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(回答先: 様々なレベルの 投稿者 金十字架 日時 2013 年 1 月 27 日 21:56:24)
様々なレベルの選択と解釈をする私…私の中の…私であるものすべて
自己意識による選択には段階毎の選択がある
誰もが言う様にどの時点のどの選択も間違ったものなどではないし
どれかが正解だと云うのでもない
ただ意識と感情がバランスを欠いた状態にあれば
あなた方の現実感もまたふらふらと
足許がおぼつかない状態のままであることはまず間違いが無いと言える
いずれ分かる事だがすべては帰結する場所に納得のいく答えは揃ってある
だから安心して今を生きる事だ
とりあえず今は理解すると都合が良いと思えることだけを
受け容れることをお薦めする
**********************
誤解して欲しくないのだが「恐れ」を受け入れると云う事は
何よりも「認める」と云う行為であり
プライドといった決まりきったかのように存在する
歪んだ陳腐な障壁を傷つけるものでもない
そしてまた憐れみを持つと云う事でもなければ
他人と比較すると云う事でもない
***
そしてまたそこに同時に理解して欲しいのだが
言葉と云うものを受けとる時にも自分の感情の状態に留意してみて欲しい
その言葉の特性というものを理解して
どちらか一方の極性に偏るのではなしに
常に全体の調和を意味するものとしてその意識に捉えてほしいのだ
*********************
「認める」事とはあなたが自身を知る上でとても重要なステップのことである
あなたの感情の状態の「今」を探るには
まずこの「今」に"素直なあなた"を取り出し定着させる事だ
よく目や耳にする事に「リラックスするといい」というのがあるが
それはある意味では「意識の高度に集中した状態」に生まれる状態を指すのであり
単に力を抜いて気を紛らす事で到達する事はない
言い換えればそこには
完全に"自身の暗示"に対して「従順な状態」が
つくり出されている状態と言える事なのである
何かを認められないと云う意識を持ち続ける間もまた
感情は常にあなたの受け容れている観念(思考)に従属する謂わば奴隷であり
自身がどういった状態に陥っているかをそこに素直に見定める事は叶わない
そこにあなたはいつまでも混乱した状態をつくり出し
自身を偽りつづけることになるだろう
あなたが自分と云う存在を深く理解し(てあげ)ようと努力した時には
霧が晴れる様にそこにあなたの純粋な姿は浮かび上がる
そして最も大事な事はそうなった状態を常につくり出し
そこであなたが本当にしたい事だけを純粋に選択する事であるのだ
まず自分の中に潜む違和感としてのあらゆる否定感情があるのを認め
自分を知る事から可能性の幅は広がるようなる
そこに絶えず意欲がわいて来るのを感じる事だろう
つまりそうなるまでの間は繰り返し自己反復することになるだろう
あなたは常に何らかの言い訳を考えてはそれを辞める努力をするだろう
あなたにとって受け容れ難い現実とするものに目を向けても
他人のした選択にのっかりそれを助長する事から離れる決意を新たにするだろう
物事を惰性で選択し続けていくことを僅かずつ減らしていくことになる
そのプロセスの全てが
あなたにとって満足のいくものとなり得るだろう
世の中のまずさを見出す視点が理解出来る様になる
それが理解出来ない間は絶えず生まれている
反発する感情をあなた方は押さえる術を知らなかっただけである
それを自分の正当なる力と感じて利用して来たが
それでは闘いはなくならず
いつまでも調和ある世界は生まれない
そこにやがて意欲は失われ
気力の枯渇した状態を生み出す事になってしまっていたのだ
幾多の感情レベルでの現実の創造行為が
如何に巧く出来ているかおわかりだろうか
そしてその事に対する理解が浸透した時には
宗教も政治も社会のルールも統率者などの一切が
実際人々にとって必要あるものでは無いと云う事さえも
賢明なあなたならすぐに感じ取れるのではないだろうか
あなたが決断しひとつの選択をする時
