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くそ教師の罪状書 次男
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投稿者 あやみ 日時 2013 年 5 月 24 日 06:38:33: oZZpvrAh64sJM
 

「くそ教師どもっ」

普段は穏やかなうちの次男が家に帰るなり言い捨てた。中学二年、難しい年頃といわれる時期を生きているこの子は、一月ほど前に級友を痛ましい交通事故で失っていた。


その級友は去年の夏までオーストラリアで暮らしていたトルコ人家族の子だった。父親は海外で暮らすトルコ人のために政府から派遣されるイスラム教のイマーム、僧という訳はちと正しくないが。つまり聖職者であった。その任期満了を以って家族とともに祖国に戻り、筆者の暮らす町でモスクとイマムたちを統括するムフトゥという職に就いていた。

ユスフという名のその子はよその国で育ったためか頓珍漢なトルコ語を話す面白い子だった。たぶん何もない草原の中で大きくなったのだろう、大がらで大らかで大ざっぱな性格だった。彼はどう贔屓目みてもトルコ人に見えないうちの息子たちに親近感を覚えたらしく、次男の学級に転入してからずっと一緒に遊んでいた。家も近かった。

「どの高校にいくの?一緒に宗教学校にいってイマムになろうぜ」
次男はそんな妙なお誘いを受けるほどユスフから好かれていた。

大人は別としてだがこの国の子供たちの間には今のところ「いじめ」というものがほとんどない。本人に著しい問題がなければ、見た目が違っても家庭に問題のある子でも疎外されることはなく、うちの子たちも一度たりとて「よそもの」と揶揄されたことはなかった。

しかし次男の学級には「いじめ」の萌芽が見え隠れしていた。いじめを受けることはなかった次男であるが、集団の中で息苦しい思いをしている子たちの受け皿になってはいつも周囲との板ばさみになっていた。なぜそんな学級になったかははっきりしている。小学校の一年から五年までを担任した教師が、人生を成功させるには競争することで互いを高め合うことが効果的であり、そのためにはどうすれば相手に勝てるかを常に意識しなければならないという信念の持ち主であったからである。そんな彼女でも二児の母である。

その「教育」の方法は最初から卑怯そのものだった。新一年生たちの親、とくに母親たちをまず脅迫する。

競争はもう始まっている、そのバスに乗り遅れたら一生はそこで台無しになる、そうならないためには学校と家庭が子供を追い立てなくてはならない、模擬試験の結果は子供の「現在位置」を示す信頼のおける座標であり常にこの窓から子供たちを監視せねばならない、成績の推移は家庭の鏡であり親の監視の甘さは子供たちに即座に影響する、お宅のお子さんは成績が悪いが親としてどのように対応しているのか、と。

生まれた年度のほかは全てが違う子供たちに「平等」な教育を施すことを「公平」と思い込むおめでたい大人たちは、早足の授業についてゆけない子たち、頭の使い方がほかの子と違う子たち、興味がもっと別のところにある子たちがいることを考えない、考えようとしない。そんなことを考えているうちに教師たちの言うようにバスに乗り遅れてしまうからである。
女教師の得意技は「ゴミ拾い」、規律を乱したり宿題をわすれた子たちは罰としてゴミ拾いをさせられ、周りの子たちはそれを指差して笑うように指導された。そして努力しないとろくな職業に就けずにゴミ収集業者になるというのが口癖だった。規則を守らないことや努力を怠ることを恥じるように啓蒙しているというが、恐ろしい履き違いをしていることはここに書くまでもない。

入学してから半年たった頃の保護者会でのことだった。この担任教師は生徒の親が自分の陰口をたたいていると大泣きしながら訴えた。親たちからは指導が厳しすぎるという反発もあったが教師当人に抗議したところで聞き入れられないのなら当然おこる陰口である。しかし自分は生徒たちに寝ても覚めても頭を悩ませており夢に出てくるのは我が子ではなく生徒たちであると言っては自らを激しく弁護する。たとえ陰で何も言った覚えがなくともこの教師がやり過ぎだとは誰もが思っていたので泣かれた側としてばつが悪い。ありもしない罪の意識にかられてあえなく敗訴、弁護士兼原告兼判事のこの教師に教育という名の武力行使権をさらに与えてしまうことになる。雄弁であって当然な教師によるこの茶番法廷を卑怯といわなければ何と言おう。

