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(回答先: 飯場日記 2003年8月19日から9月1日 (みいらかんす) 投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 6 月 14 日 21:03:59)
http://www.geocities.jp/miirakansu/day_laborer.htm
怠け者の社会学
―もう一つの日雇い労働者のつくりかた―
はじめに
このコンテンツはかつてwebマガジン factreeで連載していた「日雇い労働者のつくりかた」の続編にあたります。
続編と言ってもその構成は大幅に異なるものになるのではないかと思っています。メインタイトルに「怠け者の社会学」とあるように、今回は「日雇い労働者」を題材としつつ、「怠け者」についての社会学的考察を目指しています。
「社会学的考察」といっても何のことやらよくわかりませんが、僕ももう何年も専門的な社会学のトレーニングを受けているし、何本か社会学の論文を書いているような者なので、「社会学的考察」を志向してもそう無理はないのではないかと思います
また「日雇労働者のつくりかた」の続編と言いつつも、今回対象とするのは「飯場労働者」ということになりそうです。飯場労働者は「日雇い」だし、寄せ場の日雇い労働者は飯場でも働くのでどちらも似たようなもので、同じものだと言っても構わないのですが、どのように呼ぶのかという問題はやはりあります(かつての僕は「飯場労働者のつくりかた」というタイトルでは書けませんでした)。
何やらややこしいことを言いつらねていますが、本文の記述自体は相変わらず実際的な文章でつづりたいと思います。ややこしいことを言いつらねたイントロダクションを書いてしまう事情もあるにはあるのですが、これらの事情については本文の中でおいおい触れていくことにしましょう。
2009年8月
第1回 怠け者とは何か
■なぜ怠け者について考えるのか
この「日雇い労働者のつくりかた」というのを書くにあたって、毎回書き出しをどうするのかということが課題になります。これだと思える書き出しを思いつければあとはすらすらと半ば自動筆記のように書き進められます。しかし、この書き出しが決まらないばかりにいつまで経っても書き出せず、何ヶ月も過ぎてしまうということがありました。本来1年くらいで終わる予定の連載が足掛け3年もかかったのはそういうわけです。
しかし、今回はそんなに悠長にやっている場合ではありません。というのは、今回の「日雇い労働者のつくりかた」は具体的な論文作成のためのものだからです。
前の時も「修士論文執筆の準備作業として」とか「修士論文からこぼれ落ちるエピソードを拾い上げるため」といった目的があるにはあったのですが、あまり実際の論文執筆の役には立ちませんでした。今回はすでに締め切りが差し迫っている論文執筆のためにこれを書いています。
すでに締め切りが差し迫っている論文のためにこんなことをしているのはすでに悠長なのではないかという気もしますが、何しろ僕は今スランプまっさかりで、こうでもしないと突破口が見出せないような心持ちでいるのです。
そして、今回の論文のテーマに「怠け者」ということが関係しています。この論文は「社会的排除」をテーマにした本の一部になる予定で、「排除のリアリティ」を伝えるようなものを書くことを求められています。
「社会的排除」というのがそもそもなんのこっちゃという感じですが、要は誰かが誰かを排除する背景とか仕組みを明らかにするということで、僕は「怠け者を排除する」ということについて考えてみようと思ったわけです。
■怠け者は排除されるのか
「怠け者を排除するということについて考える」と自分で言っておいてなんですが、はたして怠け者は排除されるのでしょうか。
怠け者は排除されるというより淘汰されるという感じがします。前提とされているのは努力を積み重ねることでよりよい身分や状況が得られるという競争原理で、努力を怠(おこた)る者はそうでない者に比べて不利な身分や状況におかれても仕方がないという考え方です。
これはいわゆる「自業自得」という考え方ですね。がんばればがんばった分だけ誰だって報われるのに、がんばらなかったのだから、どんな状況に陥ってもそれは自分の責任だというわけです。
しかし、「がんばればがんばった分だけ誰だって報われる」というのは本当でしょうか。確かにそういう面はあるのでしょうが、「誰もが等しく報われる」とは言えません。そもそも生まれ持った能力が異なるし、生育環境も異なります。「ものすごい努力家だが、要領が悪くてなかなか報われない」という人もいれば、「大した努力はしていないが、とても要領がいいので労少なくして得るものは多い」という人もいるでしょう。
とはいえ、仮に同じ条件の者同士を比較した場合には「努力は報われる」ということは言えそうです。
■なぜ努力をしなければならないのか
ところでそもそもなぜ努力をしなければならないのでしょうか。
「努力をすればするほどいい暮らしができるから」でしょうか。しかし、そこそこ暮らしていければ、別にいい暮らしなんてできなくていいという考え方もあるはずです。もっとも、そこそこの暮らしを送るためにはある程度の努力は必要になるのかもしれません。そう考えると、多かれ少なかれ私たちは努力しながら暮らしているということになります。
「努力をすればするほどいい暮らしができるから」という考え方は「努力を怠ると落伍者になる(だから努力が必要だ)」の裏返しでもあります。「落伍者」というのは集団から落ちこぼれた人間で、「集団が求める水準に達しないがゆえに見捨てられた人間」、「見捨てられても仕方のない人間」ということです。
ここに来て、「集団が求める水準」というものが登場します。ある集団の一員であるためには、その集団の目的を達成するために寄与する能力を一定以上の水準で持っていることが求められます。そして、一定以上の水準の能力を維持するための努力が求められます。
集団が求める水準が定められていて、これが努力することで誰にでもクリア可能なものだとすれば、努力を怠った者が集団から淘汰されるのは仕方のないことだと言えそうです。平等な条件と平等なルールに則って能力を測った結果、水準以下として切り捨てられるのを排除とは言わないはずです。学校のテストで60点未満が落第だとして、59点以下の人が「合格から排除された」とは普通考えません。
■排除とは何か
ということは、正当な基準以外の理由で、ある人から集団の成員の資格を奪う場合は「排除」だと言えるのではないでしょうか。
例えば集団に定員があって、集団が求める水準ギリギリのところで並びあっている人間が何人かいる場合、定員オーバーの人間を切り捨てなければなりません。集団の生産力には限界があって、一定以上は人員が増えても生産力が上がらないという場合が考えられます。集団を維持するためには定員オーバーの人員を切り捨てなければならないのですが、集団が求める水準ギリギリのところで人材が横並びになっている場合はどうやって切り捨てる人間を選べばいいのでしょうか。
このような状況になって初めて「排除」という視点からの議論が可能になります。例えば、年齢を理由に切り捨てる場合や性別が理由になる場合があるかもしれません。「将来性の有無」なんてものもあるかもしれないし、「日頃から努力する姿勢が見られるか否か」とか「素直に言うことをきくかどうか」などといった性格面に立ち入った判断が下されるかもしれません。
そして、僕が問題にしたいのも、この最後のあたりのことということになりそうです。「怠け者」には「怠け者は淘汰される」という自然淘汰的な扱われ方と、「怠け者は切り捨てられても当然だ」という排除を正当化する論理としての用法とがあるわけです。
前者と後者では「怠け者」の中身が異なります。前者が物事の道理を述べているに過ぎないのに対し、後者は「怠け者はいけない」という価値判断を含んでいます。怠け者はなぜ「いけない」のでしょうか?
■怠け者はなぜ「いけない」のか
イントロダクションで「本文の記述自体は相変わらず実際的な文章でつづりたい」と言ったくせに、理屈ばかりの第1回になってしまいました。結構長くなってしまったので、ここでいったん切りたいと思います。
「怠け者はなぜ『いけない』のか」を考えるためには、「怠け者とはどういう人間のことなのか」を考えなければなりません。この一つの答えは、すでに述べたように「努力を怠る者」のことです。しかし、これを排除という視点から見る場合、この定義だけでは現象を説明できません。
そこで次回からは「怠け者」がどういう人間を指すのかについて、飯場労働者の事例をもとに検討していきたいと思います。
別に読まなくていい今回の独り言
1)集団には必ず「求める水準」があるような書き方をしているが、これは利益集団の場合で、共同体の場合は必ずしもそうではないな。共同体内でも利益を追求する側面はある。しかし、水準を満たさないからといって切り捨てていいと単純には考えないのが共同体のはずだ。それも何だか本当かどうかわからんけど。ゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)というのは古い考えだけど、この概念を用いる意義はどこにあるのだろうか。テンニースがこの概念を用いて指摘したかったことは、この2つの対立関係だったのだろうか?
2)だから情意考課というどうとでも解釈できる人事考課があるのかな。
3)切り捨てる資格を持っているのは「集団の求める水準を高いレベルで満たしている者」ということになる。「集団の求めるもの」にはいろんなものがあるのだろうけど、誰かを切り捨てる、排除する「権力」を持てるのは質的ないし量的に集団にとって必要なものを持っている者だ。
4)正直言ってこの第1回はしんどいぞ。論点の整理という意味では必要な気がするが、論点の整理としても不十分に思える。あるいは結構しんどいテーマを取り扱っているということか。怠け者であることを理由に誰かを切り捨てることが、排除ではなく正当なことだと思われているメカニズムを明らかにしなければならない。この辺がややこしくて、僕は論文を書けないでいるのだろう。「このテーマだったら1回分は書けるな」と思えるテーマを1回1回クリアしていた前の「日雇い労働者のつくりかた」とはもう全然違うな。ゴールへの道筋がどうなっていて、道程がどれくらいかが分からないまま、手探りで書いていかなければならないということになる。
第2回 誰が怠け者か
体験談を交えながら分かりやすく書くが売りであるはずの「日雇い労働者のつくりかた」なのに、第1回目は概念整理的なものになってしまいました。頭にああいうものを持ってきて果たして読者はついてきてくれるのだろうかと不安になります。しかし、概念整理としてはまだまだ不十分な気もしています。いったい第2回目は何を書けばいいのだろうかと多少途方に暮れていたのですが、「『怠け者』がどういう人間を指すのかについて、飯場労働者の事例をもとに検討して 」いくと書きましたので、そういうことにします。
■どういう人間が怠け者か
寄せ場の労働者には怠け者イメージがあります。寄せ場という言葉になじみのない方はいわゆる「ホームレス」の人たちを思い浮かべてもらった方がわかりやすいかもしれません。「ホームレスは怠け者だ」とか「先のことを考えずにきたからホームレスになったんだ」という言説は巷に溢れています。日雇い労働者についても、何の本に紹介されていたのか忘れましたが、土方仕事をしている労働者を見かけた母子の会話で、子どもに対してその母親が「真面目に働かなかったら、ああいうふうになるのよ」と言い聞かせるという話がありました。「努力を怠ったがためにみじめな思いをする」という典型的な事例として日雇い労働者やホームレスの人達が見られていることがわかります。
また、彼らは現在の暮らし自体、怠惰に過ごしていると思われがちですが、実際は怠けていてはホームレスは飢え死にしますし、日雇い労働で生計を立てていくのはそれなりに大変なことです。前の「日雇い労働者のつくりかた」で触れたように、〈現金〉仕事に行くためには午前3時とか4時に起きなければならないし、仕事が終わって宿に帰り着くのは20時過ぎということにもなりかねません。空き缶や段ボールなどの廃品回収で稼げるのはよくて一日1,000円そこそこということです。
こういうことを言うと「でもあの人たちはそういう暮らしが好きなんでしょ」という反論が聞かれます。また「ああいう暮らしも自由でいいとも思う」と理想化されて語られることもあります。「組織に縛られていない」という点がよっぽどメリットに思えるのでしょう。
「ああいう暮らしも自由でいい」という言葉は、あたかも「個人の選択の自由の行使権」を認める中立的な立場であるかのように聞こえます。「あの人たちはそういう暮らしが好きなんでしょ」というのも、相容れないまでもその在り方を認めているようです。しかし、それならなぜ「真面目に働かなかったら、ああいうふうになる」という蔑みの対象になるのでしょうか。
違う考えをもった人のそれぞれ異なる意見だからと言ってしまえばそれまでです。しかし、よく考えてみると「ああいう暮らしも自由でいい」と言っている人も、実際に自分が同じ暮らしをしたいとは思っていません。この人たちはみんな日雇い労働者にもホームレスにもなりたくないのです。「彼ら」は「自分たちとは全く違った価値観や考え方を持った存在」として理解されているに過ぎません。
これに「努力を怠ったがためにみじめな思いをする」という見方を加味すると、この人たちは「自分自身も怠けるとああなる」と考えているという構図が見えてきます。また、どこかで「怠けたい」という欲求を自分自身持っており、しかしそういう自分を認めてはいけないという恐怖感のようなものがあるのではないでしょうか。
■それでも彼らは怠け者かもしれない
このように理解すると、日雇い労働者やホームレスを自分自身の恐怖心を包み隠すためのスケープゴートにしている(排除している)という構図が見えてきます。
しかし、もしかすると彼らは「本当に怠け者かも」しれません。彼らは「我々とは違う人間」である可能性は捨てきれません。これを検討するためには彼らの実態に迫ってみる必要があります。
そこで、ここでは彼らが労働現場でのどのような仕事にどのように取り組んでいるかについて見ていきたいと思います。言ってみれば、彼らの勤務態度を査定してみようというわけです(なんという上から目線)。
■何を評価するか
さて、「彼らの勤務態度を査定する」として、この査定というやつはどのように行えばいいのでしょうか。査定というものは評価基準を設けた上で、その達成度を測るものです。それならまず、評価基準を明確にしなければなりません。
我々が注目するのは、彼らが仕事を怠けているのか否か、怠けているのだとすればどの程度怠けているのかという点です。
「怠ける」というのは「やるべきことをやらない」ということなので、「やるべきこととは何か」が問われねばなりません。そして、「やるべきこと」というのは使用者(実際にその労働者を使って仕事をする人。雇用者)が決めることです。
そこで、まず使用者は労働者にどのように働いて欲しいと考えているのかを探っていきましょう。(2009年8月22日(土)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)「彼らの勤務態度を査定してみよう」などとわざわざ露悪的な書き方をしてしまうのは何となくその方が楽しいからだが、何が楽しいのだろうか。「査定してみよう」という上から目線で入っていった方が、その思い上がった態度がひっくり返る時に痛快だからかな。
いや、そもそも、人のことを「怠け者」ということ自体が上から目線を含んでいて、「査定」という言葉を使う方がその構図をはっきりさせられるからかな。
2)結局今回も体験談までたどり着いていないけど、まあこの辺が話のテーマ的に区切りとしてちょうどいいから仕方ないか。
第3回 使用者の基準
■手元仕事とか不熟練労働とか
日雇い労働者を使おうという人たちは彼らにどんな期待をしているのでしょうか。
前の「日雇い労働者のつくりかた」を読まれた方はすでにご存知のことかと思いますが、彼らが従事する日雇い労働(一般に「手元」仕事と呼ばれます)はそうそう簡単なものでもありません。
「土工はバカではできない」と言われるように、工夫したり機転を利かせたりすることが求められます。「不熟練労働」という言葉からは「大したことのない仕事」というちょっとバカにするようなニュアンスが感じられます。
実際はこの言葉にそんな意味は込められていないのでしょうが、「不熟練」というネーミングは「熟練」というものが「ない」ということですから、そこに「ある」ものを見えづらくさせる効果があるのかもしれません。そして「大したものはない」と思わせてしまうのではないでしょうか。
仕事は「熟練」だけで出来上がっているわけではないし、「熟練」以外のものもあるはずだし、「熟練」がある仕事の「熟練」以外のものと、「熟練」がないとされる仕事の「熟練」以外のものの在り方は異なるはずです。
■手元に何をさせたいか
「手元」という言葉には「補助的な役割」というニュアンスがあります。しかし、補助的な役割にもいろいろあって、「これを補助的な役割と言うのだろうか?」と疑問に思える仕事もあります。だから、僕は「日雇い労働=手元仕事」としたくありません。せいぜい「日雇い労働≒手元仕事」にしておきたいです。とはいえ「これは確かに補助的な役割だな」という仕事もあります。
基本的に一日毎の契約労働者である日雇い労働者にとって「明日も来てくれ」というのは、明確な肯定的評価だと言えます。「明日も来てくれ」と言われることは、「お前は俺の期待に答えてくれた」「お前は有能だ」というメッセージでもあるわけです。ある意味一人前と認められたようなものですから、いつかこの言葉をかけられるようにがんばろうと最初の頃、僕は思っていました。
ところが、割と早い時期に僕はこの言葉を聞くことができました。以前に書いた「飯場日記」の2003年8月21日のことになります。これは僕が初めて飯場に入って、働きはじめて2日目のことです。〈現金〉で働いた場合を合わせても日雇い労働を経験するのは4日目のことでした。そんな僕が一人前であろうはずがありません。さらに、「飯場日記」の14日間のうちだけで、僕はこの他に2つの会社の人からお呼びがかかっています。このことをどう考えればいいのでしょう。
誰でも構わない仕事だから呼ばれたのでしょうか?もし誰でもよいのなら、わざわざ続けて呼ぶ必要はないはずです。「同じ仕事なら既に一度経験している者の方が都合がいいから」ということは考えられます。しかし、どうもそれだけではなさそうです。
おっちゃんたちは「言ってもわからない」と社長は言う。扇風機を使えといっても絶対に使おうとしない。その挙句当然倒れてしまう。「使いにくくて仕方ない」「自分で自分の首を閉めているのに気付かない」のだと言う。その点僕はまだ言われたら改めるから「マシ」らしい。(「飯場日記」8月27日より)
この会社の社長さんがおっしゃるには、経験豊富なおっちゃんたちより僕の方が使いやすいのだそうです。僕もいろいろ間違うようですが、間違いを正すよう言えば改めるぶん、使いやすいと言います。つまり、「きちんと言うことをきく」ことが手元の評価ポイントの最低ラインなのだと考えられます。
■僕は経験豊富なおっちゃんたちより有能か
ということは、僕は経験豊富なおっちゃんたちより有能なのでしょうか。もちろんそんなことはないはずです。経験豊富なおっちゃんたちは経験豊富であるがゆえに言うことを聞かないのかもしれません。あくまでこの時の作業内容において、僕が使いやすかったというだけの話でしょう。
では、僕はどういう意味で使いやすかったのでしょうか。飯場での仕事の中にはある程度の技術を要するものもあります。例えば、前の「日雇い労働者のつくりかた」の第8回と第9回で「整地」という作業を例に、「どうしてできないことができるようになるのか」ということを論じました。この「整地」という作業などはある程度の経験を積まねばなかなか出来るようなものではありませんでした。
