411. ろうし力学 2013年4月21日 11:50:17
: riuSNxeQ9qjU6
: aUeUjXriKM
宮島鹿おやじさまろうし力学です。10日間の間に、金沢、東京、奈良・大阪と行ったり来たりで、みなさんのコメントを見るだけでした。 その間、マルクスの人間観について甚だ浅はかを承知で、見ておりました。 さて、金沢や奈良・大阪、返ってきた東京で、 >本当に「何も無いかのような日常」です。 >私たちの頭の上から「何」が降ってきたのかを知ろうとする権利を行使することすら、ためらわれるような日常です。毎日が不思議です。 と、当方も同じ思いを強くしております。 奈良では、学研から本を上梓された81歳の方と、二日間にわたり雑談してまいりました。 戦争の悲惨さを記録に残され、長年原爆・原発に反対し、人類の在り方に警鐘を60年以上発し続けてこられた方です。 意識、記憶の思索の経緯が、ほぼ一致することで、話題が尽きない二日間でした。 変わりまして >でも、50歳代の訃報が「今までよりは」多いように思うのです。私の視野においては。 と言うのも、同じく感じるところです。 昨日も、関東、東北の各地の汚染数値が掲示板に速報されていますが、実に危険水域ですね。 それで、 >どうも、私たちは、やはり「似たもの同士」のようですね。(^^) >ほぼ、私の人生そのものと言えるようにおもいます。(笑) というお返事、同様に思っております。またそれ故に、共感と尊敬を抱きつつも、一部反論も行います。(^^) 以下、引用とコメントが長くなります、ご承知下さい。 >私は、形而上学とは、「この世の言葉で、絶対的真理を言い尽くすことができる」という信念に基づいた言説と考えています。 どうも、客観的に見れば、当方の論説が、形而上学的なのかなーとフト思うところです。 >そういう点では不可視の観点は究極的な解決法であっても、今の現状を打開するには >若干スケールが合わないような気がいたします。 というご指摘の点ですね。 当方は、量子力学を道具として、世界と我を思索する立ち位置かと思いますが(自分ではそう表現しないですが)、 一つ言えば「イデア」を組み立てる(論じるんではなく)立ち位置かと思うのですが、 どうも「イデア」にたいする認識が違っている気がしています。 イデアは「それを思考すれば、それが成る」のがイデアという理解ですので、 不可視、と言うか存在世界と人間の理解の積み重ねは、その写しとして現象・社会を変革する直接的手順だと、 そして、「今」というのは、当方は、独立した「今」は存在していないという理解ですが、 通念として今とは、この現象現実という解釈かと思いますが、その意味においても「今」は、 「(本質的には)既に過ぎ去ったものを見ている、映写機とフィルム、スクリーンと映像」の関係と見ていますので、 この残虐で非常な現実(子供たちが実験材料にされている)も、残念ながら原因は過去にあり、その映像が を今目撃している、という立場ですので、現状(今)の変革には、現状の因子=生命(意識)の今(肉体頭脳ではない) をイノベーションすることが直接的と理解しているのです(人間の本性は精神とこころの表裏一体)。 その意味において、おやじさまの思索が力を持っていると申し上げているのであって、 評価ではありません。感想でもありません。「仕組み」からそう申し上げているのです。 形而上学について、 >別の表現をすれば 「私の話すこの言葉は厳密に真理である。(例:カトリックの真理性、科学の真理性)」 「よって私の思惟・判断は無謬である。」 「よって私が、『神の敵』と定義したものは焼かれるべきである。」 「また、私が『人類の進歩のための材料』と定義したものは放射能を吸引すべきである。」 とおっしゃっているのは、カルト狂信者・科学者、の実態はそのとおりですが、それを形而上学と結ぶのは いささか短絡と思えますね。 >どうも、私には、「ある種」の科学というものが「啓示(不可視世界)」の否定の上に成り立っているようには思えないのです。 明晰判明性というものを現代科学は数学的表現=基本方程式の確立をもって成立したとみなしますが、どうも、この作法そのものが一種の呪術性を持っているように思えます。私の考える科学とは「わからないものはわからない」と率直に認めることですが数学的表現を与えられたとたんに、それは一種のスコラ的演繹体系と同質のものになる側面を持っているように思えてなりません。 デカルトがスコラ学徒であったのは事実であり、その思考形態=思考の様式=構造はスコラ的であったのではないかと考えています。この辺はまだ自分自身がはっきりとした心証を得られない部分ですが。 おそらくは何らかの「啓示(不可視世界)」との選ばれた人間との交信が、かつてあり、そこから導かれる教説が必然的に演繹的であることをもって、「論理(可視世界)」における知識の追求方法において、科学者らをして、ある種の誤った確信を抱かせている状態が問題なのだと現在思っています。 つまり、ある種の科学者は公然と「真理に仕えている」と意識しています。