遊びも、行事も全てが競争だった。遅れをとる子は罵倒された。怒鳴り声で緊縛され、頭が真っ白になったところで授業をうけるという毎日だった。自分の競争相手を見つけ、それに勝つことを目標にその日を生きるように教えられたと次男の口から聞いたときはさすがに「まずい」と思い学校へ行った。あんたの信念はそうかもしれないがうちの息子には関わりのないことだから今後は読み書き算術以外はなにも教えないでほしいとお願い申し上げた。面を喰らった担任は、これは自分の思い付きなどではなく有名な心理学者の推奨だと反論する。それがどうしたキチガイめ、こちとらその心理学者とやらにビタ1リラ(1リラ≒60円)の借りもないのである。

だからこの学級の子たちは人の失敗を喜ぶような癖があり、人を庇うことを知らず、押し付けはしても分け合うことができない。病気で学校を休んだ友達の親に向かって「次のテストで悪い点とるかもね」などと平気でいう。日本の慢性化したいじめには程遠いが、その初期症状ともいえる不器用な慳貪さを感じる。このまま放っておけばれっきとしたいじめに発展するだろう。
教師が親たちを煽り一緒になって押さえつけた結果である。この子達はいわば被害者だろう。しかし悲しいかな子供の心とはいえいつまでも哀れな被害者であることは自らが許さないのである。被害者同士のなかで弱者を選び出し、それに対して加害者となることで何とか矜持を保とうとしてしまうのである。そしてその弱者というのも教師側から勝手に弱者に分類された子たちであって彼らが判断したわけではない。

うちの次男のまわりには、不登校、落ちこぼれ、そのほか文字に書きにくい境遇の子たちが集まっては違う町へと越していった。

そして組変えを経ることなく同じ仲間たちがそのまま中学にあがった。今度の担任も二児の母親である。将来、職場で一番の成績を成したものだけが人生の成功者になれるのだからその訓練は今から始まる、一等賞の子供たちには豪華商品を与えてその味を覚えさせるべきである、という考えの持ち主である。国語(トルコ語)の教師であるだけにやはり弁が立つ。柔らかい口調で親たちを洗脳するのであった。

模擬試験の成績上位十五人だけスキー遠足に連れて行くだの、年度末に一等成績の「完璧くん、完璧ちゃん」を選び政府発行の金貨を贈るだの(その費用は保護者全員で出すのだが)ふざけたことばかり思いつくのである。いったい人を何だと思っているのだろう、鞭で尻を叩き人参を鼻先にぶら下げておけばいくらでも走る競走馬だとでもいうのだろうか、馬にも失礼である。

もう呆れてしまい抗議するのも面倒なのだが仕方なく学校へ行き、スキーも海水浴も金貨も間に合っているので頼むから普通に授業だけやってくれませんかとまたお願いした。そのときにたまたまその場にいたのがユスフの母親だった。どうやらユスフのことで呼び出されていたらしい。

ユスフは私にとって誇りともいえる生徒です、トルコ語がまともにできなかったのに短い間ですっかり上達して今ではほとんど支障がありません、とまず褒めていた。その後で、オーストラリアの教育は知りませんがこの国のシステムにそぐわなそうですね、ユスフのおかげで授業が遅れて困っています、と脅しつけ、さあ力を合わせてユスフを矯正しましょう、と母の心臓を一突きにした。彼は確かに落ち着きにかける子だったが授業の妨げになるほどではなかったし、もっと困った子は他に大勢いた。「いいがかり」をつけているのだとすぐにわかった。ユスフの母親もクルアーン学校の教師を長年つとめるいわば聖職者である。こういう一家は「学校」からは無視されるか目の仇にされるかのどちらかなのである。これはトルコという国が建国以来抱える難題のひとつである。

