07. avis 2014年7月18日 21:06:58
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喪失からの回復―― このテーマにとりくむ作品は、世にあふれています。 作品内で納得しても、そういった実話に接しても、いずれ自らの身に起きるものとしてとらえたとき、 受容はあっても回復などありえるのか、そう疑義をさしはさみたくなるのは、大切な人の死です。 家の向かいに、ピアノの先生が住んでおられました。 ピアノの普及率の右肩上がりの時代には、付近の子どもたちは皆、先生に習ったものです。 発表会のほかに冬になると、クリスマス会も催されました。背の高いクリスマスツリーに贈り物も用意され、 毎年、とても楽しみでした。そんなとき、ピアノのある部屋は、大きな窓から柔らかい光の燦々と入り、 手入れされた庭をみわたせる、ちょっとしたサロンのようでもありました。 先生には、私たち姉妹も、幼い頃からお世話になりました。 ご近所のよしみでしょう。発表会用に私たち姉妹に与えられる曲は、いつも、ほかの生徒より、少しばかり 聴きばえのするものであったそうです。ピアノをやめて随分たってから、母より聞きました。 先生が私たち姉妹を大切に思ってくださっていたということも、ずっとあとから知るところとなります。 幼い頃から親しんだとはいえ、親から与えられた稽古事には、ちょっとした苦痛もありました。 なんとなく面倒になる時期は、どんなことにもあるものです。途中で母に泣きついてやめた妹に比べ、 高校に入っても続ける私に、先生は、ある日、音大受験を打診してこられ、困惑した覚えがあります。 何事も要領のよい妹を横目にまごつくうちに、やめるきっかけを失い、いつのまにか奏でる悦楽を覚え、 そのまま、目的もなく、ひたすら自己満足と惰性風味の愉しみに、ひたり続けていたのでした。 とんでもないと驚く私に、大そう落胆なさったご様子で、自分のなにが先生をその気にさせていたのか、 しばらく顧みたほどでした。 それを機に、愉しみであったピアノから少しずつ遠ざかるようになり、大学の授業や試験に忙しくなると、 練習に時間をさけなくなり、やめることになりました。どんなふうに切りだしたか、もう思い出せませんが、 こうして先生と私は、表面上ごく普通の「ご近所の大人同士」になったのです。 大人になっても、たいてい、ご近所の方々は、子どもの頃の呼び名を口にしてくださるものです。 それが、ときに気恥ずかしく、ときに嬉しかったりするのも、よくあることかと思います。 先生にとって私は、ずっと「生徒」であり、向かいに住む「幼い子ども」であり、そしてなにより、 ――「欠損をかかえる者」 たぶん、先生は私に、ご自分と同種のものを無意識に嗅ぎとっておられたように思います。 先生に対し、私もそのつもりで、ほかのご近所の方々とは、また違った気分をもっておりました。 実際、先生は、ふつうの大人たちと少し違っておられました。 世事に疎くていらっしゃるというか、微妙にずれておられるというか、ずっと少女のような面をおもちでした。 遠くにも近くにも、お身内の方以外に親しい方のいらっしゃる気配はなく、世俗的なおつきあいの 苦手な方でもあったように思います。 また先生は、ピアノの練習時に生徒を叱ることなど、ただの一度もありませんでした。 温かく、優しく、しとやか、それがずっと変わらぬ先生の印象でした。 ピアノ教室の合同発表会で、厳しい教師らをみかけると、「先生でよかった」と安堵しておきながら、一方で 「門下の生徒が今ひとつうまくならないわけだ」などと、生意気な見立てを子ども心に巡らせたものです。 そんな先生のかたわらに、いつも寄りそっておられたのが、もの静かで優しいご主人でした。 お似合いのおふたりは、ともに背が高く、若い頃は、街でも評判の美男美女のカップルであったそうです。 先生はいつまでもお美しかったですし、ご主人は今もハンサムでいらっしゃいます。 先生の家に、母と一緒にお呼ばれしたときのこと……。 応接間で先生をまじえ歓談していると、おもむろに扉がひらき、ご主人が、大きなトレーに紅茶やケーキを いくつものせて入ってこられたのです。手慣れたものといったご様子でした。 今、90歳代の男性に、自然とそういった振る舞いのできる方は、たぶん、少ないかと思います。 ご主人がそのような方とはつゆ知らず、あまりの驚きで、母と私は思わず立ちあがったまま凍りつき、 一瞬、どうすればよいかわかりませんでした。 重そうなトレーを両手でかかえ、そろそろと入ってこられたご主人を先生は一瞥したとたん、片手で制して、 早口で、こうおっしゃったのです。 「まだ、はやいっ」 衝撃的でした。 私たちは、完全に座るタイミングを逸したうえ、あっけにとられておりました。 ご主人は、「そうか、わるかった、わるかった」と照れ笑いを浮かべられ、私たちにも笑みを向けられると、 トレーをもったまま、エビのように背を丸め、すごすごと後ろへ退いていこうとされるのです。 