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(回答先: 天罰でも法律でも隣人愛でも止められない一連のソーカナンミョー騒音 投稿者 真理を愛する者 日時 2013 年 2 月 28 日 06:00:50)
そもそも問題はなく解決も見る必要はないのだとしたら
あるのは起きた事象として誰の立場にも中立に過ぎないものとして在り
それをどう捉えるかによってそれぞれの議題とはなるだろうが
それはそれぞれの解決に納まるべきものであり
どれかひとつがそれら問題全体の統一した見解など齎し得よう筈もない
然し乍らあなたがそもそも中立な立場としてそこに答えを見ようというなら話は別なのである
>04
そもそもあなたの中にも流れているメディアからの情報が
「人々の力にならないもの」であり
人の心の中を一人歩きする恐怖を
その力の前に誰も防ぎ止める事が出来ないと云う事が原因です
そしてその情報を他の誰でもないあなたが
その情報の根拠となるものを通じて知り、信じて居るからこそ、
あなたはそこに「人の本気が通用しない出来事」を観ているのだと思います
私はあなた方の信じて居るものとは違うものを信じて居る
と云う事をここに伝えておきます
起きた事をどう捉えるかは人それぞれです
しかし私は報道で語られるような悲惨さに目を向けていくやり方には賛成出来ません
起きた事を防ぐ事は出来ません
それは体験としてあなた方に捉えられた出来事です
その体験を通じて人々の中からあらゆる見解が産まれます
それぞれにその体験は違ったものとして感じられる筈であり
感じる事もまたそれぞれに違う筈だと言えるでしょう
ですがそこにそれらを統一した見解にすべきであるという働きがあることは
またおかしなことだと言えはしないでしょうか
トラウマに感じた方が居るならばできるだけ早く
その心の治療を奨める事が望ましい事は確かです
そうしたケアは医学的根拠を有しないものであっても
人としての本気の愛があれば可能な事であるでしょう
問題はその後です
起きた体験をどう捉えるかにも依りますが
ひとつの見解から次に起こる事を予測し続けてだけいれば
起こりうる事に対していくつもの備えを生み出す事に繋がります
しかしその備えとしてのものは本質的に
あなたや全体を"助ける"ものにはならないでしょう
そしてまたその"シミュレーション"は
危険な物から遠ざかりたいと考える者ほど
その者にとって「害悪そのもの」と言えるものになります
事後尚も出来事を悲惨なものとして捉え続ける事は
心の治療を施した人々に対し、それを無駄な労役と位置づける事と何ら変わり在りません
起きた事を受入れる事は大事です
しかし「どう受入れるか」によってその者の「力」の開かれ方(閉じ方)は違ってきます
そして起きた事は済んだ事として片付ける他ありません
尚も補償はされるべきでしょう
しかし事の本題はそこで次に「どう生きるか」ということに対しての
"期待"を生もうという段階に既に人々はある筈です
こうした物言いがあなた方の中の、"闘争心に火がついた人々"の怒りを
単に助長するだけのものになりうる事は知っています
ですが敢えて言わせて頂くならば
あなた方の不自然な思いやりや心配が彼らを勇気づけもしない事、
そしてその振る舞いが彼らを同じ位置に立ち続けさせる為の
心の重荷とすらなっている事を懸念します
私は被災地の子供たちが必ずしも本心は
周囲に併せて悲惨な状況に目を向けているだけではいけないと云う事実に
いち早く気づいていた事を知っています
あなたが人と云うものをどう捉えているかは知りませんが、
面と向かって自分の能力を否定されていい気分になる者を私は知りません
どんな理由であっても「そんなこと」(他者の能力を封じ込める事)が可能だとは
考えない方が身の為です
彼らが自分の中に感じる生命の脈動、あるいは自己の生きていることの証とは、
「自分に投げかけられる期待と安心の視線の中に感じられて然るべき」筈です
しかしそうしたものも、彼らはその完全なる自由の下では、
あなた方のそうした憐れみによって生まれた如何なる支援をも必要とはしていません
あなた方が持つ怒りとはそれらとは根本的に別次元の話です
そのことを利用して他に向けられたものであるだけなのです
それは常にあなた方がその権力闘争の場として闘って来た
権威といった「力」の象徴に対してのものです
出来れば国や医療機関はすべての国民の安全と保証を明示出来れば良いものの
これ迄、事のすべてを彼らに純粋に託し、期待した事があったのでしょうか