そこに絶えず新たな"あなた"が生まれるように見える
チョイスされなかった可能性として存在した筈の
残された他のあなたとしての選択肢は消える事はなく
そのままあなたの"場"にとどまり続ける
あなたが嫌悪するものにであった時
必ずその対極の一方にはあなたの望む現実が生まれていると云う事である
それはいずれ"あなた"が別の意識の段階に到達した時に経験する
あなたに意識されるまで想像されたすべてのエネルギーは
それそのものの形を作りその"場"に存在しつづける
感情を自身でリセットせずにまたコントロールせずにいれば
そのあなたの中で最も支配的な思考に沿った内容の経験行為を生み出す事になる
思考そのものはそれに似た観念を常に呼び集める
つまり惰性で居てもあなたとしてのものの
中心的位置に備え付けられた思考及び感情を強化する物事は
絶えず生まれ続ける事になる
そこにあなたの信じる物的証拠も絶えず集まってくると云う訳だ
そしてまたそこに反応を繰り返していくと云う方法で
現実認識とはまかり間違っても疑い様の無いものとして存在する様になる
しかし観念を変える事が出来れば
かつて選択されなかった現実があなたのもとに蘇ると云う事が起こる
何をどれだけ信じて居るかだけが
あなたの進む道に希望の赤絨毯を敷き詰める結果ともなりうるのだ
先人の感情に流されてはいけない
焦ったり騒いだりしてはいけないと云う教えは
このことを深く伝えるものである
あなたは「私」という区切られた"肉体的存在としての自己"を自覚しているとき
そこには'相変わらず'の不動不変の存在であるかの様に感じられているのだろうが
あなたという存在そのものの意思は常に変動しており
その時々のあなたのつくり出す心理的な物事の解釈によって
特に外界に対する反射的反応に拠って
自身の感情の状態のみならず物理的身体を通じた現象までをも
常に変化させている
あなたの"場"(そこにあなたも存在する)から躍り出る
物質世界に於ける現実的"現れ"は
常に"その時"のあなたの感情の状態を寸分の違い無く反映したものである
当然ながら"その時"発している"普段の"感情のレベルによって
普段の代り映えしない現実は創造されているのであり
それはあなた方が"認識できる"現実的解釈の範囲内に納まるものであるだろう
よってあなた方の前に現れてみえる物事とは
そこに感情を持って反応するあなたをして現象の一体と看做す事が出来る
あなたにとってその"表象的な現象行為"と"心象としての経験行為"とは
地続きで在ると言え
いつだってあなたを今に表し
そしてそれがあなたそのものといえるのである
そこにすべての事の成り立ちとあなたの在り方(状態)は密接に関係して居る
だからその経験があなたにとって望ましくないものだと分かったのならば
あなたが変われば良いのである
他人を変えようとするのではなく
あなたが変わるしか無いのである
あなた方にとっては現実と言える事実に依って塗り固められ
そこにあなたは押し込められ(巻き込まれ)ている様に
確かに感じられて居たとしても
それもまたあなた方がつくり出した比類なき"純粋な選択"の
或る時点での結果の一つなのである
それを「認める事」でのみあなたは「知る立場」に移行し
物事をコントロールする立場に繋がる事が出来るのだ
受け身の状態から主体性ある自己に切り替えるプロセスもまたそのようにして
「"安堵の喜び"とは"痛み"を経過した後で無ければ分からない」と云った
"産みのプロセス"の中にあるとあなた方が信じて止まない所為でもある
こうした事も文化が齎したひとつの慣習化された観念の影響の一例である
だが本来は常にあなたは意識的に至福の状態をつくり出せる力がある
もとい
素のあなたという存在はそもそも至福そのもので在ると言えるのだ
けして素であるから無感情の状態であるわけではなく
至福故に全体に対する役割としての結びつきを全方向に持つ
受け容れ体制が整った存在であると言える
だからその感情を絶えず目指せば
おのずとあなたに"与えられるもの"も変化してくる
一見して"現実認識"とは「妄想」とは一線を画した"完全性"を
そこに備えているかの様に見えもするが