経験を積むと自分なりの判断ができるようになってきます。そして、自分なりのやり方を工夫するようになります。時には他人の指示より自分の判断の方が正しい場合もあります。そうした場合、経験豊富な労働者は自分の判断を優先してことをうまく運ばせようと企てます。
これは単に作業を効率的に遂行できるという目的合理的な行為ではなく、自分で判断し自分で行動することから得られる満足感を重視したものです。自分でこうすると決めたことに対し、他人から口出しされるのはあまり愉快なことではありません。自分の判断が経験に裏打ちされたものであるという自負が強ければ、口出しされることへの抵抗感も強くなります。
ただし、その判断が実際に正しいかどうかは別問題です。前述の事例で、おっちゃんはなぜ扇風機を使わなかったのでしょうか。その理由として例えば、わざわざ扇風機をセッティングするのが煩わしかったことや、それほどの暑さだと思わなかったこと、そして、自分自身の体力への自信などもあったのかもしれません。現場用の扇風機はいちいち組み立てなければならないし、発電機を回してドラムからコードを延ばしてといった面倒臭さがあります。また、発電機の音は結構うるさいのでストレスにもなります。体力への自信はともかく、僕自身、最初は扇風機を使わなかったのにもこのような理由がありました。
では、言われたことを忠実にやるのがいい労働者なのでしょうか。実はこの「言われたことを忠実にやって欲しい」という期待には必然的に嘘がつきまといます。「言われたこと」がどういう意味なのかが、きちんと伝わるかどうか分からないからです。
やるべきことをすべて言葉で言い尽くすことは不可能です。言葉を尽くして説明したところで相手にそれだけの理解力があるかどうかもわかりません。その点、経験者であれば「何をやるべきか」のモデルがあるので、使用者は少ない言葉で自分の期待を労働者に伝えることができます。
しかし、繰り返しになりますが、いくら経験豊富な労働者に対してであっても、言葉で自分の期待を伝え切ることはやはり不可能です。「ここまでやってほしい」という期待値に達しない場合もあれば、労働者の気の利かせ過ぎ、がんばり過ぎで「そこまでやらなくていい」「そこまでやられるとかえって迷惑」というケースもあり得ます。
■ゲームのルールを決めるのは誰か
よく言われることですが、同じものを大量生産する製造業と違って、建設業は同じ作業をするのであっても毎回現場が変わるし、設計図は現場ごとに違っていてその都度条件が異なります。特に、飯場労働者や日雇い労働者の場合これが毎日異なることもあり、予測不可能な事態は増えてきます。
労働者の口からは「会社によってやり方が違う」という言葉がよく聞かれます。同じ作業でも使用者の期待値やその中身が異なることはよくあることなのです。
何をどこまでやればよいかを決めるのは使用者です。そして、実はその合格ラインがどういうものであるかは明確ではありません。場合によっては使用者自身の中でその日の作業の方針が定まっておらず、手探りで進行していることも考えられるのです。何をどこまでやればよいかというルールを定めるのは使用者であり、しかも、使用者はこのルールをゲームの途中で変えてしまうこともできます。
もっと言えば、ルールは「あるようでない」のかもしれません。労働者は「何々をしろ」という指示がなくても何かをしなければなりません。指示を待っている状態は「怠けている」あるいは「気が利かない」ものとしてマイナスの評価を受けることになりかねないからです。
その日の作業の目的ないし内容は決まっていても、それをどのような手順で進めるかが決まっていない曖昧な状態があります。作業をどのような手順で進めるかを「段取り」という言葉で言い表します。「段取り八分」という言葉があるように、段取りが整わないことには作業が進みません。労働者はよく「この現場は段取りが悪い」と文句を言ったり、バカにしたりします。
段取りが悪いと作業がしょっちゅう中断されたり、余計な手間がかかったりするので、働く側からするとストレスになります。段取りを決めるのは使用者で、労働者にはこの段取りを理解し、飲み込むことが求められるわけです。そもそも使用者と労働者は契約の上では対等なはずで、労働者は使用者が提示する段取り通りに働けばいいはずです。
しかし、この段取りは多分に曖昧な部分を含むため、「段取り通りに働く」のはどこかで無理があるのです。段取りの曖昧な部分から生じる無理は労働者の側が負わされます。労働者は段取りの曖昧な部分から生じる「不測の事態」に対応するために、「説明されていない/指示されていない部分」を予測しつつ働かねばなりません。これをしない者やうまくできない者は「怠け者」「気が利かないやつ」と否定的な評価を下されるわけです。
■正当化の論理としての勤勉倫理
段取りの曖昧な部分の責任は誰にあるというわけでもないのかもしれません。有能な使用者は曖昧な部分を排して「優れた段取り」を組むでしょうし、有能な労働者は曖昧な部分とそれへの対処法を予測しつつ働くでしょう。お互いの対等な恊働関係でこれを補っていけばいいはずです。しかし、その責任が労働者に負わされがちになるのはそこに労使間の権力関係があるからに他なりません。
権力関係があるからといってあからさまに権力をふるって言うことを聞かせる(例えば、「代わりはいくらでもいる。嫌なら帰れ」と言うとか)ことはなかなか出来ません。権力の程度が強ければ(文字通り生殺与奪権を握られているような場合)それも可能でしょうが、権力の程度が弱ければ自分の主張をもっともらしく正当化するための論理をどこかから持ってこなければなりません。それが他人を怠け者と非難する勤勉倫理なのではないでしょうか。
一般的に、勤勉であることは望ましく、怠惰であることは望ましくないことであると思われているので、勤勉倫理にのっかって立場の弱い者をコントロールするのは容易です。ここでのポイントは、コントロールする側も勤勉倫理をすでに受け入れているというところです。
勤勉であることと段取りの曖昧さを解決する責任とは別問題のはずですが、これらが結びつけられてしまうのが実にやっかいです。これらが別問題であることは薄々わかっているのに、なぜ私たちは受け入れてしまうのでしょうか。
次回からはこれらが結びつけられる際の具体的なやりとりに注目し、私たちが何に絡めとられているかを明らかにしていこうと思います。(2009年9月3日(木)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)研究合宿で3日間離れたらもうまったく書ける気がしなくなった。モチベーション回復させるのが手間。というか、こういう読み物は意識的に書こうとするのが難しいのかもしれない。なんか邪魔ばっかり入る。こんなこと書いてどうするのか。
2)どうでもいいけど熟練というのはそんなに大したものなのか。既得権益を守るための方便じゃないのか。熟練って何?仕事は熟練だけで出来上がってるわけじゃないでしょ。
3)おっちゃんたちは言うことを聞かないのだろうか?この時の社長のおっちゃんたちに対する評価はどういうふうに出てきたのだろうか。
4)「指示を待っている状態は『怠けている』あるいは『気が利かない』ものとしてマイナスの評価を受けることになりかねない」という部分は後でもう一度言及する必要があるな。
5)何となく面白い話になってきたけど、そんなこと明らかにできんのか?
第4回 勤勉倫理の論理
■前回のまとめ
前回の終わりに「勤勉であることと段取りの曖昧さを解決する責任が結びつけられる際の具体的なやりとりに注目し、私たちが何に絡めとられているかを明らかにする」というようなことを述べました。自分で言っておいて何だかよくわからないので整理してみようと思います。
「勤勉であることと段取りの曖昧さを解決する責任が結びつけられる」というのはどういうことでしょうか。「段取りが曖昧であるために生じる問題をフォローする責任は労働者側に押し付けられていて、この責任を果たそうとしない労働者は怠け者として非難されても仕方がない」ということでしょうか。そもそも段取りを曖昧にしてしまっている使用者側の責任は問われないことになっています。一方的に責任を押し付けられているこがそもそもおかしなことなのに、このおかしなことを無理やり成立させるために勤勉倫理がねじ込まれているということでしょうか。
それでは、今度は段取りの曖昧さの側からではなく、勤勉倫理の側から物事を見ていきましょう。片方への責任の押しつけをよしとする権力作用とは別のところで、勤勉倫理は勤勉倫理なりの論理を持っているはずです。ここでは、労働者の中の勤勉倫理の論理を見ていきたいと思います。
■労働者にとって真面目に働くとどういうことか
「勤勉である」というのはどうにもお硬い言い方なので、「真面目に働く」とはどういうことなのかを考えてみます。
労働者たちが適度に手を抜いて働いていることについては、これまでもよく語られてきました。まず、一般的な「怠け者」イメージがありますから、語られるのは手を抜くことの肯定的側面、積極的ないし戦略的な側面でした。
例えば、片付け仕事は作業の区切りがないので、一生懸命働けば働くほど仕事量が増えてへとへとになってしまいます。大きな現場などでは、細々とした雑用をやらされることが多く、一つ雑用をこなしたらまた一つと終業時間まで際限なく働かされることになりかねません。がんばりすぎて倒れてしまっては元も子もありませんから、自分なりのペース配分を考えてある程度手を抜くことは必要です。
また、他の労働者のことも考えて「働きすぎない」ことも重要です。水野阿修羅さんの『その日ぐらしはパラダイス』(ビレッジプレス、1997年)という本では、高齢の労働者のことを考えて、若い労働者は働きぶりをセーブする必要があることが指摘されています。若くて体力のある労働者が働きすぎると、結果として付いて来れない高齢の労働者が切り捨てられることにつながるからです。もっとも、こういったことは土工の手元仕事以外でもある話だと思います。
しかし、僕が初めて飯場で働いた時に強く感じたのは「この人たちはなんてちゃんと働く人たちなんだろう」ということでした。彼らはものすごくよく気が付くし、積極的に動く人たちでした。それはとても好印象で、僕も自然と彼らを見倣うようになりました。
特徴的なのは初心者のフォローという側面です。「わからないことは一緒に行く人が教えてくれる」とは聞いていたのですが、現場では彼らは本当に親切に教えてくれるし、いろいろ助けてもらったことを僕は覚えています。誰かのフォローをしようと思ったら自分はその誰かより率先して動かなければなりません。作業の過程でどのようなことが課題となるかを予測し、初心者がそれに対応できるようなフォローを提供することが必要となります。初心者ができないことを自分がやって、初心者でもできるような役割を作り出さねばなりません。怠けていては他人のフォローなどできないのです。
■なぜ初心者のフォローをするのか
では、彼らはなぜ初心者のフォローをするのでしょうか。これにはいろいろ理由が考えられます。手元仕事にはいろんな仕事があって、経験豊富な労働者であっても未知の仕事に出くわすことがあります。この意味で誰もが潜在的に初心者である部分を持っていて、分からないこと・できないことはフォローし合うべきだという規範があるのだと考えられます。
別の理由も考えられます。飯場の労働者は必ずしも「いつも一緒に働く仲間」ではありません。飯場内の労働者の入れ替わりは激しいし、〈現金〉としてその日一日限り一緒に働くだけという場合もあります。ほとんど他人のようなものです。しかし、使用者はそのような飯場労働者の事情は知ったことでありません。使用者にとっては、飯場の労働者たちは「同じ会社」の労働者たちで、「同じ会社」の人間の面倒(尻拭い)は同じ会社の人間が見るべきだと考えるかもしれません。下請けとして仕事を頼んでいる以上、会社として責任を持って仕事をこなせと要求する発想は分からないでもありません。
それに加えて、段取りの曖昧さをフォローする責任を押し付けられている以上、そのようにせざるをえないということも考えられるでしょう。しかし、そのような消極的な理由だけで彼らがあれだけ機転を利かせ、きびきびと働くとは僕にはとても思えません。ここには何か別に積極的な理由があるのではないでしょうか。言うなれば、彼らを労働へと駆り立てるモチベーションの存在です。
前回、僕は「経験豊富な労働者は自分の判断を優先してことをうまく運ばせようと企てる」と書きました。そして「これは単に作業を効率的に遂行できるという目的合理的な行為ではなく、自分で判断し自分で行動することから得られる満足感を重視したもの」だと説明しました。初心者へのフォローのモチベーションはこの辺りと関係しているのではないかと推測されます。
■有能さへの志向
前の「日雇い労働者のつくりかた」の第4回「道具を応用する」のところで触れたように、工夫するということが建設現場では重要な実践となっています(「実践」というのは、「当たり前のやらなければならないこと」というような意味です)。まとめの部分で僕はこのように書いています。
建設現場の労働者の一員である日雇い労働者は応用力を持たねばなりません。この応用力はどんな場面でも発揮しなければなりません。「応用力がある」ことに証明書や免許証はありません。常に小さな応用を試み、試みられた小さな応用の結果によって絶え間なく自身の「応用力」を他人に見せて証明しなければならないのです。自分の体一つを頼みに生き抜いていくとはそういうことでもあるんだと思います。(「日雇い労働者のつくりかた」第4回より)
日雇い労働者だけがこれを求められるわけではなく、建設現場全体の雰囲気としてそうなのだと思います。いくつか例をあげてみましょう。
金網の張られた法面(のりめん、斜面のこと)の上でサンダーを使って作業している人まで電気を渡さねばなりませんでした。法面の下までドラムの延長コードを延ばし、さらに延長コードでサンダーとドラムを繋ぐのですが、法面が急傾斜で高いので昇ることができません。法面の上まで延長コードを持っていって垂らせばいいのかもしれませんが、法面の上まで行くにはかなりの遠回りをしなければなりません。
どうしたものかと思っていると、法面の上の人はサンダーのコードを垂らし、延長コードをつなぐように指示しました。延長コードをつないだら、そのままコードを引き上げればよかったのです。分かってしまえば大したことではないのですが、もしこのことに誰も気づかなければ遠回りして法面の上まで行って、10分は時間を無駄にしていたし面倒な思いをしたでしょう。予測不能な事態、小さなアクシデントは日常茶飯事ですから、何とか工夫して乗り切らないと仕事が進みません。
また「頭を使って楽をする」ということも重要です。コンクリートやモルタルを作る電動ミキサーというものがあります。深いたらいのような器の底にファンが付いていて、このファンが回転してセメントや砂、水を混ぜるようになっています。このファンは取り外すとずっしりと重いものです。
電動ミキサーを使い終える頃にはファンにはセメントや砂が固まってびっしり付いています。使用後にこれをそぎ落とさねばなりません。重いので扱いづらく、なかなかうまくいきません。僕が戸惑っているのを見た会社の人は、土嚢袋にやりやすいような形で寄っかからせて鉄筋の端切れで叩いて落とせばいいと教えてくれました。土のう袋も鉄筋の端切れもそこらにころがっているものでした。彼には「大学院でも思いつかんか」と皮肉っぽく言われました(その後、「経験の差やな」とフォローはしてくれましたが)。
現場では「応用が利かないことはぶざま」なことなのです。ここで紹介した例は大したことのない工夫で、単に僕がバカなだけなんじゃないかと思われるかもしれません。もちろん、僕自身の問題もあるのですが、ちょっとした工夫が仕事を楽にすることは確かで、この工夫が大したことのないことなだけに、ちょっとした工夫ができないことの間抜けさが際立ってしまうことがわかります。
裏返せば、うまい工夫を思いつくことはその人の有能さとして評価されることになります。これには使用者も労働者も関係がありません。ガラ出し(コンクリートの破砕片を運び出す作業)をする際、使用者に指示されて最初みんな手で拾い集めてトラックの荷台に載せていたのですが、一人の労働者がいったん土のう袋に入れてから運ぶことを提案し、格段に作業は楽になりました。このような場合、よりよい方法を思いついた労働者は漫然とした指示しか出せなかった使用者よりも優れた判断を示したことになります。有能さを発揮することは所与の上下関係を一時的にではあれ引っくり返す効果を持つわけです。
ここには、有能さを発揮しなければバカにされる状況があると同時に、有能さを発揮することが満足感をもたらすという構造がはあります。有能さを発揮するためには、全体の足を引っ張りかねない初心者をうまく使うことも条件の一つとなります。また、初心者に対してうまい工夫を伝授することは感謝や尊敬を受け、労働者に満足感をもたらすこととなります。このような「有能さへの志向」とでも言うようなものが労働者のモチベーションの源泉となっているわけです。
■労働者にとっての勤勉倫理
さて、労働者にとっての勤勉倫理の論理を問うのがこの回の目的でした。「怠け者の社会学」では労働者が真面目に働く理由を、(1)有能さに駆り立てられる状況があること、(2)労働者自身の満足のための2点にあることを主張しています。一般的に、労働者が真面目に働く理由にはどのようなものがあると考えられているのでしょうか。試しに「勤勉」を『社会学事典』(弘文堂、2001年)で引いてみると、「勤勉」は載っていませんでしたが、その近くに「勤労意欲(⇒モラール)」という見出しが見つかりました。「モラール」の項を以下にその一部を引用してみます。
個人が、その属する集団の共通目標の実現のために積極的に努力しようとする態度。産業社会学において、客観的職場条件と生産性を媒介するものとして重要視された。モラールを構成するものとしては、仕事への愛着の度合、仕事の意義の自覚の度合、集団への帰属意識の高さなどと考えられる。(874-875)
モラールを構成する要素として想定されている「集団への帰属意識の高さ」は飯場労働者の場合にはあまりあてはまりそうにありません。ついでに手持ちのもう一冊の『社会学小辞典』(有斐閣、2002年)で同じ項目を引いてみます。
勤労意欲とか志気、やる気などと訳されるが、集団に対する帰属感、職務に対する満足感、仕事に対する積極的意志、仕事の意義の自覚、集団への団結力などがその内容として含まれる。ただしそれは、個人にとってのものというよりは、集団ないし組織における人間関係に関する事柄として使われることが多い。したがって、集団(ないし組織)の成員が、集団の成員であることに満足と誇りとをもって結束し、集団の共通目標の達成に向かって積極的に努力しようとしている態度をさすと考えてよい。(595-596)
考えてみれば「勤労意欲」にしても「勤勉倫理」にしても管理者側の視点から見た言葉なので、管理者が労働者を評価する「勤労」や「勤勉」の基準がなければこの議論は成り立たないような気がします。よって、この回で論じたのは、管理者(使用者)が設定した基準に対し、表向き適応しようとする態度の裏側にあるものを検討した結果、それは仕事そのものから得られる満足感のようなものだということになります。
先ほど「『集団への帰属意識の高さ』は飯場労働者の場合にはあまりあてはまりそうにない」と書きましたが、初心者へのフォローの中には「同じ日雇いで働く者同士」という意識はあるように思います。
■生活の中の勤勉倫理
ところで、これまで見てきたのは労働の中の勤勉さについてでした。考えてみれば、労働をとりまく状況、例えば仕事に出続ける、仕事を休まないということにも勤勉さの評価は含まれているはずです。つまり、生活の中にも労働を意識した勤勉倫理が含まれていると考えられます。そこで、次回では生活の中の勤勉倫理について考えてみたいと思います。(2009年9月11日(金)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)手元労働者に対する「怠け者イメージ」というのは、結局その雇用形態に根ざしているのだろうか?