答えはノーと言えるでしょう
私たちの方からそうした関係を断って来た経緯があると言えるのではないでしょうか
何故でしょうか
あなた方はこれ迄どうしたものを次から次へと敵と見なして来たか
それをざっとリストアップして挙げてみるのはいいかもしれません
それとも渋々そうする様に"仕向けられて来た"とでも云うのでしょうか
兎に角そうした中にあなた方の怒りは溜め込まれて来たとも言えそうです
あなた方は何かに対し常に闘いを挑み続け、苦難と云うものをそこに乗り越えて、
いつかその果てに在る栄光と云うものに辿り着かなくてはなら無い、
それ迄は何事にも辛抱し耐えていかなくてはならない存在だと云う風に
自分達を看做してきたのではないでしょうか
そこに闘うべき相手を常に見出す必要性と云うものは生まれます
「簡単に素晴らしいものは手に入らない」という観念は
そこに垣間見ることができるものです
そうした中にあなた方は自分の「現在に於ける力」を封じ込んで来た嫌いがあります
そうした気配はあなた方の態度全般から汲み取る事は容易です
どうした言葉も態度もそのものが持つ観念をすべて表すものです
まず何かを掴もうとするならひとつひとつ整理していく事をお勧めします
基本的に私たちはこの国の国民という位置に在りながら、
国をも敵対視し、権威という権威を嫌悪し、
ありとあらゆる「力」と名のつくもの全般に
そこにまつろう人の悪意だけを見出して来た様にも思えます
そこにあった感情はどうした我々の観念、思い込みが絡み合ったことによるものでしょうか
国や医療期間は今回に関することだけではなしに
人々にとって知り得ない程の過去から脅威として畏怖された"力を持った"存在です
実際は単に私たちが意味もなく怖れる事によって
自分達の力をそこに預けて、外から自分を守る存在を欲した為であり、
私たちはそこに単に自己の本当の力を奪われているように感じているだけです
医療制度、暮らしの安全、医療以外の他の事由についても同様に
殆ど全般に渉ってあなた方の期待にすぐに応えたことはないという事を
事実としてあなた方は認識している筈でしょう
あなた方はそうして力を奪われながら、怒りと失望を繰り返して、
力を取り戻そうとしていたのではないでしょうか
そうした事を今頃あなた方は知った訳ではないでしょう
だからといってそれらが嫌悪すべき敵などではありません
そもそもそうした事はあなた方が心の中に求めてさえ居た事なのです
あなた方のそうした在り方が変わらない限り
いつまでも嫌悪すべき事柄を自分の見る世界に生み出し続け
その反面自分の望みを叶える事は何処か遠くへと感じる以外に無くなる事でしょう
そもそも敵などをそうして作っていること自体が
由々しき問題を生み出す原因を生む事となるのですから
真実を怖れるという行為は
それぞれの自己のどうした利益に絡んだ結果だと言えるのでしょうか
しかしどんなことがあっても我々という生き物は
そうした自身とともにあるのみなのです
あなたはあなたが考えるあなた以外のものにはなりません
自分をダメだと思っていれば可能性を自身で押しつぶしているだけです
その言い訳となる理由を後から外に見つけているだけに過ぎません
人の本当の自由とはそのように世界を捉え、そこで苦しみ
根源的な力を自分に取り戻す時期が来たと言える時に
自ずとそこに気づくような一連の流れが仕組みとなっています
初めに人はこの世界に生まれて、時間という概念を理解していくに連れて
物質的な世界に深くのめり込んでいくようになります
そしてやがて自分の体験を構成しているものが一体何処から生まれているのか
その根源的な問いに惹かれていくのです
人生は根本的に他者がレールを敷いてあげるべきものでも
誰かから保証されるべきものでもない筈ですが
それでも自然とは最終的にすべてを助け、守っているものであるかの様に見えます
自然であることのすべてと打ち解けて欲しいと思います
あなたが普段目にする街の木々もまたあなたの意識を汲み取っている存在です
そしてまたそこにある意識はあなた自身とでも言えるのです
あなたが不自然な働きを心に起こす事なく
すべての自然の在り方に眼を留め
「自己の現在にすべての意識を集中させて」
過去や未来から抱く不安から離れて
単に自己の願望である「人々の尊厳在る暮らし」に
意識をわずか日に五分も集中させていれば
そしてそうある事を確信して日々を過ごす様にすれば
それは(誰にでもできるが)あなたのできる最高の支援
そして人類への贈り物となるでしょう
そうではなしにあなたが誰かを日々嫌悪し