家父長制の仕きたりを色濃く残した家庭で育った私は、もう、気が動転してしまい、 こう口走ってしまうほどでした。 「い….いま……いまっ!いただきたい…です」 唯一、先生のありのままとわがままを受けとめておられるのは、どうも、ご主人であったようです。 この日を境に、私の、ご主人に対する「評価」は、秘かにうなぎのぼりのごとく上昇をみせるのでした。 おふたりは、音楽のうえでも、深く結ばれておられました。 ご主人は、アメリカから何百万もするスピーカーを手に入れられ、しかも、幾度も買い替えられては、 そのたびに様々な機器や音色にあわせ、ご自分で材料と形を選定してラックを手作りなさり、 ときに部屋ごと改造して、僅差の調節を愉しむ、生粋のオーディオマニアでした。 それらでもって、「クラシック音楽」を朗々と鳴らされるのです。 そして、そのことを先生が私に愚痴としてこぼされる際、なんといったらいいか……こんなふうでした。 「―― そんなものばかりに……お金を費やすものだから……」 どうお応えしてよいかわからず、曖昧に微笑んでいると、 「あら、わたし、節約をしているの。ほら、お店のレジにかかっている、葉書があるでしょ。 あれをもって帰って、書いて送るの。……お皿とか、コップとか、けっこう、当たるのよ――」 愉しげにそうおっしゃって、ひかえめに微笑まれるのを目にすると、景品を当てるという行為が、 あたかも、大そう高貴なことのように感じ入ってしまうくらい、先生の品格は落ちないのでした。 ところで、ご近所の方々の動向は、口の端にのらずとも、なにかしら、うすうすとわかるものです。 たとえば、どなたかと「おつきあい」が始まると、車で送り迎えされることが少しずつ増え、いずれ、 ご近所の耳目にも触れるところとなります。 たまに、両親に会いたいなどと、猛者が現れると、そのまま、家族ぐるみでつきあうはめになります。 様々なバージョンで繰り返されても、当人らが口火をきるまでは、素知らぬふりをとおすのが、 ご近所の暗黙のルールであるはずですけれど――。 庭先で、先生に、過日のいただきもののお礼をひとしきり伝え、さて、洗濯の続きに戻ろうかと、 会釈をして離れようとすると、いきなり―― 「そういえば、ユリちゃんたら、このごろ、ほんと……会うたびに、綺麗になっていくから…… もう、ほんとうに……。このところ、とくに…そう感じるの…」 「…え……ええ!?…そんなこと………ありませんよ……気のせいです…ほんとに……」 と、なんとかとぼけて苦笑するしかなく、だからといって、「もうすぐなの」とか「どうなの」などとは、 決しておっしゃらないので、ほんとうに何の話か互いにはっきりせず、意味深に微笑みあったまま、 毎回、立ち別れとなるのです。 そんなときの先生は、詮索など感じられず、私の身に起きていることへの祝福に満ちておられました。 交際の始まるたびに、そういった、意図のあるようなないような会話が先生との間で交わされるのです。 それは、しかし、いくたび繰り返そうと決して、「ユリちゃん、おめでとう!」にはならないのでした。 そして、それこそが、私の幸せであると、お互い暗黙のうちに了解しているのです。 先生は母に、「ほんとうに、ユリちゃんは、お幸せだわ…」と、ことあるごとに、しみじみと おっしゃっていたようで、それはまた、母を静かに喜ばせてもおりました。 ある日、先生からお電話がありました。かなり、めずらしいことです。 ちょうど家には私しかおらず、母に伝えてほしいと前置きされ、話し始められた内容に、一瞬たじろぎました。 とりつくろうように私は、こういったときによく語られる、慰めにもならない安易な言葉を口にしていました。 「―― 医者のいうことなどあてになりませんよ。余命を宣告された方が、その後何年も元気に過ごされる といったことは、多々ありますし――」 渦中におられる先生に届くとは、到底思えない上滑りな言いように、ほどなく嫌気がさし、途中から、 真に思うことを言ってみました。ただ、口をついてでる自らの言葉に煽られ、いつしか饒舌になっていました。 先生のお心にどんなふうに寄り添えばよいか、とても不安であったことを覚えています。 「―― 長さよりも……生きる…質の方が、大切だと、思います。最後をどんなふうに、お過ごしになりたいか、 どうすれば、心地よく過ごせるか……今こそ、思い存分、先生のご希望をおっしゃるべきです。 ……それが結局……残される者にとっても、悔いの少ない……お別れに、つながる…気がします――」 「…そうよね。ユリちゃんもそう思う?そうよね。私もそうなの。病院なんて……病院なんて、行きたくないの。 ………絶対に、行きたくないの――」 そのあたりから、先生は、ほとんど無垢な思いのまま、語り始められ、気がつくと、1時間以上も 受話器をにぎりしめておりました。 まるで、友に話されるように、すっかり気を許され、様々な思い出を語っておられました。 不思議なのは、先生が気丈でいらっしゃるのか、そういうご気質なのか、それとも、私への遠慮が おありであったのか、どんな話も、しめっぽくならないのです。 