現実認識の為の確たる証拠としての"事実"といえるものを
あなた方の前に絶えず提示し続けるものの正体とは(実は)
常にあなた方の(意向を汲み取ってくれるかのように見える)
自己認識に沿った現実とするものへの
「信頼」と「期待」だけである
「世界」とはそのようなあなた方の"信念に沿った'期待"'だけ'を
「完全に再現する働き」に満ちているのである
よって疑念を持てばそのあなたの疑い(信念)を明確にする証拠を
-あなた方の観念を強化する証拠を-
あなた方の前に提示して示してくれるだろう
人を疑えばそのような振る舞いを人の世はあなたに見せる事になる
(それは単にあなたが投影していると云うだけの話だが)
だがそこにこそそうした自分を信じる事もまた難しく感じられていく事になる
信じる事にもキリがなく
疑う事にもキリがないからだ
"あなた"の存在としてのものとは
その"あらゆるあなた"を表現する可能性の"場"に観る事が出来る
言うに"あらゆる存在としてのあなた"とは
どうした可能性からも漏れる事無く存在するあなたと言えるのであり
常にそれはあなたの"場"に存在し続けている
そしてそのあなたの表現する経験に付随するあらゆる要素すべてが
「あなた」だと言って間違いは無いと言える
どのがあなたが正しいとか間違っていると云う事は意味が無い
「そうしなかったあなた」も「何もできなかったあなた」も
どの「あなた」もまた今の「あなた」を構成する要素となり
すべてはそのあなたの「そう在ろう」とする決意を生んでいる
あなたは絶えず新たなあなたを生んでいる
すべてはあなたの影響を受けて存在するのだから
誰一人として全体のものに僅かの影響も与えない存在などは無い
だれもかれもが純粋な意思と選択の結果
「純粋な結晶」として形づくられる構造の中に
その構造そのものとして存在する
純粋な結晶ならざるを得ず
そうなる以外あり得ないのである
そこで何層にも渉った"あなた"に言える事は皆同じで
個(人)としてのあなたの(人)生とはあなた自身のものであり
世界なるものもまたあなたの視点以外の何ものでもなく
誰もあなたという意識的存在を操作することは出来ない
つまりあなたもまたあなた以外の存在を操作する事は出来ない
もし人を縛ればそこにあなたは自身であることを絶えず見失っていく
そして不可能性に満ちた望まない経験だけが生まれ続ける
(あなた/世界)は素材としての(あなた/自身)を(世界/あなた)に提供し
(世界/あなた)はまた(あなた/世界)に恩恵を授ける
その関係だけがあなたを自由にし全体の調和なる平和を実現するのだ
あなたが「そう在ろう」と決意する時
あなたは同時に"周囲"
(あなたの経験を構成する要素-素材としてのあなた-世界)に向かって
「そう在れ」と発言しているのも同じ事である
そのこととは逆を示す例えとして
あなたが厳しい調子で周囲に対し「そう在れ」と感じている時には
あなた自身は「そう在ろう」と決意出来ない状況にある
そこには自身の正当性だけを主張(言い訳)する
必要性だけを感じているといった状態だけがある
あなたが徒に感情を揺り動かすのを止め
自己をコントロールできない状況をまず打開しよう心に決める時には
先ずその人としての弱さを認め受け容れる事から始める事になるだろう
それができなければ
その感情に依って生まれつづける周囲に対する限定された認識に依って
更に輪をかけてあなたは「自身の与えた意味付け」に依って
自分が苦しむという反応をするだけの循環を繰り返すことになる
あなたが見るもの感じるもの全ての意味を生んでいる
強い感情を放つ時にはそれだけ受けとる影響もまた強い
勿論あなたが結果として受けとるのは
あなたが感情として発した(与えた)意味に沿った経験そのものである
そこに発するのは文面で構成されたあなたの頭の中身ではなく
心に秘匿した想いの全てだ
だから自身があらゆるものすべてに対して好感だけを感じていれば
周囲そのものもまたあなたにとって良く影響する事になる
しかし繰り返すがあなたの秘匿する想い全てがそのまま影響として現れるのだ
…ここまでした話をひとつの流れとして見る時