そして自分の過去をも恨んでいればそれだけで情勢を悪化させる事に繋がります
どんなに骨の折れる作業を通して人々に接しても
あなたが自身にそして他者に満足を見る事が出来なければ
それは誰への支援ともなりません
すべてはあなたの意識の中にあることなのです
つらさも不安も他者や環境から齎されるものではありません
あなたは意識そのものです
そこから目を逸らして外に何かを求めても不安だけが齎されます
あなたは意識そのものです
そこに自分だけの時間をとって静かに眼を向けて集中して下さい
全てに守られているという真実に突き当たり
安堵する事ができるのはあなたがあなたであるときだけです
それはすべてのものに対する"利益"としてのものに繋がったときです
それはあなたが本当のあなたであろうとした時だけです
自分の力と繋がって欲しいと思います
そこに自分を信頼する力のすべてがあります
自然の音に耳を傾けて下さい
自然に触れて下さい
自然そのものであろうとして下さい
不自然な力みは捨てて下さい
そこに気づく力を讃えてあげて下さい
あなた方は誰であっても僅かも「他人の期待」を奪う権限はありません
人は期待だけして生きるべき生き物です
不安を抱いて生きるべき生き方など存在しません
そしてこれは今だからこそはっきりと言っておきたい事ですが
「自分の能力を限定する事はどんな冷徹な科学の眼を持ってしても不可能」です
そこに対する答えは一見
「自分の能力を限定しうる事が可能なのは自分だけ」であるようにも感じられますが
自分を限定するに値しうる確証などどこにもありません
それを知っていればあなたの力を取り戻す事は簡単です
どのような客観性を持ち出してみせても
そんな事はただただ不可能である事を悟るだけです
周囲の人間が何をどう捉え、考え、憤りを持って居たとしても
それが問題を解決する手がかりになら無い事は明らかです
そして悲観する状況が誰かを見捨てる状況になる訳でもありません
救うべきは人のそうした心の在り方でしょう
そしてまた行動だけが何かを指し示す事になりえるものだとは言えません
私で良ければいつだってその為の支援をしたいと考えます
私を張り付けにして生け贄として捧げれば
彼らが不安と恐れから無縁となるのであれば喜んでこの身を差し出しましょう
人類の大半は本質的には尚も変わらずまだそのようにして
何かを代償として捧げなくては解決を見ないと感じています
又は対象となるものを攻撃し壊滅させる事によって
問題を解決出来ると考えて居られるのでしょう
そうした事によってもただ人々に齎されるのは「気づき」だけです
しかしそれが本当に必要な助けだとも言えるのです
そしてそれはそれぞれに必要とした時機として完璧なタイミングで訪れるものです
それぞれに自分の価値は等しく尊大であるものなのであり
他人を通して比較されえるものなどではけして在りません
あなた方は何かを憂いて自分の結論だけを正しいものとしてみて
そこに意味付ける為の作為的な論証だけを求めて
それを基点に物事を捉え続けようとする事が得意です
ですがそれは誤った方向性を導きかねません
人々が事件を起こす心理を時代背景といったものに読み取り
そのような事件の具体例を用いて
その解釈をもって自身の意見の正当性を測ることなど
幾らでも試みとして可能なことです
それがメディアでは主流と言われる"権威の生み出し方"です
そうした論点で人々の行動の本質を決められてしまってはかないません
人々の行動パターンについて分類し、分析され、ラベルを貼られ
そこにネガティヴな視点を浴びせる事によって人々をひとつの方向へと誘導し
そこに単に本質的な問題解決から人々を遠ざけるだけの
規制の強化や言論の統制などが行われて来たのです
そこに人々は自分で無い存在、力のない存在、無力さを肯定する存在を
自ら認めるまでになってしまっていたのです
そうした中に「力」というものが人々にとって本来の意味からかけ離れて
「人々を制圧する」意味としてのものとだけ
捉えられる様になってしまったとも言えるのです
そのように一度「力」というものを捉えてしまえば
単純に攻撃や暴力以外の「力」の強さを信じる事も認めることも出来なくなります
そして力には同等の力でしかバランスを取れないと感じる様になれば
悪には悪の力だけが通用すると考える様になります
自分を守るには常に先手を打って暴力的にでる他無いと考える者も生まれます
反対に自分を善だと考える者はそこに簡単に自分を無力と看做しさえする様になります
すべては自分と云うものがどうした価値観の中に住むものかを
