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クラシックの名曲が流れる昼休み時間。
給食を終え校庭で遊んでいると、ふとトリップ状態に陥りました。
グランドに顔が現れ、微笑んでいるのです。
よく見ると太陽や景色全体にも擬人化した顔が沢山現れて、皆微笑んでいるのにも気付きました。
何かに包み込まれ、とても幸せな気持ちになり、
これが永遠に続くようにと願ったその刹那、それは消え去りました。
とても残念でならなくて、もう一度そのトリップ状態の復活を試みたけれど、不可能でした。
それから十年程後に、再びその状態がいきなりやって来ました。
それが大変嬉しく、同時に又その感覚が消失する恐怖にも襲われました。
必死にその状態をキープしようとしましたが、無駄でした。
あの時、3つの幼児の感じた孤独と絶望を癒してくれるものがあるとすれば、それ以外には無かった。
必死になる。本気になる。真剣になる。どれでも構わないけれど、
そうすると妥協が出来ません。
社会に迎合出来ずに孤独になります。
内面も直視すると、そんな喜怒哀楽に左右される醜い自己も見えます。
そんな自己が可愛く他愛もない存在にまで見えた時、これでいいと思えました。
何も背伸びせずともこれでいいと。
けれど、非常に孤独でした。全く話し相手が存在しない。
願いはただ一つ。誰か負かしてくれ。
負かされる事で、話し相手が見つかる、全てをぶつける相手が現れる。
この孤独は第一話の、3歳頃に見た絶対の無の中で漂う夢と同じ孤独です。
孤独を癒すものは完全なる一致。
或いは完膚無き敗北で見出す師の存在。
だからこそ負けは日にとって最も嬉しい出来事。
全力で負けるからこそ、それまでの自己を全て捨てて、再生し続け、道が開かれる喜びがあります。
全力で生きてないと社会に迎合出来るので、孤独でない日常が送れ、負けが怖い。
人は誰でも間違った思考に基づいて行動するミスを犯し易い存在である。
しかし間違って行動していても、それがリアルタイムで自分を苦しめる結果とならねば間違いとは認識し得ない。
むしろ正しかったとすら認識し、そして結論した時、思考停止するのだ。
あとはもう何を云っても聞く耳を持たない。
破滅の時まで。
そんな思いから18の時彼女と友人と3人の秘密結社を作りました。
目的は世界平和。
戦略は目的を持たないこと(目的を掲げれば、意見が割れたり、それを見失った時、組織はすぐ存在意義を見失い、解散するだけだから)。
同時に又、どこかに存在するであろう同様のグループをも想定して、
それとのスムーズな合流をも予見した秘密結社であるからには、グループの名称すら不要であるという理念によって、結成しました。
これはすぐに胡散霧消しました。
その直後、地元新聞にある広告が掲載されたのです。
「目的を持たないことを唯一の目的とする会」への参加を呼び掛けるものでした。
そのタイミングには随分と驚きましたが、結局その方の説明を聞く内に、
(老若男女を問わずと謳いながらも、同年代で集いたい)と言う本音が伝わってきた時点で、身を退く事にはなりました。
主催者はパチンコ屋の社長で、有り余る経済力を持て余したインテリ中年。
真摯な対応をしていただきましたが。。。
この会も3年程で解散報告が地元紙に載りました。
主催者の支出でその自己満足のお付き合いを50人ほどがさせられていたようです。
白昼夢。あれは全てを許していた世界だった。
その世界が、今ここには無いということだけがはっきりと分る。
全てが疑わしい。全てが腹立たしい。
それはたとえるとカラマーゾフの兄弟の冷血な次男イワンが作る事件スクラップ(悲惨な子供達の報道記事)と似ていました。
神が居るならば、何故この世の悲惨はあるのか。
この世への怒りは、神の造りたもうこの身を滅ぼす事によって安寧を得る。
そんな即身仏を目差し、段階的に食を断っている最中でした。
福岡正信の「藁一本の革命」と出会います。
それからまたまた十年、ただひたすらに念じ続けておりました。
この世界のどこかに同じ思いで結成された地下組織は必ず存在し、いつの日かその者達とどこかですれ違う時が来る。
それは一期一会であろう。
そのチャンスが訪れても、こちらがその準備をしていなければ(アンテナを張り、チューニングし続けていなければ)、
せっかく訪れたそのチャンスもふいにするだろう。
それは絶対に避けねばならない。そんな勿体無い事は無い。
しかし、どうやって彼らを見分けられるだろうか?
彼らは自己顕示する名前もない地下組織なのだろうし。。。
あるグループの一人Hとの出会いがありました。
当初彼の部下である営業マンA(グループとは無関係)と仕事上の付き合いでしたが、
Aが得意先報告で文書でHに私を紹介したことから、後日頻繁にHが訪ねて来ては、仕事とは全く無関係な哲学談義や質問を持ちかけられる日が続きました。
それらに全て答え切ってもAは一切反論をせずに、不意を突くような視点から新たな質問を更に投げかけて来るのでした。
「あなたは何故反論しないのですか?」
「それらに対する答えを既に出している者がいると想定してみて下さい。
それを提示すれば認めるしか無い様な認識の前に、議論などは無用だという事です。
それを認められる者と認められない者の見極めをしているのです。しかし、又来ます(笑み)。」
それは隔週ペースで三ヶ月に及ぶ、互いの家の行き来(会食)でした。
すっかり人格ベースで敬服してしまい、親しくお付き合いさせていただきましたが、遂に意を決してHの家で切り出しました。
「今日、今、その認識をお聞かせ下さい。でなければ反論不能として一方的に勝利宣言して、今日を限りに絶交いたします。二度とお会いする事はありません。」
といって腰を上げ、ドアに向かいました。
それでも渋るHに奥さんが「負けたがってるんだから負かしてあげなさいよ」
「三ヶ月で伝えるのは異例だが、仕様が無いな。そのかわり。。。」
「判ってます。」
「・・・」
それは限りなく不可能とも思える、願いが叶った瞬間でした。
しかもこちらの想定を遥かに超えた理念を持ち、あらゆる見解、思想の原点、土台、出発点として、非常にシンプルかつ重厚な実践をするためのグループでした。
以後7年の間このグループである実践を行なっておりました。
では何故そこを離脱したか?
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