03. 中川隆 2013年7月04日 08:43:34
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南京虐殺「ニセ写真」 最近、大阪の博物館「ピースおおさか」で開かれた大虐殺否定派の「南京 大虐殺の徹底検証」集会は、中国をいたく刺激したようです。中国外務省から 抗議があったのをはじめ、意外にも運輸省など中央省庁のホームページ書きか え事件に飛び火したようで、また日中間の巨大な焼けぼっくいがくすぶりだし たようです。 このような世相にあわせ、久しぶりに南京虐殺事件シリーズの続きを書き たいと思います。今回は大虐殺否定派がさかんに批判する「ニセ写真」問題に ついて、手紙形式でまとめてみました。 ********************* Yさん、はじめまして。 最近は南京事件の「ニセ写真」問題がかまびすしいようで、岩波新書『南 京事件』のように、写真の誤用が一枚でもあると、さもその著書全体がデタラ メであるかのようなキャンペーンが雑誌『SAPIO』などで繰りひろげられ ているようです(注1)。 しかし、そうしたメディアが問題にしている「ニセ写真」は、多くは南京 事件と特定できないだけで、もちろんヤラセ写真や偽造ではなく、それどころ か、それらは日中戦争のひとこまを記録する貴重な資料ではないかと思います。 そうした写真をYさんは「ニセ写真」と決めつけておられるようですね。 >あなたのサイトを見た一高校生の意見なんですけど南京事件を証明するのに >「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」を出すのはちょっと、変です。 >あの資料は誤報で出来たようなもので、使用されている写真はほとんどが >ニセ写真なんですが・・・ >ニセ写真と言えば小林よしのり氏の「戦争論」にも一つありました 私のサイト、半月城通信は南京事件を証明しようとしたホームページでは ありません。それは、世界的に知れわたった南京事件とはどのようなものであ ったのか、その真実にすこしでも迫るつもりで真剣にかわした議論を転載した 私の意見集です。 そこで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』とその著者アイリス・チャンを数 カ所引用したのは確かですが、それはもちろん「証明」に結びつくものではあ りません。 私はまだ『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』を見ていないので、その写真に ついてはコメントできないのですが、こうした写真のとらえ方について、先の 誤用事件の当事者である笠原氏はこう記しました(注2)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 南京安全区国際委員たちが南京事件の一端を撮影した写真の多くは、イ ェール大学神学図書館に所蔵されていて、拙著『南京難民区の百日−虐殺を見 た外国人』(岩波書店、1995年)でも何枚か紹介した。 ラーベ日記にも国際委員たちが撮影した多くの写真が収録され、中国語版 にはそのまま掲載されているが、日本語版『南京の真実』(講談社、1997年) では残念ながら相当枚数省略されている。 ラーベがヒトラーに宛てた報告書の附属文書には、安全区国際委員(主に マギー牧師)が撮影した南京事件関係の写真80枚がそれぞれにラーベの丁寧 な解説をつけて収録されている。撮影者と出所と撮影現場が特定できる貴重な 南京事件写真資料である。 ・・・ 日中戦争において日本軍が引き起こした多くの侵略、残虐事件の中で、こ れだけフィルムと写真の資料が残されたのは、むしろまれな例であるといえる。 それは、量的にも規模的にもはるかに被害が膨大であった「三光作戦」の 現場写真がいかに少ないかを想起すれば、容易に理解できよう。 日本軍当局は、侵略、残虐事件の写真、フィルムを厳格周到に取締って撮 影させず、たとえ撮影したものがあれば、兵士個人の日記、郵便物、持ち物ま で含めて厳密に検査、検閲したのである。 いっぽう、被害者の中国人側には、戦火、戦場において、日本軍の残虐行 為を撮影、記録できる条件は皆無に等しかった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 軍人がオールマイティであった軍国主義時代、日本人や中国人が皇軍兵士 の残虐行為を撮影することなど自殺行為に近かったようです。当時、陸軍は検 閲制度をもうけ「新聞掲載事項許否判定要領」で下記に該当する記事や写真は 不許可にしました(注2)。 ・・・ (12)我軍に不利なる写真 (13)支那兵または支那人尋問等の記事写真中、虐待の感を与える虞(おそれ) あるもの (14)惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支 えなし これでは虐殺写真が残るはずがありません。残るのは「我軍に有利」なヤ ラセ写真になりがちです。そのようすを南京安全区国際委員のマッカラム氏は こう記しました。 「1938年1月9日−難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、 ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影 していた。 こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入 して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった(『南 京事件資料集1』青木書店、1992」 また、報道管制とならんで言論弾圧も厳しいものがありました。