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目に付くところにたてかれられた家族の写真などから少し隠れたところに、誰しも人から貰った手紙なんかを少しは集めて保管しているものではないだろうか。
僕も一時期までは小箱一杯に抱えていた。親戚や近所、級友から旅行先で知り合ったような人までを繋いだ交友歴のメモラビリアが自分を支える財産の一つだったはずなのだ。芋版のつかれた年賀状。紋切り型の社交辞令。切手に夢があるエアーメイル。遠くに引っ越した友達が送ってきた名の知れない不思議な押し花。
今ではもう何一つ残っていない。まるで焚書にあったかように!人との言葉のやりとりはほぼ100%電子記号で行き来させるはめになっており、手紙を通して人を思い出したり親愛を覚えたりするようなことは旧時代の感傷として消えていくようだ。
確かに手紙は少し重い。暗い。谷崎潤一郎の卍やドフトエフスキーの「貧しき人々」も手紙だ。正直、ああいう手紙はいやだ。
それでもEメールだけというのも味気ない。Eメールの距離感覚はあれでいいし、Eメールで送れるマルチメディアを使ったカードやビデオはそれであっていいのだ。しかし、どこかで手に取ることができて、直接の形を持った言葉の贈り物があってはじめて埋まる他者との繋がりのあり方というものも無視できない。
それって子供じみた欲求だろうか。僕はそうは思わない。僕にはじめてそんなことを考えさせたのは古い友人が音信の途切れる前に言ったことで「Eメールだけでは味気ないので、たとえば絵を書いてそこに言葉を書いて郵送してくれると大切に持ってることができる」云々だった。笑い飛ばした。なんかいいね、それ、と独りで思い始めている。
色紙は嫌いだ。今もPCの横の壁には著名人が色紙にイラストとメッセージを書いた色紙が掛けてあるが正直、ゲスい。田舎の居酒屋みたい。外したい。投げたい。まるで焚書するように!グリーティング・カードも好きになれない。写真つき?飛び出し3D?いや、駄目。全然よくないわ。すっげえ大衆的。素材がクラフト心のかけらもないようなヤットケ画用紙ばっかだもん。ホールマークさっくすぅ
昨日偶然見つけた日本製のメッセージ・カード。うう・・これ・・・ん〜ん・・・いい。なんかいい!日本のギヂツ。通す言葉は電波で交わせばよし、贈る言葉は色紙はいい加減やめてこんなので。シリコン樹脂でできたミニボードでもいい。近代の掛け軸。レイジ・アゲインスト・デジタル
トリビア:オノ・ヨーコがジョン・レノンと知り合ってはじめにしたことは、レノンの妻子が住む自宅に贈り物をすることだった。送られてきたのは箱に入った生理ナプキンの山であった。そんなウィットが隠されているのか?などと勘ぐる必要はなく、その心が覚醒剤だということはいうまでもないだろう。
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