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スウェーデン・ボルグ「天国と地獄」春秋社‘97年からのピックアップじゃて。
第2章 人間は死後、地上の肉体しかあとに残さない
人間は死ぬと自然界から霊界へ移ってゆき、そのさい地上の肉体は除いて、自分のものはすべて、つまり自分の個性のすべてをそこへ携えてゆく。このことが、霊界でのおびただしい体験によって私に明らかとなった。
真理に従って生きるとは、真理を霊的な情愛に基づいて愛することを意味する。そして、真理を霊的な情愛に基づいて愛するとは、正しく公平なものを、それが正しく公平であるがゆえに愛し、正直で公正なものを、それが正直で公正であるがゆえに愛し、善で真なるものを、それが善で真なであるがゆえに愛することである。
他方、真理に従って生きていても、それを肉体的な情愛に基づいて愛する場合、それは真理を自分自身のために、世評、名声、利益のために愛することになる。したがって、その人は非合理的になる。こうした人びとは、本当に真理を愛しているのではない。彼らは奴隷を従えている主人のように、これらの真理を従えている自分自身を愛しているのである。
第3章 死後の人間の性質
行いやわざを生み出す意図と思考が、行いやわざの性質を決定するということになる。思考と意図が善ければ、行いとわざも善く、思考と意図が悪い場合には、行いとわざも悪い。たとえこの二つの場合の外見が似ていてもそうである。
行いとわざの性質全体は、その源泉である思考と意図の性質によって決まる。思考に意図がなければ、それは行いでもわざでもなく、魂を欠いたたんなる運動にすぎない。
天界的で霊的な愛を持っている人は天界に至り、天界的で霊的な愛でなく、肉体的で世俗的な愛を持っている人は地獄に至る。このことを私が確信できたのは、天界に引き上げられたり、地獄に落とされたりした人びとをつぶさに見てきたからである。天界に引き上げられた人びとは、自分の生命を天界的で霊的な愛から得ていたが、地獄に落ちた人びとは、自分の生命を肉体的で世俗的な愛から汲み取っていた。
第7章 死後の第三の状態〜天界に入るために教えを受ける状態
知識を記憶にのみ留めて、そうした知識に基づいて真理を推論したり、あらかじめ原理として受容したことがらを論証したりする能力を身につけた者たちは、少しも天界の光に浴することはなかった。彼らは、この種の理知に固着しているうぬぼれから自分たちは他の者より学問があり、そのために天界へ入って天使たちにかしずかれるだろう、と信じていた。彼らは天界の最外部へまさに入ろうとするとき、彼らは天界の光の流入を受けて目がくらみ、識別力が乱れ、ついにはまるで死に瀕しているかのように喘ぎはじめた。その結果、彼らは投げ出され、あとでこう教えられた。(略)
第9章 天界に入る生活を送るとは、一般に信じられているほどむずかしくはない
世を捨て霊に生きる者たちは、天界の喜びを受け入れない哀れな生活を築いてしまうのである。それというのも、各人の生命は死後も同じように存続するからである。人間が天界の生命を受けるためには、この世に住み、仕事や職務に精を出し、道徳的、市民的生活をとおして霊的な生命を受けなければならない。なぜなら、内的な生活と外的な生活を送らなければ、土台のない家に住むも同然で、ぐらついて、ついには倒壊してしまうからである。
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