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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-129.htmlより転載
「西洋:western」という言葉がある。
かつてのローマ帝国の版図にあり、キリスト教社会であり、十字軍に参加しており、白人種であり、それにほぼ合致しており、そしてそういう国からの入植者が現地人の人口を上回り政権を得た国々も含めて西洋と呼ぶ…輪郭のぼやけた定義ではあるがおそらくそんなところだろう。対して「東洋」という言葉は叙情の匂いが強くさらに定義がしづらいため、今回の記事には登場させずに西洋の外の世界を「非西洋」と読んで書き進めることにする。
日本と西洋の出会いは遅い。西洋が東の果てをはっきり意識したのはマルコポーロの「東方見聞録」以降(十三世紀末)である。この冒険談は当初、あまりに奇抜であったために欧州人からは100年近く「法螺」扱いを受けたが、「東の海の果てに黄金の国がある」をはじめとする「東の富」に関する記述だけは注意を引いた。
「東方見聞録」に日本、つまりジパングはどのように書かれているかといえば、
―大陸の東の島、色白の礼節の正しい住民が自らの王を頂き独立する国がある。偶像を崇拝する。黄金の採掘が盛んであるため国中が黄金で埋め尽くされ、家は屋根まで黄金で葺かれ。ほかにも真珠、香木、香辛料が豊富に産ずる―
とある。日本はかくのごとく欧州にしらしめられる。
マルコ・ポーロは日本列島には到達せず長く滞在したモンゴル帝国での伝聞をもとにジパングについてを記しているため正しくは旅行記ではない。当時日本が大量の黄金を元に輸出していたこと、奥州の中尊寺金色堂が大陸でも話題に上っていたことなどが冒険家マルコの「黄金の国ジパング」への想像をたくましくしたのであろう、やや誇張が激しい。
ただし「偶像を崇拝する」という記述には注目しなければならない。何気なく書かれているようだが実は超重要項目である。
キリスト教は本来はユダヤ教・イスラームとならび唯一神に帰依することを大前提とした一神教である。それに対し偶像崇拝とは人の手で唯一神以外にも神々を作り出しそれを崇拝すること、つまり多神教を意味し日本の仏教や神道は一神教の世界から見れば偶像崇拝と解されている。すなわち、キリスト教国にとっての偶像崇拝国は「伝道」の対象であり迷える子羊たちに何としてもキリストの教えを授けるのが「義務」と考える西洋人は、改宗してキリスト教を受け入れたのであれば経済機構を教会の支配下に組み入れて財産を吸い上げ、それを拒むのであれば虐殺し、略奪する。すなわち布教と称した侵略の可能性を示唆している。
当時、欧州キリスト教社会は十字軍の遠征にいくら資金をつぎ込んで軍を送り込んでも刃が立たず、そこからイスラム圏の知識の豊富さと技術の高さ、そして経済力を思い知らされていた。この強敵であるイスラム教徒たちを打ち負かしてくれるキリスト教国の援軍が現れることを待ち望む社会は、かつて異端として西洋を追われたキリスト教徒が東方に築いたとされる国が実在するという幻想に駆られた。
その国を「プレスター・ジョンの国」という。マリアは「神の母」ではなく「キリストの母」であると説くことで「三位一体」に抵触した司教ネストリウスは431年、異端を言い渡されエジプトへ追われた。その後弟子たちがイラクに本拠地を移してネストリウス派としての活動を続け、その影響は中国にまで至り「景教」の名で守られているという事実が背景になり、そこから生じたのがこの話、ネトリウス派の流れを汲むキリスト教司祭「プレスター(司祭)ジョン」が帝国を築いて君主となったという幻想である。
幻想に取り付かれるだけならいいのだが、それだけではすまないのが西洋であった。