オスマントルコ帝国はイスラム教義に基づいた法(シャーリア)により統治されていた。イスラム法の善悪のよりどころはクルアーンであり、クルアーンは神が預言者ムハマンドに天使を介して与えた啓示を文字にしたものである。
大航海時代以来覇権を手にした欧州列強の目の上のこぶがトルコであった。なにしろ弱者からの搾取を基盤とする欧州経済理念が通用しないのである。この世の全ては神の持ち物であるとするイスラム経済によれば、命も知恵も力も神が与えたものであり、それによって富を得た者は喜捨をすることで弱者を守る義務があるとされている。富める者の喜捨こそが経済の礎であった。帝国の領土は広く食料と労働力に満ち市内にも宮殿にも黄金がひしめいているというのに、イスラム法は利息を厳禁としているためイスラム教徒に金を貸しつけ身ぐるみを剥がすことができない。経済のいろはを説こうと「神を畏れよ」と説教されるのが関の山、かといってキリスト教への改宗を促すと刀を抜いて追い返される。全く忌々しいのがイスラームであった。
しかしその帝国も不滅ではなかった。第一次大戦後に新政府が樹立されるとこの国にも日本の明治維新より80年ほど遅れて欧州化がはじまった。欧州の価値観が流れ込む中でそれにそぐわないものが次々に駆逐された。しかし西欧人が手こずったのはやはり神様、この世の物質の持ち主が誰か、それは神ではなく人であり人の命も所詮は物質であると人々に教え込むのには時間がかかることは容易に予想できた。そのため新政府は学校の整備と教師の育成を急ぎ、その傍らで聖職者たちを思想犯として追い詰めた。学校では子供たちに帝政とイスラム教を過去の汚点と教えた。


いま学校で威張り腐る教師たちはこの世代の孫か曾孫の代にあたる。ほとんどが左翼を自称するがマルクスとケインズの区別もつかないただの物質主義者、言い換えれば「アンチ神様」に過ぎない。小中学校からしてこの調子であればそこで好成績を修め人生の成功者としての道をすべりだした者たちがどのような社会を築こうとするかは理解にたやすい。しかしこの国が日本のような過度な物質主義国にはすぐに成り下がらなかったのは、まだ家庭という器がしっかりとしていたからだった。学校の先生が何を言おうと親の言うことが絶対であり、男子であれば親の職業を継ぎ女子はよき母親になればそれで十分と考えられていたため子供のうちから学校で競争する必要が全く無かったのである。が、それも過去の話となった。

次男の担任たちがまず親たちを脅して狂わせようと画策したのは教育界の闇の指令があったのかと感じないわけにはいかないのである。そしてそれは今のところ成果を挙げ続けている。わが子たちが成功者になれば家や車を手に入れ、よき伴侶を得て幸せに生きられると、だがバスに乗り遅れるとそのすべてを諦めることになると思い込まされた。


ユスフ一家は週末は病気見舞いや揉め事の仲裁に駆けずり回っていた。それは彼らの勤めでもあり、市内のみならず遠い地方まで足を伸ばすのはいつものことであった。そして事故はそこで起こってしまった。
ユスフと父親はその場で命を落とした。後部座席にいた母親と二人の妹たちのうち母親がその身で庇うことができた末娘だけは軽傷で済んだが長女はいまだに意識不明の重態である。危篤から抜け出した母親は、皮肉なことに意識が戻り悲劇を知ることとなった。天命とはいえ受け入れるにはあまりに重い。

一月まえの土曜日の朝、家の中を無言でさまよう次男に気がつきどうしたと聞けばニュースでユスフ一家の事故を知ったという。間違いかもしれないけれど怖くて誰にも聞けないという。そのうちに、葬儀を知らる町内放送が聞こえてきた。町中が悲しんだ。普段は物見高い人々も噂をするのが憚られるほどみな意気消沈した。モスクでの葬儀には町の内外から人が集まり救急車と軍警察が待機するほどの人混みとなった。今それから一月が過ぎようとしている。


