀損が許されるはずもない。かくして謎は謎のまま、金印は今も燦然(さんぜん)と輝く。
(生物学者)
写真は金印の複製、アフロ提供
[日経新聞6月15日朝刊P.36]
▲上へ ★阿修羅♪ > 雑談・Story40掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。