気づく点がいくつかあると思う…
ひとつ取り上げてみよう
「あなた」とする存在の中には
あなとしての"全てを構成する要素"が"潜在している"と云う事
「卵と親鶏どちらが先に生まれたか」と云う問いかけがある
これは簡単で「同時に生まれている」と言えるのであり
それは親が子を孕んだ"入れ子状"に内包した状態で存在する
そして雌雄はどちらにも転化する
それもまたすべては意識全体の求めに応じて得られる選択の結果である
時もまたすべては同時に生まれて同時に存在しているということも
意識の中に全ては垣根無く伝搬している事を伝えるものである
そこには先程も述べた通り
すべての可能性として存在した進化の経路の全てが
別のレベルでの"あなた"に選択されて存在している
それらはあなた方自身とも言え
またあなたの仲間及び兄弟とも言える存在として実在するとも言えるだろう
あなたを構成する意識は同一のものとしてある
そしてあなた方の見る景色や空間の概念はあなた方のつくり出したもので
実在する存在の在り方とは全く異なっていると云う事だ
肉体を持つ身としての現況の"我々"は
そうした"我々以外"の意識に直接伝えられるエネルギーも
それぞれの知覚の翻訳を通して
一旦言語解釈をくわえなければ理解する事が出来ない
何故なら此処に居る"我々"は
完全に独自の概念に縛られた"不便極まりない存在"としてあると言えるからだ
そこでの"我々"は自分達の価値観に属さない事は
すべて間違ったものだとしか捉えられない存在なのである
日本人が英語圏のスタイルに馴染む迄
不可解な溝を埋める為に一定の期間が必要だった事と一緒で
我々はいつだって進化の経路の段階におり
そこでは同じ事が起こり続ける
故に今後もそうした事は現に起こることである
どうした存在がそのことを否定しえるというのだろうか
もっともあなた方は外界というものを認識し
危険認識に対し反応を繰り返すだけといった
反応化合物としての位置に馴染んでしまった
そのおかげで「あなた方の望まない世界は維持されて居る」訳だ
その陰に麻痺してしまったあなた方の本来のあらゆる知覚感覚を
僅かずつでも取り戻す旅に向かう事をこうしてお薦めしているのである
世界の広がりを新たな解釈によって構築する時
見える世界もまた変わる
あなた方の(意識の中で)発見した(つくり出した)物理法則と云った
"期待する観察"という視点によって生まれた「誤った事実認識」もまた
その共有された認識の上では"何の間違いも起こさず"機能しているように見える
ただそう捉える事が出来るというだけだが
しかしそうした事が可能なのもそれを支える世界があまりにも
自由度が高いが故に起きている事でもある
そこでは多くの誤認識が多くの混乱を未だ収拾出来ずに居る
だからその世界をしっかりと捉え直すことは
あなた方に有意義な事実だけを齎す事になるのである
空間を伝って伝搬すると'言われている'「ウイルス」(の類い)もまた
「事実」はあなたの中にもともと"素"の状態で「潜在」している
素材として無害のものが病原体として姿を現す時に
一体そこに何が起きているのかと言えば
あなたが受入れた認識としての"信念"に従って
あなたが不安を抱く程にそれらが
あなたにとって毒とも薬ともなるものに変化しているのである
ネガティヴな事象が起こるのは不安や怒りに支配され
あなたが何かを認められないと感じているときである
あなたの感情は本来至福な状態が自然であるのにも関わらず
あなたがあなたとして望ましい状態に在る事を赦さないと云うのは
どうしたことだろうか
自然な流れとしてあなたの中を流れ続けるものを
何故あなたは阻害するのだろうか
意図してあなたはそうした状態に留まる事は出来る
だがそうした当たり前のあなたとの間に強く(長く)
ズレを生じさせ続けていればそれが引き金となって望まない現象が現れる
万象を構成するあらゆる要素はそのように素体としてどこにでも存在し
それに意味を与えるものをして千変万化する
これは事実だ
あなた方は危険と称するものを遠ざけようとする事で
実に身近な所にその遠ざけた筈のものを受けとる事になるのだ