人々が会してクルアーンを誦むことを「メヴリッド」という。イスラム教では葬儀から40日たった頃に残された隣人たちがそのメヴリッドを行い、この世からあの世に祈りをとどけるという習慣がある。40日は土の中で亡骸が朽ち土に還るためにかかる時だといわれている。この日はイスラム教の大預言者ムハマンドがこの世に降りたという祝日であった。40日にはだいぶ足りないがその恩恵にあずかるためにも繰上げてメヴリッド行われたという。

40日目のメヴリッドは葬儀を出した家に隣人を招くのが普通であるが、参加者の多さ次第で集会場やモスクでも行われる。昼の礼拝の後に町で一番大きなモスクでメヴリッドがおこなわれるとの町内放送が聞こえたのはその日の午前、二時限目の授業中だった。
昼の礼拝は南中時の少し後にはじまるので、それが終わるのは今の季節なら午後の授業が始まった頃にあたる。次男と級友たちは担任にどうしてもメヴリッドに行きたいと懇願した。答えは「HAYIR (だめ)」、メヴリッドにかこつけて授業をさぼるつもりでしょうと頑として許さない。自分らは私用でいくらでも授業を放り出すくせにである。だが子供たちは諦めなかった。話をわかってくれそうな先生に片っ端から頼んで回る。葬儀となればともかく、それ以外の宗教行事のために生徒に授業を受けさせないのは本来禁止でありもし報告されれば懲罰を受けかねない。生徒たちの気持ちはわかってもなかなか首を縦に振ってやれない教師たちも、その心は物質主義と神様の間で揺れ動いていた。なぜならば彼らも子供時代に同じような思いをした記憶があるのだから。そしてとうとう教頭が折れてくれた。区役所からマイクロバスを調達して子供たちを乗せ、会場となるモスクまで引率してくれた。

この世での善行も悪行も全て天使が書き記し動かぬ証拠として神に献ずる。神はそれを秤にかけて魂の行く先を審判する。天国か、地獄。その秤は喜捨の金額や殺生の回数などの物質量ではうごかない。なぜなら人はもとより平等になどは創られておらず、施し得る善行も犯した悪行もその生まれに左右されるからである。蜘蛛を踏み潰すことを思いとどまった大泥棒が地獄行きを赦されるかもしれないことなどは在ってあり得ることである。もしかすると紙一重の差で地獄の業火に焼かれることから免れるかもしれない、残された者はその願いをこめてこの世から祈るが、それが聞き入れられるかは神のみぞ知る。
ならば体を離れた魂は祈りをささげる者があろうと、なかろうと、ただ神の御前に引き出されこの世での行いを裁かれるのみと思うほうがよい。ならば葬儀も墓標も残されたもののためにあるといえる。葬儀がなければ大事な誰かがこの世から去ったことを認めることができないだろう。墓がなければまだ生きているかもしれないと思い煩うだろう。人が集まりその世話に追われれば、身を斬る悲しみがいくらかは和らぐだろう。そしてその亡骸が朽ちた頃に人々はまた集い、この世というかりそめの時を生きる肉体は天命により必ず亡びることを、そして肉体は再びこの世によみがえることの無いことを、ならばこそ肉体のあるこの今を、裁きを受けるその前のたった一度の人生を神の御心に添うよう生きなければならないことを肝に銘じ、人生を踏み出したばかりの子供たちにも伝えるのである。

メヴリッドから戻った次男は願いを聞き入れようとしなかった教師たちを「くそ教師ども」と呼んでなじった後は、モスクでは集まった大人たちが抱きしめるように歓迎してくれたこと、そして教頭先生は連れて行ってくれただけでなく、28人の子達に昼食を手配してくれたことを静かに話した。

