http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/528.html
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「世界ふしぎ発見」でもやってたらしい。
いい話だ。
日本の敗戦もアジア諸国の植民地支配からの解放を生み出したことを忘れてはならないと思う。
「璧を完うす」から
http://d.hatena.ne.jp/gritti/20110228
日本に光を与えてくれた、一人のスリランカ人
日本人の誇り
私の友人が近々、スリランカを旅行するそうだ。
スリランカ、このインド洋に浮かぶ島国が、日本の独立と深く関わっていた事実を知る日本人は少ない。
元セイロン(現スリランカ)蔵相、J.R.ジャヤワルダナ氏と、これを書くきっかけをくれた友に感謝し、書き記す。
時は1951年9月6日、日本の独立を討議するサンフランシスコ講和会議の会場、オペラハウスの壇上に、ひとりの男が立った。
セイロン(現スリランカ)代表、J.R.ジャヤワルダナ氏である。
彼は呼びかけた。「日本は自由であらねばならない」と。
演説をするJ.R.ジャヤワルダナ氏
日本の国際社会復帰を話し合う、講和会議であったが、ソ連の執拗な反対工作に会い、日本の分断、主権の制限、高額な賠償金が俎上にのせられ、会議の前途は暗澹としていた。
そんな中、強い決意を胸に秘め、J.R.ジャヤワルダナ氏は話し始めた。
「賛同を勧誘されている平和条約草案について、セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる特典と考えます。
私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から成り立っていますが、本条約に対して向けられたいくらかの批判を反ばくする企てもあります。もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。」
各国が自国の利害を考え、駆け引きを繰り返す中、全く、と言っていいぐらい利害のない「日本」に対して、むしろ日本軍の空襲をうけ、被害を受けた国の代表でありながら、日本を擁護する演説を続けた。
「日本に対する態度に於いて、セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、日本は自由でなければならないという最大の考えによって動きました。」
「何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローーガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。」
敗戦国に対して、利害を超えて「尊敬」と「共感」を表明し、日本の独立を強く支持するJ.R.ジャヤワルダナ氏の言葉に、会場はうち静まった。
「セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国こ供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。」
「我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師(※仏陀 管理人注)の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、『憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む』はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。
そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。」
アジア諸国に流れる共通の思想、仏教を引用し日本への賠償請求放棄を呼びかけた。
これにより、多くのアジア諸国が日本との関わりと、恩恵を想起し、また、日本人は同じ肌の色をしたアジア民族であり、日本が戦ったのはアジア人を搾取した白人国家だったのだと再認識させることでアジアの一体感を呼び覚ましたのだ。
欧米諸国の代表にも、その博愛と寛容の精神は静かな感動を与えた。
「この条約はまさしく敗れた敵に公平であるのと同様に寛大です。 私たちは、友情の手を日本まで広げ、人類史の中で本章を、最後のページは今日我々が書いているのであるが、閉じることを日本に任せようではありませんか。そして、新しい章を始めることも。その最初のページには、人類が平和と繁栄の中にあり、完全なる尊厳をともに享有する姿があるのです。」
J.R.ジャヤワルダナ氏の演説が終わると、万雷の拍手が沸き起こった。
彼のこの演説が、講和会議の流れを変え、日本の国際社会復帰を大きく後押ししたのである。
日本はソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く48ヶ国と講和を結び、国際社会復帰を果たした。
その後、J.R.ジャヤワルダナ氏はスリランカの第2代大統領、第10代首相を務めるなど、要職を歴任し、祖国の発展に尽くした。
在任中、および政界引退後もたびたび来日し、いくつかのエピソードを残している。
新幹線に乗ったとき、JRを自分の名前と勘違いした。
昭和天皇の大喪の礼に、本人の希望により参列。すでに大統領職は退いていたが、日本も元首格の国賓として待遇した。
ちなみにスリランカの首都「スリジャヤワルダネプラコッテ」の名前には、その業績をたたえ彼の名前が織り込まえれている。
J.R.ジャヤワルダナ氏は1996年11月1日、惜しまれつつこの世を去る事になる。
彼は遺言として、自分の角膜を日本の目の不自由な人にあげるように、といい、その意志をくみ、片目の角膜は日本に、もう一方の角膜はスリランカの人に提供されたそうです。
講和会議で日本に復帰の光を灯し、死後も日本人に光を与えてくれたJ.R.ジャヤワルダナ氏に、我々ももっと光を当てなければ、やがて両国の友好の光は消えてしまうでしょう。
<参考リンク>
◆日本とスリランカの間には、互いに助け合った長い友好の歴史がある
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h21/jog598.html
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