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まんまるな金魚が泳いでいる水槽の脇に
その水槽に頭を向けた巨大な魚がびっしりと群れている
金魚は飛び込んで来た猫に呑み込まれたりしている
黒々とした大きな魚は頭を並べてそこに眼差しを向け一心に見つめている
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これは数日前夢に見た象徴的なビジョンである
「金魚」は"現在"の我々で全ての金魚が猫に襲われている訳ではない
呑まれたのは僅か一匹
しかも他の金魚はまったく動じていない
ここで理解して欲しいのだがこの猫が象徴するものとは
"天敵"としての存在であるだろう
自然界にあるものは自然をその無意識の心に直に理解する
故に人間の様に不要に全てを食い尽くすような真似をするものは存在しない
そもそも"天敵"としての存在とは
地球上で自然として存在するものの循環の中には
互いに全体の一部としてシェアし合う"仲間"としての存在で在ると言える事である
そこでは金魚が猫にのまれることなど実に自然の一環であり
我々は無意識の中にはそれを当たり前に理解していると云う事にもなる
意識して考える必要性もないのである
我々自身もまたこの肉体を捨てる事など怖れて暮らしては居ないのである
そんな事いちいち気にしていられない
それだけが正解である
自身を自身たらしむる我々を我々たらしむる"存在そのもの"とは
その淡水の中の金魚(肉塊)を指す訳ではないからである
「観察者」の視点からは「呑まれる姿」と捉えられたとしても
そこでは単に「肉」という物が流通する自然界の中で
互いの「命」のシェアが生まれているだけである
この基本を忘れては精神や心を語る事は大いなる過ちを生む事になる
所謂"魂"はその視点の中に循環せず
そこからは離れているからだ
大きな魚はその水槽の外でその我々の様子をただじっと観察している
淡水と海水が混じり合う瞬間が
今まさに起こりつつあると云う事だと告げているかのようだ
境界である鉢が消えてなくなるほどに朧げなものとなれば
金魚はやがて大海へと躍り出る事になるだろう
まずはその"縁"へと"彼ら"は誘っているかのようでもある
しかし"彼ら"は一貫して我々に何かを要求している訳ではない
あなた方がその存在として「善」であろうと「悪」であろうと
彼らはそうしたことを何も気にしていない
それが真贋を見極める指針の一つである
人の作り上げた価値に真に我々を評価する基準などはないということだ
我々が我々たる所以とは
決まりきった基準によって統率されえぬ処に在る
つまりそれぞれがどうあろうとも正しいのであり
それぞれが間違っていないのである
故にあなた方は道を"選ぶ"事が出来る
そこに障害に思えるものがあるから
そこに向き合う事もそれを飛び越える事も出来る
もしかするとあなたが誰かの障害かも知れない
だから誰かはあなたを見て嫌悪しているかもしれないし
むしろそのことで感謝されているかも知れない
だがより大きな見地では全てが感謝される対象なのである
それぞれがそれぞれの良い部分をそのままにしておくことだけが
自然である物事の舞台の中で進化や発展に寄与する事になるからだ
私が何を言いたいかお分かりだろうか
これは複数の意味が重ね掛けられている
多くの数えきれない人の感情で支えられているかの様に見えるこの世界が
長らく何に囚われ続けてきたかがそこに理解出来る事と思う
起きる事の全ては間違ったものではない
すべての変化の方向性に間違った方向性などあり得ない
どんなことであってもすべては良くなる為に生まれ現れ起こるのだ
ただそれをあなた方が「良い」と捉えられない所に原因がある
つまりすべての出来事はあなた方が望ましい方向性を知る為に生まれ現れ起こる
ただ単に良いと思えるものに目を向け続ける事であなた方は良いものを手に入れる
しかしそこであなた方はまるで決まりきったかの様に
これまでその真逆の方向性にだけ目を向け続けてきたと云うだけの事だ
つまり嫌悪する方向性
そしてその原因となるものに
だから前に進みたくても進まなかったと言える
だがそれはついこの間に迎え"始めた"「終末」までのこと