その一端 を笠原氏は、作家の石川達三を例にあげ次のように記しました(注3)。石川 氏は、たそがれ小説「48歳の抵抗」で一躍有名になった作家です。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ここでは報道管制と弾圧の一事例だけを紹介する。作家の石川達三は、中 央公論特派員として占領直後の南京に滞在、兵士からの取材をもとに、南京攻 略戦に参加した日本兵たちの捕虜、民間人の殺害、婦女暴行などの行為をリア ルに描いた「生きている兵隊」(『中央公論』1938年3月号)を執筆した。 同号は即日販売禁止となり、石川は禁固四か月執行猶予三年の判決を受け た。同氏の編集長も起訴され、退社を余儀なくされた。 弾圧に弱い日本のマスメディアにたいしてこの処分が脅しの意味をもち、 日本のマスメディアは南京事件を報道しなくなったのである。 南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南 京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮って いたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている(『南京戦史資料集 2』偕行社)。 南京事件が東京裁判でデッチ上げられたのではない証拠に、石川達三は 「裁かれる残虐『南京事件』」と題して、自分の見聞した残虐事件を述べ、 「南京の大量殺害というのは実にむごたらしいものだった。私たちの同胞によ ってこのことが行われたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を 意義あらしめたいと思う」と語っている(『読売新聞』1946年5月9日)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 日本人や中国人にとって、南京にかぎらず虐殺現場の写真を撮ることは至 難なことだったようです。そのため残された写真は、日本軍の統制が利きにく い欧米人によるものか、あるいは皇軍兵士が「勇猛果敢」を誇示する目的で撮 ったものに限られるようです。 皇軍兵士がとった写真は写真屋で現像の際にこっそり残され、それが現在 中国に残っているようです。そうした写真はいきおい撮影場所や時間があいま いにならざるをえません。そうした事情を笠原氏はこう続けました(注2)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− アイリス・チャンの本も含めて、世に出ている南京事件大虐殺写真には、 厳密な意味で南京虐殺の現場の写真でないものも多い。 ただし、それらの多くは南京事件の最中に撮影されて現場写真と特定でき ないだけで、首切りの瞬間や、中国人の刺殺場面、強姦被害の女性、中国人の 虐殺死体等々の写真が語る日本軍の残虐行為そのものは事実である場合が多い。 否定派の攻撃する「ニセ写真」とは意味が違う。南京事件とは違う場所と時間 の写真を南京大虐殺の写真であると「誤用」したのであり、他の場所で日本軍 の行った残虐行為の写真材料としての価値はあるのである。 「ニセ写真」とは、被写体が現実とはまったく違い「ヤラセ」「合成」「創 作」などの詐欺的手段を使って撮影された事実でない写真のことである。 中国側の発行する南京大虐殺写真集に掲載されている南京事件と特定でき ない日本軍の残虐写真には、日本兵が南京の写真屋に現像・焼き増しを頼んだ ものが中国人側にわたり、戦後の南京事件法廷で証拠写真として提出されたも のもある。 ・・・ さらに日本軍将校の中には、中国戦場における武勇談の一つとして、中国 人捕虜を日本刀で斬首するところを記念撮影させていた者もいた。 日本兵が所持していた日本軍撮影の残虐写真が、さまざまな経緯を経て中 国側に残され、戦後の中国において各地の革命博物館や抗日烈士記念館に展示 されたり、写真集に収録されたものが多く、それらの写真には場所や時期、撮 影者が特定できないものが多い。 しかしそれらは「ニセ写真」ではない。間違いなく日本軍の残虐を記録し た写真なのである。山東省の革命博物館の写真展示にある、中国人を斬首して いる将校が誰か、部隊関係者が見てすぐ分かったという話を聞いている。 小林よしのり氏が「南京大虐殺はニセ写真の宝庫」というのはウソである。 「ニセ写真」ではなく、南京事件そのものと特定できない写真や他の場所の写 真が使われているものがある、ということである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− やはり多くの写真は本物のようです。しかし、撮影場所と時間がはっきり しないと資料価値が問題になり、博物館などに展示すると思わぬ非難にさらさ れることになります。 非難する人たちは、多くの写真が真実かもしれないということには意識的 に目をつぶり、疑わしい数枚の写真の検証のみに汲々としているようです。そ うした木を見て森を見ない流儀で、なかには南京虐殺は「まぼろし」であった と短絡的に結論をだし、中国の憤激を買うありさまです。 そんな輩の雑音を防ぐため、南京の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念 館」では笠原氏たちのアドバイスを受け入れ、出展がはっきりしない写真は差 し替えられたようです。 一方、調査が進むにつれ新たな写真や資料が発見される可能性はまだまだ あります。