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ブログ法螺と戯言より
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どうやら、七世紀の古代倭国には、邪馬台国の名残が色濃く政治に影響を落としていたようです。次回、書きますが、私は「邪馬台国」は存在せず、存在したのは「邪馬国」であると考えています。しかし、その説明を書くまでは、無用の混乱を避けるため便宜上「邪馬(台)国」と書いておきます。
天武の領土であった狗奴國を囲む地勢を確認するため、まずは魏志倭人伝を考察する事から始めます。邪馬(台)国論は多くの学者さんによって議論されていますので、それらの議論を本ブログで繰り返すことはしません。
まずは 原文です。便宜上、以下に見るように、文節に分け、それぞれに番号を付しました:
(1) 倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。
(2)始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
(3)又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
(4)又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
(5)東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。
(6)東南至奴國百里、官曰x 馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。(x漢字なし)
(7)東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。
(8)南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
(9)南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳 、可七萬餘戸。
(10)自女王國以北、其戸數道里可略載、其餘旁國遠絶不可得詳。次有斯馬國、次有己百支國、次有伊邪國、次有郡支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
(11)其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里
論争の所在
この『倭人伝』解読は、多くの解説書やらで、詳述されていますから、上の11の文節を全て一つ一つ説明することはしません。重要な文節は、(8)、(9)です。この解釈をめぐって歴史学者、愛好家が口角泡を飛ばして議論してきたのです。
魏志倭人伝は魏の倭国調査官が作成したメモが基になっています。メモは、魏の調査官と、案内・先導した倭側・訳語(をさ、通訳)との間の会話を書き留めつつ作成されました。さて、メモが、文節(7)から文節(8)へ移行する際、二人の「やりとり」は、異なる文脈に移ったのです。この事は、大方の学者さん・研究者は百も承知しています。
文節(2)から(7)までは、次の国へ至る迄の旅程を「里」で言い表しています。ところが、文節(8)に突然、それが「日、月」に、変わるからです。しかし、学者さんは、文節(8)を解読するに際し、メモ者と訳語(通訳)の会話文脈の切り替えに頓着せず、何故か「投馬国」が不彌國の南にあると思い込んでしまうのです。そうなると、不彌國は海に面して居らねばならないか、又は川が在るはずです。なにせ「投馬国」へ行くには水運(「水行」)に頼らねばならないと倭人伝が書くからです。かくして、導かれる結論は、邪馬(台)国を九州からはるか遠方の海によって隔てられた地に置くことになります。
先日NHKBS歴史観に登場した渡邊 義浩氏(ウイキペディアでは早大教授、番組では大東文化大学教授)が、独自の考察を展開していました。大陸内で魏・呉・蜀間の政治的力関係が、魏をしてこうした記述をさせた。つまり、倭が呉の東方海上にあって呉を牽制しているという構図をいわば「捏造」した、と教授は考えます。魏の政治的思惑がこの記述に反映したというわけです。
私は渡邊教授の意見には賛同しかねます。私は以下のように、考えています:
倭国の視察のため派遣された魏調査官は、倭国側がつけた訳語(をさ、通訳)を伴って、倭を見聞します。調査官のメモが帰国後整理され魏志倭人伝となります。調査官はメモを(7)から(8)へ進める際、訳語(をさ)による説明の変化を確認します。言葉を変えると、「隔たり」(distance)を記述する際、その計測単位(里から日数へ)ばかりでなく、計測の起点も異なることを訳語(をさ)は説明した筈です。
「異なる起点」という発想は、残念ながら私の独創ではありません。榎一雄氏によるものです(1934年に第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部東洋史学科に入学。白鳥庫吉の指導を受ける。1958年東京大学文学部東洋史学科助教授を経て教授、ウイキペディアより)。榎一雄氏は何故かその起点として伊都国を考えたのです。
起点を探る手がかり
私はその発想に合理性を見ます。前回書きましたが、天武の支配域である旧「狗奴國」は、熊本県中部です。そして、天武の重臣の一人が「投馬国」出身です。当然、「狗奴國」と「投馬国」は近接していた筈です。そこで、私は、この二つの国が近接どころか隣接していたと考えます。
熊本県の南は鹿児島県です。「薩摩」(さつま)国です。この「つま」は「とうま」が転化したのではなかろうか?『投馬国』は『薩摩』、つまり現在の鹿児島県と考えることができるのです。
起点は對馬國
そこで、文節(8)の行程を逆に辿ります。つまり鹿児島から水行・北上して20日間の旅をすることになります。たどり着くのは對馬國です。確かに、對馬國から薩摩(投馬国)へ至るには、なまじ、陸路を選ばずとも船で一気に南下すればよいことです。当時の航海技術でそれは20日ほどを要したと、倭人伝は書いているのです。
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此処にあるべき図を貼り付けることができません。図は、上記ブログ記事を見てください。
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とすれば邪馬(台)國へは、對馬國から、まず船で南下して10日、つまり「投馬国」への海路の半分です(上図参照)。この水行で九州北岸に至ります。そしてそこから、陸路30日というのです。陸行30日はずいぶんと多い日数に思えます。陸路は、山あり川ありでスムーズな旅ではありません。それに加え、調査官は、あちこち立ち寄りながらの旅程であったため、日数を要したのです。つまり陸行三十日は調査官の実感です。いずれにしても邪馬(台)國は現在の九州内部であろう事は間違いのない所です。
魏の調査官は、本国への報告にあたり、對馬國から投馬国への行程を書くことで、邪馬(台)国の南北の広がりを示したのです(実際投馬国を訪ねたかどうかは定かでありません)。その上で、邪馬(台)国の女王が住む都までの旅程を邪馬(台)国北端である對馬國からの旅日数で記したのです。
学者さんたちが熱い議論をしてきた年来の謎があっけないほどあっさりと解けてしまいました。むしろ、榎教授が何故、對馬国を起点にすることを発想しなかったのか?その事に何かしかるべき不合理が潜んでいるのか?それを気にしています。
今回の結論を強力に支持するもう一つの証拠を、次回書きます。
(つづく)
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