教皇みずからが架空の「プレスター・ジョンからの手紙」を捏造してまでその実在を訴え(1165年)、その国には蜜の河が流れ黄金と宝石に満ちた大帝国という粉飾はに欧州人の欲望をくすぐった。13世紀に突然始まったチンギス・ハーンの活躍が耳に届くと「プレスター・ジョンの国」はモンゴル帝国であるという噂が広まり世論はいよいよ東方の探検に沸いた。そもそも十字軍遠征とて純粋な宗教的情熱から行われていたわけではなく、欧州の領地からの搾取が限界を超えたためにイスラムの富に目をつけ新たな領地獲得を目論んでた軍事行動でありイスラム国家のみならずオーソドクス(東方教会)のキリスト教国までも攻略が及んだ。十字軍遠征とは王侯貴族と教会が喰い詰めたのが原因である。
マルコポーロはそういった世相の中で東方に旅立ち、24年間の旅行のうち実に17年間をモンゴル帝国に費やした。「東方―」に記載されるのは概ね香料と香木と貴金属の産地、政治情勢、通貨事情(モンゴル帝国には欧州にまだない「紙幣」が流通していたことがこの書に驚きをもって書き残されている)、民族性、そしてその地の信仰である。この時代の欧州で香辛料や香料が黄金と同様に貴重であったことは言うまでもなく、またキリスト教伝道が可能かは仏教その他の一神教に属さない偶像崇拝がされているかが重要である。そういった目で見ればまさに侵略を念頭に置いた「報告書」であり、この書を「旅行記」とするのはいささか人が好すぎるだろう。そしてマルコ・ポーロにはコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、コルテス、マゼランらが続き、大航海時代の名に似つかわしく精力的な探検を行った。探検の目的はもちろん侵略以外の何物でもない。
西洋と非西洋の関係はこのように、キリスト教伝道を手段とした征服者と被征服者として捉えるべきである。
宣教師が攻撃艦隊から降り立ち神の名の元に現地人を拘束し金銀の採掘に酷使する、あるいは内戦をあおりその混乱に乗じて国家を乗っ取る、または通商を求めて巧みに経済界に侵食しては高利の貸付をするなどの手で財政を破綻させ支配下に置く、などなど、相手国の状況により相応の手段を用いて富をむしり取るのである。そのための下調べは重要であり、それはマルコ・ポーロのような者を送り込むことでなされていた筈である。
さて1543年、種子島に漂着した明船にポルトガル人が乗り合わせていたことは「大陸」や「天竺」以外の外国をしらない日本人にとってそれよりも遠い国があることを知るはじめての機会となる。そして彼らの手には鉄砲なるものがあり、鳥や獣を獲るのに便利そうだと島主はそれを購入し複製を試みた。しかしそれは戦闘において絶大な価値があることは戦国の世の大名たちにすぐに認められるものとなり独自の火縄銃製造と南蛮(ポルトガル)との交易の可能性の模索が平行して行われだした。
その矢先にフランシスコ・ザビエルが現れた。
欧州では十字軍遠征、免罪符、聖職者の堕落などから教会がその権威を失いつつあった。宗教改革によりキリスト教社会からプロテスタントが分離すると、ローマ教皇を頂点に頂くカトリック教会は権威回復のため新たなる信者の獲得と勢力範囲の拡大を迫られ、ザビエルが所属していたカトリック修道会「イエズス会」は前時代までに発見された新航路をつたい世界各地に拠点を設け周辺地域への布教を展開していった。日本への伝道は1459年に実現し、鉄砲が欲しくてたまらない戦国大名たちとの利害の一致から日本での宣教は困難ながらも障害なく行われた。後にイエズス会から派遣され来日したルイス・フロイスは織田信長の庇護を受け「日本史」を記し、その後の日本研究の貴重な題材となった。
しかし豊臣秀吉の目にはこのキリスト教の日本にもたらす障害がはっきりと見えた。鉄砲の対価として国内の金銀が大量に流出しだし、大名たちが鉄砲で独自に武装することで天下統一に向けて築いてきた均衡が崩れだし、またキリシタン大名の大村純忠が長崎港をイエズス会に寄進してしまうなどのことが重なり、このままでは日本が全てローマに組しだかれるかもしれないという危れを肌で感じたのか1587年、秀吉はバテレン追放例をだしてイエズス会を日本から追い出した。
