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「悪」がなければ機能しない「善性」は偽善であると言える
"善性"などいちいち人の世に取り沙汰せずとも
人々との間に自然な信頼性さえあれば
人は瞬時に相手に自己を視て
状況に必要性を汲み取りそれを行動に起こす
かくして世の中は丸く納まる
人のモラルと云った道徳観に語られる
不自然極まりない善行を励行する偽善教育はウス気味悪い
そうあのACの広告にみられるような
私は今「バイブレーショナル・メディスン」という本を今読んでいる
とあるものの見方に惹かれたからだ
それは物質的な身体を機械的なものと看做す過程で
生命としての人間像を見誤りかねない
微視的なニュートン的医学(現在の医療)に相対する
より巨視的で全体を包括する
多層的な多次元的存在としての人間像を明確にした"アインシュタイン的視点"のことである
十数年前に翻訳出版された本のようだが
まだ数ページ読んだだけですべて読み終えるとは限らないが
今の私にはすっと入ってくるので面白いのだろう
そうした本を必要とする迄もなく
自分をより客観的な存在として捉えることのできる
より巨視的な立場の自分を想像する事は難しくは無い
そうした場合に現在の自己の於かれている状況や
自身の感じている感情を冷静に捉え
何が自分に起きているかをチェックするのは
他の誰でもないあなた自身の仕事である
あなた方は自己という存在を理解せぬ為に
不確定な物事つまり自己を含め周囲の状況を怖れ過ぎる
-勿論どのような感情も受入れてきた観念に従って湧くのである-
そして周囲を怖れるがあまり
執拗な迄に他者そして周囲に「危険性」の原因としての「悪」を見出し
自分をそこから遠ざける
それが我を失する事になっているのである
人を怖れ視て我を失して
権威に服従し組織に盲従して正しさをそこに"みせる"
そこで自身の主張の正しさを振るうことにより安堵しようと言う訳である
しかしそんなことで安堵出来る未来が訪れる事は無い
尚も自己を失した状態は続くので何か起こる度に
あなた方は自分の中にある不調和を自己の外に見出していく
そうして「善人」を気取る者達がその吐きだめを探して
こうした場所を必要とした筈だが
それは案外外れていないだろうか
所謂この"偽善家サロン"では常に全体へ対しもの申し
その危惧と懸念となる未来への不安材料を掻き集め
あらゆる争点を持ちかけることに集中されている
"その事"によって全体(自身)の均衡はぎりぎり保たれているという「自負」が
ここの者達に共通する認識としてあるのではなかろうか
それは単に全体の必要性に応じた要請からでも「誰かの為に〜」でもなく
自分自身が癒されない為にそうするのである
基本「不安視のスタンス」から離れられなければ
やる事為す事全てにいつまでたっても安堵する事など出来はしない
未来がより安全かつ均衡のとれたバランスが実現され
そして全体性の調和の実現が彼らの希望であるならば
彼らの通り一辺倒の認識が統一的な見解を齎す訳が無いこと位
理解出来ている筈だろう
人類全体はその自己否定性の前に幾度と無く自らを破滅の道に追い込んできており
今尚〜そうである
あなた方は自らの好みではないとしつつもそこから逸脱出来ないままある
あなた方が自分は「こうしているのが好みで在る」と言うならば話は別だが
もはやままならない自分をどうにかして変えたいと考えて止まないのならば
まずは「自己否定性」が生む"破壊的な感情により麻痺した"「自己的感覚」を取り戻すと云う事である
それには自ら否定性の鎖を断ち切り
自らの感情を怖れずに常に今の感情に浸り込むことで
何故その感情を味わっているのか
何故自分はそうしているのかを説いただし
自らに対する否定性とは受け容れている固着化した観念によるものであることを悟り
それを見つけ出して肯定し赦し自分を受入れ
絶えず否定して来た自己を肯定しつづけていくこと
自己を取り戻すということが先決である
あなたの中で否定性が勝れば
再び自己崩壊への道を辿ってしまうとことになる
そうしたことに気付けないままなのは
あなた方が世の中の在り方を否定的に見て
そこに意識を"集中"することを辞めないからである
それは自らを追い込んでいるという証拠なのである
(しかしそれさえも本来は"利用"してあなた方はあらゆる自己への挑戦
そして試みを楽しむ事が出来る)
(何故なら破壊が再生を齎す事を実際には集中している領域外の意識ではきちんと理解しているからである)
(なにより汝の唯一かつ最大の敵は汝であるのだから
裏を表に変えようと言う意思決定さえ在ればいつでも元に戻れる)
あなた方はここまであらゆる条件づけられた環境の中それなりに育まれて来た
それはある意味「盲信の檻」の中に飼いならされて来たとも言える
(自ら受入れた観念に従って自ら画策して
つまりあなた方がそうした弱者としての在り方を求めて
世の中の在り方を支えている訳であるから)
"そこ"に於かれては「条件付きの愛」や破られる事が前提の「約束」によって
あなた方は何一つ代り映えのしない"現実"としての日常の枠組みの中に拘束される
勿論そこではこれまで
語り継がれた理想を追い求める事も出来たかもしれないし
そして"認められれば"そこに"恩寵となるもの"を「与えられて来た」かも知れない
(自分で与えている)
勿論その裏には懲罰としての自己をより否定する感情をも味わって来た
(自分で与えている)
そうした繰り返しの中であなた方はますますそこに
「正しい行い」というものに対ししがみつく姿勢と
必要条件としての「善」と「悪」の方向性を理解するのである
つまり権威に従わなければあなた方は「悪」に染まってしまうという恐怖だけが在る
敢えて言うが
私は異端者としての道がそこから自分をその独自性を守ったと考える
おかげで私は今自分に満ち足りている
そして同時に際限なく私は私のやりたい事(チャレンジ)が見えている
人生とは"試み"が前提としてあると捉えれば
全ては受け容れられる
どうした人々の姿も私は在って間違いではないというスタンスである
というより世界の在り方は強い力で誰かが一方的に成し遂げたものなどではなく
同時に自己を失した状態で居るのが正しいと考える人々が
そこに自分達を引っ張っていくという横暴な存在を創り上げたのである
勿論そこにはどれかが正しいと云えるものもなく
故に間違いも無い事を知っている
単純にあなた方が自分がどう在りたいのかを願い
そこからの脱却はあなた方が何を想い
何を志すかの方向性の転換にだけ係っている訳だ
そこに絶対的な神の教えなど無く
あなた方がそうせざるをえない力強い影響力など無いのである
すべて自分達がしている事だ
「条件付きの愛」というものがあなた方の意識から無くならない限り
あなた方は「無条件(無償)の愛」を手に入れる事は出来ない
「無償の奉仕」
それこそが"本来の"、"自然な"「善性の発露」である筈だが
"条件付きの(歪んだ)愛"に飼いならされて来た人々は
表面的な行動や態度で人前に表すことが"正しく"、愛を勝ち取る為の条件として憚らない
さてこんな簡単な事が世の中を変えると云う事があなたに理解出来るか?