もう何年もこの学校に勤めている教頭はイマムの資格もある宗教学校の出身者である。そんな彼が教頭にまでなれるのは珍しいといってよい。三年前にやってきた新しい校長は無神論者にちかい人物なので教頭はかなり息苦しい思いをしており、そろそろ転勤を願い出ようかとこぼしていたらしいことを聞けば今度の行動は「やけっぱち」だったのかもしれない。以前ゆっくりと話したことがあるのだが、教頭いわく昔は「わたし」はなく「わたしたち」だけだったという。いい事も悪いことも「わたしたち」ものとしていつも分け合うのが当たり前だったが、いま生徒たちにその話をしてもまるで分かってもらえなくなった。「わたし」の目先の損得だけが評価基準となり「わたしたち」はどこかに消えうせたと。そして国の中もばらばらの「わたし」が闊歩するのみ、それを集めても「わたし」団体であって「わたしたち」にはなりえない、と。


キチガイのようなかつての担任教師だが、彼女はこの国での少数派に属するアゼルバイジャン系トルコ人であり東部は旧ソ連国境近くの貧しい村の出身であった。となれば彼女も教師の職をつかむまでの間には冷たい疎外を受けてきたその当人なのかもしれない。被害者でいつづけることに魂が耐えられず知らぬ間に加害者となってしまったのかも知れない。それは彼女の天命によるもので罪だけではない。だから憎んではいけないのだろう、彼女の教え子となったのも次男の天命といえる。


次男は家では兄と弟の間に挟まれて大きくなった。学校に行けばいつも弱い子と強い子たちの間にあった。そんな彼は叩き上げの板ばさみ体質なのか、すれ違う二つの心の双方を理解してしまう事ができるために一人で心を痛めることが多い。痛んでいるのが人の心なのか自分の心なのかが判らなくなるようだ。
もしユスフが生きていたら、歪んだ学級で息が詰まった彼の「一緒にイマムになろうぜ」という願いを断りきれずに本当にそうしたかもしれない、そう思うとなんだか可笑しい。イマムという職は世間並み以下の低収入で、農業や商店などと兼業しなければ生活は厳しく結婚すらおぼつかないこともある。そして故郷で職に就けるとも限らない。遠い寒村の子供たちにようやくクルアーンを教えるようになれた頃には同級生たちは大都市で外車を乗り回しているかもしれないのである。だがどんな生き方が幸せかは親や教師や社会に教え込まれる事ではない。見つけるのは他でもない自分である。

この子が大人になる頃には世の中はもっと複雑になり、幸せとは何かなどはもう到底わからなくなっているかもしれない。逆にその日の糧にも事欠く暮らしを世界中が強いられているかもしれない。どちらにしろ親である我々はそんな世の中しか残してやれそうにない。あまりに非力な我々が親としてできるのは、どんな天命でも受け入れられる心を持てればそれが幸せだということを、この人生をして見せてやることぐらいである。  

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コメント
 
01. 2013年5月25日 08:39:32 : V2uWjI0KfU
あやみ さん

安芸ガラスです。

拝読しました。

私は、思春期になりますと、恥じらいや、思いやりがでてきました。
あれもやりたい、これもやりたい、でもあれはやりたくない、これもやりたくない、と。
私の中も、このように心がぐるぐると回るから、きっと相手も回っているのだろう、と推理するようになりました。

体の中に、いっぱいエネルギーがあるせいかもしれませんが、自分は何を要求しているのか、なかなか掴めないころでもありました。


02. 2013年5月25日 13:13:52 : yUm5SOMD6A
>魂

「魂=記憶(ソフト)」 byおれ。 “覚悟”はできているw 1qmOy4Hy0U


03. あやみ 2013年5月25日 21:37:18 : oZZpvrAh64sJM : C2aT2ifo8M
亜紀ガラスさま コメントありがとうございます。

>自分は何を要求しているのか、なかなか掴めないころでもありました

そんな記憶がありますね。父には「そんなに生きいそいでどうする」と諭されました。ただ相手も自分と同様に回っているだろう、という予測は当時はできませんでした。身勝手というやつです。