イエズス会の意図はまさしく秀吉の危惧のとおりであった。戦火の燻ぶる国に武器を供給すれば磁石で砂鉄を掻き回すように思い通りの絵が描ける。日本の事情は以前からマカオやマラッカに置かれたイエズス会の支部を通して詳しく調べられていたのだろう、鎖国中にも難破船を装い日本着岸を試みた外国船が存在したぐらいであるからしてポルトガル人が鉄砲を持って種子島に漂着したというのも偶然と思い込む必要はない。そして良質の金銀や腕のよい職工による繊細な工芸品に魅了された欧州人は是が非でも日本に伝導を果たし祝福を与えたかった。
イエズス会は地域研究に余念がなく、世界中に70もの大学を創り各地各言語による弁論術の教育を奨励していた。また視覚芸術や音楽を布教に活用することの重要性を強調し装飾や儀式の場で実践されていた。
この手口、ただの昔話のような気がしない。今もなお進行する侵略と同じ臭いがするのはなぜだろう。
新聞や写真のない時代、欧州から見れば辺境の地にある国々の侵略に「伝道」などという名目がなぜ必要だったのだろうか。圧倒的な武力の違いを以って陥落させることなどはたやすいはず、しかし敢えてそうせずに宣教師を送り込み改宗を促し、あるいは迫った。伝道を受け改宗した一つの国のなかにキリスト教を自発的に受け入れた者もそうでない者もいる。また、教義を理解して改宗した者とそうでない者がいる。このように信仰の度合いはどうあれキリスト教国として生まれ変わった以上は、その後に欧州教会勢力からどのような無体をうけても価値のある記録として残らない。
「文献」が、過去における行動の正当性の証明にいかに力を持つかは彼らはよく知っていた。古代ギリシアの権力者たちが行った戦争、略奪、姦淫の歴史は自らを神格化して謳わせた神話として体系化され文献として残された。その因習を古代ローマ帝国が踏襲し、いかなる非道も「神による統治」と正当化され記された文献は西洋史のいしずえとして認められるに至る。
教会から神の名の下に派遣された宣教師が世界各地で見聞きしたこと、そして宣教の経緯が膨大な文献や書簡として残されている。そしてそれが如何に偏見に満ちた解釈であろうと、如何に悪意に満ちた虚偽であろうと、今もなお「信頼の置ける歴史資料」としての地位を誇り続ける。現代も西洋に根強くはびこるイスラム嫌悪やアジア蔑視は宣教師たちがそのあざとい筆で書き残した文献の中身―残虐なるイスラム教徒、未開なる環太平洋地域―がその潜在意識に焼きついていることに起因する。
そう、キリスト教側の主観による文献を残し、それに正史としての権威を与え、それを根拠に欧州による世界支配体系を正当化する。尚且つ大学や学会そしてその後見者である教会と貴族という権威は西洋に集中しているために「西洋史」の否定はどこからも起こらず、起きてもそれを覆すことはできない。多くの記録を残しつつ進められたイエズス会の世界宣教は、その威力を利用して西洋による世界支配を何百年も維持することを視野に入れていた。
イエズス会の築いた運輸と運営の技術は16世紀末年に設立された東インド会社(英・蘭)に受け継がれ、経済をローマ教会に握られた国の富を資本に世界の舵は市場経済の手に渡った。
支配網がイエズス会から東インド会社に移行した時点で布教という大義名分はどこかに吹き飛び、西洋は「資本主義」という剥き身の刃で世界中に切り込んだ。自国産業の興隆のためにインドを潰した英国は清帝国をも阿片に漬けて呑み込んだ。
征服後に現地人と入植民の人口比の逆転により非西洋から西洋の仲間入りをした国々、それは南北アメリカやオーストラリアがそうだといえる。近代までに西洋はこうして拡大した。
フランス革命後、人権、人道、人間主義の言葉が西洋社会に徐々に認められだすと侵略を手段とする剥き出しの資本主義を何かで覆う必要が出てきた。かつては架空の書簡や記録を残すことで免罪されてきたものの、通信の発達がそれに不都合を招いたのである。しかたなく資本主義を鞘に収めて持ち運ぶこととした。それが民主主義である。
中世西洋の世界支配網が「キリスト教」を振りかざしたように、近代以降は「民主主義」を宝剣として掲げることとなる。
