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「邪馬台国は九州にあった」論拠(2)
日本人の数の勘定 「ひふみよいつむな・・・・」は一である「ひ」が「つい」であることをのぞけば、二千年も昔からのやり方であることがわかりました。
以下、ブログ:法螺と戯言より
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/
+++++邪馬国は首都でそれを「台国」と魏調査官はメモした
邪馬(台)国という国名について、私はかねてより疑問を持っていました。古田武彦氏は邪馬「臺」ではなく邪馬「壹」であると主張し、大きな論争になりました。私自身は、それは、大きな問題ではなくむしろ「台」とは何か?に大きな関心がありました。実は、古田氏もこの「台」について言及しています。
そこで、学研漢和大辞典(藤堂明保編)で「台」の意味を確認しておきます:
まずは音(おん)ですが「タイ」、とも「イ」とも音します。従って、「壹」の使用は、同一音(おん)を持つが故の写し間違いの可能性があります。次に意味です:
“高い土台や物を乗せる台。又見晴らしのきく高い地。台地、台閣の建物の意から転じて中央政府の事。”
つまり、邪馬台国という国は存在せず、それは『邪馬国』で、そこに中央政府があるという意なのです。邪馬国連邦のようなものでせうか。
「台」の意味が上述のごとくであれば、中央政府以外は、九州にあり、中央政府のみが近畿にあるということになります。これは、まことにおかしい話であり、この事を以ってしても邪馬(台)国の近畿説は排除されます。以下では、百歩譲って、邪馬台国なるものが存在したことを仮定しても、実は、それは、まことにおかしなことになることを論証します。
魏の視察官は、倭国の訳語(をさ、通訳のこと)から国の名前を聞き、『邪馬』とメモします。そして、訳語(をさ)の更なる説明から、そこに中央政府が在ることを知り、「邪馬」とのメモの下に「台」を書き加えたのです。
万葉集一歌、二歌は、この事を明瞭に書いています(例えば、2012年8月20日記事参照)。念のために、この二つの歌を再掲します(ゴチックの表記に注意)。
万葉集一歌:
「篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告<紗>根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母」
万葉集二歌(世に「国見の歌」とも呼ばれます):
「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜河(さんずいでなくりっしんべん)國曽 蜻嶋 八間跡能國者」
上の二つの歌についての解読は私のブログ過去記事を見て頂きますが、この歌には「ヤマタイ」国は詠みこまれていません。そうではなく「ヤマ跡」(やまと)と表記されているのです。この歌が読まれた時点で、詠んだ人の意識には「ヤマ」国しかないのです。だからこそ、その国の『跡地』を意味させるべく『跡』を付しているのです。この事を、本ブログでは繰り返し書いてきました。
尚、話が脱線しますが、二歌については、2012年8月22日記事で、私は、この歌の英語訳を論じました。万葉集の外国語訳は、まことに難しいと思っています。月刊誌「新潮45」8月号で佐伯啓思氏が「社会・人文系知識には国境がある」(「反幸福論」連載エッセイ)と書きます。勿論氏の文脈の中でこの言の意を捉えるべきですが、英米人が無理やり万葉集を日本語に直すことにどれだけの意味があるのか、私は疑問に思っています。
所で、この二歌では「八間跡能國」なる表記があります。これがフト気になったのです。思えば、天武領は「狗奴国」です。これは、日本古来の数の勘定である「ココノツ=九」を思わせる音です。そして、その南の「投馬国」はまさに「トオ」、つまり「十」です。そこで、魏志倭人伝に列挙される国を整理してみたのが次の表です:
對馬國、「ツイマ」、「ついたち」の「ツイ」であるからまさに「一」
一大國、後述
末盧國、「ムツラ」 文字通り「ムッツ=六」
伊都國、「イツ」、「イツツ=五」
奴國、「ナ=七」
不彌國、「フミ=二・三」
投馬國、「トオ=十」
邪馬壹國、「ヤマ」 で「八」
狗奴國、「クヌ=九」