2)「怠け者」を作るのは集団の存立を脅かすものを切り捨てるためのもの?
第5回 生活の中の勤勉倫理
■倫理とは何だ?
倫理というのは本来、権力関係の有無にかかわりなく絶対的な価値を追究するものなのかなと思います。しかし、この連載では「勤勉」を権力関係の中で評価されるものと捉えていて、だとすると「勤勉倫理」という言葉自体がおかしなものになってしまいます。
あるいは、倫理というものはその倫理が成り立つ集団の枠を区切った上で語りうるものだと考えるべきかもしれません。倫理というものが社会とか集団を意識して生まれてくるものだということはおそらく間違いないと思います。となれば、問題はその倫理がどの集団を前提として語られるものなのかを見極めていくことです。
■どのように暮らすべきか
さんざん倫理という言葉を使ってきておいて今さら倫理とは何かもないですが、とにかく生活の中の勤勉倫理です。生活の中の勤勉倫理というのを端的に言えば、「労働のために生活を律する必要性」ということになろうかと思います(これ端的に言ってるか?)。
「労働のために生活を律する必要性」というふうに考えると、飯場労働者の場合に真っ先に思いつくのが「仕事に出続けること」です。
日雇い労働は「その日ぐらし」で、その日仕事に行くかどうかはその日の気分なり懐具合で決めればいいというイメージを持たれています。ある労働者は「この稼業は働いてなんぼやで。働いても働かんでもメシ代やらで1日3,000円はとんでくんやから」と言っていました。この日の仕事中、彼は日雇い稼業初心者と見える僕に対し、「この稼業」についてのレクチャーを施してくれました。彼は次のようにも言っていました。
「この稼業やっとると先のこと考えんようになる」という。5万円残ったら少しためとけばいいのに全部なくなるまで働かない。広島で仕事で一ヶ月くらい働いて30万円手元に残った。同じ会社の大阪の仕事に行くために3日間待機していた。その待機中の2日目にギャンブルでみんな擦ってしまって社長に5万借りたというエピソードを語ってくれた。その日ぐらし、起きて金がゼロでもその日の朝仕事行けばいいのだからという。(2004年2月12日(木)のフィールドノート)
「この稼業やっとるとセコくなる」という。人の嫌な面を見るのだという。1,000円で裏切ったり、裏切られたりする。トンコについて「自分の世間せまくしとるだけや」と言う。仕事中に逃げたり、朝仕事前に逃げたりする者もいる。〈現金〉数人分の日当を預けられていた〈契約〉の人がその日仕事中にいなくなったというエピソードを語る。「飯場なんかいくらでもある。嫌だったら替わればええだけや」。(2004年2月12日(木)のフィールドノート)
「30万円稼いだのに次の仕事までのわずかな待機期間のうちに擦ってしまい、借金をする羽目になった」というエピソードは、いかにも「その日ぐらし」らしいエピソードです。また目先の小さな利益に目がくらんでしまう者の話も何となくシンボリックではあります。これらをどのように解釈するべきなのでしょうか。
その日ぐらしではあるものの、生活しているだけでお金は着実に減っていく。だから仕事に行くことを遅かれ早かれ最後には求められると彼は言いたいのでしょうか。彼の語りからはその日ぐらしが気楽なものなのかどうかはよくわかりません。ただ、「お金が残った時に貯蓄に回すべきだ」という自己規制は弱いようです。これは日雇い稼業独特の心性なのでしょうか。
僕には推測するのみですが、いつ頃にこれだけのお金がいるという見通しでもなければなかなか貯金はできないものではないでしょうか。あるいは、将来的にお金がかかるようになるだろうと予測される場合や、将来の食い扶持に不安のある場合などには貯蓄に意識が向かうはずです。
「将来の食い扶持に不安のある場合」というのは日雇い稼業にもあてはまるように思います。日雇いの仕事は、景気の動向にもろに影響を受け、増減が激しいものです。しかし、「しばらくは仕事は続くだろう(なくならないだろう)」「今の時期はまだまだ仕事の多い時期だ」と判断される時には、積極的に貯蓄する必要性が感じられないかもしれません。
だからといって手持ちのお金を使い切ってしまうのはその人のだらしなさだと思われるかもしれません。しかし、ここが給料日があるような仕事とは違うところです。毎日決まった仕事に行かなければならず、給料日にならなければ現金が手に入らない場合と違って、日雇い稼業では次の日仕事に行けば現金を手にすることができ、とりあえずしのげるわけです。生活の構造そのものが異なります。これらをひっくるめて「この稼業は働いてなんぼ」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
「この稼業やっとるとセコくなる」という言葉についても考えてみましょう。トンコをしたり預けられたお金を持ち逃げしたりということは、その集団に帰属する可能性を致命的に破壊するものだと言えます。しかし、彼も言うように「飯場なんかいくらでもある」のである集団(飯場やその日の現場)への帰属自体をそれほど重視する必要はないのでしょう。
しかし、彼自身はこれを「嫌な面」であり「自分の世間を狭くしているだけ」だと言っています。飯場やその日の現場に何らかの不満を抱えているがゆえにトンコをするのだろうが、不満があるならいくらでも別の選択肢があるのだから、その日は我慢してよそへ移ればいい。何も信頼関係を反故にする必要はないと彼は言いたいのでしょう。
■仕事に出続ける必要性
日雇い労働者にとって「労働のために生活を律する必要性」は「仕事に出続けること」だと言いましたが、前の節では仕事に出る必要性を説いているものの、出続ける必要性を説いているわけではありません。仕事に出続ける必要性はこれとは違った場面で出てくるのです。
ある飯場で一緒に働いた労働者は仕事に出た日と休みだった日とを「○勝○負」といって数えていました。これは仕事に出続けることに価値をおいていることを表すものではないでしょうか。とにかく仕事に出ることが必要だという前節の人と仕事に出続けることに価値をおくこの人との違いは何からもたらされるのでしょうか。
実は前の人は〈現金〉で来た人で、後の人は飯場に入って働いている〈契約〉の人でした。ここでは前の人を水野さん、後の人を正木さんと呼ぶことにしましょう(この連載の事例における個人名や会社名は仮名です)。
水野さんもかつては同じ飯場で働いていました。しかし、現在では寄せ場(釜ヶ崎)を生活拠点として、特定の飯場に居着かずに〈現金〉や〈契約〉で就労しているようでした。飯場に長くいる人たちの中では水野さんはかつての同僚であり、先輩格にあたるようでした。
正木さんのように特定の飯場で働きつづけようとする人と水野さんのように仕事場を転々としようとする人とでは考え方が異なります。水野さんはある現場が気に入らないとなれば、そこでの就労はそれきりにして別の現場を探せばいいと考えることができます。しかし、正木さんの場合、飯場の契約先の現場が気に入らないからといって選り好みするわけにはいきません。この現場に行けと言われたら行かねばなりません。もちろん、「この現場には行きたくない」という希望を言うこともできますが、その分就労するチャンスが減ってしまいます。仕事が多い時期ならともかく、仕事が少ない時期ではそんなことは言っていられません。
また、普段から積極的に働こうとしているかどうかという姿勢が飯場からチェックされています。飯場生活の長い労働者に「仕事がない時期だと一週間に(仕事があるのは)どれくらいなんですか?」と尋ねると、「休む人間はいくらでも休む」「普段から休む人間は休まされる。ちゃんと出る人間はそれでもまあ仕事は出してもらえるよ」と言っていました。人によって異なるので一概に何日とは言えないのでしょう。
■固定層と流動層
飯場の労働者をその就労パターンで「固定層」と「流動層」とでも言うような2つにわけることができます。固定層とは一つの飯場で働きつづけようとする労働者で、流動層は〈現金〉や飯場に入るとしても短期の〈契約〉で働こうとする労働者です。
固定層は仕事の増減のある一年を通して同じ飯場で働くので、普段からできるだけ仕事に出ておかねばなりません。彼らは仕事が少ない時期に別の飯場や〈現金〉で稼ぎにいくというわけにはいきません。仕事が少ない時期にも仕事に出してもらえるような姿勢を示しておく必要があります。
一方、流動層も飯場に入っている間は仕事に出続けようとします。飯場生活は縛りも多く、気遣いも必要となるので彼らは飯場で長く働きたいとは思っていません。できるだけ短期間に契約日数を働き切ってしまおうとします。飯場では短期間でまとまったお金を稼ぎたいと考えています。休めば飯代(食費や宿泊費)を引かれるだけなので、仕事には出続けたいのです。
このように仕事に出続けたいという志向は同じでもそれぞれの事情は異なります。
流動層の中に顕著に見られるのが「〈現金〉があるなら飯場にいる必要はない」という考え方です。流動層は〈現金〉でやってきた労働者に寄せ場の〈現金〉求人状況を聞きます。〈現金〉が増えはじめたら飯場を出たいのです。日祝日などには寄せ場の状況を確かめにいくこともあります。
風呂で川端さんと話す。「昨日西成行ってきたぞ。忙しいで!」「仕事きついか?」と威勢良く話しかけられた。「早出おつかれさまです」とあいさつすると、「遊んどるようなもんや。今の現場はええで」そして、もう仕事あるんだからさっさと飯場を出ろみたいなノリで言われた。
「今週いっぱいや。お前はいつ出るんや。10日はなっとるやろ?」。(2004年7月5日(月)のフィールドノート)
「10日はなっとるやろ?」とは、この飯場は実働10日以上働けばいつでも清算してもらえる飯場だったので、「お前も飯場を出ようと思えばいつでも出られるのだろう?」という意味で言っています。〈現金〉があるなら飯場を出るのは当たり前だろうと言わんばかりの勢いです。
流動層でも同じ飯場で働き続けた方がよいという意見もあります。それは「稼げる時に稼いで貯めておいた方がいい」という意味です。お盆や年末年始は仕事がないのでその前の時期にはお金を貯めておいた方がいいとか、人によっては日雇失業保険の支給に必要な日数は働いておこうという計算もあるのです。
このように立場の違いによって考え方も違ってきます。この回では生活面について見てきたわけですが、労働面について見てみても、立場の違いによって考え方が異なるのではないかと思われます。そこで、次回は労働面に立ち返って、固定層と流動層の立場の違いに注目して勤勉倫理について考えてみましょう。(2009年9月14日(月)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)怠け者と言われる筋合いはないし、怠けてもいないのに怠け者にされてしまう?
2)流動層には流動層なりの生活戦略があって、怠けているわけではないのに、怠けていると指弾されやすい?集団の中には怠け者が必要なのかな。怠け者を作り出さないと集団がうまく機能しない。集団が機能するとはどういう状態を言うのか。その集団は何のための集団か。
3)集団にはなぜ怠け者が必要なのか。怠け者が必要なものなのだとしたら、例え怠け者であったとしても排除するべきではないのではないだろうか。怠け者を排除してしまえば、次の怠け者候補は自分かもしれない。そうでなくても、その次の次の怠け者候補は自分かもしれない。誰かを排除することは自分の首を絞めることになる。集団そのものが息苦しいものになる。集団内の競争を過剰にしてしまう。……というようなまとめ方ができたらきれいにまとまりそうだけどなあ。
第6回 関係性の中へ
■生まれる違和感
イントロダクションのところで「『日雇労働者のつくりかた』の続編と言いつつも、今回対象とするのは『飯場労働者』ということになりそう」とか言っていた事情にようやくたどり着くことができました。
最初、日雇い労働者、飯場労働者は初心者に優しく、真面目に働く気持ちのいい人たちだと思っていました。しかし、長いこと働いているうちにちょっとずつ違和感を覚えるようになりました。
正直に言うと、この違和感を生み出したのは一人の労働者の存在が大きいように思います。この労働者――倉田さんは37歳のちょっと小柄な人で、その飯場での就労が3ヶ月になろうとしていました。倉田さんの第一印象は「飯場に入って日の浅い労働者に配慮ができ、仕事への責任感の強い人」というものでした。
いつもの安全帯チェックをしてプレハブ前に集合する。須藤さん、中村さんといっしょにB工区になる。2人は構内の掃除。僕は1人で屋上のコンクリ打ちの手伝いをするように言われた。鉄板の隙間からコンクリがこぼれ落ちてくるのでそれを3階でビニールシートで受けるのが仕事。午前中はそれをする。仕事の段取りを説明してくれたのは倉田さんで「楽な仕事やから。土曜くらいはゆっくりせんとね」と言ってくれたので気分がなごむ。10時休憩をちゃんと取るように言われる。倉田さんは長期で、この現場のC建設(飯場)の責任者の一人であるようだ。 長く飯場にいる人はそういう役割を与えられるようになるらしい。
午後に、柱の根元にコンクリを打つ作業を手伝うように倉田さんに頼まれる。何か手違いがあったのか、ミキサー車が来るまで少し時間があった。待っている間、倉田さんがトンコ について話し始めた。「ずっとおる人でトンコした人がおるけど、1回でもトンコしとる人とは一緒に働きたくないよ。信用できん」と言う。「トンコされて迷惑受けるのは自分たちですもんね」と答える。
コンクリを打ち終わった後、2人で発電機を倉庫まで運んだ。「清水商店のコンテナですか?」と尋ねると、倉田さんは「そうそう!覚えがええ人は仕事もすぐにできるわ」と言った。発電機は重かったので途中2回降ろして持ち直させてもらった。(2004年7月3日(土)のフィールドノート)
ところが、一日一緒に働くことがあってから彼のイメージはガラッと変わりました。この現場は大型ショッピングモールの建築現場で、屋内にコンクリートを打つために軽トラの荷台にコンクリートを積んで運ばなければなりませんでした。僕はよく軽トラの運転手をやらされました。
コンクリを積み終えて戻ると荷台に上がり、スコップでバケツにコンクリを入れる。倉田さんと相田さんはバケツを抱えて仮枠にコンクリを入れる。この繰り返しでだんだんしんどくなる。倉田さんは「しっかりせえ」「腰が入っとらんぞ」などと怒鳴ってずっと拍車をかけてくる。途中で相田さんが「きついやろ、代わろうか」と言って、スコップ係をしてくれた。バケツ係は格段に楽だった。1回だけだったが三浦さん(使用者)が軽トラでコンクリを取りに行ってくれた。この間は休める。僕がコンクリを取りにいっている間、他の3人は休んでいたのだ。その上、僕はきついスコップ係をやらされていたのだとわかった。
残業になったため、他の工区の労働者たちは別の車で先に帰ってしまっていた。帰りは残された車を僕が運転して帰ることになる。帰りの車中で、「わしははっきりいうやろ?仕事中はあんなんや。今日ので10%くらいやで。行くとこまで行ったら喋らん」などと自分に都合のいいことばかり言うので呆れた。(2004年7月10日(土) のフィールドノート)
僕の働きぶりを散々コケにする倉田さんは実は楽な仕事をしていたのだと途中で分かります。しかも、どうやらそうしていることに無頓着であることが仕事の後で明らかになります。同じようなシチュエーションで「わしはっきり言うやろ?でも普段は優しいで」と言っていたこともあります(「仕事中はきついから口が悪くなるけど、本当は気のいい人間なんだ」などと言われたら腹が立ちませんか?)。
確かに、親しみを込めて話しかけてくれたり、他の労働者に対しても何かと気を遣ってくれているふうなことはありましたが、そういったことは言行が一致していればこそ説得力を持つもので、仕事がちょっと立て込んでくると気遣いの欠片もなくなる倉田さんに言われても表面的なものとしか感じられませんでした。
■怠け者がいる?
それに加えて、倉田さんには「怠け者」を揶揄する発言が多く見られました。ある日、いっしょに働いている他の労働者について「あの2人ちょっと目離したらどこかいきよるから目光らせといて」と言われました。この言葉を額面通りに受け取ると、「あの2人は人の目を盗んでサボるから見張っていろ」ということです。
しかし、僕には彼らがそんな「怠け者」だとは思えませんでした。言われてみればその2人はちょっとくせがありました。1人はにぶい感じの人で、以前いっしょに働いた時にも姿が見えなくなったことがありました。しかし、それはサボろうとしてのことというよりは状況や段取りが飲み込めていないために、ついてこれていないだけに見えました。もう1人はあまり言うことを聞いてくれない人という印象がありました。指示を待つより自分で勝手に判断してしまう人で、すぐに文句を言ってくるので僕はこの人は苦手でした。まあ、彼らは「使いにくい」労働者で、「あまり気が利かない」という感じはあったわけですが、決して怠け者ではありませんでした。積極的に働こうとして下す判断や行動が的外れだったり、余計なことだったりするだけで。
倉田さん以外の事例も見てみましょう。小宮さんは同じ大型ショッピングモールの現場で「職長」といって飯場の労働者をとりまとめる役割を上の会社から与えられた飯場労働者の一人で、そのトップでもありました。シフトを調整したり、大勢を取りまとめる苦労のあるポジションで大変な役割であることは分かるのですが、横柄な態度をとるので裏では労働者に少なからず嫌われていました。
僕もその現場に長く出るようになって、小さな作業班のリーダー的な役割を任せられるようになっていました。リーダー的な役割を任せられると言っても、他の労働者との差は大してなくて、やっている仕事もあまり変わらないのですが、いくらかの裁量権があります。作業の段取りを決めたり、人員を割り当てたりといったことです。その作業内に限っては第一に判断する権利が与えられるとでも言ったらよいでしょうか(無視するやつも少なくないが)。
前述したように、この現場で僕ははもっぱら軽トラの運転をさせられていました。車が動かなければ仕事にならないわけですが、この日はガソリンが切れてしまい、倉庫のタンクにも予備がなくて給油車を呼んでもらいました。給油車がいつ来るか分からないし、広い現場のことなので見過ごさないように入場ゲート付近で待機しておく必要がありました。給油者が来るまでの所要時間はある程度見越してからゲートへ行ったのですが、それでも結果的に30分くらいは経ってしまいました。
その日の夜、飯場の食堂で他の労働者たちとしゃべっていた小宮さんに「昼に一時間サボっとったろ」と声をかけられました。サボっていたなどと心外だったので否定したのですが、どうやらガソリンを待っていた待ちぼうけの時間のことを言っているようでした。そう言われてもこれは不可抗力だし、サボっていたわけではないし、必要な時間でもあったわけです。もっとも、この時の小宮さんの声かけはからかいまじりのものであり、僕もようやく飯場の一員として認知されたということかなと軽く考えていました。
ところが、翌日には小宮さんは僕が「サボっていた」ことを既成の事実として公の場での判断材料として提出したのです。
朝礼前、プレハブで小宮さんが人員配置について打ち合わせしていた。「きつい仕事はローテーションでやれ」と小宮さんが中岡さんに言っていた。そばで打ち合わせに耳を傾けていた僕を指して小宮さんが「昨日1時間休んどったからコンクリにせえ」といきなり言うので驚いた。何なんだおっさん!?休んでいたわけでもないのに。あたかもサボったみたいに言いやがったと腹が立つ。小宮が出ていったあと、「言われたからコンクリせなあかんな(笑)」と中岡さんに笑われた。(2004年7月21日(水)のフィールドノート)
中岡さんも本気にはしていないようでしたが、公的な場でサボっていたように言われたということがショックでした。小宮さんも僕が必ずしもサボっていたのではないことは分かっていたはずです。しかし、この場で僕がサボっていたことは確定事項とされてしまったわけです。
ここで確認しておきたいのは、サボり、怠け者であるという名指しは正当な根拠(裏付け)を欠いたままで行われうるということです。
■集団は怠け者を必要とする?