つい3,4年前にラーベの日記がアイリス・チャンにより発見され たのは記憶に新しいところですが、先日も南京関係の写真が中国・長春市で発 見されたとの報道があったくらいでした(注4)。今後もこうした発掘が続く ことでしょう。 (注1)「謀略の“南京大虐殺”キャンペーン」『SAPIO』1999.7.14号 (注2)南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999 (注3)笠原十九司「日本軍の中国人20万人大虐殺を否定したがる論者たち へ」『SAPIO』1998.12.23号 (注4)長春市で日本軍の南京大虐殺における新しい証拠を発見 (ホームページ「中国情報局」http://searchina.ne.jpより引用) 発信: 2000/2/3(木) 14:38 新華社長春は「日本の右翼勢力が大阪の南京大虐を否定し、やかましく騒ぎ たてる中、長春日刊新聞は南京大虐殺の現場を記録する8枚の写真を掲載し、 歴史のために証言した。」と報道した。 《近代の百年の史》の画報が吉林長春市で偶然発見され、画集の上で当時の 日本の従軍記者が南京大虐殺の現場を撮影し、掲載した物が如実に当時の状況 を物語っていた。 “南京が大いに虐殺する”を標題に掲載された8枚の写真は、中国の平民が 自動車で刑場に送られる様子を撮影した物、死体の血をすする猫を撮影した物 など思わず目を背けたくなるような写真ばかりであったようだ。 (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定) http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信) 南京虐殺 死体の行方
RE:10897, > 南京大虐殺が実在すれば、虐殺された死体が出てくるはずですね。物証がないの >に写真だけで議論できるはずが無いし、写真などあるわけがないポルポトの大虐殺 >は白骨という物証がありました。 > ということで、写真で議論しても無意味だと思いますよ。 こう書かれる真意がよく読みとれないのですが、南京事件では虐殺された 死体があまり出てこなかったので大虐殺はなかったと言いたいのでしょうか? それとも虐殺の写真を云々する前に、もっと重要な「物証」である死体はど うなったのか、しっかり検証しろという趣旨でしょうか? いずれにせよ、死体はどうなったのかについて記したいと思います。その まえに虐殺の写真ですが、メーリングリスト[aml] で日本人兵士により虐殺の 決定的証拠が撮影されたきわめて貴重な写真があるとのアドバイスがありまし たので補足します(注4)。 さて、本題の死体ですが、日本軍にとって虐殺の「物証」である死体をい つまでもさらけだしたままでは南京占領統治上、好ましいはずはありません。 死体を見るたびに中国人の日本軍に対する憎しみがかき立てられることは容易 に想像されます。 それに死体は長く放置すれば腐って悪臭を放つし、伝染病のまん延など衛 生上も問題があります。そのためか、日本の南京特務機関は新興宗教団体「道 院」の社会事業実行団体である紅卍(まんじ)字会をこっそり指導し、遺体の 埋葬を進めたようでした。 その報告書『華中宣撫工作資料』(1938.2)には「紅卍字会屍体埋葬隊(隊 員約600名)は一月上旬来、特務機関の指導下に城内外に渉(わた)り連日 屍体の埋葬に当り二月末現在に於て約五千に達する屍体を埋葬し著大の成績を 挙げつつあり」とあり、意外にも日本軍の特務機関が関与していました(注1)。 これからわかるように、虐殺後2,3か月たって急ピッチで遺体の埋葬が 行われたようでした。しかしながら虐殺は大規模であったために、遺体は3月 の段階でもかなり放置されていたようでした。 そのようすは、盛文治という民間人が「南京市自治委員会救済組」にあて た要請書に赤裸々にこう記されました(注2)。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 私はこのたび郊外から(南京)城内にやって来ましたが、3月になるとい うのに途中の馬家店・大定坊・鉄心橋は左右両側、人の死体と馬の骨が野に遍 (あまね)しという有様でした。 ある者は小高いところで仰向けになって目を見開き口を開け、ある者は田 のあぜに伏せて肉と骨をさらしており、屍は鷹や犬の餌になっています。 完全なものは少なく、足や腕がなかったり、頭がとれていたりで、たとえ 五体満足なものでも、黒褐色を呈し腐乱しはじめています。 そのうえ悪臭が鼻をついて人をむかつかせ、伝染病を避けるため、現地の 人はみな鼻をおさえて歩いています。 まだ日差しも弱く高くありませんが、もし炎熱多湿の気候になったらと思 うと、想像もできません。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− まったく目を覆いたくなるような惨状です。しかしながらこうした証言も、 中国側の資料と聞いただけで拒否反応を示し信憑性を疑うマボロシ派も多いよ うなので、日本側の資料も添えます。先の特務機関の3月分資料にはこう書か れました(注1)。 「尚、各城外地区に散在せる屍体も尠(すくな)からず、然(しか)して積 極的作業に取りかかりたる結果、著大の成績を挙げ3月15日現在を以て既に 城内より 1,793, 城外より29,998 計 31,791体を城外下関地区並(ならび)上 新河地区方面の指定地に収容せり」 この資料を補強するかのように『大阪朝日新聞』の「北支版」(1938.416)も紅卍字会の活動を記事にしました。同紙は、紅卍字会と南京市自治委員 会、日本山妙法寺の僧侶たちが遺体埋葬した実績をこう記しました(注2)。 