04. あやみ 2013年5月25日 22:26:59 : oZZpvrAh64sJM : C2aT2ifo8M
1qmOy4Hy0Uさま いつもコメントありがとうございます。

魂(霊)とからだは「霊の緒」というケーブルでつながっており、これが絶えるとからだは「から―空、殻」つまり「なきがら―亡骸」になります。「魂=記憶(ソフト)」 に同意します。

私も“覚悟”をしていたつもりなのですが、最近あやしくなってきてしまいました。
世の中で悪事を働いている人間たちの中にも“覚悟”した皆様がいることに気がついたのです。「どうせ地獄にいくだけさ」という類の覚悟、これは“居直り”ともいえるのですが、はたして覚悟と居直りの間に境界はあるのか、と思い始めると、自分の“覚悟”と思っているものは果たして居直りとどう違うのか、という思いに繋がり、悩みだします。

魂には二つの端末があって、ひとつは前述の「霊の緒」で、もうひとつはあの世という不可視世界に直結しているのだと思います。この世に生を受けたもの全ての魂が実はひとつところから生えており、その先端がこの世の「からだ」に繋がる、そんな感じです。もちろん物理現象ではないので目には見えないしこんがらかったりはしないのですが。

この世でひとつの「からだ」が朽ちて滅びるだけのことならそれだけのことなのですが、体と切り離された魂が不可視世界へと還元されるときに「清き魂」として還るか「穢れた魂」として戻るかでは、不可視世界全体に及ぼす影響が違うと思うのです。
そこで“覚悟”とも“居直り”ともつかない生半可な覚悟でこの世の生を全うしたのでは、この世の根ともいうべき不可視世界(日本の先祖が「根の国」と呼んでいたところ)を穢すことになる、そうするとその根から生える次世代の魂をも穢すことになるかもしれない、実は今の世が穢れているのはその結果ともいえる現象何なのではないか、と予想しています。

これはいつか記事にしようと思いつついまだに書きあぐねているもので、まだよく咀嚼できていません。

そういう意味で、私の覚悟などは「屁のつっぱり」程度だなあという愚痴です。すいませんでした。

それから03で「亜紀ガラスさま」となってますが「安芸」の打ち間違いです。失礼いたしました。


05. 2013年5月25日 23:58:20 : yUm5SOMD6A
>>04

あわあわ!やってしまいました・・・ とんでもなく言葉足らずでした。
「魂=記憶(ソフト)」、という持論への反論を“覚悟”している。
と、書いたつもりでした。でもそうは読めないです。ああもう・・・

本当にもうしわけありません。反省してます。 1qmOy4Hy0U ごめん!


06. あやみ 2013年5月26日 08:13:23 : oZZpvrAh64sJM : C2aT2ifo8M
1qmOy4Hy0Uさま

あれまあ そうなんですか、てっきりあの世へ往くときのご覚悟かとおもいました(笑)。
それでは責任を取ってもう少し付き合ってくださいな。

「魂=記憶(ソフト)」という考えはかなり自然に通用します。さらにいえば、脳は記憶保持および思考を生成する媒体、つまりOSで、体はPC(ハードウェア)です。どんなにハードの装備が立派でもOSが壊れていたのではまともに作動せず、インストールされていなければ作動しない、つまり死体です。
個人のソフト同士はインターネットという網でつながることができ、共有し、情報交換ができます。

これはコンピューターシステムそのものが脳の働きを意識して設計されているために起こることでちっとも偶然ではないのです。しかしここで問題が浮上します。

ハードがぶっ壊れれば交換できるように、人体は臓器移植ができます。
OSが再インストールできるように、脳は洗脳できます。
脳をほかの体に移植できるようになればPCを買い換えるのと同じことができます。
インターネット、つまり「電網」には網元がおり、そいつが網を引くとそれに引っかかったソフトたちは丸ごと陸に引き上げられてしまうのです。