こうなってくると怠け者というのは実際にその人がどうであるかということとは無関係に作りだされているのではないかと思えてきます。そして、これはどうも集団的な現象なのです。集団的な現象というのはつまり、飯場の労働者という集団を機能させるために「怠け者」を集団内に作り出す必要があるのではないかということです。
そこで次回は怠け者を作り出すことを集団的な現象として見ていきましょう。(2009年9月18日(金)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)その人が実際に怠けているかどうかは実はどうでもいい。「怠け者がいる」あるいは「怠け者は批難される」という規範があることが重要。事実関係を追っていけば怠け者とは言いがたいような場合でも、怠け者と呼ばれてしまう。「怠け者である」という判断は主観的ないし一面的なもの。しかし、その一面的なものを成り立たせる共通基盤がある。集団の全ての構成員は「怠け者ではない」ことを目指さなければならない。自分自身が「怠け者ではない」ために、便宜的に怠け者の存在が必要となる。
2)何かよくわかんなくなってきた。何を書けばいいんだろう。
3)制度や契約に含まれている矛盾から目を背けさせるために「怠け者」というラベリングを誰かにしなければならないのかもしれない。矛盾から目を背けさせる――あるいは「怠け者」のラベリングを行うことは矛盾に気付くきっかけを捨て去ることになるという言い方もできるか。「怠け者」という言葉は妙に説得力を持ってしまう。固有の状況や文脈を飛び越えて説得力を持ってしまう。もしかすると矛盾から目を背けることはとりあえずの社会生活を送るために必要なことなのかもしれない。重要なのはそこで何を排除しているのかを意識することか。
3)違和感を覚えるようになったのは僕自身が初心者じゃなくなっていったということがあるのだろう。自分自身が初心者だと自覚している段階だと、先輩労働者の理不尽な言動も理不尽なものだと気付かないのではないだろうか。理不尽さ以前に、助けてくれることの方が重要だからだ。相手からしても初心者とそこそこの経験者では扱いが異なるではないか。人によって、仕事によって、状況によって、もう初心者ではないなと思いはじめていた僕は、再度経験の浅い者に位置づけられることがあった。本人の意識のレベルと、周りの認識のレベルとがあるかな。
第7回 怠け者の創出
■集団的な現象として見るとはどういうことか
前回は「怠け者というのは実際にその人がどうであるかということとは無関係に作りだされている」ということについて確認しました。今回は怠け者を作り出すことを集団的な現象として捉えます。
集団的な現象として捉えるというのはどういうことかと言いますと、「自分たちとあいつ(ら)は違う」という認識をお互いに共有しようとする実践として怠け者の創出を見るということです。
何だか却って難しい言い方になっているような気がします。別の説明の仕方を考えてみましょう。
誰かが「あいつは怠けてばかりだ」と不満に思っているだけだったらそれだけで終わりです。しかし、「あいつは怠けてばかりだ」と他人に語りかけ、「怠けるのはいけないことだよな?」という合意を取り付ければ「じゃあ、あいつは仲間はずれにしようぜ」という排除の基盤が出来上がるわけです。集団内に他者を排除する準備が出来上がるのです。
ここには2つの意味があります。1つは怠け者を排除すること。もう1つは自分たちは怠け者ではないと確認することです。怠け者を排除する主体となることで、怠け者ではない「勤勉な主体」が立ち上がってきます。そして、この「勤勉な主体」は「勤勉であらねばならない」という規範を背負った主体でもあります。
やっぱりわざわざ難しい言い方をしてしまうのですが、ここは大事な所なのである程度ややこしい言い方をしておきます。
■誰が怠け者になるのか
すでに述べたように、怠け者とされる者たちは実際怠けているとは言いがたいようです。実際に怠けているか否かが解明されたわけではないのに、一方的に怠け者ということにされてしまいます。
誰が怠け者とされるのかについて第2回と第3回で検討しています。労働者は使用者の段取りの曖昧さや不測の事態を補う責任を一方的に負わされており、この責任を果たそうとしなかったり果たせなかったりすると勤勉さを欠くものと評価されてしまいます。
つまり、段取りの中の穴を適切に埋めることが求められており、それがうまくいかないと責められてしまうわけです。前回、給油車待ちをしていた僕が「サボっていた」とからかわれた事例を紹介しました。この事例が典型的だと言えるでしょう。倉田さんの例にしても「仕事について来れないこと」を一方的に批判する際には「怠け者」を見るまなざしが用いられています。
「仕事について来れない」要因には個人の資質の問題以外に、適切な判断を下すための情報が与えられているかどうかとか、指示は適切かどうかとかいろんなものがあるはずです。しかし、そういった使用者側の責任を追及することが飯場労働者には出来ないため、結局、飯場労働者間でも「怠け者の批判」という形でスケープゴートを生み出すことでつじつまを合わせているのです。
■怠け者批判の抽象化
怠け者を生み出すことは必ずしも具体的な出来事についてのみ起こるわけではありません。特別何か失敗をしたことについて責められるのではなく、漠然とバカにされるということが起こります。「こいつは怠け者」ということが決まっていて、別に何もしていない時でもバカにされてしまうのです。これはいじめみたいなものかもしれません。
柿田さんという労働者がいました。年齢は40歳前後くらいに見えました。元々は運送屋の運転手をしていたそうで、通いで飯場で働きはじめてそう長くは経っていないようでした。最初、2人で同じ現場に行ったせいもあって、その後も彼とは結構仲良くやっていました。
ちょっと神経質っぽいところがあって、仕事中に「わし、いろいろ言われたら頭がイライラしてわからなくなるんや」と愚痴を言っていたことがありました。基本的に真面目に働く人でしたが、判断がもう少し行き届いていない印象でした。この点については他の人も感じていたようで、いくつかエピソードがあります。
例えば、前回の事例にも出てきたコンクリ打ちの作業で、その時は柿田さんが軽トラの運転手をしていました。コンクリ打ちの作業は丸一日続くこともあって、朝から夕方まで何回かミキサー車に折り返してコンクリを運んでもらっていました。折り返すと30分くらい時間がかかるし、コンクリ打設作業そのものにも一定時間がかかります。コンクリが切れてミキサー車が折り返すタイミングが昼食休憩にかかりそうな場合やすでに昼食休憩時間に食い込んでいる場合、作業再開を休憩明けまで遅らせる必要があります。
この確認をされるのは必然的に軽トラの運転手になります。その日は昼前の微妙な時間に一度ミキサー車が空になりそうでした。そのまま折り返してもらうと昼食休憩中まで作業が食い込んでしまうので、昼食休憩まで多少時間が空いていたとしても、13時再開にするべきだったのですが、柿田さんは12時半からにしてしまい他の仲間から不評を買っていました。
小宮さんは10年以上この飯場で働いている古株の労働者であり、前回述べたようにこの現場では「職長」を任されており、労働者の仕事の振り分けの決定権を持っていました。
今やっている作業が終わったら柿田さんを連れて車でリングロード外の資材置場にメッシュを切りにきてくれと小宮さんに言われる。作業をしていると僕だけ先に小宮さんの車で行くようにと追加の指示を受ける。森さんが「あいつ(1人だと)道が分からんのやないか」と言う。「柿田さん結構方向オンチですからね……」と僕が言うと、「返事だけは威勢いいけどな」と小宮さんが言った。
とにかく僕は行くことになるが、15時だったので先に休憩になる。休憩所に向う車中で、「あいつ(柿田さん)○○(同じ現場だが、仕事がきついと言われている別の会社)に回したろうか」と小宮さんがポツっと言う。
休憩所には苅田くん、桜井くん、浅井さんがいた。苅田くんと桜井くんと小宮さんがかき氷を賭けてジャンケンしていて、桜井くんが負けてかき氷をおごらされていた。職長会でもジュースを賭けてジャンケンをするらしく、「でも一番弱いのは鶴田さんや。2,000円とんでった〜とかよく言っとるで」と小宮さんが言う。3人のやりとりを黙って聞いていたら、「わしは1,000円しか持ってないけどやるで」と小宮さんが僕に向かって言う。「強気ですね」とコメントする。
小宮さんがまた「(こいつは)すぐ休もうとする」と言ってからかってくる。「柿田といっしょになってな」と小宮さんがさらに言うと、苅田くんと桜井くんが一緒になって笑う。 (2004年8月5日(木)のフィールドノート)
ここでの「すぐ休もうとする」は「サボろうとする・怠けようとする」というニュアンスで言われています。給油車待ちで「サボっていた」と揶揄されて以降、また揶揄されるようなことには覚えがありません。また、僕と柿田さんは一緒に作業する機会が多かったものの、一緒に休んだりサボったりしたような事実もありませんでした。
柿田さんが今ひとつ気が利かないということについて話をしたばかりだし、僕と2人でいる時に小宮さんは柿田さんに否定的なコメントをしていました。柿田さんとセットにして「すぐ休もうとする」とからかうのは、明らかに僕を侮蔑しようとしています。
また、これが僕と小宮さんとの個人的な関係で起こったことではなく、飯場の他のメンバーがいる前で行われたということに注目したいと思います。「賭けジャンケン」を目の前でしたあと、ふいに筆者を対象としたからかいが投げかけられ、賭けに参加していたメンバーから笑われました。賭けに参加していたメンバーにとって、僕と柿田さんは仲間外の存在であることが暗に指摘されていたわけです(賭けに誘われないということも暗に仲間と仲間以外の線引きを目の前でされていると解釈することもできます)。
■「われわれ」と「やつら」
契約を終えて、荷物をまとめて飯場を出て行く労働者の姿を見かけて倉田さんが何度か「3、4日もすればまた戻ってくるわ」と言っていました。いい意味では言ってないなと思って、「パチンコで負けたりして?(すぐに有り金を使い果たしてまた飯場に入ってくるという意味ですか?)」と訊くと、「そうや、俺は分かる」という答えでした。
倉田さんに限らず、固定層は流動層のことを苦々しく思っている所があります。頻繁な出入りをくり返す流動層は仕事の現場をかき乱す存在でもあるからです。流動層にそのつもりはないのでしょうが、現場について知らないために足をひっぱったり、勝手な判断をしたりするので、固定層は迷惑を被ることが多いのです。その現場での留意事項を説明して、ようやく理解してきたかという時期には契約を終えて出て行くのですから、固定層の気持ちも分からないではありません。
しかし、人夫出し飯場という制度自体がそうやって日々の人員調整をすることで利益を得ているのですから、流動層を責めるのは筋違いなことです。少なくとも、これは流動層に責任があるわけではありません。
それは分かっていても、やはり実際に現場で気になるのは流動層の働きぶりで、「もうちょっと何とかならないのか」と固定層は思ってしまいます。これは固定層/流動層の問題というよりは、その現場において責任を負わされているか否かという問題で、固定層は流動層に比べて責任を負うポジションに置かれやすいということです。
僕自身、いっしょに働いた〈現金〉の労働者が些末なことにこだわってしつこく質問してきたり、忙しい時に空気を読まずにのんきなことを言われたりしていらいらした経験がありました。もっとも、彼らが(こちらにとっては)「些末なこと」を気にするのも空気を読めないのも初めてきた現場のことがわからないからなのですが、そういった彼等の事情を斟酌して対応する余裕がこちらにはありません。仕事が増えて流動層が増える時期に、「だんだん言うこと聞かん奴ばっかりになってくるわ」と固定層の労働者がこぼしていたことがあります。「頼むから言われたことだけやっててくれ」「言われたことをちゃんとやってくれ」と思います。
こうなってくると使用者が飯場労働者を使う際の事情に近づいてくるのが不思議ですが、この点については今は措いておきます。
現場ではこのようにして問題が発生します。そして、その問題は個人が悪いわけではないにも拘らず、実際の問題が具体的な人間関係の中で生じるし、構造的な問題は目に入りづらい上に追及しにくいので、わかりやすく個人の責任に転嫁されやすいというわけです。
固定層と流動層の間の意思疎通の困難は、出入りの激しい流動層の就労パターンから生じるので、流動層一般を「われわれ」とは違う「やつら」として対象化することにつながります。そして、「やつら」が仕事の円滑な進行を妨げる理由として「怠け者だから」というレッテルが貼られます。
■いよいよ大詰めか
今回は怠け者が創出される背景について見てきました。怠け者の排除について、だいぶ説明できてきた気がしますが、まだいくつか説明できていない点がありそうです。
まず、責任転嫁する際になぜ「怠け者」というカテゴリーが用いられるのでしょうか?別に「無能だから」とか「バカだから」とか、ネガティブな言葉はいくらでもあります。「怠け者」というカテゴリーが用いられるには何か合理的な理由があるのではないかと思われます。
それから、これまで見てきたことはどのような意味で「怠け者の排除」だと言えるのでしょうか。確かに、怠け者が創出されるメカニズムや怠け者というレッテルは根拠を欠いていることなどは明らかにしてきましたが、怠け者が排除されるかどうかまでは語っていません。
残りの回でこれらの問題を片づけていきましょう。(2009年9月23日(水)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)あー。何かしんどいな……。
2)んー?いじめって何だ?どういう現象なんだ?
3)これ書くの何でこんなに時間かかるんだろ?この回に関しては書くべきことは比較的はっきりしているはずなのに、ものすごくしんどい。これが必要なしんどさなのだと考えれば、この議論そのものもそれだけ語り切る意味があると開き直れるけれど。
4)他の労働者のことを「判断が行き届いていない」とか書くと「上から見ている」みたいな批判が来るんだろうか。そんなこと言ってたら何も書けないんだけどね。
5)書いても書いても終わらん……。いつ終わるんだろう。
第8回 怠け者の効用
■なぜ「怠け者」なのか
まず、なぜ「怠け者」というカテゴリーが用いられるのかを考えてみましょう。
ここまで怠け者について論じてきて、実は怠け者が何なのかはよくわかりません。辞書的な定義を見ると「怠け者」は「いつも怠け(てい)る人」のことです。次に「怠ける」を見ると「それをする時間的余裕が有るのに、本来すべき事をしないで、むだに過ごす。サボる」とあります(『新明解国語辞典 第三版』)。
独特の解釈で定評のある「新解さん」(三省堂の国語辞典)を用いていいのだろうかという気がするので、念のため他の辞書を参照してみると「なすべきことをしない。働かない。ずるける」とあります。
どちらも「やるべきことをしない」といようなことが書かれています。第3回で見たように現場では往々にして「やるべきこと」がはっきりしていません。しかし、その「やるべきこと」を予測して常に気を利かせることを労働者は求められています。もしかすると、「『やるべきこと』を予測して常に気を利かせる」ことが飯場労働者の「やるべきこと」なのかもしれません。
そして、第4回で見たように有能さに駆り立てられる労働者はこれを積極的に引き受けてしまいます。最初の段階でこの無茶な「やるべきこと」に対して異議申し立てをするならまだしも、いったん積極的に引き受けてしまった後ではいい訳がましくなってしまうので主張しづらくなります。労働者は付け込まれる隙を作ってしまっているわけです。
「付け込まれる隙を作ってしまっている」と言うと労働者が悪いように聞こえますが、いくらかの積極性を発揮しなければ仕事そのものが成立しないので、すでにそのような権力関係があることを意識しておく必要があります。
こう考えると「怠け者」というカテゴリーを用いるのはとても合理的です。また、怠け者を問題視する勤勉倫理は基本的に社会全体で多くの人々に広く受け入れられた価値だということも重要かもしれません。普段余り使わないような言葉、例えば「お前は社会化の過程で深刻な問題を抱えたようだ」とか言われても、「何言ってだこいつ」と思われるでしょう(この言い方で相手にダメージを与えられる場合もあるでしょうが)。
■怠け者を排除するとはどういうことか
次に怠け者を排除するとはどういうことかを考えてみましょう。
前回の終わりに「これまで見てきたことはどのような意味で『怠け者の排除』だと言えるのか」という問題を提起しましたが、よく考えてみたら怠け者を作ることは誰かを「仲間はずれ」にするということなので、そもそも排除に違いありませんでした。仲間はずれにされるということは、集団の中で不利な立場におかれるということ――端的に言えばあの手この手でいじめられるということですから、具体的な不利益を被るものです。心理的・精神的な苦痛も味わわされるはずです。
いったん怠け者にカテゴリー化された人はきちんと仕事をしていても不当に低い評価を受けます。そして不当な評価を受けるからこそ余計にきちんと仕事をしなければならなくなります。不当な評価にうんざりして手を抜けば相手の思うつぼになってしまうからです。もし手を抜く道を選べば排除の圧力は強まり、その場にいられなくなるでしょう。
ここに誰かを怠け者扱いする効用があると考えられます。不当な怠け者扱いは、そのレッテルとは反対に真面目に働くことを相手に強いることになります。積極的に働く姿勢を見せなければ、揚げ足取りのように怠け者扱いされ、みじめな思いをします。これをバカバカしいと感じる者はその集団から出ていくでしょうし、出ていかなければ出ていくように排除の圧力は強まるのです。
その結果、その集団には積極的に働こうとする者だけが残るようになります。前回、僕が怠け者扱いされた事例を紹介しましたが、この怠け者扱いは実は関係ができあがる過程で起こっています。ある程度認知され、あてにされるようになってきているがゆえにこのような扱いをされるようにもなるわけです。言うなれば、怠け者扱いはこの集団の一員として認められるための通過儀礼的な意味合いを持っているのです。
そして、怠け者扱いされる「やつら」の側から「われわれ」の側に移るための方法は「誰かを怠け者扱いすること」です。もっと正確に言えば、「彼らと一緒になって誰かを怠け者扱いすること」です。怠け者を創出すする集団の側に加われば、自分自身が怠け者扱いされる側から抜け出すことができます。
■他人を怠け者にすることの落とし穴
しかし、怠け者扱いする側になったところで、怠け者扱いされる危険がなくなるわけではありません。序列関係の下の方にある者は依然として怠け者扱いされる危険が高いと思われます。そのため、ある程度の勤勉さは発揮し続けておかなければならないし、勤勉さを演出する必要も出てきます。第6回の倉田さんのふるまいを思い出して下さい。「自分は常に真面目に働いている」という演出を随所で行っていることがわかります。「自分はやつらの側ではない」ことを示しておく必要があるわけです。
ここに誰かを怠け者扱いすることの落とし穴があります。ひとたび他人を怠け者扱いする側に立つと、自分自身は怠け者ではない、真面目に働く者であるということにするための努力が必要になってきます。他人を排除することは単に目障りな人間を追い出すということではなく、自分自身を縛る規範を持ち込むことでもあります。ひとを呪わば穴2つ、情けは人のためならずみたいですね。
排除するということは集団に含まれた矛盾を隠蔽するということだし、包摂するということは集団に矛盾を含み込むということなのかもしれません。そして、そこにある矛盾の実体を捉えることが社会的排除という視点の肝なのかもしれません。(2009年9月23日(水)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)実際には「怠け者」という言葉が直接用いられることは少ない。「サボる」とか「休もうとする」と言われる。
2)出口のない競争、「負けないための競争」?