この時、彼らの心象はほぼ間違いなく司祭であるという点において、彼らは、その思考のスタイルを、無意識に、啓示的不可視的世界から引用しているように思います。 というところは同意いたします。 矛盾しているののを自分自身にごまかして無理やりことを前に進めてきた。これが人類を混迷に投げ込む元となりますよね。 それが違う!と感じるから、「違うんじゃないですか!?」我々は言う、という気がしますね。 とはいえ、当方が不可視を”ことは ”で語れるというのは、それに反するようにも思えますよね。 前にも言いましたが、地球人類には、この言語が未だ未発達で、今の言葉は記号化に貶められていると申し上げております。 >さて、私にはこのスレッドの進展が、ある意味で、何かを理解する契機として 啓示(神秘体験)によるもの 論理(言語活動)によるもの の二つの道によって隔てられているという感が強くいたします。 太古より人々の思索は、このいずれかの両極の間を辿ってきたように思います。 この二つの道を合一させる大変な努力がかつて存在していたと感じます。 その、一つが、論理(LOGIC)=ロゴス を神から生まれたもの=キリスト などと思弁する傾向であったのではないかと。 上述の「二つの道」については多くの先達が取り組み、そして誰もが了解できるような形での結論は出ていない大変な問題だと思います。だから、このスレッドにおいては単なる意見表明の並置でもよいと思います。すべてがそれぞれにとっての「参考」でよいと思います。 と言うところですが、「隔てられている」のは、結論から言えば、「人間観」、と言うか世界認識(ゲシュタルト)の問題という主張ですね。 平たく言えば、「自分の存在の立ち位置が、物質側に立っている」、「物理空間の中に放り込まれている自己から思考することが原因」だと いう事に、分断断絶の原因を見ている(というか、自己を世界側(量子論)「にも」置いてみて、思考してみれば)、その分断は 当然のことと思える、ということです。 ロゴスを「神から生まれたもの=キリスト などと思弁する傾向」というのは、ロゴスの何たるかが少しも分かっていなかった (いや、自分が分かっているっていいっているんじゃないですよ)という事だと思いますね。 量子力学が、産業利用の道具と見られるのも洗脳と思いますが、量子力学の見出したことは、 「現象と観察者は不可分な関係、一つのものの裏と表」であるという事だと受け止めていますが、 自己存在を、空間から分断している一塊の物質(肉体)として思考する限り、上記の分断は解決などするわけがない、 現象と自己は、一つの存在の裏と表のような関係性であり、自己を見えている世界側にも置いて思考する(そこから更なる垂直変換あり) ことで、矛盾では無かったことが、人類に明白となる、と確信しています。 安芸ガラスさん
レスをありがとうございました。 >私はマルクスやエンゲルスやレーニンの方法に影響を受けています。 マルクスは人間を「人間的な本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。それは、その現実においては、社会的な諸関係の総和である」ところに立脚しています。 これは、個性を有した個人と、それを包摂した社会制度と、その社会制度は、自然とかさなっていることを表現しています。 個性を有した個人の要求が、生き物の要求と、個性の要求と、社会的要求とが合成されている、ことを前提に出発します。 ですから、要求が、これらの合成ですから、つねにおのれにフィードバックします。 そして体が変化し、社会の変化があります。 レーニンはその要求によってよび起こされた力の分散現象が行動(運動)であると観察し、その方向を決めないと、個性によって運動(行動)が客観しか見ることができない「経済主義」、主観しか見ることができない「テロリズム」の傾向に陥ると批判しました。 主体は、要求です。 その要求は、「不可視の世界は私とみなで、常につながって」います。 そこには時間も距離もありません。 体は、その要求に従うだけです。 というご発言を頂きまして、ずいぶんと当方の抱きます、安芸ガラスさんの発言への違和感の出所が見えてきました。 他所の引用ですが
「マルクスのこの言葉は『経済学批判』序言とよばれる文章の一節です。 http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/KeiHiJ.html その箇所を実際に読んでみましょう。もとの文章にあたるのが一番です。 「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」 ですね。さらに、 「フォイエルバッハにかんするテーゼ」の第6テーゼで「人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なのである」とのべました。 「人間というものはそのときどきの社会関係を反映した存在だ」 「抽象的で一般的な人間なんていないよ」 「マルクスは、個々の人間のなかにある「抽象的な本質」をとりだして「人間というやつはね…」と論じることを戒め、人間は社会の反映なんだから社会を変えることが大事なんだよと考えたのです。」 「では人間はそのように大きくは社会に左右される存在だけども、ミクロのレベルの心理や精神のありようはどうなっているのか?」ということについては、マルクスはあまり研究しませんでした。」 と書いておられる方も見受けられ、なるほど…と思いました。 やすいゆたかさんという方のページで、