理解することが出来ていない事によるものです
そしてまた主流派メディアの権威筋が齎した
人間というものへの誤った価値観の流布によるものです
今のメディアから流れる意見はどれもいい加減に古めかしいものです
どんな時でも自分の感覚に素直になって欲しいと思います
自分であるものから離れて別の誰かになる事などできません
またどんな理由があれ自分を見捨てる事など根本的に誰にも出来はしないのです
「何かを見捨ててしまえる事などはじめから不可能である」と云う事です
自分が何か罰を受ける必要がある存在だと信じて来た者は
そのように他者に対してもまた同様の視点から物事を眺める事になります
そうした考えが生まれる基盤もまたこうした何が真実かを見ないままの社会にあり
これまでの人間関係の中で信頼在る他人から伝えられた順当だとする意見や
生活の中で知らず知らずに自分の中に受け容れて来た「観念」だけが
あなたの現実感としてのものを組み上げていることは明白です
そうした「根拠」の中にあなた方は不安や恐れを利用して単に自分を鼓舞させたり苦しませることができていただけのことです
我々にとって本当に忌まわしいと言えるものとは
そのような人の不安や怖れに乗じて真実味を生み出す
組織立ったネガティヴな観念群とも言えます
「言葉」もまたそれに加担します
言葉はまた力でもあり使い方を誤れば脅威にもなりえます
普段人々がどんな言葉を悪意的な意味合いのものと混同視しているかを探る事は
今後様々な問題を解決していくにあたって不可欠なもののように考えられます
人々はすぐに言葉に感情を乗せてそこに流されます
そこに気づく事が必要です
つまり自分がどうした存在か知り取り戻すと云う方法で
あらゆる一切の人間社会に築きあげられてきた見解は
そこではすべて"思い込み"と看做す事ができます
あなた方が実際的に何かに振り回されているのは
自分自身の中に在る恐怖に対する感情でしかありません
しかしそれを明確に捉えておきたいとすることもまた次の不安に繋がるのです
そこにあるのは単純に自己の利益と見ることのできる「人としての評価」です
それ以外人々を振り回す原因となるものは何も見当たりません
感情を制御するには観念を変えるほか無いのです
そしてそれができる現場は常にあなたの「現在」です
現在に抱える自身の問題を追求しようとすれば
その原因のすべては過去にあると考える事になります
ネガティヴな事象が引き起こされるのはネガティヴな原因があるからだとします
そして不安と云う観点から過去を眺めれば
あなたの意識の中に在るすべてのネガティヴな原因としてのものに辿り着く事でしょう
問題を解決に導くのは過去の原因に眼をやる事だと信じるからこそですが
そこではそれが実際には解決の道を閉ざしている事に気づく事はありません
自分の問題を片付ける事ができるのは「現在」の自身の力だけです
過去を振り返っていればそこにあなたの力はありません
自分にどのような影響を招き寄せるのも
常に現在の自分をどのように捉えているかだけが関係します
自分を無力だと思っているものや人類を無力だと思っているものが
突然にポジティヴなひらめきなどと云った力を発揮する事はありません
真理や悟り、そしてまたそれに値する知恵とは
それを為す条件やその価値に値する行為と引き換えに手に入れるものだと信じて居れば
あなたはここに掲げてある知恵に期待してみせることもなく
それを手にする事は馬鹿馬鹿しいとさえ感じることでしょう
何かに挑み続ける人々はそれでいいのです
その経験が楽しいものでないと気づくまでそれを続けるだけの事です
そう、何も間違った事や問題となるものはないと言えるのですから
ネガティヴな視線を持って過去に目を向けている間は
そこに我々が歩み進む未来をもまたネガティヴなものとして存続させることになります
あなた方が自然だと考える「問題の原因を過去に見ようとする」ことも
因果という観念を信じて居るからのことです
当然過去と未来を接点無しに切り離す事など出来ませんので
過去をそのように「あなたの現在」に看做せば、
それに関わるあなたの見るであろう未来もまた同時に"生んでいる"と言えるのです
人々がそのように認識を換え、「現在」に自身の意識が変化することにより
自分の見る望みの未来を、そしてまた社会の枠組みの一部をも
変えることにもなる事を真に理解できれば、あなたは現在に於けるあなたの価値を取り戻し
しいてはあなた自身を信頼する事に繋がり、またそこに他者の力をも理解し信頼する事へと繋がり