第9回 理論的にはどんなものか
■論文は書いたが
前回とりあえず事例分析としてはストーリーが出尽くした感じだったので重い腰を上げて論文をまとめました。これから推敲する作業がありますが、なんとか最初から最後まで筋を通すことができてほっとしました。
ところで書きながら思ったのは「怠け」をめぐる理論的な部分についてでした。論文というのは最初に問題設定というのがあって、自分が扱おうとするテーマについて触れている他人の研究(いわゆる先行研究)を整理して自分なりの問題関心を明らかにします。
あんまり複雑なことを言おうとすると破綻するのでシンプルな問いを設定します。自分の手持ちのデータを使って言いたいことが言えるような問題設定がなんとかできたとほっとする反面、このテーマはもうちょっと掘り下げて議論する必要があるのではないかと思いました。
「怠け」をめぐる理論的な(というか思想的?思想ってなんだ?)議論を整理した上で何を明らかにするのかを設定した方が論文に圧倒的に深みが出るはずです。しかし、日頃の勉強不足のために今回はそこまで詰めることができず、もったいことをしました。
とはいえ、この論文を練り直す機会もあるかもしれないし、このテーマそのものの理解を深めておくために、理論的なところをちょっと考えてみようと思います。
■怠ける権利
「理論的なところをちょっと考えてみる」と言っていますが、ここでは読んでいない本の話もするのでご注意下さい。聞きかじりのイメージでものを語るので、あなたが聞きかじりの聞きかじりで恥をかいたり損失を被ったとしても当方は一切関知いたしません。
「怠け」について理論的な話をしようと思って、まず頭に浮かんだのはポール・ラファルグの『怠ける権利』という本のことでした。ラファルグは『資本論』で有名なマルクスの娘のだんなで、「人間には怠ける権利があって、1日に3時間程度の労働はまあ刺激として必要」みたいなことを唱えました。といっても僕は読んでいませんが、そんなようなことが書いてあるそうです。翻訳が出ているけどとっくに絶版で、大学の図書館でコピーして手元にはあるのですが、眠たくなる文章なので読めていません。
僕はわりとラファルグの主張に抵抗はないのですが、ちょっとひっかかることがあります。「怠ける権利」というのは「働かない権利」ということになるのでしょうが、「働かない」に対応するのは「怠ける」なのでしょうか。僕には「怠ける権利」と言った時点で負けを認めているような気がしてしまうのです。
労働者が資本家に搾取されていて、労働によって得られる生産物を労働者の手に取り戻そうと盛り上がっていた時代背景があって、この時、労働というのは価値のあるもの(商品)を作りだす手段で、価値のあるものを作りだす労働自体に価値があるということになったのだと思います。
なんかこの辺の話をちゃんとしようとすると僕の頭ではついていけなくなるので深入りしません。ラファルグのことをもうちょっと考えてみましょう。
■1日3時間の労働とは何か
ラファルグは1日3時間程度の労働は人生を楽しむために必要だと言っています。この場合の労働とは何でしょうか。僕には「やらざるをえないことだけど、ぎりぎり切り詰めて3時間までしかやらない」ということのように思えます。全くやることが無くて、何をしてもいいとなるとこれは結構苦痛です。人間は何か仕方なしにでもやることがあった方がいいのです。知らない人はあんまりイメージできないでしょうが、「生活保護を受けだして生活は安定したものの、生きがいを喪失してあんまり楽しくないことになっている元ホームレスのおじさん」の問題というのもあります。
苦役であっても1日3時間程度であればアクセントになるのはどうしてなのか――これはこれで面白いテーマですが、これに拘りすぎるとまた大変なことになるので措いておきます。これに拘ると「その3時間の苦役が実は価値があるのだ」という方向に話が転がりそうで面倒です。苦役は苦役でいいじゃないですか。難しく考えてはいけません。
考えてみれば「怠ける権利」というのは、もっと具体的に言えば「1日3時間まで働く権利」であり、「それ以外の時間を自由に使う権利」ということになるのではないでしょうか。「1日3時間まで働く権利」であり、「1日3時間までしか働かない権利」かな。
キャッチコピーとしてはうまいけど、「怠ける権利」と言ってしまうと、「働かない」ことがネガティブなことになってしまうように感じられてしまいます。かといって言葉を変えて「余暇の権利」とかいうとまた話が違ってきます。「余暇」というのは「労働」に従属するもの、「労働」の付属物・補足的なものなので、これはこれはで「労働」に価値を置いてしまいます。
要するに、労働はいいものでも悪いものでもなく、単に必要なものであり、しかし、必要以上に取り組んではいけないものなのです。労働は単に「そういうもの」であり、労働に余計な意味づけするのはやめた方がいいのです。「働く喜び」とか「仕事は生きがいにもなる」とかいらないことを考えてはいけないのです。働くことは苦役で、苦役は苦役として必要なのだから、妙なことを考えるのが間違いの始まりです。いらんこと考えるから使用者にだまされるのです。
■とか言ってみたら
とか言ってみたらラファルグが実際どういうことを言っているのかが気になってきました。そんなに長いものでもないので試しに『怠ける権利』を読んでみることにします。普通はちゃんと読んでからこういう話をするか、こういう話をする前にちゃんとこういうことを考えてから本を読んで、確かめてからこういう話をするんでしょうね。でもどういったわけか僕にはできません。バカだからなのかな。(2009年10月14日(火)更新)
第10回 それでは何を考えるべきか
■『怠ける権利』を読んでみた。
前回、『怠ける権利』は絶版だと書きましたが、平凡社から昨年復刻されていたようです。注目が高まっているということなのでしょうか。
また、僕はこの本を読んでないと書きましたが、何カ所か付せんが挟まっているところを見ると一応読んでいたようです。読んだことすら忘れていたくらいですから、きっと読み解き方が分からなかったのだと思います。
今回、自分なりに考えをまとめてから読んでみると、結局ラファルグが言っていることも自分が考えたこととそう変わらないのだということが分かりました。むしろ、19世紀には既にこういうことを考えていた人がいて、しかし、21世紀になっても同じようなことが課題となっているということに驚きました。労働概念をめぐっていろいろ難しい本が出ているけど、既にラファルグの時点で答えが出ていたようです。
この『怠ける権利』という小論には当時の人名や出来事などが多数出てきて、それらについての知識が無いために多少読みづらい感じはしますが、当時の時代状況を踏まえてラファルグが「今言うべきこと」を言ったのだと考えると、材料を変えて今僕らも同じことを言えばいいんだなと思えます。
何も難しいことはないのです。
■それはそれとして、何を考えるべきか
自分には理論的な部分が欠けているなと思って、いきなり理論について考えはじめてしまったのですが、よく考えてみると、これまで僕がしてきた議論というのは「勤勉と怠けは虚構である」ということで、理論化という営みの対極にあるようなことです。
僕の立場からだと「『怠けとは何か』と考えること自体に意味がない」と言っているようなものです。「理論化しようということ自体あんまり意味ないよ」という話をしてきたくせに、「理論的な部分が欠けているから考えよう」というのは何ともうかつな話です。
しかし、漠然と「理論的な部分が欠けている」という実感はあって、考えてみようとはするわけですから、何か欠けているものがあるにはあるのでしょう。そもそも「理論的な」ものとは何なんでしょうね。
僕が第8回までかけてやってきたのは「勤勉」「怠け」というカテゴリーが便宜的に用いられて現場で排除が行なわれるメカニズムを明らかにすることでした。そういうメカニズムを明らかにしたところで、「じゃあ僕たちはこの問題にどう取り組んでいけばいいの?」ということが次の課題となると思うのです。
僕たちの最終的な目的を「1日3時間だけ働く権利を獲得すること」だとしましょう。これを達成するのにまず必要なのは、働きすぎようとする自分をやめにすることです。なぜ働こうとしてしまうのか。そういえば、ただでさえ日本はサービス残業が多い国だと言われています。会社人間だったお父さんが退職後に生きがいを喪失してしまう「ぬれ落ち葉」現象だとか、休日にやることがなくて会社に行ってしまう男たちの話などもあります。
僕たちはなぜ働きすぎてしまうのでしょうか。食べていくために最低限の収入が必要だということはあるでしょうから、貧しいほど「出来るだけ働いておこう」という計算が働くということはありえます。また、誰かより劣っていることを理由に職場から排除される可能性が考えられる場合、ほんの一歩二歩でも他人より勝っているようにアピールしておく必要があるでしょう。これは僕がこれまでしてきた議論と重なります。同じように、何か物事を成し遂げる達成感を味わいたいとか、自分自身の有能さというアイデンティティに関わる問題もあるように思います。
■戦略的怠業について
監督者の見ていないところでは怠けるということがあります。これを戦略的怠業と呼びましょう。人は怠けられるところでは怠けるのです。がんばっても評価されない部分でがんばっても仕方ありません。
怠けられるところで最大限怠けるというのは、僕たちの目的を達成するための消極的戦術として使えるかもしれません。依然として労働の中にあるとしても、働くことから距離を置くことはできるからです。
しかし、やはりこれはラファルグの言う「怠ける」こととは別物でしょう。ここでの「怠ける」は仕事のペースを落とすことで、自分にとって完全に自由な時間ではありません。バレるとクビになったり、何らかのペナルティをくらう危険があります。また、実際よくある話なのですが、下手に仕事を遅らせると長時間の残業がついてきて、結局労働時間が長くなってしまうということがあります。
残業になったら残業代がもらえるからいいじゃないかと思われるかもしれません。しかし、現場で働いている人間の実感としては残業は全くありがたくありません。残業になって疲れて、しかも休息時間が減るとなれば、翌日の仕事にひびいてきます。これが積み重なれば体を壊して仕事を休まねばならなくなることも考えられます。そうなると結果としてマイナスになります。
そうなると「戦略的怠業の意義を考察する」という方向も僕にはあまり意味のあるものとは思われないのです。
■結局は事例研究か
「働きすぎてはいけない。怠ける権利を獲得しよう」と言われても、実際にはなかなか怠けられない状況があるわけですよね。
また、うっかりすると労働の中に楽しみとか喜びを発見して働きすぎてしまっているということもあります。
僕たちは働く中でいったい何をしているのかを考え直してみた方がいいのかなあと思います。労働時間の中にいろんなものが入っていて、これが労働時間内に起こるがために「労働」のタグを付けていますが、それはあまりに大雑把ではないでしょうか。
働くことは苦役で、苦役は苦役として必要なのだから、妙なことを考えるのが間違いの始まりです。いらんこと考えるから使用者にだまされるのです。
前回、僕はこのようなことを書いています。「労働は苦役である」――ということは、苦役でないものは労働ではありません。この前提に立って労働と労働ではないものを区分けしてみましょう。
理論的云々言っておいて僕の話は結局事例研究になってしまうようなところで、第2部の始まりです。(2009年10月19日(月)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)毎回どこに落とすかで次回書かねばならないことが決まるので自然と慎重に筆を進めることになる。
2)この読み物だと僕はやたら改行する。何故か。まあ、レイアウト的に考えて改行しないとパラグラフが長くなりすぎて読みづらいということがある。しかし、この「読みづらい」というのは何か。僕はこれを論文に直す時には内容はほぼそのままで、ごそっと改行を減らす。論文の場合はある程度ボリュームのある文章を飲み込んでいって欲しいからだ。一方、この読み物の場合、あまり考え込んで欲しくないというところがある。文意を読み込みすぎて、想像力の枝葉をそぎ落として欲しくないと思う。何より僕自身があまり議論の方向を絞りたくないというのがある。そもそもよく分からないことについて書いているのだから、下手に絞ると議論が行き詰まるのが見え見えだからだ。論文に直す段階ではもう主張したい方向ははっきりしているわけだから、議論が絞れていかないと困る。うん、だから改行は気にせずした方がよい。
3)「日雇い労働者のつくりかた」形式のいいところは普通言われていることを無視してとっぴょうしもないことにいきなり取り組んでも構わないところかもしれない(もっとうまい言い表し方がありそうだな)。
第11回 苦役と苦役でないもの
■僕はいったい何を考えようとしたのか
現在、2010年の6月11日です。だいぶ時間が空いたので、なぜ僕が「苦役と苦役でないものを区分けしてみる」などと考えたのかまったくわかりません。苦し紛れに適当なことを言っただけだったのでしょうか。
当初の課題だった論文を書き上げ、出版に向けた修正作業をしているうちに時が過ぎ、その他の原稿や非常勤の講義などに追われているうちに『怠け者の社会学』の更新はとんざしてしまいましたが、その間に考えていたことはここでの議論に連動しています。
「僕たちは働く中でいったい何をしているのかを考え直して」みるというのは、「労働とは何か」という問いに言い換えることができます。ことは労働概念にまつわる問題なのです。これまで何冊か労働概念の再考にとりくんだ文献を読んできたのですが、これらの議論には労使関係の視点がすっぽり抜け落ちていることに気づきました。
労働環境の変化や技術革新と関連した労働への意味づけの変容を考察する議論があります。この議論の中では働くことそのものは望ましいことであるという前提があって、労働をいかに価値のあるものにするかが追究されていきます。労働とは富を生み出すものであったり、自己実現に不可欠なものとしてとらえられているのです。
労使関係に注目した議論においても、労働が搾取されている限りにおいて労働は苦役であり、搾取を生み出す労使関係を見直せば「望ましい労働」が手に入るのだという前提に立っているようでした。搾取されなければ労働は苦役ではなく、喜びのみをもたらすとは、僕にはとても思えません。第9回で述べたように、われわれは「やらざるをえないことだけど、ぎりぎり切り詰めて3時間までしかやらない」くらいで済ませたいものが労働だという立場に立たねばなりません。
そして、おそらく、その上で苦役に拍車をかけるのが労使関係なのではないでしょうか。
■苦役でないものとは何なのか
搾取を生み出す労使関係を見直せば「望ましい労働」が手に入るのだと考える背景には「実際にわれわれは労働の中で喜びを見いだしている場合があるではないか」と考えるからだと思われます。ここで問題なのは、果たしてそれは労働に固有の喜びなのかということです。それが本当に喜びであるなら、何も労働という枠内で営まなくともよいはずです。
■労働に価値はあるのか
人間が自然に対して働きかけ、自分(たち)の生活を豊かにする。だから、労働には価値がある、価値を生み出すものだから労働には価値があるというわけです。
しかし、これは後づけの定義です。ある行為と行為の結果に価値を見いだすのは、それを評価する社会的な背景があってのことです。もっと具体的に言えば、個人が所属する社会集団の中で価値があると認められ、個々人の考えはどうあれ、その集団のために必要とされたものが労働だということです。
この時点で労働とは集団に強いられるものであり、苦役となる要素を持ちます。しかし、その労働の成果が自分自身にとって充分得るものがあると感じられるなら苦役とは言えないかもしれません。毎日のつらいトレーニングに耐えて、最終的に勝利を手にするというゲーム的な楽しみもあるでしょう。
■ゲームは成立するのか
しかし、これだけ社会が複雑になり、分業が進むと、利益と苦役のバランスが取れているのかどうか実感としてよくわかりません。苦役を楽しみに転化するゲームの論理も、どこからどこまでがゲームなのか不透明になるとモチベーションが上がりません。ゲームの勝利が大した価値を持たなくなったり、ゲームに勝利しても約束されたものが手に入らないようになれば、もはや苦役がふくれあがるばかりです。
かといって、ゲームから降りて我が道を歩もうにも、この社会ではすでに生活の糧はゲームの中からしか得られなくなっていて、仕方がないのでなんとかしてゲームにのめり込めるような解釈を工夫しなければなりません。
そう考えると、何をゲームとするかは個人単位まで切り詰められていて、「自己実現」とか「やりたいこと」探しというのは、どう考えても苦役としか思えないものを我慢する工夫を自分でしろというむちゃくちゃなことになっているのが現状のように思えてきますね。
■労使関係の中へ
ところで、本当にゲームから降りる道はないのでしょうか。
社会があまりに大きすぎるので、僕たちはそう信じ込んでいるだけなのかもしれません。
本心ではいやだいやだと思いつつ、実際には引き受けなくてもいいことを気づかないうちにわざわざ引き受けてしまっているということだって考えられます。この「気づかないうちにわざわざ引き受けてしまっている」ことを自覚するところに活路が見出せる気がします。
実際の労働の中では出来事があまりにミクロで、その場その場で熟考する余裕もないので気づけないままになっていることがあります。こうしたことはマクロな構図からみれば明らかだったりするのですが、マクロな構図がミクロな場面のどこにどのように働いているのかということが、僕らには案外わからないのです。
ご存知のように僕はミクロなちまちました状況を分析して議論するタイプの研究者なので、具体的な労働の現場に注目し、特に労使関係をひっくるめて実際の行為や行為への意味づけ、人々のやりとりなどを分析して、われわれがどこで何にどのようにからめとられているのかを明らかにしていきたいと思います。
そして、これは「日雇い労働者のつくりかた」なので、あくまで事例は日雇い労働者、今回の場合は引き続き飯場労働者を事例として進めていきます。(2010年6月18日(金)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)書き始めてから書き終えるまで一週間かかっている。時間が取れない。つらい。しかも、どうしてもこのやり方は時間がかかる。どれくらい時間がかかるかも読めない。
2)わりと理論編っぽいことがまとまっているな。
3)飯場労働者の事例に特有なことをはっきりさせるという課題がまだ残っている。これがなかなか見えてこない。大規模な分業体系の最末端に位置づけられているというのは特徴の一つだとは言えそうだが、これだけでは不十分だな。もっと議論を深められるはずだ。
第12回 飯場労働の労使関係
■使用者の基準
この読み物では「搾取を生み出す労使関係を見直せば『望ましい労働』が手に入るなどということはない」という立場から議論を進めますが、これを検証しようとしても、「労使関係を変えてみたり、取り除いたりしてみて労働の価値が変化するか否かを見てみる」という実験を行なうことが現実にはできません。そこで、ケーススタディを通して、現実を腑分けするように見ていく必要があります。
ここでは基本的な情報として、飯場労働の労使関係について確認しておきましょう。といっても、われわれは既に「第3回 使用者の基準」でこれについて見てきています。
飯場労働者に仕事を与え、現場で実際に使用する人間をここでは「使用者」と読んでいます。この使用者と飯場労働者との関係をここでの「労使関係」としておきます。
「関係」という言い方は曖昧だったかもしれません。僕は両者の関係を「権力関係」だと考えています。権力関係とは誰かが誰かに言うことを聞かせることができる関係のことを指します。この場合、言うことを聞かされる側の人間の意思がどうであれ、そのようにできるという点が重要です。言うことを聞かせる側の人間は聞かせられる側の人間の事情や考えなどを知る必要がありません。
