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(回答先: あなたにとって周囲の人々とは 投稿者 金十字架 日時 2013 年 1 月 29 日 20:34:22)
通称「バタフライ・エフェクト」
発表された当初誰にも"その効果"とするものなど馬鹿げたものと
そして"一笑に付すべきもの"と嘲笑われたらしい
だがそこに世の科学の目が追いついてくるとそれは実証されるものとして
あらためて結論づけられることとなる(ならざるを得ない)
世には実際にそれが「実験によって実証される類いの理論」とは別に
「論理的推論によって実証可能と言える類いのもの」は数多くある
これもまたその中の一つであることを示す証拠に
「大袈裟で誇張された実験例」がこの理論の特徴を伝える為に役立てられた
それが原因で多くの者がひとつのトラップに掛かるかの様に
大挙して反論の波がその理論を封殺したのである
しかしそれはいささか冷静さを欠いた人々の「判断」(の目)である事は敢えて言う迄もない
"ヴィクトル・シャウベルガー"の洞察がまとめられた本("「自然は脈動する」")のように
あらゆる場面に緊急を要する逼迫した自然環境から要請された内容ながらも
定説だけを"無害に"信じる者達をして
未だに「荒唐無稽なもの」としての地位しか得られていないと云う事が
余りにも多すぎるのはどう考えたら良いのだろうか
これは人々の「真意を知ろうとする事の恐怖」という壁が立ちはだかっている為に
起きているだけの事であると思えてならない
何かを畏怖しうろたえているだけ
そうした混乱した状況というものが生み出すエネルギー場に
何かしらの価値を見出し集う人々が居る
しかしそこにはどう見ても現況を覆すものはなく
「過去と変わらない状況」をいつまでも繰り返す
「慣例化された動き」にしか映らない
私が神という存在が「あって倖いだ」と思えるのは
人の前に「敬う存在」とするものが
どこまでも「あり続け」「けして無くなる時が来ない」と云う事を示すからである
これは人類にとってもっとも幸運に恵まれた事と言えるのかも知れない
そこが神前であることを思い上体をかしげて無思考にて深く心を鎮める時
そこにあるのは-単なる物乞いの感謝に留まらない-「神を敬う人の姿勢」である
私はそれこそがどこまでもすがしく人の求める心の姿勢であると言えるのである
その喜びはどの喜びの道にもつながっている
「無条件の愛」というものがあり
そこでの行為とは「既に満ち足りた状態ありきであってしかる」というように
敬うと云う行為もまた「何々を畏怖すべきとした」
"怖れる対象"として敬うというのでは本来の意味はないと感じるに至った
人は無条件に満ち足りてこそ倖せなのである
感謝すると云う行為もまたそこに同様であり
「敬う」行為もまたそうであってこそしかるものであると言えるのである
この事に気づいてから私の頭の捉える世界というものが崩れ始めているのである
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