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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-134.htmlより転載
雪の中をゆく。西も東も、朝も夕も知れず、ただ真白き雪の中をゆく。
色は消え、あしあとも消え、音も消え、時も消え、我も消えゆく、雪の中。
「雪」の語源を調べれば、決め手はないが諸説ある。筆頭にのぼる説は「ゆきよし(斎−潔し)」から来ているとあり、書いて字のごとく潔斎、斎み潔め(=忌み清め)ることを意味する。醜い穢れはこの世で最も白いものに覆い尽くされる。穢れはもはや目にも耳にも鼻にも届かない。雪に触れれば洗い清められ、その冷たさに肌は凍み穢れを遠ざける。
確かに雪が降らないとおかしなことになる。動物や植物に病気が流行る。作物の収穫が減る。井戸や湧き水が枯れる。水や土の微生物の均衡が崩れたり地下水が減るためだが先祖はこれらを「穢れ」と呼んで恐れ、神とのつながりの中で雪が穢れを祓う存在でありその生物界に与える恩恵を知りえたのだろう。
それに異存はないのだが、「ゆきよし」説はどうも腑に落ちない。まわりくどいというか、やまとことばらしからぬもどかしさを感じるのである。
「雪」は特殊な現象ではなく誰もが知り得るものである。まして、やまとことばの草創期はまだ最後の氷河期の影響下にあり今よりもずっと寒い時代であった筈、日本列島で雪を見ずに生きることはなかったと思われる。それだけ身近なものに「ゆきよし」という四音節の語句の後半を略して「ゆき」の名をあたえるだろうかという疑問、そして「潔し」の接頭語として同じような意味の「斎」を頂くのも疑問である(清められた清きものという意味の妙な日本語になる)。
漢字を知る前の日本語は純朴で明快であった。いや日本語を複雑にしたのは漢字である。大陸式の政治と経済を導入するにあたり生じた、それまでの日本になかった概念をやまとことばだけでは置換しきれなかったという不都合を解消するために漢語を外来語として輸入した。たとえば貨幣のなかった日本に銅銭を輸入することで漢語の「銭−セン」も同時に輸入され、のちに「ぜに」と日本語化して「銭」の訓読みとなったものである。漢語とやまとことばの混用が日本語を一気に複雑にした。もちろんことばたけでなく、まつりごとも人の心も複雑になった。
「雪」という漢字はふたつのやまとことばに充てられた。名詞の「ゆき」、そして動詞「すすぐ、そそぐ」である。冬に空から降る「雪」の字が「辱を雪ぐ」などの意味に使われるのはこの字がもとより両方の意味を持つことに由来する。ならば大陸においても「雪」に清める力があることを大昔から知られていたという事になる。中国語での「雪」は「拭い去る(wipe out)」に近い。しかし日本語の「すすぐ」は口の中や布を「水で洗う(wash)という風合いである。これは信仰と習慣の違いからくるもので、水に恵まれたわが国では穢れを身から離すためには流れる水の力を借りてきた。それを今も「みそぎ(禊、水灌ぎ、身灌ぎ)」という。水に削がれた身の穢れは土に川に注がれ黄泉の国へと流れ行く。
「雪」ということばはどこから思い起こされたのだろうか。
春は歳の始まりである。空は晴れ、映える日差しをうけて気は張り、木の芽も腫れ、霜の融けた土も脹れ、草が生える。これが「はる(春、晴る、腫る、脹る、張る、生える、映える、栄える)」である。
夏は熱に抱かれ穂や木の実は熟し、木々は伸びる。長い一日を親のそばで働きながら子らは伸び、熟す。これが「なつ(夏、熟つ、熱(ねつ)、伸(の)つ)」である。
秋に手に取るあめつちの恵みは歳ごとに同じではない。豊作も凶作も人の手に在らず、これでよし、とあきらめるほかない。「諦め」は「飽きらめ」である。そして「飽きらめる」とは辟易ではない。これでよしとすること、己に与えられた物と事に満足することである。手に入らぬと泣き暮らせば闇、手に入れることに盲執しても闇、しかし「開きらめる」ことができれば闇から開き放たれ明かりを見ることができる。これが「あき(秋、飽き、開き、明き)」である。
そして冬は土が、人が、山が、森が疲れを癒すためにある。古い歳は夜に眠りにつくように休む。雪が降り、ゆく歳の穢れを清める。そうして歳が経る。幾歳も、幾歳も。これが「ふゆ(冬、古ゆ、経ゆ、降ゆ)」である。
そう、ゆく歳は二度とはもどらない。だからこそ穢たままではなく禊ぎ清めて送り出す。ゆきはゆく歳のために降る。これが「ゆき(行き、逝き、往き)」なのであろう。
同じ音を持ちながら、あるいは母音を差し替えながら少しずつ異なる意味に枝分かれするのがやまとことばの特徴でもある。「ゆきよし」の「ゆ(斎)」は「ゆむ−いむ(忌む、斎む)」の名詞化したものであり、「ゆく−いく(行く、逝く、往く)」とは互いに近いことばである。「ゆむ」とは「ゆかす」ことを、そして「生かす」ことを意味し、草木の生える春に繋がる。雪は歳の節目に大地を禊ぐとされていたのだろう。
雪のない東京で育ったせいか、雪への憧れはやまない。カッパドキアはそれほど雪深い処ではないにしても筆者には十分満足のゆく雪加減である。妙に明るい曇り空と、湿り気に和らいだ風に雪の訪れを知らされると心が躍る。
外は雪。こうして降るとなぜか落ち着かぬ気持ちになる。この世と己を繋ぐものが雪に掻き消され、何処の誰とも知れず、時が流れているのかも知れず、ただ忽然と雪の中に在るだけの、いやそれすらも知れぬ、ここちよさ、そしてやるせなさ、昔の俳人が「漂白の思ひ」と言ったのはこれだろうか。
故郷を離れて辛くはないかとよく聞かれるが、有難いことに少しも辛くない。親と国を顧みずにいるという棘が時折さして痛むほかはどうということもない。
日本で過ごした日々は帰国しようがいまさら戻りはしないのである。ましてや幼い頃も、自分が生まれる前の日本も、禊とともに明け暮れた先祖の時代も二度と還らない。今この時すらもみな記憶の淵に沈み時として浮かび上がり、また沈む。ならば同じこと、千年昔もつい先ほども自分からは等距離にある。ならば辛く思うことなどない。しかしこの淵からゆくすえが生まれることを思えばそこに何もかも沈めるわけにはいかない。そして身から雪がれた時を追い求めてもいけない。雪はそれを思い出させてくれる。
しろたへの ゆきにおもへば はらからの ゆくすゑのなほ さちおほからむ
はつはるのごあいさつは節分の頃にいたします。まだまだ続く長い冬をどうかご自愛の上おすごしくださいませ。
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