「何千年と世の中は変われなかった。だからそんな単純な事で世の中は変われない。今この瞬間もまた人が殺され、純粋無垢な赤子までが惨殺されている。世の中は横暴極まりない。権力を握る物達が横暴を働いている。我々は断固として彼らを赦さない。神はそこに必ずや鉄槌を下す」
あなたが鉄槌をくだすのである
あなたが悪を蔓延らせているのである
あなたが人としての信頼性をさげているのである
その感情自体が横暴であり、人を信頼し損なっている原点である
故に言うこと為す事全てが「偽善」的でありそこに不自然さが極まるのである
そして終にはあなた方はそうした表面的な(偽善的)態度こそが
人の"罪深い"「悪」の意識に対して訴えかけ'功を奏する'などと考え出すようになる
実際にはそれは人を攻撃する事で自分を攻撃することに当るのである
あなた方の怒りの感情は人に対する否定性をより深く感じる経験と共に
自分が悔いることになる経験をも同時に生み出している
自己否定は他者を否定する事で輪をかけて拗れてきた
自分を傷つけてしまうのは
外に向けられる筈の自然な攻撃的欲求を「悪」と見定めることによって
自然に外に感情を現す事を拒否しつづけることにより
内側に向く攻撃性が引き起こすものである
事実「バカと言うものがバカである」という言葉通り
人を憎む者は自身を赦せていないのであり
自身を赦せていないが故に他者を憎む
死刑制を声高に叫ぶ者は自分という存在をもそのように視ている人物である
そしてそのような観念を強める経験を尚もし続ける
もし誰かを憎んだとしてもそうした自分を責めればやがて自分に牙を剥く
感情の捌け口は自然な生き物を例に視て素直に発散すれば良い
それをやれ悪だ善だと嗾けていれば
人はロボットにもなれないおかしな生き物になってしまう
感情とは"あなたそのもの"ではないのにも関わらず
あなたはそれを酷く畏れ
自分と云う存在を理由無く怖れる
故にそうした者は他者をも怖れるが故に放置出来ないのである
(自己と言えるものしか存在していないのだから当然だが)
それが原因となって
世の中全般ににストレスとしての不安の種を蔓延させる結果となっている
そこに気付くか気付かないか
または気付かないフリをして尚も崩壊の道を辿るかのいずれかである
真実に気付く者はあらゆる者のあらゆる行為に対して肯定的であることのみが
他者を無条件に受入れる土台となることを受入れる
そしてそれが全体性に貢献し
不要な観念を自分に豊かさを齎す観念に置き換え
直接自分の得る経験を豊かなものに塗り替えることができる
豊かな社会とは他者の行動全般を逐一モニタリングして
遍く行動の全てをチェックしなければ実現出来ないものなどではないということ
唯一自分自身の力を絶対的に信じるという行為をもって実現出来ると信じる事が出来る
そしていまそれが実現出来ていないのは
自身がそこに辿り着いていないからで
あなたが望む事はその為の条件をあなたが創り出して居るということであり
自然とあなたがその条件としての感情を発する事になる時
それは実現する
故にあなたはそれを信じてその時が訪れるのを
今の自分を信じて待つ事が出来る筈であり
それが出来ないのならばあなたは変われないままである
かつて吉田松陰の口にした「至誠」を実現するには
こうした否定性からの脱却によって実現しえる筈である
彼は無条件に人を信頼したが辞世の折「未だ至誠には至らない」と一句残した
だがそれはこうして常に今ここに居るあなた方のもとで必ず実現される
そして彼もまたそこにそれを体現する
それこそ「至善(自然の善性の発露)」なのである
人と云うものを"行動"と云った表面的な態度でしか
視れていなければ(評価できていなければ)
相も変わらず世の中はそのようにしがらみの中に粘着して行くことになるだろう
無条件に人を信頼し愛するという「自然の理」と
条件付けでしか人と云うものを評価できないと云うかの朱子学に於ける「道理」を
「至善」と「偽善」という対照的な言葉に置き換えることは難くない
勿論「偽善」であっても私は「善」であろうと想う
だがそんな「善」にわずかも魅力を感じないのもまた事実である
ヒーローはいつの世も悲哀に満ちて必要とされず
そこに対峙する悪もまた悲哀の感情の片割れでしかない
そしてそれらはいつの世も人の持つ自己否定性だけが生み出すのである
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