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ドリームタイム到来せり
だがそれに気付く者は現在"殆ど居ない"と云える程だ
あなた方は皆自身の描くドラマの虜である
それらは「ノンフィクション」というジャンルのフィクションドラマである
別称にはそれを「現実」とあなた方が呼称している
何度も言う通り物事に差別を生んだのはあなた方の「頭」であり
その頭の中では常に感情的な体験が繰り広げられている
私がこれを"書かされている"のは
私が経験していることを
私が"書きたい"と感じたからである
私は大抵睡眠時間は連続して4時間きっちり採るように"なっている"
その他に大体一日の内に一時間単位で一回から二回
もしくは仕事中10分から15分の睡眠を数回繰り返す
それで日々の肉体のケアはほぼ完全であり回復するのである
そのように信じて居るからそのように力が働くとも言えるのだが
これは物質的な時間区分というものに存在する時間的なリズムに叶った物である
この時間の配分は肉体としての生命と
魂レベルの生命の本質的なエネルギーを密接なものとするのに適切である
単純に休めば良いと云うものではなく
それに過ぎれば肉体の秩序もバランスを欠くのである
この事は実際には夢と現実のバランスを両立させ
夢の中のもうひとりの私と言える存在との連携を保つ為には
非常に良い睡眠配分である
よくいう8時間睡眠が健康で在ると言っていたり
頻繁に夜目を醒ますことがなんらかの病気のシグナルであるとする考え方もまた
それなりの思い込みが齎す効果以外のものはない
例えればそのように毎日夢の中に現実としての自分の姿を覗き見ようと決意すると
あなたは夢の中の"現実"から
生活に役立てられる多くの情報を持ち帰ることが出来るかもしれない
更に自分が覚醒時(つまり肉体的な生活を送っている状態)で
なんらかの怪我をしていた場合などには
もうひとりの無意識のあなたが知る万能な知恵の恩恵としてのヒーリング処置を
受けることが出来るかも知れない
それはそのようにあなたが
夢と現実を分つ物などで着ないと
そしてあなたという存在の多次元性を信じて居れば
と云う事が前提となる
私はそうしたことをほぼ毎日体験している
だから私は私であり
すべてはひとつである
夢の中のあなたの存在と現実とするあなたが
何一つ二分するものでないと云う確証をようやく理解する時に
所謂「奇跡」と呼ばれることは起こるのである
そのようにあなたが現実か夢か判らないと云う状態下に身を置く時
あなたの意識と無意識のが肉体が直にセッションして
あなたに対してヒーリング処置を施すのである
それはよほど身体が疲れている時など
特に若い時分に体験した者は多いことだろう
私はよくマッサージ処置を施される
怪我をしていればそこを揉まれたりツボを押されたり
むくんでいた所がそれで腫れが完全にひくのである
そのようにして神や霊の存在を初めの頃は涙して信じたものである
だがそれは何も憐れみをかけられてそうした処置をされているのでもなく
自身の望みにより心が要請してそれを受けれたというだけのことである
つまり汝自身を信じよである
故に何一つ臆することなく
不安に思うこともなく
他者なる人を煩わしく思うこともなく
快適に自身の在るこの世界の全てと和解し人生を謳歌せよ
ということである
だから私は他人の作ったドラマをありがたがって読む気も楽しむ気も起こさない
何より自分の人生が楽しいからである
あなた方の見る夢やドラマは日々一日一日常に実現している
「一日」とは人ひとりの「一生」に例えられるものであり
ひとつの人生とはまさに人の一日の生き方に例えられる
"しがない一日"だとあなたが思い込めば
そう決め込むことになり
あなたはそのように一日をただ見送ってしまうことになる
それは謂わば"しがない人生"である
すべてはあなたがそう思った通りに
感じた通りの体験が実施される
創造の意欲とは「出来る」といった可能性の中に息吹くのであり
あなたが自身の一日の過ごし方を
とてもmottainaiものに思えたのならば
次の一日の過ごし方をあなたの意思で変える事が出来る
次に訪れる「今日」を
あなたがどう過ごそうと決意したかで既にあなたはその時点で変化し
あなたの生き方は経験に反映される
変化して生まれた新たな「今日」は
既に以前のあなたが居た「今日」ではなく
あなた自身もまたそれを引きずらなければ良いというだけである
信じたいものが在れば
信じる為のプロセスとしての経験をただ受入れればよいということだ
あなたは「今日」と云う来る日をどのように生きて行くのか
またこれまでどのように一日を過ごして来たというのか
疲れた日があれば休む日があってもいい
休んだら疲れて良いのである
そのようにあなた方はすべて自分で決めている
あなたが目にする他人の動向に対して
興味関心を持つのは
自分ではないものつまり他者であることの行為を不可解だと感じられるからである
他者の粗雑な行動から目を離せないのは
それはあなたに愛が在るからでも
あなたが正義に立つからでもない
単純に不可解なものに興味関心をもって理解を欲している所為である
不可解であるが故に興味を持つのである
である限りは次の「日」にあなたがその「役」を演じそれを経験する
だから差別しなければ良いのである
不可解な事などなく
それぞれの生き方ががあっていいのだから
そして何よりも経験欲が満たされることは無いのだから
よって望んでもない事を経験したく無いのであれば
批判や差別をしないことである
「もはや十分である」ということが理解された後には
かつてない違った経験を欲するだけである
法や道徳といったものの押し付けによって
自然なのどの渇きが癒されることも
渇望してやまないイメージする川の流れが塞き止められることもまたなく
増々そこにあなたの心が惹き付けられるのである
そのようにひとつの意識が幾重にも分業化されてひとつの世界を回している
鏡に映るあなたの顔が不味いからあなたの心が落ち込むのではなく
あなたが落ち込んでいるから鏡の中のあなたが不味いのである
鏡とは物質世界の経験全般を例えた物である
あなたがどんな顔をしていようとあなたはそれを愛すると心に決め
何一つあなた自身を差別することなくつまり比較もすることなく
あなた自身の内奥の変化を信じてやれば
あなたが見る鏡のあなたも変化するのである
そのようにあなたがドラマに毒されて
敵をイメージし
悪を相対化し
世の中を嘆き悪く思いさえしなければ
それらは世の中に存在しないのである
おわかりか?