「哲学者たち」は、人間の本質を個別存在に内住する抽象として把握してしまって、「現実に実存する、活動している人間たち」「彼らの所与の社会的諸関係」「彼らの現前の生活諸条件」などに対する根本関心がどうしようもなく欠落してしまうと、マルクスは指摘している マルクスもそれまでは、哲学を実現する立場に立っていました。労働のあるべき姿を説いてそれが疎外されているということで、労働者の悲惨な状態を暴いていたわけです。それが急転直下、「哲学」批判を言い出したように解釈されているのですが、哲学的理念で外から批判するだけでなく、現実の諸関係に内在してそこから具体的に変革の論理を導き出すべきだということですかね。 現実的な社会的諸関係の中で、理性や労働や言語を問題にすべきであるという捉え方をマルクスはしていたと解釈することもできる筈です (引用) と書かれていますが、もちろん各人のマルクスの受け止め方、発展の仕方はあるのは当然として、方法に影響を受けられていることは ご発言のとおりですね。 以上のことで明らかなのは、マルクスの人間観については、当方も異論はないです。 安芸ガラスさんへの違和感には、二つの点があることが見えてきました。 @は、記述の仕方で。 「これが「凝縮エネルギー」だと思います。」という表現には違和感がない、つまり「自分はこう思います」という書き方。 一方「体の現象では、凝縮エネルギーが介在するから逆の行動になるのです。」 「心の現象では、凝縮エネルギーにより、観念が体と結婚し固定するからです。」 「言葉を大脳で受け取るからです。」 における「からです。」という表現ですね。 これが真理だ、これ以外ない。とでも言いたいのか?という印象になります。いちいちキリスト教父権的な物言いと思います。 「これが「凝縮エネルギー」だと思います。」には、違和感がないので、どうも文に打ち込むのが面倒なのか?と想像します。 Aの違和感は、マルクスの方法に影響を受けた人間観ですが、その範囲では同意でありますが、 どうも、世界と人間の存在は、論じる以前の前提としているという点です。 先ほどの引用にもあるように、マルクス自身が、「現実の諸関係に内在してそこから具体的に変革の論理を導き出すべきだ」という 態度がある?からでしょうか…おやじさまの「若干スケールが合わないような気がいたします。」という思いにも通じますね。 当方も、その範囲で思索する限定においては、同意なのですが、自己とは何か、という当方の問い立てが間違っているな、 あえて、世界の存在は既に前提として思索する、人間はあるものとして思索する、 何故ならば「人間は社会の反映なんだから社会を変えることが大事なんだよ(引用文)」だからである、 ということでしょうか。 僭越ながら、その限定的認識を成立させている上下世界があるかと思いますが。 「そこには踏み込まない」として、なるほどマルクスの影響を受けているとはそういう事も含むのかな…?というところです。 「ではお前の、自己とは何か、とは何か」と問われれば、上記に記したとおり、 視覚に見えている「知覚正面」(これは二次元)を、無為(論理、理屈なし)に見つめれば(直達正観)、 見ることが世界となり、見ていることそのものにおいて、自己が存在している。 見ることそれ自体が自己の正体であり、見えている世界=自分であった。(見えている肉体も世界の一部) そのことが、量子力学の到達した知見に一致する(←権威付でなく、矛盾はないということ)。 という認識ですから、僭越ながら、安芸ガラスさんの人間観を含む、メタな人間観(不遜ですねーw)かと。 「含む」限りにおいては、同意です。また、おやじさまの思いにも、安芸ガラスさんの言説は適っていると思います。 当方の主張は、「根本を変えること、それは私たち一人ひとりの理解力にある」ですから、 世界を世界足らしめているのは、わたしという意識であり、ひとまず自己の理解を変えて、自己の世界を変革せよ! それが見えている世界を変革する根本そのもの。 いったん徹底的に、個に徹すること。徹した先に突き抜けた処に、「いち」、である存在が自己である認識が待っている、 という、ブレイクスルー(既存の破壊)が、当方の主張となります。 言わば、ライプニッツのモナドロジーでしょうか、「包まれつつ、包む」のが存在。 これを、高次言語で「円心」と表現しています。 (円心とは、円の中心と辺縁は、互いに入れ替えが可能。例:観察における、天球面とビックバーンの関係性) |