もちろん、労働者がどのような技術や経験を持っていて、どの程度の体力があるのかなど、労働力としての質を考慮して実際の作業の段取りや役割を決定することはあります。しかし、これは労働者ごとのバラツキはあるものの、労働者が一定水準以上の労働力を備えていることを前提としています。
何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれません。働くということは労働の対価として賃金を得るということであり、働く以上その労働をこなせるだけの労働力を提供できることは労働者側の責任であり、これは両者間で共有された約束事なのかもしれません。
しかし、実際のところ飯場労働の場合この約束事がかなり曖昧です。これまでさんざん強調してきたように、飯場労働とはさまざまなことをさせられる仕事です。「何をどこまでやればよいのか」はその都度使用者が決める部分が多く、労働者が持ち合わせておくべき「一定水準以上」の水準は、たとえ全般的に低いながらも変動するものなのです。
■それは飯場労働だけの問題か
ところで、それは飯場労働だけの問題でしょうか?例えばサービス残業というものがあります。これは時間外労働が常態化していることを問題視して生まれた言葉です。また、やるべきこととして定められた本来の仕事にプラスαで働くことを求められる場合があります。これを「フリンジ・ワーク」と言います。「フリンジ」とは例えばペルシャ絨毯のはしっこに付けられたびろびろの部分のことで、このびろびろの部分は敷物としての絨毯本来の機能を超えた飾りです。これらの言葉に見られるように、労働者が最初の約束事以上に働かされることは一般的に起こっている問題のようです。
■飯場労働に特有の問題
約束事以上に働かされることは飯場労働だけの問題ではないことを述べました。一般的に労使間に権力関係があることが言えそうです。どんな仕事でも同じように起こることなのだということにしてしまえば、扱う事例の一般性が確保できて結構なことのように思えます。どんな仕事について見てみても共通する問題として議論することができるからです。
しかし、だからといって扱う事例が飯場労働では納得がいかないとは言わないまでも、ちょっと特殊すぎるんじゃないかという声が聞こえてきそうです。やっぱり、飯場労働の場合にのみ起こりうる問題があるのではないでしょうか。そもそも飯場や日雇い労働者や寄せ場というのが「特殊」だと思われるようなものでなければ、僕の書いたものなんて誰も読んでいないはずです。
まず、基本的なことから考えてみましょう。寄せ場とは路上求人が慣習化している場所のことを言います。その場所に行けば労働力を必要としている人が来ていて、仕事に行くことができます。そして、ここで紹介される仕事は基本的に日雇い労働のような短期的な雇用によるものです。そもそもなぜ路上求人などに頼るかといえばその日急に人間が必要になったからで、正規のルートで探していては間に合わないので場当たり的に解決を図ろうとするからでしょう。人手が足りないからその辺にいる人間に声をかけてとりあえず引っ張っていくわけですね。このような場所とやり方が大きくなって、定着すると釜ヶ崎や山谷のようになるのでしょう。
だんだんやり方が大きくなると、人を集める人間と、集められた人間を実際に使う人間が一致しないということが起こってきます。後者はこの読み物でいうところの「使用者」ですが、前者は「手配師」とか「人夫出し」と言われる中間業者で、「人材派遣業」のような役割を果たすものです。ちなみにこの「人材派遣業」は違法なので、寄せ場や飯場の労働者は違法な手続きの下で働いています。要するに、約束事など最初から「なあなあ」です。
しかも、使用者の方は「人材派遣業」の業者がその辺の約束事をきちんと処理してくれているものと思い込んでいたりします。その結果、現場に行ってみると労働者はいろいろ理不尽なことを言われながら働かなければならなくなります。そもそも、使用者は労働者が飯場や寄せ場といったところから働きにきていることを知らないし、飯場や寄せ場といったものがどういうものか、あるいはその存在すらも知らないかもしれません。
同じ非正規労働でも、学生のアルバイトや主婦のパートなどの場合、労働者がどのような存在であるかはあらかじめ知られています。ステレオタイプ的な見方があり、また彼/彼女らのような労働力は決して少数派ではありません。彼/彼女らは奨学金や仕送り、(おそらくは正規雇用の)配偶者の収入を基本として生活しており、そのプラスαとして働いていると見られいるし、本人たちの多くもそのつもりで働いていると言えるでしょう。つまり、彼/彼女らの働き方はわりと一般的なものなのです。
寄せ場のことを「隠蔽された外部」といって、一般社会から隠され外部に追いやられながらも一般社会のために利用されている場所だと位置づける議論があります。その存在を隠されていたり、知っていても見なかったことにしながら、利用するだけ利用しているという構造を問題視しているわけです。
「隠され外部に追いやられながらも一般社会のために利用されている」という構造が、実際の労働現場ではどのような状況を生み出すのかをこれから見ていきたいと思います。(2010年6月26日(土)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)別にそうは考えてなかったけど、「怠け者の社会学」を書き進めれば書き進めるほど、僕がやっていることは「日雇い労働者のつくりかた」の続きで、むしろ「日雇い労働者のつくりかた」を本気で完成させようとしているように思えてくる。7年前から決まっていたのかな?……つか、7年も同じことやってるのか。
2)そもそも僕の方法論は個別具体的で特殊な事例をねちねちと細かく見て逆に一般性を確保しようというもののはず。
3)正規雇用に就きたくてもつけないフリーターや派遣労働者になると似たような問題の構造ができあがると言えるのかもしれないが、単純に寄せ場とフリーター・派遣労働者をひっつけて論じていいのかな?
第13回 使用者の認識と飯場労働者の実態のすれちがい
■普通とは何か
使用者の認識と飯場労働者の実態のすれちがいについて見ていきましょう。このような事例はいくつも思いつくのですが、どれから紹介するのがよいでしょうか。
まず、第5回で登場した水野さんの言葉に注目してみましょう。「日雇い稼業」についてレクチャーしてくれた水野さんは、働きながらその会社や仕事についていろいろコメントを添えてくれました。どれも印象深い面白いお話だったのですが、その中に使用者の認識の間違いを指摘するようなものがありました。
「河合建設の仕事はあまり来たくないんや」と水野さんが言う。水野さんによると「河合建設はダラダラ仕事をする」「決まり事がない」「人夫出しから人間が来ていることを知らない。そういう意識がない」「口答えしたらあかん」のだという。(2004年2月12日(木)のフィールドノート)
河合建設というこの日の派遣先の会社についての不満を水野さんは述べています。水野さんの発言のうち、ここで重要なのは「人夫出しから人間が来ていることを知らない。そういう意識がない」という部分です。彼が不満に思うようなことの原因はここから来ていることが暗に指摘されているとと考えられます。
「人夫出しから人間が来ていることを知らない」とは、そもそも「人夫出し飯場」というものがあることをよくわかっていないということだと思います。「飯場」という言葉を知らないし、知っていたとしてもその内実はわかっていないでしょう。せいぜい、我々が会社の「寮」に入っていて、「そこから現場に通ってきている者もいる」のだと受けとめている人はいたかもしれません。僕がこの時入っていたB建設という飯場を河合建設の人たちは「普通の」建設会社の一つだと思っているはずです。
ここで僕は「普通の」とかっこ付きで書きました。実はこの「普通」というのは中身のない言葉です。「普通とは何か」を定義することはとても難しいのです。もしかすると「普通」のもの、「普通」のことなど具体的には存在しないのかもしれません。誰しも、どんなものでも具体的に見ていけば一つや二つおかしなことが見えてくるはずです。ここで重要なのは、「普通」とは「『私とあなた(あるいは彼ら)は同じだ』と思うことができる」ということです。
「私とあなた(彼ら)は同じだ」と思うこと、思われることは大切なことです。「私とあなた(彼ら)は違う」ということになれば、一気に排除の理由になるかもしれません。仲間になれない、異質な人間・異質な集団を無理して受け入れることはないということになってしまうかもしれません。そうならないためには「同じだ」と考えてもらった方が都合がよいはずです。
ただし、ここで問題となるのは「同じだ」ということになると、実際にはある差異はないことになってしまうということです。もちろん、細かな差異があるのは当たり前ですから、ある程度の差異については配慮がなされ、許容されていきます。しかし、この差異が大きすぎると「配慮するには余りある」ということになってしまいます。
■「普通」の境界
「普通」とはとらえどころのないものですが、しかし、相互行為の中では実際に人々を縛る力となります。とらえどころのないものではありますが、相互行為の中で共有されたり、共有することを前提として話を進められることで、「普通」というものの境界はその都度、ぼんやりとはしていますが引かれるものなのです。
では、飯場労働の現場で共有されている「普通」とはどのようなものでしょうか。これをおぼろげながらでもとらえようとするなら、やはり相互行為の場面を見ていかなければなりません。例えば次のような事例です。
仕事中、河合建設の江口さんに「休みの日は何しとるんや」「そろそろ給料日やないんか?」と聞かれる。月末給料日って…この人飯場のシステム知らないの?(2004年2月23日(月)のフィールドノート)
河合建設の江口さんのこのような質問に僕は答えようがなくて口ごもってしまいました。江口さんのこのような問いかけは「普通」の会社なら給料日は月末、25日前後という認識を前提としています。ご存知のように、飯場は実働の期間契約ですから、月単位の給料日などありません。10日契約なら仕事のなかった日を除いた実働の10日目が給料日で、この段階で飯場を出る人もいれば、契約を更新する人もいます。
もっとも飯場に長くいる、いわゆる固定層の人たちの場合、日給月給ではありますが、月末に給料日が便宜的に設けられていました。使用者にとって持続的な長い付き合いをするのは固定層なので、飯場労働者に関する認識も固定層についてのものが基本となっていくと思われます。したがって、江口さんの認識はまったくの間違いではありませんが、飯場労働者には固定層と流動層があり、流動層を活用することで需要と供給のバランスをとっているのが飯場です。飯場というシステムをまったく理解していないことが彼の発言から窺えます。
その他の事例も見てみましょう。河合建設の場合、飯場についてほとんど知識がないようでしたが、会社によってはもう少し事情に通じている場合もあります。
休憩中、中居さんと井上さんが現場での呼ばれ方について話していた。固定層の中居さんが流動層の井上さんに「自分より年上やと思ってましたもん」と打ち明け、井上さんが「ショッックや(笑)」と話していた。そのことを皮切りに「おっさん言われたら(仕事)やる気なくすなあ」と井上さんが話しだす。「土工さん」と呼ばれるのはまだいい。「土方」と言われると腹が立つ。名前が分からなくても会社名で「高木(建設)さん」「B(建設)さん」と呼ぶのが普通だ――と言う(高木建設はこの日の派遣先の会社。自分たちのB建設は飯場の名前)。
「最初「B(建設)さん」と言われてドキッとしたわ」と井上さんが言う。どういうことか尋ねると、現場によっては人夫出しが入っていることを隠さなければならない場合があるという。ここの現場では大丈夫だと中居さんが言う。ここの現場では山川組が一次下請けで、その間にもう一つ入って高木建設は三次下請けになる。だからB建設は四次下請だと中居さんが説明してくれた。高木建設の下請けであるわれわれは、山川組の人からは「高木さん」と呼ばれるものと思っていたが、「B(建設)さん」と呼ばれたものだから井上さんはドキッとしたということらしい。「人夫出しから人が来ていることを隠さなければならない場合がある」のだという。(2004年3月6日(土)のフィールドノート)
ここにはまた別の問題がありますが、ひとまず確認しておきたいのは高木建設は河合建設とは違って、飯場がどういうところか、人夫出しがどういうものかをある程度知っているということです。次の事例を見て下さい。
高木建設から迎えが来て、現場に向かう車の中で明日の日曜日に誰か出てくれと高木建設の社長が言うので、みんなの間になんとなく緊張する雰囲気が広がるのがわかった。井上さんが「1回満期にしたんですよ」とよくわからないことを言う。この場では誰が行くかは決まらなかった。
休憩時間に朝の発言の意図を井上さんに尋ねると、「今は1回満期にして10日分の日当を受け取ったばかりで、あまり積極的に働く気にならない」というアピールの意味で言ったらしい。(2004年3月6日(土)のフィールドノート)
井上さんがこのようなアピールを行なえるのは、飯場が実働の期間契約であることを含めた飯場の実態について高木建設の人が知っており、ある程度理解してくれるものと期待できると考えているからでしょう。いずれにせよ、「普通」の境界がその都度引きなおされていることが分かるでしょうか。
ここでもう一つ問題を付け加えると、飯場を自分たちの境界内に受容していて、寛大さを持ちえているように見える高木建設ですが、やはりどこかで「普通」ではないものとの境界を引いています。高木建設の人とB建設の固定層の労働者とが流動層を含む休憩の場でこんな会話をしていました。僕と井上さんは最初、2人きりで作業していて、僕が大学院生であるということまでは行きがかり上話していました。
昼食休憩の時に僕が大学院生で、実は飯場や労働のことを研究するために働きにきていることを現場のみんなに知られた。高木建設の人に言われてみんなのコーヒーを買いに出る時、プレハブの中で「若いなあ」と話し始めるのが聞こえた。おそらく僕のことを話題にしているようなので、これは井上さん話しちゃうな、と思った。バイトのために来ているんだということで話を合わせてたら「研究でもしとるんかと思ったわ」と言われたので、実は研究なのだということも話した。高木建設の人に「俺たちはモルモットか!」と笑われる。井上さんは「俺のこと論文に載るかもしれんなあ」などと言って何やら喜んでいた。
ひとしきり盛りあがった後、「土工は単に金儲け(バイト)のつもりだったらやらない方がいい」「土工に染まってしまうからな」と高木建設の人と小川さん(B建設の固定層)が言う。その一方で、井上さんは「俺たちのことなんて簡単やないか。酒飲んだりバクチうっとるというだけで全部やろ」と冗談めかして言う。「西成(釜ヶ崎)は人の住むところじゃないな」と高木建設の人が話しだし、小川さんが大きくうなづく。明け方、自販機の前で酒を買って飲んでいたら殴られて金をとられたというエピソードを小川さんが話した。
高木建設の人にとって「土工」という仕事そのものの否定的側面が語られています。自分たちの仕事自体の理解と飯場理解とは何らかの親和性を持っているのかもしれません。しかし、一方で釜ヶ崎については「人の住むところじゃない」というように、明らかに「普通じゃない」場所として外部化して語られています。高木建設の人に異論なく同意しているふうな小川さんも、もともとは釜ヶ崎から飯場にやってきたはずだし、自分自身釜ヶ崎にいたがゆえに起こった事件を話題にしているにもかかわらず、自分は釜ヶ崎とは距離のある人間であるように語っています。
飯場について理解しているなら、飯場が釜ヶ崎からの求人で労働力の需要と供給のバランスをとっていることを知らないはずはありません。しかし、釜ヶ崎については「普通」の境界外への排除が行なわれています。そして、これは契約を終えれば釜ヶ崎へ帰っていくであろう井上さんの目の前で公然と行なわれたやりとりであるということも見逃せません。
■排除と包摂と配慮
先ほど「別の問題がある」と言ったことについて今度は見ていきましょう。飯場労働者は自分が人夫出し飯場から来ていることを隠さなければならない場合があると認識していることを述べました。これがここでの問題です。
河合建設の場合も、飯場労働者を排除しているわけではありません。もちろん、飯場や飯場労働者について知らないために、自分たちとは異なる事情を持つものへの配慮は欠けていますが、配慮はないものの労働力として招き入れている時点で労働力としては包摂していると言えます。
しかし、河合建設で働く場合、飯場労働者は自分たちが人夫出し飯場から来ているという事実を隠さなければなりません。人夫出し飯場の労働者が抱える事情を語ったところで河合建設の現場では通らないし、理解を得られないことがわかっているからです。飯場労働者は河合建設のやり方に合わせることを一方的に求められる立場に置かれます。
河合建設の場合、労働力としての飯場労働者を排除はしていませんが、飯場労働者の事情やその存在形態などを潜在的に排除しているというふうに見ることができます。この意味で排除と包摂は裏表の関係にあると言えるかもしれません。相手の事情を無視した包摂は、「あなたがどういう人かは知らないが、われわれに合わせられないのであればこの場から去ってくれて構わない」という排除の圧力を暗にかけ続けることに他ならないというわけです。配慮のない包摂など、体のいい排除に過ぎないのではないでしょうか。
■労働現場の中での相互行為
これまで見てきたように、程度の差こそあれ、人夫出し飯場や寄せ場は社会の中で労働力として日常的に活用されているにもかかわらず、公然と「あってはならない」ものであるという扱いをされているのです。
さて、このような扱いをされることで、実際の労働の場面ではどのような問題が起こるのでしょうか。次にこの点について見ていきたいと思います。
別に読まなくていい今回の独り言
1)2010年7月2日(金)に書き始める、と。
2)2010年7月3日(土)に書き終わる、と。思ったよりすらすら書けた、というより、思った以上に考察が深まったので面白かった。参与観察の難しいところは、疑問に思ったことがあってもそれについて深く追究することがなかなかできないということだ。「なぜ?」「どうして?」を聞けるか否かは現場での関係性いかんに関わってくる。関係が良好であるがゆえに聞けないことだってあるし、フィールドでの時間は進行形なので、深く話を聞くタイミングがつかめず、チャンスを逃してしまう場合だってある。もっと長く調査をしていれば、お願いして改めて聞き取りの場を設定することもできるかもしれない。しかし、飯場という人の出入りが激しく、ある意味で個人主義的な場所で聞き取りの場を設けるのはなかなか難しいと思う。今回もちいた事例はその時その時面白いと思って聞いていても、細部を聞き取ることも出来ず、「こんな断片的な情報だけ集めて果たして論文がかけるんだろうか」と不安を募らせていたのを覚えている。しかし、今回の分を書いていて、事例と事例をだぶらせて、重層的に記述を提示していけば解釈の幅を広げていくことができることがわかった。これがギアツの言う「厚い記述」にあたるものなのだろうか。今もう一度ギアツを読み返せば、今度はもっといろいろ読める部分があるかもしれない。
3)あと2回で終わりかな?第14回で労働現場での事例を扱って、第15回で考察して、最後に「おわりに」を書いて終わりと。やれやれー。どうせ誰も読んでないのになあ。
4)この「怠け者の社会学」もfactreeでの連載みたいに右にフレーム付けられたら格好いいし読みやすいんだけどなー。レイアウトだけでもよくするとぐっと読者が増えるように思うのだが。そんな難しい技術じゃなさそうなんだけど、なかなか独力ではできない。ホームページ作成講座とかあったら一度受講してみたい。
5)修正したけど、「高木建設の人にとって「土工」という仕事そのものの」から「公然と行なわれたやりとりであるということも重要である」の部分だけなぜかであるだ調になっていた。なぜだ。考察に入り込みすぎていたんだろうか。
第14回 労働現場の中での相互行為
■「10のうち、8か9やってくれればいい」?