コンピューターシステムを脳や人の社会に似せて考えている分にはそれほど害はないと思われますが、主と体が入れ替わり人の脳と社会をコンピューターシステムに沿わせてしまうと危険なことになります。実際そうなりつつあります。

人体と脳とその繋がり、つまり社会全体がコンピューターシステムに占領されようとしています。その中でもインターネットは「魂=記憶(ソフト)」をも好きに操ろうとする意図で開発が進められています。だからこそ魂をネットに委ねないよう気をつけなければならない。実は魂同士は不可視世界でつながっていると04でそう書きましたが、それをみなが意識すればネットなどの必要性は電卓以下になる筈です。

右手と左手が戦争したり、腎臓が肝臓を毒殺しようと企んでいる、今はそんな世の中です。繋がっているということが意識できないとこういう滑稽なことになります。


07. 2013年5月26日 13:17:01 : oK1xnW0icU
>>06

おつきあいサンクス! では、というか、ではw、
「霊=情報(記憶の元になる1つ1つの要素)」byおれ。
これはどう? “覚悟”は・・・ 失礼しましたw

あえてその言葉を自分なりに(むりやり?)解釈するなら、という事なんです。
「魂」にしても「霊」にしても。
・・・正直に言うと、“コンバートのようなもの”を試みているんです。
“覚悟”にはそういう意味も込めてありました。あります。 1qmOy4Hy0U


08. あやみ 2013年5月27日 05:51:22 : oZZpvrAh64sJM : 07rW5mCjIg
1qmOy4Hy0Uさま

コンバート…そうしたほうがより身近になる、とおっしゃるなら道理ですが、危険な部分があるという私なりの危惧はありますね。

「職人のこさえた道具にはその“魂”がこもる。」

たとえ現代人でも日本人には身近な言葉だと思います。
ここでいう魂とは、その職人が技を身につけるまでに経験した思い、材料に対する知識、親方の言葉、怪我、失敗、上達、迷い、隙、見極め、情け、という思いつく限りの全て、つまり記憶です。職人の記憶がその技を介して手から道具に吹き込まれるのです。われわれはそれを経験的に「魂」呼んできました。
日本刀のような道具は職人の「記憶=魂」の作用次第で、破魔の力を得ることもあれば人の血を求めて持ち主を乗り換える妖刀にもなります。

その道具を手に入れ持ち主となった人間は、そこに職人の魂を見出し邂逅します。
本を読んで共感するのも同様です。音楽や舞台もそうでしょう。他人のちょっとした気遣いや、ポツリとこぼした言葉にそれを感じることもあるでしょう。われわれ現代人がネットユーザーとなりった今、「共感」などと呼びもてはやしているものの先祖はこれです。そのようなことはずっと昔から普通に行ってきたのですし、それに共感という名前をつけてコンピューターシステムに献上する必要はないと思います。06の繰り返しになりますが、コンピュータシステムが魂や脳や社会のそれを模倣して設計されたのですからそのコンバートは完全に可能です。しかしどれだけの意味があるでしょうか。

ただし「魂」の存在をあえて電脳の世界の言語で具現化するには有効です。そうして具現化された魂が果たして電脳の世界から出られるかどうかは私も興味があります。

情報は電気信号、電子の流れの組み合わせです。人体でいえば「血」に該当します。

遺伝子という言葉を知らなかった先祖たちは、それを「血」と呼んでいました。「血筋」「血は争えない」などといいました。「霊―たま」を「ち」ともよび、「いのち」とは「息の霊」、つまり霊(魂)を次世代に伝達するものこそが「血」であったと考えられていました。

血は流れ止がまった時に朽ちてしまいます。
血筋は子ができなければ絶えてしまいます。
魂は、それに邂逅することのできる人がいなければ、それを繋ぎとめる共同体がなくなればこの世から失せるでしょう。たぶんそれでいいのです。