「最近までに城内で 1,793体、城外で 30,311体を片づけた。約 11,000円の 入費となってゐる。苦力(クーリー)も延5,6万人は動いている。しかしな ほ城外の山かげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど金を出して真 夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」 うえに紹介した紅卍字会の活動以外にも、惨状を見るに見かね、さまざま な団体が遺体の埋葬に当たったようでした。最近、こうした研究も進んでいる ようで、その成果の一端は南京事件60周年にあたる97年、東京で開かれた シンポジウムの席上、中国江蘇省社会科学院の孫宅巍氏により発表されました。 報告によると、遺体の埋葬は下記のようになされました。ただし、この中 には戦死した兵士も含まれるし、遺体収容・処理の重複もあると、孫氏はこと わっています(注3)。 国際委員会 30,000体 紅卍字会 43,123体 崇善堂 112,267体 赤十字社 22,683体 同善堂 7,000体 湖南の材木商 28,730体 城南市民 7,000体 南京市第1区役場 1,233体 南京市下関区役場 3,240体 南京市衛生局 3,000体 安達少佐 100,000体 長江に投棄や江北にて焼却・埋める 南京侵攻部隊 50,000体 合計 408,276体 (ただし、重複あり) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− こうした研究を総合すると、東中野氏が「五等資料」とさげずむ極東国際 軍事裁判(東京裁判)の下記判決文は、その正当性があらためて浮きぼりにさ れるのではないかと思います(注2)。 「後日の見積もりによれば、日本軍が占領した最初の6週間に、南京とその 周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示され ている。 これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した 死骸が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている。・・・ これらの数字は日本軍によって、死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ 込まれたり、または他の方法で処分された人々を計算に入れていないのである」 虐殺数20万人が正当かどうかは別にして、大虐殺があったことはあらゆ る資料から明らかなのですが、それにもかかわらず大虐殺を否定するマボロシ 派の主張は、世界各国から日本の「過去への反省」にたいする疑念をますます 強固なものにし、いたずらに中国などを怒らせるだけで、得るところはまった くないように思えます。 (注1)井上久士編『華中宣撫工作資料』(15年戦争極秘資料集13) 不二出版、1989 (注2)南京事件調査会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房)1999 (注3)半月城通信<南京虐殺60周年(6),中国の主張> (注4)井上久士氏は虐殺を撮影した日本軍兵士についてこう記しました(注 2)。 南京戦を取材した日本の報道カメラマンが軍部の厳格な検閲制度に従順に したがって、自己規制的に南京事件の場面や現場を撮影しなかったなかで、日 本軍の大虐殺の一端をカメラに収めていた一兵士がいた。
兵站自動車第17中隊の非公式の写真班を務めていた村瀬守保氏で、彼は 自分の中隊の各将兵の写真を撮り、それを自分で現像、焼付けして各将兵の家 族に送らせていた。 戦闘部隊ではなく、輸送部隊であったため、戦火の直後をまわって、比較 的自由に撮影でき、かつ軍部の検閲を受けないでネガを保持できる恵まれた立 場にいた。 『村瀬守保写真集 一兵士が写した戦場の記録−私の従軍中国戦線』(日 本機関紙出版センター、1987年)には、村瀬氏がキャプションをつけた南京で の集団虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。 これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国 人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪 と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明す るものである。 その中に「虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほ とんどが平服の民間人でした」というキャプションの写真が三枚ある。 冒頭に引用した小林よしのり『戦争論』で「厳密な資料批判に耐え『これ が日本軍による民間人大量虐殺の証拠』といえる写真はまだ一枚も出てきてい ない」と、氏としては珍しく逃げ道を用意した慎重な言い方をしているが、そ れもウソであることを村瀬氏の写真は証明している。 (本記事はML[aml],[zainichi]および下記のホームページに転載予定) http://www.han.org/a/half-moon/ (半月城通信) http://www.han.org/a/half-moon/hm067.html#No.441
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