http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/683.html
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今月の日経新聞朝刊に連載されている小澤征爾氏の「私の履歴書」の一部転載です。
日本の外交官の多くは、国外で孤軍奮闘している自国民の面倒を見ることより、欧米先進国の外交官サークルからの覚えがめでたくなることに熱心のように思えます。
小澤征爾氏は、書かれているブザンソンの指揮者コンクールに出場できなかったとしても、別の経緯で「世界のオザワ」になっていたと思っていますが、日本の外交官には足を引っ張られる一方で米国の外交官には暖かい支援を受けるというおかしなかたちで「世界のオザワ」の道を進め始めたことに、日本政府の“文化政策”の貧困ぶりを見ることができると思っています。
※ 関連投稿
「私の履歴書 小澤征爾:満州から北京を経て東京で迎える敗戦まで」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/790.html
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(11)パリへ スクーター 欧州駆ける 「強制送還だ」大使館から苦言
マルセイユからスクーターに乗って、いよいよ出発だ。スクーターを提供した富士重工業が出した条件は3つ。日本国籍を明示すること、音楽家であることを示すこと、事故を起こさないこと、だった。それで僕は日の丸つきのスクーターにまたがり、淡路山丸の船員さん特製のケースにギターを入れてパリを目指した。泊まるのは決まって若者向けの安宿だった。
道中で菓子を売るスタンドを見つけた。立ち寄って看板の文字を見ながら「この『ピー』をくれ」と言ったらまるで通じない。英語のパイ(pie)だった。全く、語学だけはちゃんと勉強した方がいい。
パリに着いたのは4月の上旬。旅の疲れと寒さでひどい風邪を引いてしまった。ちょうど音楽評論家の吉田秀和先生が来ていたから、ホテルを訪ねて薬をもらった。座薬を渡されたがそんなもの使ったことがない。飲み込んでしまって一向に治らなかった。
パリには、以前日本で斎藤秀雄先生にチェロを習っていたローラン史朗の一家がいた。お母さんが日本人で、うちへ行くと日本の飯を食わしてくれる。僕の座薬事件を面白がって会う人ごとにばらされた。そこによく来ていたのが国立高等音楽院に留学中のピアノの江戸京子ちゃんとバイオリンの前田郁子さんだ。
画家の堂本尚郎を紹介してくれたのは京子ちゃんだったと思う。すぐに仲良くなって仲間の集まりにたびたび招いてくれた。中には彫刻家のイサム・ノグチもいた。心細い異国の地で仲間ができるのはありがたいものだと知った。
僕が落ち着いたのは大学都市のイギリス館というところだ。切り詰めれば1年はいられる計算だった。大学都市の食堂で食べれば安く済む。小瓶に入った安ワインばかり飲んでいた。日本を出た後、斎藤秀雄先生がレオン・バルザンという指揮者への紹介状を送ってくれたので、そこでレッスンを受ける以外は音楽会へ通った。ほかにアテはなかった。
6月のある日、京子ちゃんが「指揮者のコンクールがブザンソンであるわよ」と教えてくれた。せっかくだから受けてみよう、と早速願書を取りに行った。締め切りはまさにその日。しかも外国人は大使館の証明が要るという。
急いで日本大使館に行ったらどうも様子がおかしい。イギリス館の家賃の支払いが何度か遅れたことを調べられた。おまけに僕はちゃんとした留学生じゃない。怪しまれて「証明どころか強制送還だ」と脅された。飛行機で送り返し、旅費は後で親に請求するという。そんなことになったらおやじに殺される。ほうほうの体で逃げ出した。
イギリス館の同室のロジャー・ホルムズというオーストラリア人のピアニストが、窮状を見かねて「アメリカ大使館に知り合いがいるから一緒に行こう」と言った。わらにもすがる思いで向かった。
対応したのはカッサ・ド・フォルテという恰幅(かっぷく)の良い女性だった。僕の説明を聞くと「おまえはいい指揮者か、悪い指揮者か」と尋ねてきた。「僕はいい指揮者だ」。でっかい声で言ってやった。カッサ・ド・フォルテは大笑いしたが、目の前ですぐコンクールの事務局に電話して掛け合ってくれ、何とか受けられることになった。
(指揮者)
[日経新聞1月12日朝刊最終面]
(12)コンクール 開き直って指揮 初優勝 日本人は僕だけ、緊張の極み
ブザンソンはスイスとの国境の近く、静かで美しい街だった。これからコンクールが始まる。歓迎パーティーに顔を出したら来ている連中はみんな自信があるように見えた。日本人は僕しかいない。
第1次予選は9月7日で、48人が受けた。課題曲はメンデルスゾーンの「ルイ・ブラス」序曲で、思い思いのやり方でオーケストラを仕込む。といっても僕の場合、言葉が通じない。でも音楽用語は世界共通だ。「アレグロ!」「フォルテ!」などと大声で連発しながら指揮したら思いがけずうまくいった。思い切ってやってやれと度胸を固めたのがよかったのかもしれない。1次通過の17人に入った。
2次予選は9日。今度も難関だ。課題曲はサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」とフォーレの組曲「ドリー」の第5曲。フォーレの方は、オーケストラのパート譜にわざと間違いが書き込まれている。例えばホルンとトロンボーンを入れかえてある。指揮しながらそれを指摘するという課題だった。
神経を集中してオーケストラをじっと見つめた。誤りを発見すると途中で止める。僕は12の間違いを全部指摘できた。これは聴音の小林福子先生のもとで特訓を受けたおかげだ。終わった後、審査員席からどよめきが起こり、ぐんと自信がついた。2次も通過。もう6人まで減っていた。10日夜、とうとう本選だ。パリから江戸京子ちゃんと前田郁子さんが来てくれた。
最後の課題曲はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」、ヨハン・シュトラウス「春の声」。作曲家ビゴーがコンクールのために書き下ろした曲もあった。変拍子の難しい曲で、これを5分で見てすぐ指揮しなきゃいけない。
クジ引きで僕が最初に出場することになった。さすがに緊張の極みだったが、僕のポケットには斎藤秀雄先生に教わった大事なものがいっぱい詰まっている。動じず、思う存分棒を振った。
結果発表はその日の夜遅くだったが、お客さんもオーケストラも残って待っていた。舞台の上から入賞者の名前が次々に読み上げられる。時間がとてつもなく長く感じた。最後に「ムッシュー、セイジ・オザワ!」の声が響いた。僕が1等だった。「ブラボー!」の歓声とすごい拍手が起こった。
ステージの中央に呼ばれて賞金と腕時計、賞状をもらった。それからはもみくちゃだ。カメラに取り囲まれて、インタビューぜめにあった。
もちろんうれしかった。でも「これでまだしばらくヨーロッパに居られるな」という安心の方が大きかった。何せコンクールの前、僕はあわや強制送還というところだったのだから。
優勝の翌日、審査員の一人だった指揮者、ロリン・マゼールの部屋に呼ばれた。何かと思えばニヤニヤしながらピアノを弾き始める。本選の「牧神」でオーケストラがうまくできなかったところをわざとそのままにして僕に聴かせた。彼は若くして天才と呼ばれていて、その後、作曲家のナディア・ブーランジェのサロンで会った時も輪の中心にいた。僕なんか縮こまってコーヒーを飲むばかりだった。「牧神」を弾かれた時も「ホテルの部屋にピアノがあるなんてすげえな」と思った。
(指揮者)
[日経新聞1月13日朝刊最終面]
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