というわけです。その他に分類される二十一国を除けば、無いのは「四」だけなのです。そこで、「一大國」を考えて見ます。これは魏の調査官のメモを本国の書記官が報告書として記載する際の読み間違いではなかったかと想像しています。調査官は「与」とメモしたのです。例えば下図のような走り書きであったと思われます。
最左は調査官がメモ帳に書きとめたつもりの漢字。その右隣は、急いで書き留めたために上の横棒が離れてしまった。そして、右の二つは、魏の記録官が、調査官から受け取ったメモを基に作成した報告書、というわけです。
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此処に私の手書き図画入ります。お手数ですが、上記ブログを参照ください。
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上図のような事情があったとすれば「一大国」は「与国」であったことになります。つまり「四」があったのです。こうして、一から十が揃ってしまいました。
これらの国々の中で、奴国には「金印」が与えられている(西暦57年)と漢の史書(後漢書東夷列伝)が書きますから、紀元一世紀にはすでに「奴国」が存在していました。和風勘定である「ヒ・フ・ミ・ヨ・イツ・ム・ナナ・ヤ・コノ・トウ」は、「一」を「ツイ」と音する以外は、実に二千年の歴史を持っている事になります。おまけに、国の名前に、その番号を用いるなぞは、ただ驚くばかりです。一世紀ごろ強大な首領が七人の息子と三人の娘に、数で名前を与え、自らの領土を分け与えたのではないかと想像したりしました。というのは、私の叔父を連想したからです:
子の名に数字を用いるのは日本人だけではないでせうか。政界への影響力回復を(私が)期待する小沢一郎氏、上田健二郎氏なる赤い貴族、小説の主人公である三四郎などなど。私の母方の叔父は、六人居ますが、一から六を名前に含みます。そして、四郎さんが夭折したため、次の五郎さんは、四郎さんの分も生きよとの親の願いを背負って「与五郎」と名づけられました。この与五郎叔父は、大変な秀才であったそうで、芥川龍之介も在学した府立三中(現在の両国高校)を飛び級で卒業しましたが、一高に進んで欲しいとの親の期待に逆らって、海軍兵学校に入りました。そして、わずか30歳のとき、航空隊の若き将校として、米国艦隊に体当たりを敢行。ニューギニア海域に永眠しています。目黒・白金台にある墓には当時の府立三中の校長先生から頂いた追悼の辞が刻まれています。
私事はさておき、二つの数字を名前に使う場合は、私の叔父のように、往々にして亡くなった兄の名を次の弟が引き受けます。とすれば、「不彌国=二三国」は、もともとは、二つの国、「二国」、「三国」ではなかったかと考えています。「み国」に、何か良からぬことがあり、その残された国を「ふ国」が引き継いだために付いた(呼ばれた)国名であろうと思います。「み国」には哀しい来歴があった。これが、九州で「三」が尊ばれる起源と思います。後日、この事を考察します。
次に「馬」です。これは倭の訳語(をさ、通訳)は「メ」といった筈が、魏の調査官は「マ」と聞き取ったのでしょう。これは「女」という意だったのです。つまり「女首長」を戴く国です。久留米市の東南に「八女市」があります。まさに「邪馬」は「八女」と同義というわけです。訳語(をさ)は、この事を調査官に説明しなかったのです。そして、もっと重要なこと、つまり国名が「番号」で呼ばれていることも説明せず、「音」だけを調査官に語ったのです。調査官はその「音」だけを、メモし、その意味を知ろうとはしなかったのです。
以上の考察から、「邪馬(台)国」、つまり「八番国」だけが、九州ではなく、近畿にあったなどという議論はありえない事がわかります。巷間に言う「邪馬(台)国」は間違いなく九州であると断定できます。
かくして前回、今回の二回に亘って邪馬(台)国は九州にあったことを、二つの独立した論拠に基づき論証してきました。
さて、上で検討しなかった二十一の国(二国ほど重複があるようですが)の国名から、三世紀当時の十を超える数の勘定法を知ることができるだろうかと考え、ずいぶんと国名とにらめっこをしました。現時点では成功していません。しかし、これら二十一の国名に古代倭に関する有益な情報が潜んでいることには変わりありません。それを次回書きます
(つづく)
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