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ローマ・カトリック教会に反旗を翻し、結果的に英語の表現を飛躍的に高めたジョン・ウィクリフ(John Wycliffe, 1320年頃 - 1384年)はヨークシャー・ラタワースに生まれた。マルティン・ルター(Martin Luther、1483 - 1546年)やフルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli、1484 - 1531年)の活動より約100年も早い宗教改革の先駆者である。彼の活動は約20年後のボヘミアのヤン・フス(Jan Hus, 1369 - 1415年)の改革運動につながっていく。
非常に興味深いのは、ウィクリフに聖書を英語に翻訳する必要性を確信させたのが、イングランド国王のリチャード2世(アンジュー家最後の王)に嫁いだボヘミア出身のアン王妃がチェコ語の聖書を持っているのに、国王には英語の聖書がなかったことだ。逆に、ウィクリフの宗教改革の思想(著述した哲学書など)はアン王妃とのつながりから、ボヘミアにも大きな影響を及ぼし、フスの宗教改革につながっていった。
当時、西ヨーロッパの人たちの生活は王から庶民にいたるまで、生活のすべてはキリスト教によって律せられ、その内容は全てローマ・カトリック教会が握っていた。教会は地域別に教区、その上に大司教区があり、頂点にローマ教皇(法王)がいた。完全な縦割りの組織が確立していた。教会は領地を持つことが許され、旧約聖書を根拠に十分の一税も徴収した。教会の神父の地位は金銭で売買される対象となり、神父としての人間の資質やキリスト教の教義などの知識は二の次で、高位であればあるほどその地位を得るには、権力や資金を要した。
宗教が権威や利益と結びつくと、古今東西、いつでもどこでも腐敗が始まるのはある意味当然である。教会の中にも聖書の内容を無視した権力と金の亡者が跋扈するようになる。神父は妻帯を認められない筈が、愛人を囲い子供をもつ聖職者がざらにいた。免罪符を売って、自分らの贅沢や教会を壮麗にするために蓄財をした。このころから、王権と司祭権の権益争いの衝突が始まり、1378年にローマ教会の大分裂(シスマ/アビニョンの捕囚)が起こる。ローマ・カトリック教会の権威が揺らぎ始めた。
ウィクリフの初期の活動は、オックスフォード大学の研究者であった。彼は1358年にベイリオールカレッジの学寮長となった。さらに研究活動を続け、1372年博士号をとった。当時のオックスフォードの研究コースは自由7科(天文、数学、論理学など)をおさめて教養コースを終えると修士、後半の医学、神学、法学などをおさめると博士となり、ウィクリフは優秀な学者だった。
1373年頃から宮廷での活動を始めたことが、歴史の表舞台へ登場するきっかけになった。その当時ローマ教皇とイングランドの間で聖職叙任や課税を巡って係争が続いており、1374年教皇庁の役人と協議するためにブリュージュ(現在のベルギー)への使節の一員となった。これがウィクリフに新しい視点を与えることになり、後に「世俗的支配権について」を著すことになった。
ウィクリフは教会が財産を持つまで世俗化し、免罪符を売ったり、強制的に懺悔させたりすることで蓄財をし、聖書の内容をよく知らない牧師や修道士が民衆にキリスト教を語ることに大きな矛盾を感じた。国家が教会財産没収について容認するような発言をするようになると、彼の主張は結果的に貴族側の肩を持つことになり、ランカスター家の祖であるジョン・オブ・ゴーントの保護を受けことになる。ロンドンに移ったウィクリフは教会財産の没収や世俗化批判に言及する説教を行った。
しかし、これは教会の権益を当然害することから、1377年にロンドン司教によって査問にかけられる。貴族たちの応援で査問は結論の出ないまま終わる。ところが、ローマ教皇グレゴリウス11世(アビニョン捕囚からローマに戻った教皇)はウィクリフの著作「世俗的支配権について」を知り、彼を捕らえるよう国王や司教たちに教書を送った。貴族たちは逆にウィクリフを宗教顧問として雇ってしまい保護することになる。翌1378年には再度査問にかけられるが、貴族やロンドン市民たちの妨害で続行が不可能となる。
オックスフォード大学の教授であり、敬虔な聖職者であったウィクリフは、ラテン語に堪能で直接ラテン語の聖書を読み、神学者・哲学者でもあるので、ローマ・カトリックの説く教義が聖書から大きく離れていることを理解していた。ウィクリフの聖書英訳の大きな動機は、教会の現状が教義からあまりにもかけ離れて腐敗しているため、これを正すには聖書から直接人々が教義を学び共有することだとの考えに至ったことにある。
貴族たちの庇護のもとウィクリフは、ローマ教皇を批判したり、教会の聖域権の論争に加わったりして、現状のカトリック教会の批判を繰り広げ、「聖書の真理について」、「教会について」、「国王の任務について」、「教皇の力について」などの著作を精力的に出した。しかし、1379年パンと葡萄酒がキリストの肉と血に変わるという「化体説」を批判する「聖餐について」を発表するに至って、保護していた貴族や大学まで敵にまわしてしまうことになった。
ウィクリフはオックスフォードから追われラタワースへと隠棲せざるを得ず、聖書の英語訳に専念する。ウィクリフは2年後に死去。死後30年経って、1414年コンスタンツ公会議で異端と宣告され、さらに12年後ウィクリフの墓は暴かれ、遺体は燃やされて、灰は川に撒かれてしまった。ウィクリフとその思想を復活させてはならないとの、カトリック教会の凄まじいまでの執念である。
ウィクリフは聖書を最高の権威として考え、彼と同じ志を持つ多く仲間たち「ロラード派(Lollardy)」の手で、共同作業により聖書が英語に翻訳され、筆写されていった。彼の死後も1407年に禁止令がでるまで多数の写本が作られた。この同志たちも異端として攻撃され、多くの人が命を落としていった。写本は現在180部が残されている。多くの英語訳の聖書が焚書扱いになっていることを考えると、まだ印刷機のない時代に膨大な数の翻訳聖書が筆写されたと考えられ、殉教覚悟の改革の熱意が推し量られる。
現代の視点から見ると、ラテン語の聖書しか認められず英語訳の聖書が禁じられているのはとても不思議なのだが、当時のヨーロッパはキリスト教が社会全般の絶対の規範であり、規則であった。ローマ・カトリック教会の情報統御は当然と言えば当然であった。いつの時代でもそうだが、支配する側からは権益につながる情報は開示されず、むしろ秘密にしておいた方があらゆる面で都合がいいのである。
正しい主張には異端と名付けて葬り去るのが権威者・権力者の常套手段。自浄作用をなくした組織は腐り果てて多くの犠牲(生命)を強いることは、この現代にも続いているようだ。3.11は8.15に匹敵する、あるいはそれ以上の崩壊と考えられるのに、まだまだ多くの人々の犠牲を必要としそうである。8.15の総括が自国民としてできなかったが故に、3.11の総括ができないことは同じ線上にあるようだ。
矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-307.html より転載
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