すべては自由を取り戻し(過去の影響を無効化する)人類の意識は進化し
歴史は真に塗り替えられることになるでしょう
病気に関しても同様で
放射能という問題であれウイルスやPM2.5と云う公害であれ問題の本質は一緒です
あなたがそれらを脅威として感じつづけ
その恐れからなんとか逃れなくてはならないとだけ感じ続ければ
その影響からは免れる事はなく、逆にそれらの被害としての影響を取り込んでしまうことになります
我々の肉体には確かに放射能に対しての免疫はありません
しかしそれはウイルス性の病気に関与することともまた同様のものである筈です
免疫がある事と病気に罹る事はまた「同一視」出来るものではありません
あなた方の混乱は全て「混同してはいけない事を同一視する」事から生じています
多くの権威が提言する事は「備えをしなさい」です
しかし「備えをしない人々」の中に同じ病気に感染しないものが居る事を
あなた方は知っています
そしてそれに対する現代の医学ではきちんとそれを解明出来ていません
勿論事象に対する後付けされた「そのようにみえる」といった根拠は生まれますが
そしてまた面白い事に
その根拠は「それを信じるものに依って支えられている」という事実があります
子供時分に親の受け容れている不安をその感情に感じ取って
知らず知らず他者の支配的な観念に縛られて
自分の力を出せなくなると云う事は珍しい事ではありません
迷信に縛られ、根拠や保証、又条件と云うものに縛られて
挙げ句のはてに、「根拠がないから自分を信じられない」という事を
揚々と受入れる有様というのはどうしたものなんでしょう
それが一番救いの必要な存在なのではないかと云う気がします
学者又は権威としての彼らの、患者としての病体に見る"期待"とする眼差しが
我々にとってはもっとも忌むべき観念だとも言えるでしょう
あなたがそれらを意識せずにその放射能への誤った関心の持ち方(怖れ)から離れれば
その影響は軽減されるどころかまったく影響しえないと言い切る事ができます
そこに私の根拠が必要であるとは思えませんがお聴かせ致しましょう
"何故なら私はそれを期待して止まないし、
人々が単に怖れて生きるべきでない事を知っているからです"
"それ以上に事実として、人間の根源的な力をすべての者に見、それを期待し信頼しているからです"
"私は医者でもなければ科学者でもなく、まったくの路傍の石であると言えるでしょう
どんな僅かな名声を手に入れた者でもありません
故にどんな高みに住むものでもないのです
そんな肩書きが何も真実を語る上で必要なものでないことは明らかなのですから"
"もしかすると一見してただの詐欺師とみられているかもしれません
ですがその事による影響なども私にはいささかもないと云う事を知っています"
どんな人々の在り方をもそのままに認める事ができるということが
自分を信頼している事の証となる事を覚えておいて欲しいと思います
そしてだからこそ全てのものに対してそれぞれの中に"自分を見る"と言う事ができます
根拠など必要ないものです
それは単に人の評価を怖れる心が見せる幻影です
そこに感じるものを不確かなものとして包み隠してしまうのです
私は自分が本当の共感を抱く者である事を誰の目の前にも否定したいとは思いません
自分の力をそのように卑下し出し渋りながら
他者に対して「本気」を見せる事など出来よう筈がありません
そしてまたそのようなものを「出さなければならない事」などもまた「ない」のです
人の評価、そして真実とは何かを代償として捧げなければ手に入らない特別なものなどではないのです
そうした思い込みも捨てればよいのです
そして私は誰の支援も必要としない者でありたいし又そう在ろうとする者です
私が他者の恩恵を受けていない又は受ける必要はないと言っているのでもありません
すべては十分に自分というものを知る事によって安らかさに繋がるのであり
それ以上のものなど求め得ようとする必要もないからです
私が自然である事に繋がり続ける限り
誰を嫌悪するのも、何に恐怖する事も、すべて"お門違い"です
「私は私で在る」限り愛と喜びにただ満ちているというだけの事であるのです
そこに常に気づいておく事だけが私にとって大事なこととなります
何故その事に人は気づかないままだと言えるのでしょうか不思議でなりません
誰かの寿命が誰かに縮められると云う事が
あなた方にはどのようなものとして捉えどのように測られているものなのでしょう
あなた方はどうした事を基準として出し合いにすれば
人に正しいと言える事実を明らかにする事ができるというのでしょう