あなたが全てを作っているのである
すべての事実はフィクションである
あなた方がそこにノンフィクションと云う虚構をもまた作り上げたのである
いまここで整理しておくべきことは
あなた方の創造者としての立場と
その創造行為に対する理解である
というのもここでの創造とは二種類あって
あなたがそう望んでいないのにその創造過程を選択している場合があるからである
勿論それと対するのは観自在なる創造行為であり
想い通りに活きると云うプロセスである
どちらも「何を意識しそこに意識を集中しているか」と云うことだけである
感情がそのプロセスの進行を早める
emotionが経験の本質だからである
よく言う「世の中に縛られている感じ」がしている人々にとって
この類いの話は苦痛であることだろう
私には力がない=だから助けが欲しい
私は現実的である=だから守られたい
私は闘いに勝ちたい=だから力が欲しい
反面にはそこにいつまでも敵や悪や自身のなさを作り続けるのである
そこに神というものに自分の力を分け与えているだけのことである
世の中を地獄と見て
地獄の亡者らがそこから這いずり出ることなど
もはや許されないと決めていればそのような鏡の中の映像を
いつまでも投射し経験し続けるだろう
それらは罪深く法律に依って裁かれねばならないと堅く心に決めているからである
何度も言う様に罪などはないし
法律に拠る裁きなどもまた無い
ある筈だ否あるべきだとして作り上げているだけである
だからそれはそれで仕方が無いことだ
それを経験したのちに起こる心の変化が自分に必要だと感じているのだから
あなたが自分の力を蔑まない限り
つまり比較し差別しない限り
あなたはうまくやれる
すべての思い込みはあなたが自己否定して来た"日々"に慣習化されたものである
カルマの法則などと云うものは無い
あなたが何に怯え何に意識を集中しているか
何を不安視し何に関心を抱き続けているか
それだけがあなたに障りを起こすのである
その事によってあなたが自らの創造行為を学び経験していくということである
そこにあるのはただ感情体験を想像過程をもって「創造する」ということである
信じて居るものはすべてあなたにとって有利にではなく優位に働くのである
信じ受け容れている考え方が決め手となりその体験を加速する
そこにあるのは経験と体験だけ
何も物として残るものがあなたにとって意味として在る訳ではない
だが物があなたに経験を与えるのである
思い込みがあなたの信念としての創造のツールである
不安なき執着はまたあっていいものである
怖れ無き欲望も又同様に創造のツールである
本質的に恐れや疑念そして不安視が
あなた方にとっての敵や悪魔を生み出すのである
作られたドラマ的正義感やモラルほど
人間の心理をかき乱し不安を掻立てるものはないと言って良いだろう
故に怖れるものなど何も無いのである
文学化されたモラルが悉く悪を駆逐しないものであるかは
今では誰もがよく知る所だろう
あなたの力を取り戻すこととは
事実なるものがすべてフィクションで在ると云うことを理解することから始まる
あなた方は事実と虚構
そして夢と現実といったように
なんにでもすぐ垣根を付けて差別したがるのが難点である
だがすべての事実といえるものは
想像から派生する創造行為なのである
ノンフィクションとフィクションはまったく同質のものなのである
創造作業とはまさに想像作業なのである
あなたは常に何に意識がかき乱されているのかに気づき
それをすぐに止めることを覚えることである
あなたがあなたに振り回されることなどある筈もないのだから
その熱病のようなものにうなされていることに気づきつつも
あなた方は確信を持って自分と云う経験に生きる者であるということだ
法も裁きも存在しない
恐れも不安も自分が作るものであり
そこに見合った経験をただ招き寄せているだけの話である
砂を掴もうとして手のひらから滑り落ちるというのと逆のことが起きて居り
掴みたく無いと感じるものをあなた方は掴まされ続けているのだ
本来何処にも何一つ垣根と云えるものなどないのだから当然である
あなた方はただそれらを拒むことによって招き入れているという訳だ
ここ迄言っても判らなければ
何故それを判ろうとしないかにあなたは気づいていると云う事である
本当に自分を知ろうとするなら
自分に問うことである
「私は本当に何を経験したいのだろうか」
「私とは誰なのだろうか」
在るのは本来のあなたを覆い隠す観念の氷塊である
自分と何かを差別した心である
あなたとは誰でもなくあなたである
あなたはあなたとして思い切ってぶつかって生きていくことだけが楽しいのである
エネルギーとは本来そのように突き抜けて行くだけの性質なのである
あなたとはエネルギーそのものなのである
すべてを表現する力を持つものなのである
本源から押し寄せる経験の波は砂地を洗い
波に揉まれた砂粒はそれぞれの形をそこに見出し
そこに生まれた新たな形に見合った独自の経験を呼び込む
そして本源たる経験の海は尚も領域を広げ拡大する
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