しかし電脳はON/OFFが可能です。寒気のするのはこの部分です。



09. 2013年5月27日 15:20:39 : oK1xnW0icU
>>08

魂や霊という言葉が、世の中で一般的に>>08の内容のような使われ方やとらえられ方をされているのなら、コンバートの必要は感じない。(というか、>>08は魂や霊を記憶や情報だと説明していない?)でも投稿文の、

>この世での善行も悪行も全て天使が書き記し動かぬ証拠として神に献ずる。神はそれを秤にかけて魂の行く先を審判する。天国か、地獄。

>ならば体を離れた魂は祈りをささげる者があろうと、なかろうと、ただ神の御前に引き出されこの世での行いを裁かれるのみと思うほうがよい。

のように、宗教的、比喩的なニュアンスで使われる事も多い。>>08とはだいぶ違う。

ところで、「記憶」も「情報」もコンピューター用語というわけではないし、
おれもそういう意味で使ってはいないよw


はー・・・ 覚悟はしていたものの、記憶や情報については書きたい事が多すぎて・・・

「記憶や情報には実体はないが、生きている人間に入ってその人間を動かす!」

十分にドラマチックだしリアルだし楽しいし怖いw 1qmOy4Hy0U


10. あやみ 2013年5月27日 22:32:25 : oZZpvrAh64sJM : 07rW5mCjIg
解説します。

08は魂(霊)を記憶や情報と解説しています。
その上で08の解釈は投稿文の解釈と同じものです。違いは「魂のいれもの」です。物体であるか、人体であるかの違いです。

「審判」は人に対し行われるものです。(=天国や地獄に行くのは人間だけであり)物体はその範囲の外にあるので08での例えが特異に感じられたのかもしれません。なぜ捌きを受けるかは、情報や記憶を元に思考を生成する能力を与えられたからです。

>ところで、「記憶」も「情報」もコンピューター用語というわけではないし、
おれもそういう意味で使ってはいないよw

それは承知之助です。
日常語がコンピューター用語に食われてるんですよね、現状は。

>「記憶や情報には実体はないが、生きている人間に入ってその人間を動かす!」
そうですね、それがこの社会の活動源なのでしょうね。すばらしくもあり、恐ろしくもあり。
でも人がその情報に動かされているだけの存在であるならば、審判などを受けることなどはないでしょう。それでは物と一緒です。人は生まれ持った思考能力により、記憶と情報を魂の中に取り込みながら「自分のために」利用します。最後に人を動かすのはやはりその入れ物の中の魂です。これが物と人の違いです。



11. 2013年5月28日 08:50:44 : GQrN4nKkaL
すばらしいお話です。
片隅のインターネットサイトの、そのまた更なる片隅に閉じ込めておくのは、あまりに勿体ない!
久々に、示唆深く読後感爽やかな良書を手に取ったという感です。
今後の展開をお考えになっては?(そのおつもりがあるのなら、お手伝いしたいくらい…笑)

12. あやみ 2013年5月29日 20:26:04 : oZZpvrAh64sJM : uIbmaxYA12
11さま お返事が遅くなりました。コメントありがとうございます。

私は自分のブログに書いた記事をここに投稿し、読んでくださった方々からのコメントを噛み締めながら思考を広げ掘り下げるという作業を続けています。ですから、今後の展開はもちろんあります。記事にする対象はさまざまですが結局は「魂」とその「いれもの」に収束します。いれものは「体」であったり、「言語」や「世の中」であったりその記事ごとに変わります。

もしお手伝いいただけるならコメントをお寄せくださると有難いです。また、若い方々や子供たちと接する機会をお持ちでしたらぜひ魂についての話を投げかけてあげていただきたいのです。メディアの影響で名ばかりの「パワースポット」「スピ系」などの言葉は流行ってますが、これは現実逃避の範囲を出るものではなく、日本はもう魂の越し方行く末などのことは「想定外」になっています。これが日本人の魂もその入れ物である国をも貶めているのです。

またのお越しをお待ちしております。


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