というわけで、いよいよ労働現場で実際に働いている時に労使間でどのような行為と意味づけがなされているかを見ていきましょう。
「第3回 使用者の基準」で僕は具体的な事例抜きでさらっと「何をどこまでやればよいかというルールを定めるのは使用者であり、しかも、使用者はこのルールをゲームの途中で変えてしまうこともできる」と述べていますが、ここでは第3回で述べたことを事例をもとに改めて考えてみようと思います。
ここでもどの事例から入ればいいのか迷うのですが、手始めに次の事例から見ていきましょう。
午前10時の休憩時間、プレハブで休んでいたら軽トラで休んでいた監督も入ってきた。「難しいことは要求しとらんのやで。10のうち11も12もやれとは言わん。10のうち8か9やってくれたらええんや。5じゃ困るけどな。2人呼ばんといかんやろ」と僕たちに向かって語りだす。なるほどと適当に相づちをうちながら聞いていたが、他の2人は聞き流していた。(2004年6月30日(水)のフィールドノート)
この日、僕は「〈現金〉を呼びすぎたから」という理由で「食い抜き」(宿泊費・食費などの飯代無料ということ)の休みにされていました。しかし、この現場に配属されていた労働者のうちの1人が仕事が始まってすぐに怒って帰ってしまい、代わりの人間をよこすよう注文を受けたということで、急遽休みだった僕が出勤することになったのです。
監督のこの発言はその帰ってしまった人の態度を問題にしてのものだと思われます。「自分は過分な要求はしていない。いくらか余裕のある範囲で頼んでいるはずなのに、それで怒って帰ってしまうのはわがままだ」と言いたかったのでしょう。
そんなことは本人に言ってもらいたいものですが、八つ当たりないしうっぷんばらし含みではあるものの、彼は同じ集団に所属する者たちに対して仕事のモラルを説いていたわけです。彼の飯場労働者への期待を表現する言葉だと言えます。
「10のうち11も12もやれとは言わん。10のうち8か9やってくれたらいい」というのは寛大な言葉のようにも思えますが、そもそもその10というのはどういう規準からはかったものなのでしょうか。規準によってはその10というのはそもそも12くらいのものかもしれません。
交代要員として配属された僕が最初に指示されたのは整地という作業で、帰ってしまった人がやらされるはずだった作業はこれだったのだと思われます。しかし、僕は整地の経験がほとんどなかったので、結果的にもう1人の人にやってもらうことになりました。
現場について、プレハブで準備をして外に出る。社員の人が怒られている。監督「帰るようなやつよこすな。ちゃんと働く奴よこせ」とユンボの上から くどくど文句を言い、社員の人はひたすら謝っていた。
ユンボで砕石を撒きながら後退していく後からついていって、高さを合わせながらならしていくように言われる。普通、レベルという器械で何ヶ所かポイントを決めて規準となる高さを出して、そのポイントとポイントをつなぐようにならしていくのだが、ここの現場ではオートレベルという器械を使っていた。僕はオートレベルというのを初めて見た。使い方が分からない。平田さんという長期の人が教えてくれる。一定の高さに固定された発信器のようなものがあって、その高さに来ると反応する受信器を持たされる。その受信器を使って自分でポイントを作りながらならしていけという。
言っていることはわかるが、これまで使ったことのない器械だし、整地自体あまり経験がない。戸惑っていたら「砕石ならしやったことないんか」とユンボの上の監督から言われる。素直に認めると、「やったことないもんやったらあかんわ、代わってもらえ」というので、離れた場所でハリ(建物の基礎のために地面を成型したもの)にビニールフィルム敷いてガムテープで止める作業をしていたもう1人の人に代わってもらう。その人もあまり自信はないようで、「わし遅いけど」と監督に言っていたが、「ゆっくりでええから」と言われてこなしていた。簡単で楽そうな仕事と代わってもらうのは申し訳なかったが仕方ない。いつできるようになるだろう。 交代した作業を始めるが、すぐ休憩になった。10時だ。(2004年6月30日(水)のフィールドノート)
この時にはわからなかったのですが、これから何年か経って僕も経験を積んで整地ができるようになりました。これについては「日雇い労働者のつくりかた」の第8回と第9回「どうしてできるようになるのか 前後編」で詳しく触れています。整地というのは言ってしまえば「地面を平らにならすだけ」ですが、言うほど簡単なものではありません。
この時、この監督が要求していた「10のうち8か9」の中身を検討してみましょう。
■整地作業の何が大変か
まず、整地を1人でやるのは大変です。ユンボで大雑把にまかれた砕石をふりわけていくだけで大変です。また、平らになっているかどうかを見極めるのも神経を使います。平らにするにはそれなりの経験と技術が必要です。やっかいなのは、どの程度平らにすればよいのかは個々人の判断によって異なってくるということがあります。
整地というのは、コンクリートを打つ前の下ごしらえの作業です。コンクリートはそのまま基礎になりますから本当の意味できちんと平らに打たなければなりませんが、逆に言えばコンクリートを打つ仕上げの段階でちゃんと平らになっていればいいので、整地の時点ではそれほど厳密に平らにする必要はないのです。
とはいえ、「ある程度」平らにする必要はあるわけですが、これが「どの程度」なのかは使用者個人の几帳面さや仕上がりへのこだわり、全体の作業の進み具合などによって左右されます。労働者の側にはその辺の事情は分かりませんから、適当に判断しながら作業しなければなりません。雑すぎれば怒られるし、丁寧にやりすぎても注意されます。つまり、使用者の合格点を探ること自体に神経を使わねばならないわけです。
この現場の場合、使用者と1対1でこの作業をやらされるという点でまた神経を使います。使用者に対して複数人でやる場合、作業者全体の能力の平均値が決まってくるので「この程度まではやれる」というレベルは自ずと定まります。1人でやる場合だと、作業の負荷と作業者の能力や努力の度合が釣り合っているのかどうかが見えづらく、作業者が「怠けている」ように見えがちになってしまいます。例えば、複数人でやっていればお互いに一息つきながらやることもできますが、1人では単にサボっているように見えてしまいますし、そのように見られてしまうことを意識させられます。
監督は「ゆっくりでいい」と言ってます。監督が砕石を撒いた後で淡々と整地していけばいいなら、もしかしてそれでもいいのかもしれませんが、監督の砂利撒きの見積もりが悪かった場合、砕石を足してもらったり、取り除いてもらったりを頼まなければなりません。両者がやることは切り離されているわけではないので、どうしてもユンボに引っ張られるような形の作業になります。これも神経を使います(そして、こういうことは「やらせる側」にはあまり分からないことのようです)。
しかもポイントを出す作業までオートレベルで随時やれというのは結構うんざりします。砕石を撒いてならす作業とレベルを出す作業は全く違う次元のもので、これらをとっかえひっかえやらなければならないのはやはり負担なのです。オートレベルの受信器には棒がくくりつけられていて、発信器の信号に反応したところでその棒が地面と垂直になるように調整して、砕石が少なければ砕石を足し、垂直になる前に地面にあたってしまうようなら砕石を掘って取り除かねばなりません。宙ぶらりんの受信器を規準に地面との垂直をはかるなんてどれだけ面倒くさいことか(この辺りの記述を読むことの面倒くささはそのままこの作業の面倒くささを反映していると言えますね)。
この時の作業範囲は小型のユンボ1台のアームが左右に振れる範囲内ということでしたが、これを延々と何十メートルと要求されました。こんな作業をオートレベルでやらされてはかないません。普通、測量の作業は2人一組で行ないます。器械を覗いて高さを測る人間と、高さを出す地点でスケールを持って実際のポイントをつけていく人間がいます。この作業自体がちょっと手間のかかるものなので、ある程度の範囲で高さを出し終えたあとで整地作業にかかります。2つの作業は工程としても分かれているわけです。
オートレベルも2つの工程として作業を分けてやらせてくれるならそう悪くはないと思います。監督からすれば、オートレベルは1人で使えるもので、整地も1人でやるには広すぎるというほどでもない範囲(使用者の考える10)であり、ゆっくり進めてくれてもいい(8か9)のだから、これを嫌がるのはわがままだという理屈になるのでしょう。
技術革新による労働強化というのはこのように進展するのですねえ……。そりゃキレるわ。
■飯場労働者に固有の問題
一つ目の事例が思いのほか長くなってしまいましたね。そもそも要求する水準が高すぎることに使用者が気づいていないということがわかりました。もっとも、これだけではどのような労働にも起こりうる問題です。飯場労働者に固有の問題について、次に見てまいりましょう。
前回の最後のところで「人夫出し飯場や寄せ場は社会の中で労働力として日常的に活用されているにもかかわらず、公然と『あってはならない』ものであるという扱いをされている」と述べました。ここでの問題も結局はこれに関わってくることです。
前回、「人夫出しから人間が来ていることを知らない」という水野さんの言葉を紹介しました。僕の「飯場日記」を読んでもらえばわかるように、ずぶの素人でも飯場に入ることができます。もちろん経験者であることが望ましいし、高齢者や傷病者は敬遠されます。「若い」ということは一つの価値を持っており、「若さで乗り切れるだろう」という期待をかけられます。
この結果、飯場の労働者それぞれの持つ経験や技術はかなりまばらなものになります。水野さんのように日雇い稼業に就いて20年前後という人もいれば、飯場に入るのは初めてだという人もめずらしくはありません。もともとなんらかの建設労働に従事していたという人でも、飯場労働者の土工仕事の勝手はなかなかわからないものであるようです。
もう何度となく触れていることですが、飯場労働者の仕事は多様であり、これは「何でもやらなければならない」とか「土工は汚れてなんぼ」(とにかくがむしゃらに取り組めという姿勢を求めていることを表現した言葉だと思われます)などと言われるようなものです。飯場労働者は補助的な労働力として活用されます。補助的な労働力として活用されるということは、ある工事について最初から最後まで継続的に関わる機会が少ないということを意味します。特別労働力を必要とされるタイミングで現場に投入され、その作業が終わってしまえばお役御免となります。したがって、特定の作業を反復的に習得する機会を得ることが難しいのです。
また、飯場労働の経験の長い人であっても初めてやる作業に出くわす場合があります。例えば、高木建設の人と小川さんの以下のようなやりとりがありました。
高木建設の人が土工仕事についてアドバイスをくれる。「土工は難しいで。昔はただスコップが使えりゃよかったけどな。今は何でもやらにゃいかん」という。「新しいこと増えてわしでもよう分からん時あるわ」と冗談まじりに言って笑った。高木建設の人が「何度やっても覚えんやつおるな」と言うと、小川さんが「アホなやつは何度やっても覚えん」とコメントした。
土工の仕事の多様さは使用者自身が認めるようなところでもあります。しかし、いかに多様であってもある程度のパターンはあると思われます。また、配属先の会社に定番のやり方や定番の作業というのもあるはずで、一つの飯場に定着し、その飯場が抱える配属先の会社をまんべんなく経験した労働者は、その飯場にいる限りでは「オールラウンダー」に成長していくはずです。飯場を変われば配属先の会社も変わり、やり方や作業内容も変わってくるので、彼も万能ではなくなりますが、その飯場にいる限りでは「ベテラン」と言えるでしょう。
前回述べたように、使用者の飯場労働者に関する認識は固定層についてのものが基本となっていくと思われます。かといって、使用者が期待するような「能力がない」ことを責められるいわれも飯場労働者の側にはないのです。飯場労働者間では「最初は出来ないのが当たり前」だという認識は共有されていますし、やったことがないことや自信のないことについては「言われたことをやっていればいい」という形で自分の能力外であることをきっぱり認めます。
しかし、飯場労働者のそのような事情を知らない使用者は容赦がありません。「人夫出しから人間が来ていることを知らない」会社である河合建設の事例を見てみましょう。
外壁の裏の斜面をユンボが掘削してならしていく。そうすると大きめの石がこぼれ落ちてきて、ユンボのアームが届かないところまで来るので、スコップですくってアームが届くところまで投げ返してやらなければならない。別の現場で他の人がそういうふうにしていたので、やらなければという意識はあった。しかし、ユンボが豪快に稼働している中で手を出していいものかどうか、どの程度の大きさの石まで取るべきなのか、ある程度石がたまってからやった方がいいのではないかなどと思案しているうちに、角谷さん(この現場での河合建設の責任者)にやはりこの作業をするように指示されたので、やりはじめた。
実際のところ、こういう作業は必ずやらなければならないことではない。ユンボが掘削を始めたものの、この日の作業が具体的に何なのか僕たちは教えられていなかった。ユンボの補助をするべきなのか、それとも別の作業を指示されるのか分からないまま、宙ぶらりんの状態で放置されていたとも言える。しかし、指示されるまで石を投げ返す作業をしなかったことで、角谷さんには僕たちが「気が利かない」という印象を与えることになったようだった。
ユンボの掘削が一段落した後もなかなか指示がなかった。何もせずにぼーっとしていては居心地が悪いので、とりあえず斜面に残った凹凸を踏み固めて平らにする作業を自主的に始めた。しかし、そもそも斜面を丁寧にならす必要があるのかどうかも分からない。もしかしたら、無駄なことかもしれないと思うと今ひとつ力が入らないでいた。角谷さんはユンボから降りた江口さんと打ち合わせをしていたが、僕の作業の仕方を見とがめて「ならしてくれるんなら道具使ってやれ」と言ってレイキを持ってきた。僕のレイキの使い方が気に入らなかったようで、僕の手からレイキを取り上げて「やる時は力入れてさっさとやらんかい」と言って実演した。「(こんなこと)平らにならそういう気があったらできることやない?」と嫌味を言った。
「○○くん(筆者)はあまり土工はやったことないんか?」と角谷さんに聞かれた。角谷さんはさらに「この2人は土工の経験ないんか?」と江口さんに尋ねた(この場にいたのは僕と〈現金〉で来た田崎さんで、田崎さんも土工は経験がないと後で聞いたが、今日たまたま来ただけの田崎さんについて江口さんが知っているはずがない)。
しばらくして、この日の仕事は排水パイプと排水口の設置であることがわかった。何をやるかを教えてもらえれば迷うこともない。しかし、この時点で僕は「初心者で仕事ができない」「使えない」という位置づけにされてしまっていて、作業しながらもいちいち角谷「しっかりやらんとどこの現場にも呼んでもらえんようになるぞ」「その辺の女の子の方がまだ力あるんと違うか」、江口「先輩のやることよう見てちゃんと覚えいよ」などと嫌味を言われた。(2004年2月27日(金)のフィールドノート)
この事例については解釈が難しいところがあります。怒られたのは僕自身の思い切りの悪さ、要領の悪さの問題ではないかと思われるかもしれません。しかし、問題としたいのは飯場労働者が置かれる状況です。結局、この日の作業は排水パイプと排水口の設置でした。しかし、このことは実際に作業に取り掛かる直前までわれわれに伝えられることはありませんでした。実際の作業に取り掛かるまでのユンボでの掘削作業は何もしないでいると手持ち無沙汰であるくらいには長いものでした。おそらく、この間僕たちにやってもらいたいこと、やらせたいことは無かったのです。待ち時間にやってもらう作業を考えて指示する方が手間だったでしょう。
第15回 労働の中の喜びや楽しみ
■労働の中の喜びや楽しみとは何か
労働の中の喜びや楽しみとは何でしょうか。例えば職場で友だちができる。その仕事友だちと会うのが楽しい。一生懸命働いて汗を流すこと自体が喜びだとか、自分の仕事ぶりが評価されること、金銭的な対価を得ることなどが考えられます。
「職は人なり」という言葉があるように、とにかく働くということは単なる生活手段以上の意味を持たされがちです。苦しい、辛いばかり言っていると「それは正面から仕事に向き合っていないからだ」と説教されてしまいそうです。「仕事とは自分で喜びを見出していくものだ」とか。
しかし、これまで繰り返しいっているように、それは果たして労働・仕事だから得られるものなのでしょうか?知り合いができたり、達成感を味わったり、評価されたりといったことは、あらゆる社会生活の営み、他人との関わりの中で得られるものではないでしょうか。
多分、喜びや楽しみを得ることの意味は、その人の社会的な地位や人間関係の在り方と関わってくる問題なのです。そして、労働や仕事という場面ではそれが色濃く表れるということだと思います。
■自分で考えてやりとげる喜び
第4回で扱った「有能さへの志向」とは、要は達成感を得ることだと言えます。ここで重要なのは単に与えられた課題を処理するということではなく、少なからず自分でやり方を考えて、そのプランによって自分の力でやりとげるということです。
しかし、仕事というのはある程度やるべきことややり方が決まっているもので、なかなか自分のやり方でやるというわけにはいきません。その中で残されている工夫の余地を見つけ出し、活用することで達成感を得るチャンスを作り出すことができます。