被害を受ける者は必ずしも抵抗をみせる者そのものではない
無垢で従順な状態にある者がテレパシーで発信者の観念を受けとる
(子を心配する親などを通じて「不安を感じ取る存在」はその影響を受ける)
そのあなたの他者を見やる不安の眼差しが
他者にその振る舞いを持続させる影響力として力をもっている
あなたの眼差しを向けるもので
そのあなたの受け容れている観念の影響を受けないものなど無い
先人はそれを知っていたからこそ道徳的狭義の中に
あらゆる教えを詰め込んでそれを守らせたのだ
だから本来すべてを完全な者として看做す事が望ましい
(故に「問題など何処にも無い」と云う事実を知る立場に在る者は
他者に安易な比較を赦さず平安のみを与える)
あなたの行動の全ては
あなたの中に定着を見せる常識と云った考え方に従ったものであり
その流れに沿ってあなたにとっての現実とは生まれる
あなたの感情のレベルとは常にそのあなたの言行の一致
つまり自らの望みと一致しているかどうかに依って感じられ方が異なる
先にも言った様に違和感として感じられる苦しみや痛みとは
あなた自身の望みに対して実際のあなたが採っている自滅的行動によって生じる
電気抵抗のパターンのことである
またその本来の自分の至福の状態から生じるズレによって生まれるノイズは
そのまま放っておけばやがて疾患として
表象的なシンボルとして目に見えるものとして生じる事になる
どのような物事の成り立ちも
常に純粋な選択によってのみ為されているが
不要に怖れることなくそのことを受け容れて手放してしまえばいい
怖れている事(その内容)を受け容れると云う事だ
あなたが誰かを嫌悪するのは
その事によるあなた自身の被害を想定しそこに恐怖しているからである
そしてその選択はいつでも変えられる
観念を転換して変えてしまえばいい
あなたが望みに向かっていない事を知れば
あなたが何を望んでいるかもそこに伝えられていることになる
あなたが目覚めたときからそのチャンスは始まって居り
夢の中(それもまた現実)に入る迄あなたの持ち続けた観念は
物質世界の創造行為に影響する(勿論夢の中にも影響する)
良い夢を見たければ寝る前に不安な考えを改めることだ
あなたが何かしら活動に手をつける前には常に観念を選択する自由がある
それは感情を選択する自由と言い換えてもいい
あなたが意思を決定しなければ
しないままの(惰性のままの)現実をそこに誕生させることになる
殻を破って誕生する為に必要な栄養素がその殻の中に詰まっている様に
あなたが肉体として生を受けて走りゆく経路には
あなたに"有用な"素晴らしいギフトがたくさん詰め込まれている
そうポジティヴに考える事が常に望ましい訳だ
大事なのはその箱を開けて何が飛び出そうとも
あなたという存在は
箱の中身に影響を受けてしまうだけに
存在するのでは無いと云う事である
そして何よりその箱を開ける際のあなたの意思の状態(在り方)によって
そこには常にあなたに「無用なもの」「害をもたらすもの」も
また現れると云う事を知るという事だ
しかしそれでも尚そこから有用なものだけを取り出す事は可能なのだ
謂わばあなたが何から苦痛を受けるのも
「あなた自身のしでかしている事」であり
それ以外ないのである
あなたの外にその責任を被る者が居るなんて事は
全くおかしな事だと云う事になる
最も今はそれが"通用する"と言われる世の中なのだろうが
それでは完全に自由を奪われた詐欺者のような生活を送る事を
望んでいるようなものである
そうではなく本来はいつどこでも
あなたの喜びに満ちた純粋な存在としての意識だけが'ものを言う'場なのである
清々しく潔く生きる事程楽しい事は無い
だが神秘的にもあなたの意識以外が
そのあなたに贈られたギフトを"紐解く"事はできない
あなたの人生は常にあなただけの為にあるのだ
あなたが喜びと共にあればそれもまた他者に伝搬する
勿論それはあらゆるレベルの"あなた"に適用される言葉だ
様々なレベルの選択と解釈をする私…私の中の…私であるものすべてに
愛よ満ちてあれ
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