何が唯一正しい事だと言えるのでしょう
誰かがあなたを侵害をしたとして批難し
その加害者とする者を同様の力であなたが圧する事によって
そこに「正しさ」としてものが示されるのでしょうか
正しさの陰に比較して在るものを悪として認定すれば
大腕を振ってそこに責め入る事ができるとでも言うのでしょうか
良い(飲める)水が在る為には悪い(飲めない)水がバランスとしてあるべきではなく
良い水がある事だけで自然界のバランスが取れている事の証となるのです
何かを怖れるからといって自分の心に何かを匿ったりせず
見たくないものから離れようとするのでも無視するのでもなく
そうした自分をただ信頼することだけでいいのです
それだけで誇りといえるものを取り戻すことに繋がるというだけのことです
戦争に駆り出されてそこで人を殺せなかった者が恥であるとされた時代もあります
そこではそれが誇りであると伝えられたのです
あなたがそこに生きていたら、あなたもまたそこに習っていたでしょうか
もしかすると反対して自ら命を断っていたかもしれません
あなた方の怒りは正しいものと言えるかも知れません
あなた方の命はそのように軽んぜられるものではないからです
しかし最もその命を軽んじている者が自分自身で在ると言う事もできるのではないでしょうか
どのようにして人が混沌とした中を生きるべきかを語るには
この場はあなた方の心情を考えるに不適切かもしれません
ですがどのような事態があったにせよ
そこでのあなた方はそれを理由に自分の力を投げ捨てていい理由にはならないと言えることです
だから本当の自分の力を今此処に取り戻して欲しいとだけ伝えます
何度でも言いますが、どのような難しい状況下であれ、あなた方の力を解放するのは
それぞれの「あなた自身への信頼を掴む事」に向けた取り組みだけです
あなた方が云うような「不安」を基点とした物事への取り組みや原因究明への姿勢は
その基本的なスタンスを著しく転換するものにはなりません、そして
問題をただいたずらに大きくするだけの力でしかありません
その事をいまはっきりと自覚する事です
それだけでそこに自分に対する確信に近い強さを見出す事が出来ます
あらゆる問題の発生源がどこかを突き止めて下さい
すべては一人一人の内側から発せられている問いかけです
これが最も大事で基本なことなのです
これ以上にシンプルな取り組みはないのです
そしてそれが理解出来ればその事をとやかく向き合い続ける事は辞めて
真に自分がありたい姿と望みだけに意識を向けてゆくことを練習する事です
自分の現実を創造する力(それが自分の本当の力)を理解する道へ踏み込んでいく事です
単に起きた事を理由に自分を責め立てる事などせず
そうした否定的な態度の自分を正当化することを止めて
自分のそうした望まない力が望まない現実を生み出している事を認めることです
すべてあなににだけ赦された行為です
そのように自身の弱さを通じて他者をも理解する事ができる様に
人の強さもまたそのように認識し捉える事です
それができないのは単にあなた自身の中に固有の問題があるからに他なりません
ドラマや映画に語られる科学的見地から見た危険因子への脅威や
あなた方の社会で極めて強い影響力を持つ確証を与えるそれらの根拠はすべて
"あなたが信じる事であなたに影響しうる"だけのものです
それ以上にあなたが自分の力を信頼する時が今であり
ひとりひとりにとってその事が大事な時だと言えるのです
多くの人々が何かしらの"犠牲者"となることをあなたが断定的に観測している事は誰にとっても気がかりとなるものです
その視点からはあなたが既にその人々の中に在るあらゆる取り組みへ向けた希望を
無碍に無能なものとして視ているということになります
ひとりひとりが何かしらの事象に対しその確証に対する比率を変動させています
誰も彼もがその事象の根拠となるものを支持し支えているのです
単独でそれが根拠としての効果を発揮するものなど無いと言えるのですから
「結論が決定している前にはどんな取り組みも無効だ」というような人の視点の中には
人々はただ自身の無力さを認めるほかなくなります
あなた方が何を信じ何を成し遂げようと云うのかについて
今も尚、口出す立場には在りませんが
あなた方一人一人が希望を失った観点から
何かその心に一言つぶやけば
それが人それぞれが持ちうるあらゆる類いの希望をも根絶しかねない
ということをしっかりと理解して頂きたいと思います
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