ご自分の死へ向かう話をなさっていても、どこか、つきぬけた明るさがありました。 それは、ずっと先生に感じていた少女の棲む場所からくるように思うのです。 そしてなにより、悔いのない人生を送ってこられた証しとも――。 しかし、先生はほどなく入院され、しばらくして、全く歩けない状態で戻ってこられました。 それからお亡くなりになるまでの2週間ほどは、ご家族やご親族の方々があしげく通われ、 穏やかなときを過ごされたように思います。 ただ、ご近所の方の来訪は、ご子息を通して、断っておられたようでした。 ご近所は皆、気分の優しい、思いやり深い方々のように思いますが、先生にとっては、 気心の知れるほどのおつきあいではなかったのでしょう。 そんなふうでしたから、私もそのまま傍観するだけでした。 今思うに、お願いすれば、もしかすると、お見舞いを許してくださったかもしれません。 けれど、ベッドに言葉もままならず、ふせっておられる先生を見舞うのはつらく、きっと、先生もお嫌であろう ―― そう自分に都合よく考えることにしました。 お戻りになってから1週間ほどした頃、先生の家のすぐそばの電信柱に、カラスらがとまっては、騒がしく 鳴き始めるようになりました。死への嗅覚の鋭い者どもです。いよいよその日の近づくのを思わされました。 心の準備をしました。夜になると、なるべく耳を澄ますようにしておりました。私なりの予感ゆえです。 いつものように未明になり、ベッドにもぐりこんで、すっと自らの気配を消していると、鳴りはじめました。 膝の鳴る音です。 美術館のような静かな場所に立つと、自分の膝で鳴るのをよく耳にします。 たとえば、気に入った絵の前に立ち止まって、しばらくすると、かすかに鳴るのです。 立ち止まったあと、わずかに膝の骨が、より良い状態に向けて、ひとりでに動くように思います。 これは、膝に微妙な変形のある者特有の症状でしょうか。 先生は、晩年、膝をずいぶん悪くなさっていました。 深夜、部屋で聴こえたその音は、間隔をおいて、4〜5回ほど鳴ると、静まってゆきました。 先生がいらっしゃったと感じました。 翌朝、ご主人がいらして、未明に亡くなられた先生との対面を許されました。 白いブラウスと黒いスカートに着替え、ご近所の方々と一緒におじゃましました。 通された部屋のベッドには、うすく目を閉じ、うっすら口をあけ、化粧をほどこされた、先生によく似た屍が ただ、横たわるばかりでした。それはもう、ひとつも、先生ではないのです。 ご近所のなかには、声をあげて泣きだす方もおられ、ますます、気分の醒めていくのを感じました。 ご主人やお世話をなさったお身内の方の明るい言い草やご様子に、ふいに、涙ぐみそうになりましたが、 思い残すことはないといった風情で、気丈に振る舞っておられるご主人を前に、泣いてはならない気がして、 懸命にこらえました。 先生とご主人は、いつも、どこへいくのも、おふたりでした。 しばらく先生のお世話をなさったお身内の方いわく、おふたりが、それはもう、かたく結ばれているご様子には、 はたから見ても、やけるほどだったと、もらされるほどに――。 ご葬儀の翌日、家の前の道に、大きなトラックが止まりました。 クレーン車の立てるような大きな機械音がして、不思議に思い、カーテン越しに眺めておりました。 しばらくすると、先生の家より、はすかいになりながら、ゆっくりと、古びたピアノは運びだされ、 トラックの荷台に乗せられると、ほどなく出てゆきました。 あのピアノは…………分身……いや、先生そのもので、あったはず――。 人の、喪失への対処の方法に思いめぐらせる日々が、始まりました。 * 先生と好きな花の話をしたときのこと…。 「―― 白い花なら、どんな花も好きです。白が…白が大好きですから――」 そう言いながら、先生は白いバラのよう、などと思い浮かべていたら、ぽつんと返されました。 「…菜の花……菜の花が好き。あのきいろの花が、いっせいに咲くのは、ほんとうに、うれしくなるの」 ―― きいろ……。 肩すかしをくらった気分でした。 ―― レモン色はよいけれど、あの黄色は…。黄色い蝶より白い蝶のほうが、儚くていい…、 あの黄色は、重い。…白……、そう、白のほうが、きっと、先生にお似合いなのに……。 脈略のない考えがいく筋か流れ、そのまま、なぜか腑に落ちない記憶となっておりました。 お亡くなりになって数日ほどたった頃、近くの川に沿って、しばらく自転車を走らせていると、 一面に咲いた菜の花が風に揺れておりました。 五月の光に映え、萌える色に瞳を射られて初めて、菜の花を愛する先生のお気持ちに、 すこし、そえる気がしました。 「あの黄色」は、陽の色でした。 愉しげにお顔をほころばせていらっしゃるときのまぶしさと、風に一斉にゆれる陽の色の花は、 どこか、似ておりました。
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