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こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤です。
が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないでいますが、その代り小庭の朝露、縁側の夕風ぐらいに満足して、無難に平和な日を過して行けるというもので、まあ年寄はそこいらで落着いて行かなければならないのが自然なのです。
山へ登るのも極いいことであります。深山に入り、高山、嶮山なんぞへ登るということになると、一種の神秘的な興味も多いことです。
その代りまた危険も生じます訳で、怖ろしい話が伝えられております。
海もまた同じことです。今お話し致そうというのは海の話ですが、先に山の話を一度申して置きます。・・・・・・・・・・・(昭和十三年九月作品)
露伴の文章は、晩年に近づくほどに、泰然自若となっていく。「連関記」(昭和16年)にいたっては、漢書古籍への磐石な造詣と滑稽な独白が平然と同居する。どこまでが歴史的実話でどこからが露伴の創作なのか、浅学のわたしにはその境界を知る由もないが、そもそも随筆なのか小説なのかといった境界すら消えていく。自在にして奔放に過ぎず、史実と私感を角なく居合わせる芸当は、かつての露伴が成し得た漢文と和文の同居に通じる巧みさである。
『幻談・観画談』は、大正14年から昭和13年までの5篇を収めている。露伴50歳代後半から60歳代にかけての作品となる。いずれも読み易く、安定感のある逸品が揃っている。20歳代の囃子方は退場し、見事な地唄舞のごとき無駄のなさには文章の格がある。そもそも30代後半には小説から遠ざかり、史伝や古典の評釈へと傾斜していた露伴である。本書に掲載されている小品においても、史実や注釈と実話らしき随筆が、創作と入り混じって、虚実を越境していく。他方、具象は時に徹底し、釣りの作法など細部に及んで記されるが、いかなる仔細も必要な部分となって大局に住まう。心柄の遠近法と筆致のあいだには、躓(つまづ)きや躊躇(ためら)いがない。遠い過去も身近な事柄も、心がどちらの方向へ馳せようとも、その運動に無理はなく、文章がその息遣いに添っていく。不安に追われ、意地や見栄に押されて、小さな井戸で言葉を商う作家とは縁のない、日本文学の大きな水源である。
(以上 『幻談・観画談 他三篇』幸田露伴(岩波文庫) 『書評空間』 http://booklog.kinokuniya.co.jp/katsuta/archives/2013/01/post_40.html)
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