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あなたの経験する出来事はすべて例外なく
自己の内面から生まれていることだ云うことを認めることが出来れば
それは自己の尊厳在る力を取り戻す輝かしい一歩となる
ただし世間一般ではそんなことは認められていない
だからあなた方は「そんなことは知らない!」
と強く反発することが出来る(と考えている)
そしてこうした事をよく知るとする者にとっても
そんなことはもっとも認められないことだと理解している
何故ならどんな理不尽な出来事であってもその責任が自分にだけあるなどと
そんなことを認めてしまえば法の正義など何処かに消え去ってしまうからだ
そして守られるべき弱者の感情を逆撫ですることになる
何かに常に人は守られるべきとだけ考える人々にとっては
そんな事実があれば到底屈服しがたいものとして、言論弾圧すら考えるだろう
この世界に住むものにとしてあるまじき、誰もが納得しえないものとすら
考えるのではないだろうか
あなたが実害を被るかの様に考えられるものであっても
すべては自己に「生み出した責任がある」なんてバカなことは
口が裂けても言えないものだ
と、こうした流れで世論が続けば、当然人々の中には
強い反発と怒りだけを孕むことになる
これも観念の影響のするところである
だが敢えてそこに耳を貸すものだけに私はそのことを強く唱えたいと思う
無視出来るものは無視すれば良いだけだ
私はそれを「真実だ」として"強いる"つもりは毛頭ない
断っておくが、ここで使われる「自己責任」という言葉には
「責め」という言葉が入っているが
けして私はここでの「責任」という言葉をこの意味に捉えていない
行動に責任というものが付随するのは当たり前のことだ
しかし人が採る自発的かつ積極的な行動のすべては、本来誉れ高きものであり
讃えられるだけのものであるのである
人の自発的かつ積極的な活力に満ちた行動自体はすべて自然の賜物であり
誰の責めの対象にもなりえるものではない
勿論不自然に抑圧された狂気が起こす行動とは別物である
(それぞれが自己の内面に在る問題を物理世界に投影したことのみを経験している)
基本的な事をここで繰り返すなら、
あなたが「受ける影響」とは、実際は自分で積極的に
(影響としてのものを受けとって、)「自らに与えている影響」が正しい
それは単純にあなたの捉え方次第であるに過ぎない
自分の視界に映るものだからといって、全てに反応しない術を身につけることだ
あなたは自身を常に客観的に見て
「私にそれを与えたいと私は思っているだろうか」と自問して頂きたい
そして「私はそれを私に与えたいと感じている」とはっきりしたものだけを受けとるべきである
誰もが自らの未来を常に信頼してあることを願う
自らの中に潜む不安に屈服してしまうことなく
自らの行動と周囲の世界に対して安心感だけを抱くことが出来ていれば
怖れるべき未来など現実化することはない
いかにも簡単なことを言う様だが、ここではっきりさせたいことはつまり、
あなたは「私は自分に倖せになって欲しいと願っている存在なのか」どうかと云う事だ
この言葉をそれぞれに反復して欲しい
あなたは本当に自分を愛している存在だと言えるのだろうか
あなたにとっての倖せとはあなたの内面にだけあるのである
それを受け容れるかどうかはあなただけが決められるのである
だが次の瞬間には大抵誰もが自身を
「私は倖せになれないかもしれない」などと言って
簡単に自分を責めてしまっているのである
つまりそうした姿は、自分を無力な存在だと看做してしまっている証拠だと
捉えて欲しいのである
先の「自己責任」を認めることが出来たものは
その内面の力の真意に気づ居た者であり、
自己に対する「責め」をなんなく手放すことが出来る
あなたは単に自分を責め続けなければ良いだけである
つまり自己批判しないと云う事である
更に言えばそうして自己を「責め」続けさえしなければ
そのことによってあなたは自分の否定的な感情から守られることとなる
そして自動的にあなたは愛に包まれた状態へと返り咲くことになる
おわかりだろうか
これは実践しさえすればすぐに理解出来ることだ
いささか集中する時間を必要とするが、慣れてしまえば
「愛の状態と一体化した自分」を維持することが出来る
このことが何を意味するか
(具体的な方法をあとに述べたいと思う)
自己を責めないものは他者をも責めることはない
愛の状態にあるのだから当然だ
そこに本当の意味で、自分の行動に自信と尊厳を取り戻すことが出来る
そしてその自然で積極的な推進力を通して
前にだけ踏み出す自己のエネルギーを発揮する事が出来る
それはつまり自分の存在性を思うような顕在化に向けて
その自分の行動に自覚(責任)が生まれるということだ
勿論こうした行動は何ら責めやリスクを負うものではない
では、これを利用した瞑想状態への誘導の方法を提示したいと思う
これは実に簡単である
(前提として、)あなたが現実に知覚しうる体験する物事の全ては
自分の内面から生じたものだということを今のあなたは認めている
あなたが現実に体験している問題に眼を留め、その原因としての
自己の内面に目を向けたとき、そこに何らかの自分の非を感じたとする
それは身体の痛みによるものかも知れないし
罪の意識などと云った否定的な感情であるかも知れない
その時、あなたは単にそうした否定的な自己の在り方を肯定し、
「私はそのことで自分を責めない」と言い聞かせれば良いだけである
あなたがここですべきことは単に「自分を責めない」ことだけであるのだ
例えば、それまでの自己の経験を変えようと考え、
あなたは強く自分の内面のポジティヴな変化を望んでいたとする
(何より内面の意識の変化が現実での経験を変化させうるものだから)
あなたはそこで客観的に自分を見つめ、
否定的な感情が根深く渦巻いていることを理解し、
