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きのうは豚肉が食べたくなり、切り落とし肉を大根といっしょに煮た。
これを肴に酒を飲みながら、「失敗せずに成功すると、そのあと大失敗するのだ」と、あらためて思ったのである。
ぼくの「豚肉好き」は年季が入っており、母親のお腹にいるとき、すでに豚肉が好きだったのだ。
ウソである。
しかし子供のころには、すでに豚肉好きだったのは間違いなく、今でもぼくは、
「地球最後の日には豚肉が食べたい」
と思っている。
それも脂身が多い、うす切りのやつが好きなのだから、何とも安上がりなのである。
「豚肉の何がいいか」と言われれば、間髪いれずに「脂身」と即答する。
「からだに悪い」などと言う奴は、放っておけばいいのである。
牛や鶏の脂身はとくべつ好きなこともないけれど、豚肉だけは別である。
脂身に火がとおり、うすい塩かしょうゆ味がついたのが「たまらない」のだ。
だからぼくは定期的に豚肉を食べることになっており、きのうはその「豚肉の日」であった。
脂身たっぷりの「切り落とし」肉が、すでに冷蔵庫に鎮座している。
これをどうやって食べようか、ない頭を捻るわけだが、きのうは大根と煮ることにした。
大根も、豚肉とは最も相性のよいものの一つである。
うす切り肉を煮る場合、「最大」ともいえるポイントは、
「煮立たせない」
ことである。
煮立たせて煮てしまうと、うす切り肉は「かたく」なる。
さらにできれば、煮る時間も短くするのが望ましい。
そこで大根は下ゆでし、ゆっくり味を含ませたあと、最後に豚肉を入れるのがいいのである。
大根は、皮をつけたまま大きめの乱切りにし、串がスッと通るようになるまで弱めの中火くらいでゆでる。
今は大根もやわらかいし、皮は付けたままにすると、かえってうまい。
豚肉も湯通ししておく。
水を煮立てて火を止めて、そこでシャブシャブとするわけだが、こうしておけば、あとでアク取りする手間が省けるわけである。
だしを取る。
きのうはかつお節の風味を強めるために、4カップ半の水に対して、かつお節のミニパックはいつもの倍の8パック。
だし昆布といっしょに弱火で5分くらい煮て、ザルで濾す。
かつお節を増やしたかわりに酒はいれず、味つけは、うすくち醤油大さじ4、それにみりんが大さじ2。
さてここからは鍋を卓上に持ちだして、大根を弱火でコトコト、20分くらい煮る。
大根を煮ながら酒を飲むと、また酒がうまいのだ。
最後に豚肉。
10分ほど、煮立たせずに「温め」たら火を止める。
あとは煮汁に入れたままにしておけば、味は自然にしみていく。
食べるときは、温め直すようにするのである。
器によそい、青ねぎをたっぷりかけて、その上から煮汁をかけ、一味をふる。
豚肉は、「プリプリ」なのだ。
箸休めはキャベツの酢のもの。
塩もみしてしばらく置き、水で洗ってよく絞ったキャベツと、うすく斜めに切ったちくわを、砂糖小さじ1、酢大さじ1(たぶん塩はいらない)で和える。
それに野菜のクズとだし殻のじゃこ炒め。
野菜の皮やら茎やら芯やらと、だし殻の昆布とかつお節を細くきざみ、ゴマ油とちりめんじゃこでじっくり炒め、しょうゆで味つけする。
酒はきのうもぬる燗だ。
これを飲みながら、ぼくは、
「失敗せずに成功すると、そのあと大失敗するのだ」
と、あらためて思ったのである。
というわけで「大失敗」なのだが、何年か前、読者の人からコメントで、「調味料のくわしい分量を教えてくれ」と聞かれたことがある。
それはもちろん構わないのだが、そこに、
「失敗したくないので」
と付け加えられていた。
分量をコメントしながら、ぼくは大変申し訳ないがひそかに思った。
「この人は料理がうまくならないだろうな・・・」
「失敗」を恐れていたら、料理の「根本」がわからないと思うからだ。
というよりむしろ、
「失敗するから根本がわかる」
と言ってもいいくらいである。
料理の世界を深く知ろうとおもったら、失敗を「歓迎」するくらいの心意気が必要ではないかとぼくは思う。
たとえば和食の、しょうゆと砂糖(みりん)の分量などは、許される範囲がじつに広い。
レシピには「代表的な例」が書かれているわけなのだが、それ以外にも「好み」で濃くもうすくもできるのだ。
だから自分好みの味を見つけようと思ったら、レシピに書いてある分量を「はみ出てみる」必要がある。
はみ出て初めて、「こんな味もあり得るのか」と発見があるわけだ。
でもそうやって色々実験していると、あるとき、
「これはあり得ない」
という味になることが、どうしてもある。
「許される範囲」を超えてしまったわけである。
これが「失敗」なわけなのだが、実はここで、「大きな理解に到達した」ともいえるだろう。
「どこまでが許されるのか」
を知ったのだ。
「範囲」は「端」を知ることで、初めて「全体」をつかめたといえる。
その「端」は、失敗して「端を超えてしまう」ことによってのみ、知り得るものなのである。
だから失敗をおそれる人は、この「端」を超えることが永遠にできなくなる。
そうなると、その人はそこそこうまいものは作れても、根本がわかっていないから、いつかとんでもない失敗をすることになるのである。
ただし誰でも、失敗してまずい料理は食べたくないから、失敗もそう簡単にできるわけではない。
だからこそ、失敗したら、
「おお神よ、私に失敗をありがとう」
と天を仰いでひざまずき、手を合わせてもいいくらいなのである。
小さな世界 in the style of Mozart
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