幕末、日本はたった四杯の蒸気船に眠りを覚まされた。実際は18世紀中ごろから日本近海に外国船が現れては幕府を牽制し、幕府がそのたびに歯切れの悪い返事をしては体よく追い返していたのである。しかしその間にも列強により日本事情は詳細に分析されていた。飢饉と天変地異に土台骨がぐらつく国内は黒船後にいよいよ混迷を極めた。そこにすかさず付け入る英仏は幕府と討幕派に銃器と資金と悪知恵をそれぞれ供与し戦となった。国の一大事よりも一族の利益を考える諸大名に西洋と渡り合う策はなく、混乱に乗じて少しでも権力を手にする方を模索するのが精一杯だった。日本では幕末の動乱と呼んでいるが外から見ればこれは立派な内戦である。行き詰まる世相から逃れたいと願う民衆が農村では一揆を起こし、江戸上方ではええじゃないかと乱舞した。その後の近代日本は西洋に習い、西洋をまねることで「帝国」を築き大戦へと歩んだ。
同じ頃、地中海地域を四世紀にわたり統治したオスマン・トルコ帝国も「瀕死の病人」と呼ばれるまでに衰え領土を次々に失い続けていた。十字軍以来の怨恨と資本主義経済が入り込めないこの強固なイスラムの帝国を突き崩すために西洋が企てたのは帝国を中から腐らせること、いわゆる「民族主義」を持ち込んで内戦を煽る策であった。民族の坩堝(るつぼ)と呼ぶにふさわしいこの帝国にかつて属したリビア、チュニジア、エジプト、シリア、イラク、ヨルダン、バルカン諸国、コーカサス諸国、湾岸諸国、パレスチナ、イスラエル…、いずれも「いつまでトルコ民族に支配されるつもりか?」との西洋からの問いに「民族自決」という答えを出した国々である。しかし今日これらは独立国として存在するものの、はたしてどこが国としての体裁を保っているであろう、独立を果たした各国には西洋の傀儡となり西洋に尽くす政権が置かれるか、あるいはテロリスト自治区の看板をかけられ陸の孤島となるか、あるいは西洋から汚れ仕事を引き受ける狂犬の如き暴力国家となるかの運命が待っていた。
どうであろうとこの地上の非道は今この瞬間まで止むことなく罪なき人々を苦しめ続けている。それぞれに事情の違う国ごとに綿密に練られた計画は、民衆の中の行き場のない思いを引きずり出して増幅し、武器を供与して戦わせ、画像と映像を駆使して世界中にその正当性を訴え、まさしく十字軍が何世紀も前に行った非道を再現している。そしていま日本が、いや環太平洋諸国が吞まれようとしている経済協定の本質は東インド会社の経営理念と全く同質のものである。政治家は無策の極み、一族のために駆け回るしか手立てのなかった幕末の大名と一つを除いて何も変わらない。その一つとは、彼らは封建制度における世襲の大名ではなく民主主義にもとづいて国民が選んだ政治家だという皮肉である。
世界がこの延長上にあることは書くに及ばない。非西洋は同じ杯から何度も煮え湯を飲まされている。それは地中海も太平洋も同じである。この世の非道がなくなることを願う気持ちは世界中にあってもその策がまるで見つからない。行き詰まる世相から救われたいと願う民衆が出来ることは市民運動やテロまがいの抗議、それとも自虐に満ちた享楽だけなのか。
戦争、内戦、資源、金融、福島、かかる非道の一つひとつと個別に向き合うことは船の底から噴き出す水を桶で汲み出すことによく似ている。船底の亀裂を塞がなければそのまま海の藻屑と消える。
ある時期に「キリスト教」が変容を遂げた。それが「西洋」の根源である。なぜ変容したかを見過ごしていては繰り返される非道はこれからも続き、座礁したこの世はいずれ沈没するだろう。ネストリウスはなぜ西洋を追われたのか、西洋はなぜ強硬にイエスを神としたか、教会は四世紀初頭から幾度も公会議を開いては教義に関する決定を下しているが、公会議とは何か、そもそも「神の啓示」を会議にかけるとは何事か。今後の記事に書いてみようと思う。
罪深きものたちに神の裁きを―
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