簡単にはそれを取り除けないと感じるかも知れない
その時、「私は否定的な感情を消したいと感じているがどうも難しい」
と、考えている自分に気づくとする
ならば次にこう肯定すれば良い
「私はそう感じる自分を責めない」
そして肯定的な自分の在り方にシフトアップする
身体に痛みを感じても、(それもまたかつて自分が作った経験であると自覚し)
「私はそのことで自分を責めない」
「そして段階的に良い方向に必ず進む」と切り替える
否定的な考えが次々に浮かんでも、その都度そのようにして塗りつぶしていく
瞑想中、物音に反応して、意識に集中出来ないと感じている自分が居ても
「(そのことで)自分を責めない」…(反復する)
「そして私はよい変化のみを期待する」
「そしてその兆しは必ず現れる」
「私の経験したいことは私だけが知っている」
「私が欲しいものは(この力を理解し)自分で与える」
どれも暗示には前向きな肯定文だが、瞑想状態に入っていく為には
単純に「私は(そのことで)自分を責めない」の一点張りでいい
瞑想をこうしてつづければ、静かな環境が欲しいと願っていたなら
それが叶う様になるだろうし、集中すればどんな雑音や騒音も気にならなくなる
つまり場所を選ばない
あなたの持ちうる周囲に対する観念だけが邪魔をする
その為にまず先に理解するべき基本とは、何度も言う様に
自分の受け容れている観念並びに概念があなたに正負の感情をもたらしていることを知り、
そしてパターン化された思考によって自身の経験している現実が
齎され(維持され)ているということを知ろうと務めることである
そこにあなたのかけがえのない「力」が潜んでいるのである
その力を自分の元に返さなくては、あなた方はいつまでも無力な者として
物理世界に自身で外在化した脅威の前に、不可解な悲しみを引きずるだけとなる
つまり各々にそれぞれ体験しうる現実を生み出す力があるということ
そして自己があらかじめ経験したいことをコントロールする力が在るということを
受入れることから全てはようやく始まりを見せるのだ
自分が体験する出来事は例外なく、自分の内面の問題が起因している
と云う事をしっかり把握していることがポイントとなってこの力は効力を示す
自分を信じられないと思ってもそれを「責めない」で
ありのままの自分を肯定することである
大きな戦争や災害といったものはより大きな(人類としての)意識が加担している
それぞれの国にも個別の属性として人格のようなものがあり、
それぞれに近隣諸国の人々の内面の感情意識が投影されて
互いに人間的性向を持ち、それぞれに投影された役割を演じることになる
(すべては常に変化しうる中に存在するが、)
より望ましい人類の在り方に向かう過程に於いて
すべての在り方は自然発生的に存在している
勿論常に我々は何が望ましいかを学んで居り
その可能性をただ否定することなく、自分達の力を信じて舵を取っていけば良いだけだ
戦争など、そんなこと誰も望んではいなかっただろう
だが、それらは確かに人類の意識が生んでいるものであるのだ
そしてまた自然災害と呼ばれるものもそうで在る
すべてはどんな微細な粒子一つとっても自然から生じたものであり、
そしてそれらはすべて意識を持つ
我々の意識もまたそこから生じ存在しているものである
だからこそ自覚して欲しい
過ぎたことは悔いるべきものとしていつまでも存在し続けるものではない
何より自身が、そして人類の舵取りはすべての存在ひとりひとり
舵を取る力を持っているのだ
改めて約束して欲しい
一切誰をも批判し責めないことを
そのことで全ては上手く行く様になる
どんな去り方であれ
肉体を去ったものはすべて倖いの中にのみ住まう
そして何変わらずその意識その姿形すべては
そのままにあなたと共に在る
倖いに住むものに悔い執着すべきものなどないのだ
差異も何の差別もないのである
あなたはただ見、感じ、触れたいものに、差異を作らず、差別せず、
他人を蔑まず、自己をも嫌悪しないことだ
怒りを孕まず、悲しみを持って過去を観ず、すべてを赦し合う存在で居ることだ
赦すべきものが深ければ深いほどあなたはより深い愛を手にする
(多くの者にとって受け容れがたい矛盾に聞こえることだろう)
(だが、それはあなた方が自らに真理の力を手にしたとき、全ては解消されることなのである)
自然を自己から切り離して外在化して脅威としてみることなく、
すべてに摂理を見て、自らをも自然の一環としてそこに愛情をもって接することだ
それがつまり誰もが認めたがらなかった「自己責任」の本質である
そこにリスクも他者への責めもない
それを正しく自覚するものであるならば、そのような現実を生んでいる自分を
一切「責めない」と云う事である
勿論他者もまたそのように看做すことになる
正しさも間違いもなければ善も悪も無い
味方も敵も無い
天使も悪魔もないのである
あるのはただ、心に怖れるものを生めば、外在化させ、
現実世界で経験と称するものの中に
自分の心を投影した鏡と対峙しているということだけである
自分達の欲する変化の内容を具体的に心に望み
具現化する自己の内面の力を信じることが出来れば、我々は確実に変わりゆく
まずは一人一人の経験が変わると云うだけで十分だ
それがひいては社会の一部を変える力となり、それが伝搬すれば世界を変えることになる
それぞれに自己の力の所在(責任)を大事に育んでいく、
と云う作業を焦らずに進めていけば良いのである
そこでそれが、どんなに難しいと感じたとしても、
その都度そうした自分を肯定し、責めさえしなければ良いのである
勿論当然のことながら、一カ所に権威としてのシステムなどに、
その自己の責任(力の所在)を転嫁する(投影する/預ける)ことなどすべきではないのである
これは繰り返して慣習化することが最も望ましい
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