よく「昔の職人の仕事には仕事の喜びがあった」とか、「機械化や合理化が進んで熟練が必要とされなくなると仕事は単調でつまらないものになった」とか言われます。これは熟練が必要だとされる作業には作業者自身の工夫の余地が多く含まれていたからでしょう。
飯場労働者の仕事は「手元」仕事であり、建設労働の現場では工夫するチャンスがもっとも少ないポジションにあります。しかし、労働者たちはそのことに価値を見出し、チャンスをうかがっています。手元仕事の中でも自分で工夫したり、自分のやり方を生かす場面は残っています。
■自分の仕事を見出す二つの局面
ところで「自分で工夫する」というと自発的な行為のように思えますが、自発的に仕事を見つけるよう促される場合があります。第14回で「やってもらいたいこと、やらせたいことがないにもかかわらず、何かをしていなければならない」という状況を紹介しました。そうしなければ労働者は怠け者扱いされてしまうのです。
「やらせることがない」のは使用者の責任であるはずなのに、労働者がきちんと仕事をしていないような構図にはめ込まれてしまいます。そこで労働者は「勤勉」を装わなければなりません。
しかし、ここで行なわれるのはあくまで便宜的な「勤勉」であり、労働者の方も適当に手を抜いています。ここで実質的には怠けることもできます。
使用者が指示を出さないのは段取りがうまく組めていないからです。労働者に何をしてもらったらいいのかが使用者自身まだ見出せていないわけですが、だからと言って手を止められるとますますどうしたらいいかわからなくなってしまうので、労働者には「何かをしていてもらいたい」わけです。
■意味のない作業と意味のある作業
この便宜的な「勤勉」は言ってしまえば意味のない作業です。しかし、意味のない作業なりに役に立っています。これは手を止めずに次の段取りへのスムーズな移行を準備する作業であり、段取りの欠陥から起こる作業ロスをうまく折り返すための潤滑油となっています。
また、意味のない作業、その内実を無視されているものだからこそ、そこから意味を作り出していく余地があると言えるでしょう。この意味のない作業をやらなければならない状況というのは、仕事全体の進め方そのものが模索されている状態で、この事態を好転させる契機は飯場労働者がやらされている「意味のない」作業の中から見いだされるかもしれません。
飯場労働者は仕事の進め方を考案する「構想」の部分から切り離された「実行」の部分を担う存在です。熟練の議論に見られるように、労働の意味の多くはよりよいやり方を構想する中から得られるものだとかんがえられます。こうすればうまくいくのではないかという構想の下で実行してみてこそ達成感が得られます。作業の意図も知らされず、ただ手足として実行を担わされるだけではこれは得にくいはずです。
しかし、意味のない作業を迫られる状況においては、飯場労働者の側も、自分が置かれた立場を生かした形で構想を試みることができます。少なくともその余地は見い出しうる。
■労働の意味の終わりのない追求
つまり、飯場労働者にも労働の意味を得るチャンスは残されているわけですが、ここで飯場労働者は労働の意味を追求していくべきなのでしょうか?結論から言えば、ここで労働者が労働の意味を追求していくことは、彼らが置かれた立場の構造的な矛盾を維持し、ますます見えなくしてしまいます(使用者の不手際を問う機会を自分から放り出してしまうわけですからね)。「怠け」は「怠け」のまま受け止めて、それ以上労働にのめり込むべきではないのではないでしょうか。「勤勉」でも「怠け」でもなく、労働から距離を置くことを考える必要があるように思います。
「勤勉」と「怠け」は対立する概念で、前者は望ましく後者は望ましくないものと一般に考えられています。しかし、ここで見てきたように「怠け」は「勤勉」の中に混じり合っていて、それ自体で求められているものでもあります。
労働から得なければならないのは意味ではなく、生きる糧であるはずで、生きる糧を得るための労働はそもそも苦痛であるという立場から「怠け者の社会学」は考えています。したがって、意味で苦痛を薄めるのではなく、苦痛である労働の絶対量を減らすことを提唱します。
労働にでも喜びは見いだしうることは否定しませんが、何も労働の中で見いださなくてもいいのではないでしょうか。そもそもの根っこが苦痛であるものに執着するのはあまり賢いこととは思えません。
少なからず迷走しながら書き進めた「怠け者の社会学」ですが、これにて終幕とします。(2010年12月21日(火)登録)
別に読まなくていい今回の独り言
1)2010年7月10日。さーて、これまでの話の流れから言って今回が最終回にあたるのはまちがいないわけだが、うまく整理できていない部分が残っているような気がする。だからといって、もう1回分ふくらませて語るほどのことでもなさそうだ。視点のちょっとしたズレ程度の問題だと思うんだけど。
2)この論考では飯場労働者に固有の問題にこだわる意味があまりないのかもしれない。ひょっとして、飯場労働者に固有の問題というのは、構造上のポジションから来る解釈上の意義に過ぎないのかな?
3)その存在形態の特殊性に対する配慮を欠いたまま労働力化されることの問題性は何か。一人前扱いされてしまう?学生のアルバイトや主婦のパート、フリーターのような非正規労働であれば、その立場に対する配慮があるとは考えられないだろうか。彼/彼女らの労働形態は一時的で限定的なものだから、使用者の期待の上限や幅は限られているのではないだろうか。しかし、飯場労働者の場合、そういうふうには見られない。出来て当たり前だと思われる。建設労働の場合、重層下請構造の中で「下働き」的な働き方が当たり前になっている?……だったらこれは飯場労働者の問題というより産業の問題だと言った方が正しい。下働き的なポジションで、賃金も安くて日雇いであったとしても、もともと請け取りで仕事をしていたような人がいる場合もある。文字通り肉体しか資本を持たない人もいるが、いろいろ技術を身につけている人もいれば重機の免許を持っているような人もいる。建設労働では労働力が安く使われる?身分はそのままで高度なことを要求される。本来なら高い賃金をもらわねばならないことでも、手元と同じ賃金でやらされてしまう。多能工的土工が求められるのと通底する問題か。
4)考えてみれば派遣切りで問題になるような派遣労働の形態があって、そのような形態の派遣労働に就く労働者が相当数いるということは既におかしな状況を物語っていないか?
5)相互行為の中から生まれるもの。認知科学的な相互行為をリソースとして見る議論が使える。
6)あれ?そうなるとやっぱりそれは怠けているのかなあ?言われた以上のことをやるっていうのは対等な立場でこそ本人の得になることだろ?やっぱり怠けの意義っていうのはあるのかな?勤勉さを求められることには際限がない。問題は労働の中で自己実現することは自分の首を絞めることになるということ。でも、それだと対等な立場、労使関係を見直せばいいという話になってしまう?
7)労働の中の喜びや楽しみということで考えるとどうなる?必要以上の喜びはいらない。
8)「労働者の自発性にかけている」という展開に持っていくから苦しくなる。そこまでうがったことは言わなくていい。データがあるわけでもないし。
しかし、だからといって何もせずに休んでいればいいというわけではないのです。僕たちに特別やらせることがない場合でも、使用者は僕たちが「気を利かせて」勝手に何か「適当なこと」をやってくれることを期待しています。何が「適当」であるかまでは使用者自身考えていませんし、これはその時の状況や背景と経験的な過去の作業の文脈とが呼応して明らかになるようなものです。そして、経験はともかく、状況や背景については労働者は常に使用者より情報が少ない状態に置かれます。
話が少し横道にそれました。ここでは第3回で触れた「何をどこまでやればよいかというルールを定めるのは使用者であり、しかも、使用者はこのルールをゲームの途中で変えてしまうこともできる」ことを、具体的な事例を通して考察しました。しかし、今回重要なのは、経験が少ないことを飯場労働者が責められるいわれは無いということです。
■それでも労働は素晴らしいものか
人夫出し飯場を理解していない河合建設は「普通の建設会社の労働者ならこれくらいは出来て当たり前」という立場から飯場労働者のことを見ています。しかし、飯場は「普通の建設会社」ではありません。
経験が少ない労働者も含めて、緊急的な労働力需要に応えるのが人夫出し飯場の機能です。したがって、「労働者の質が悪い」と文句を言うのはもともと筋違いなのですが、「一般的な社会認識」からは人夫出し飯場や寄せ場のような存在は既に抜け落ちているのが実状で、筋違いであると主張すること自体難しくなっています。飯場労働者はその存在形態を「一般的な社会認識」からは排除されつつ、労働力としては包摂されており、この認識と実態のズレから生じる問題は飯場労働者が労働現場で背負わされることになっています。つまり、飯場労働者にシステムの矛盾を補完させるような権力作用がここに働いているのです。
それでも、搾取を生み出すような労使関係を見直すことで、労働は「望ましいもの」になるという見方は拭えないかもしれません。僕は労使関係を権力関係として見ています。使用者は労働者に「言うことをきかせる」ことができるのです。そして、労働者は使用者の想定の範囲外で起こっている労働の負荷を背負わされがちです。
ところで「望ましい労働」とはなんでしょうか。「望ましい労働」を主張することは、労働者は労働の中に喜びや楽しみを見出していて、誤った労使関係が無ければ、人々はこの喜びや楽しみだけを純粋に享受できると想定しているということではないでしょうか。
次回、最後に労働の中の喜びや楽しみといったことについて考えてみましょう。(2010年7月9日(金)更新)
別に読まなくていい今回の独り言
1)2010年7月10日。さーて、これまでの話の流れから言って今回が最終回にあたるのはまちがいないわけだが、うまく整理できていない部分が残っているような気がする。だからといって、もう1回分ふくらませて語るほどのことでもなさそうだ。視点のちょっとしたズレ程度の問題だと思うんだけど。
2)この論考では飯場労働者に固有の問題にこだわる意味があまりないのかもしれない。ひょっとして、飯場労働者に固有の問題というのは、構造上のポジションから来る解釈上の意義に過ぎないのかな?
3)その存在形態の特殊性に対する配慮を欠いたまま労働力化されることの問題性は何か。一人前扱いされてしまう?学生のアルバイトや主婦のパート、フリーターのような非正規労働であれば、その立場に対する配慮があるとは考えられないだろうか。彼/彼女らの労働形態は一時的で限定的なものだから、使用者の期待の上限や幅は限られているのではないだろうか。しかし、飯場労働者の場合、そういうふうには見られない。出来て当たり前だと思われる。建設労働の場合、重層下請構造の中で「下働き」的な働き方が当たり前になっている?……だったらこれは飯場労働者の問題というより産業の問題だと言った方が正しい。下働き的なポジションで、賃金も安くて日雇いであったとしても、もともと請け取りで仕事をしていたような人がいる場合もある。文字通り肉体しか資本を持たない人もいるが、いろいろ技術を身につけている人もいれば重機の免許を持っているような人もいる。建設労働では労働力が安く使われる?身分はそのままで高度なことを要求される。本来なら高い賃金をもらわねばならないことでも、手元と同じ賃金でやらされてしまう。多能工的土工が求められるのと通底する問題か。
4)考えてみれば派遣切りで問題になるような派遣労働の形態があって、そのような形態の派遣労働に就く労働者が相当数いるということは既におかしな状況を物語っていないか?
5)相互行為の中から生まれるもの。認知科学的な相互行為をリソースとして見る議論が使える。
6)あれ?そうなるとやっぱりそれは怠けているのかなあ?言われた以上のことをやるっていうのは対等な立場でこそ本人の得になることだろ?やっぱり怠けの意義っていうのはあるのかな?勤勉さを求められることには際限がない。問題は労働の中で自己実現することは自分の首を絞めることになるということ。でも、それだと対等な立場、労使関係を見直せばいいという話になってしまう?
7)労働の中の喜びや楽しみということで考えるとどうなる?必要以上の喜びはいらない。
8)「労働者の自発性にかけている」という展開に持っていくから苦しくなる。そこまでうがったことは言わなくていい。データがあるわけでもないし。
おわりに
2009年の8月から書き始めた『怠け者の社会学』ですが、ようやく完成にこぎつけることができました。
この読み物は2本の論文の内容を含んでいます。前半に書いたことをベースにして1つ論文を書きました。2本目は後半に書いたことと内容的に同じものですが、最終回(第15回)を書く前に論文の方を先にまとめることになりました。そのため、論文完成後に最終回を書きました。
以前の『日雇い労働者のつくりかた』というのは、論文を書く前段階として、論文としては書けないようなエピソードを拾い上げ、解釈を深めるために書き始めたものでした。実際の経験を元にした問題意識を育てるために書いてみたといった方が適切でしょうか。
しかし、今回は論文を書くためにこれを書きました。僕が言いたいのは「労働現場で『怠け者』が作り出され、排除されている」という単純なことでした。そして、これは僕の調査の経験から充分に説明可能だと思っていました。ところが論文を書こうとすると言葉が出てこず、『日雇い労働者のつくりかた』のような書き方をすればまとまるのではないかという苦肉の策で取り組んだのです。
続く論文でも書いていく手掛かりとして『怠け者の社会学』を利用しました。ところが、この2本目の論文ではまったくゴールが見えていませんでした。1本目の時点でもある程度手探りの部分があって、その手探りの「もがき」や「迷い」が「別に読まなくていい今回の独り言」というコーナーに現れています。何せ手探りですから、舞台裏の「ゴミ」も念のため取っておく必要がありました。もっともそんなものは公開する必要のないものです。僕はなぜこれを公開したのでしょうか。
ある程度自分を追い込む意味もありましたが、実際のところ、僕は「書きながらでなければわからない」人間だからだと思います。『日雇労働者のつくりかた』はレクチャー形式なので「分かったような顔をして」書かなくてはなりません。しかし、今回僕はあまりにも分からない状態でした。レクチャー形式でやる方法論的な有効性を見込んでのことでしたが、あまりにも分からない状態で「分かったような顔をして」書くのはしらじらしいので、「実は迷っています」という痕跡を残しながら書くことにしました。
こういう「迷い」の部分というのは舞台裏のもので、プロとして「見せるべきではない」ものかもしれません。もちろん僕も論文にする時にはこんなものは欠片も見せません。しかし、それは論理の一貫性を提示するためには余計なものであるからであって、果してこれは「見せるべきではない」ものなのでしょうか?
僕が通常やっているような解釈を広げて厚みを持たせて説明していくようなやり方では、解釈の可能性はいくらでもあるわけです。必然的に自分が書きたいことに反するような解釈やエピソードは切り捨てていくことになります。解釈の方向を絞っていく背景にある「迷い」の部分は実は解釈の妥当性を判断するための材料の一つだと言えます。
「迷い」の部分までさらけ出しておくことで、いい加減な解釈をしてしまう危険を潰しておきたいというのが「別に読まなくていい今回の独り言」のコーナーを設置した意図でした。もっとも最初の時点でそこまで考えていたわけではありません。肩に力を入れずに想像力を広げつつ、しかし解釈は慎重に行なっていくためにはこのような仕掛けが必要だと薄々感じとっていたということでしょう。
論理的な文章には無駄な言葉が入っていてはいけませんが、論理的な文章を組み立てていく過程で書かれる言葉の中には、完成した文章の中には含まれていないものの、必要な言葉があるのではないでしょうか。書きながら考えること――書くことが考えるということであり、とにかく書いてみるというやり方を方法論として確立しようという野望も別のところにはあったのです。
ところが、とにかく書いてみるだけではやはり限界がありました。2本目の論文を完成させるためには書くことを中断し、大枠のところで発想を飛躍させなければなりませんでした。「書きながら考える」ほどの時間的な余裕がその時すでになかったという事情もありました。
『日雇い労働者のつくりかた』(のようなレクチャー)形式が有効であるのは「すでにある程度理解できているにもかかわらず、どうやって説明すればいいのかわからない」という場合までで、「全く分からないけどとりあえず書いてみよう」ではどうしようもないようです。それでも最終回直前までに書いたことは論文に組み込めていますので、全く役に立たないというわけではなさそうです。やはり方法は道具に過ぎませんね。
『怠け者の社会学』はこれでおしまいですが、今回は議論がマニアックすぎてろくに読者も獲得できなかったようですが、どっかで何か火がついたら面白いと思います。最後まで読んで下さった方は本当にありがとうございました。一緒に考えるという営みを続けていきましょう。
*
最終的に論文になったものは以下の書籍と雑誌に掲載されています。『怠け者の社会学』との異同に興味がある方はご参照下さい。
1)『ホームレス・スタディーズ――排除と包摂のリアリティ』(青木秀男編、2010年、ミネルヴァ書房)
2)『理論と動態』3号(社会理論・動態研究所、2010年)
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