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昨日(2月21日)、現(自民党)政権になってから初めて3名の死刑囚にたいし刑の執行がされました。
以下のスレは法律論を脇におきつつ、極々常識的な思考の過程から導き出された結果として、死刑廃止派の真情をよく表わしていると考えます。
尚、ブログ主さんには、ブログの移動先にてのコンタクトを取るまでに到らず、仕方がなく断わりを入れることがかなわないまま、何方も読み易いように文書の体裁を変えたり一部誤植と想われる文言について訂正を加えたりしましたが、何卒ご容赦のほどをよろしくお願い申し上げます。
Auf Wiedersehen.
私が「死刑廃止派」である5つの大きな理由 [駄文徒然日記]
うろこ 2008年10月28日
http://blog.livedoor.jp/kokouroko0923/archives/51255180.html
<引用開始>
私は昔、何もよく考えていなかった頃「死刑肯定派」でした。
が、いろんな意見を聞き、世界の状況などを知り、考えた結果「死刑廃止派」もしくは「完全な裁判体制と捜査方法が確率され、冤罪が0(ゼロ)になるまで死刑の完全停止を求む派」になりました。
大きな理由として5つの理由があげられます。
1.人間にとって「死」が一番辛い罰ではない
2.命は命で償えない
3.人間は必ず間違いを犯す、不完全な生き物である
4.罰を与える事だけでは犯罪は減らない
5.被害者、もしくは被害者遺族は正義ではない
以上です。
●1.の説明
もし、人間にとってが一番辛い事が「死」なら、自ら命を絶つ人はいない筈です。
よく「死刑肯定派」の人は「凶悪な犯罪者にもっとも過酷な罰を与えるべき」という言葉を口にしますが、「死刑」という罪が一番辛い罰にならないのですから、説得力がない事を意味します。
「死刑廃止派」の方の中には「凶悪な犯罪者に「死」という救いを与えてどうする!」という人もいます。
凶悪犯罪者がしなければならない事は「自分の犯した罪の重さを自覚し、心から謝罪する事」なのです。そしてそれは「死刑」では成し得ません。
●2.の説明
よく「死刑肯定派」の人は「命を奪ったら、自分の命で償わなきゃいけない」という言葉を口にしますが、それならば「自分の命で償う覚悟があるなら、人を殺してもいい」事になります。
どんな理由だろうと命を奪う事は許されません。例え、自分が死ぬ覚悟でもです。
あなたの前に見知らぬ男が現れ「あなたを殺して、俺も死ぬから殺してもいいよね」と言われたら、あなたは「命で償う覚悟があるんだから、殺されてもいい」と思えるでしょうか?
命は命で償えないのです。
●3.の説明
この日本という「死刑制度」のある国に住んでいる以上、この国の国民はすべて「無実の罪で死刑になる可能性」があります。
人間は絶対に間違いを犯します。警察は例外。裁判所は例外。などという筈がありません。
多くの人は「私は犯罪を犯すような人間ではないから、私は死刑になどならない」と思っていると思います。しかし、違うのです。犯罪を犯していなくても、「死刑」になるのです。だって冤罪なんですから。
私の考えはシンプルです。
「自分が嫌な事は人にさせない、して欲しくない」です。
私は「無実の罪で死刑」になりたくありません。だから誰にも「無実の罪で死刑」になってほしくないのです。
しかし、人間が間違いを犯す生き物である以上、絶対に「無実の罪で死刑」になる人がいるのです。「死刑制度」のある国においては。何より、誰かが「無実の罪で死刑」になるという事は「本当の犯人が野放し」になっている。という事を忘れてはいけません。
そして、失われた命が二度と返らないという事も。
●4.の説明
私が「死刑肯定派」だった時の最大の理由は「死刑制度」があった方が「犯罪が減る」と思っていた事でした。ですから、そうではない、と知った時はかなりショックでした。
むしろ「死刑制度」があった方が「罰の厳罰化」が進み、犯罪性が凶悪になる傾向があると知りました。
カナダは1970年に「死刑制度」が廃止されましたが、その後、凶悪犯罪数が激減したそうです。
犯罪数が減るという事は、被害者が減る、という事です。
また、一度「死刑廃止」した国で、再び「死刑制度」を復活させた国はないのです。それなりの理由があるからです。
「死刑肯定派」の人はこういった事実を知っているのだろうか?知った上で言っているのかよく疑問に思います。
「死刑肯定派」の人は「死刑を廃止」したカナダや北欧の国々は、犯罪者を擁護する最低の国で、「死刑制度」があって年間1000人から3000人の死刑を執行している中国や北朝鮮を犯罪者に厳しい素晴らしい国と思っているのでしょうか? 一度、聞いてみたいところです。
現在、死刑制度存廃国の現状
法律上死刑を廃止している国…100カ国
事実上死刑を廃止している国…30カ国
2006年度死刑を執行した国…25カ国
先進国で死刑を執行しているのはアメリカと日本だけ(アメリカは州によっては死刑廃止)
国連総会が死刑執行の停止を求める決議を初めて採択した時の投票結果。
賛成104反対54棄権29
日本はどこに入っていたのでしょうか?
●5.の説明
裁判にとって、もっとも重視しなければならないのは「正義」「公平」「真実」である事は誰も否定しないと思います。
しかし、それらの事柄を重視するのであれば、「被害者、もしくは被害者遺族の感情」は排除しなければなりません。(考慮は必要でしょう。しかし、救済措置は裁判でなければならない、という理由はない)
もちろん「情け」は必要です。ですが「感情」は不必要なのです。
冷たいようですが、裁判に「感情」を持込む事は「正義」「公平」「真実」を曇らせる事になります。
もし、一人息子を殺された親御さんがいるとしましょう。
けれど、その一人息子はストーカーで女性を殺そうとしたが、抵抗されて過って女性が殺してしまったとします。正当防衛だったのです。
その時、親御さんは「息子が悪いから仕方ありませんね」と、割り切れる筈がありません。
親御さんにとって、その女性は「息子を殺した憎むべき犯人」なのです。
しかし、それが親としての感情でしょう。
もし、その親御さんが警察関係者や裁判所に圧力をかけられる権力者だったらどうでしょう?
正当防衛だった、という証拠の隠滅をはかるかもしれません。その女性に罰を与える為に。
それで「正義」「公平」「真実」が貫けるでしょうか?
だからこそ、警察の捜査でも、身内は事件から担当をはずされるのではありませんか?
「死刑肯定派」の人は、よく「被害者、もしくは被害者遺族の気持ちを考えろ」と言います。
「被害者、もしくは被害者遺族の気持ち」を裁判に反映させなくてはならないのなら、いっそ「被害者、もしくは被害者遺族」が罰を決めればいいではありませんか?
「被害者、もしくは被害者遺族の気持ち」が、一番の正義だとしたら、裁判官はすべて「被害者、もしくは被害者遺族」でなくてはならなくなります。
何故、そうではないのか?
「被害者、もしくは被害者遺族の気持ち」を裁判に反映させたのでは「正義」「公平」「真実」が歪んでしまうからです。
以上の5つの理由が私が「死刑廃止派」もしくは「完全な裁判体制と捜査方法が確立され、冤罪が0(ゼロ)になるまで死刑の完全停止を求む派」になった大きな理由です。
<引用終了>
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