おわりは同時にはじまりであるという"聖なる矛盾"を信奉するものにとって
ついに転換の時機を迎えて我々は思う方向に踏み出す力を得た
そのように感じられる事は多く現れていると私は感じている
光が真ん前に見えたのだから
この変化は強烈だ
よってあちこちで言われた様に
グレゴリオ暦年明けは2012/12/12から反転の2012/12/21を過ぎ
20:13のマヤ歴で言われた計時周波数の年を迎えて
新たな時を告げる鐘が一斉に鳴りわたり
それまで隠し持っていた力もこうして一気に目覚め呼び起こされて
光の眼差しはこうしたあなた方に大きくただ注がれているだけであり
これから人が出来るのはそれをただ受け止めるか
心を"憎・怒・嘆"といった感情のカーテンで遮るかだけのことである
電気は光を発生させる事は出来ても
闇を"発生"させる事などできないのだ
それと同様に人の倖せと云うのも
基本であるのは唯一「幸福の感情(愛・喜・謝)」だけが
ただあなたの中を電気の様に流れているだけである
他の感情はその流れを塞き止める時に生まれるように感じられるのである
(不安さや孤独感・無力感・失望・執着・怒り・悲壮感といったもの)
それはあらゆる「人としての考え方」というものにこだわって"抵抗"し続けるか
ただ感情の流れを一定にする為に受け容れる努力をするか
たったそれだけの違いなのである
故にあなた方の生活の中に突然現れる「変化」する物事や出来事に
間違った変化や悪い方向性に流れ着く変化などはないのである
故に全ては間違っていないのである
だから何をも怖れる必要はない
その怖れこそが
否
その恐れだけがあなたにとって"怖れること"を引き起こすのだから
(ネガティヴに)"反応"(観念に沿うが為に)した時点でそれは「受動的」であり
その上でとった行動もまた"実はすべて"「受け身」である
が故にそれはネガティヴな創造行為に結びつく
(必要に迫られてせき立てられて嫌々することもまた「他者の"評価"」は受けられる
それが好きならそれも好いだろうし
勿論行動によってのみ何かを成し遂げるという
強い"信念"があればそれは有利に働くだろうが
それでは大抵周囲の影響を常に受け続ける
-良くも悪くもそこにあるのは絶えず"反応"の繰り返しである)
新たな価値観として掲げる事は"そう"ではなく
「前向きに望ましい事」を実感を持つ迄に"想像"すれば
あなたが喜びの見地に定着した状態で"ただ待つ"身であったとしても
実はそれは"主体的かつ能動的"な「創造行為」で在ると言えることなのだ
「プレ(Pre-)現実
(絶えず新たな現実として取り替えられるのを-電磁空間場に-待つ想像的現実)」
は豊富にあり
そこから何を物質世界に"あなたが"「実化」させるかは
単純にどの「プレ現実」があなたにとって
「実化する(信念や可能性として認識される)エネルギーが強い」と"感じられるか"という問題であり
単にその感情(信念)のエネルギー量の問題であるとも言える
故にこれまでは殆どがネガティヴな"反応に拠って生まれた現実"が
あなたの中に「変わらぬ現実」として定着し"維持され続けてきた"のは
簡単に理解出来る事であるだろうと思う
当たり前の事だが敢えて言えば
物事の起こりは"必然的"なものなどではない
ということだ
つまり想いの強さがそれまでの現実感より勝れば
因果を飛び越え別の現実を呼び起こす(量子的飛躍)
全く違う自分を生み出し
全く違う過去を生み出し
新たな未来の自分をそこに生み出したと云う事になる
(勿論物事全般に渉ってその事をここで奨励している訳ではない)
原因があるから何かが起こると感じる感情には
単なる惰性と物事の悔やみだけが感じられる
(「悔やみ」と書いたここは通念上の「諦念」であるかもしれない
殆どの場合「諦め」とは"執着"のニュアンスで使われているからだ
しかし「諦め」とは本来さばさばしたものであり
新しい始まりを受け容れる際のポジティヴな感情である事を承知して頂こう)
その現実化には感情の力が鍵となる
(勿論その理解に至るには全てに対して肯定的な状態である事になるが)
単純なことを更に輪をかけて言えば
様々な「思い込み」に慣れ親しんで来れた者らによって
様々に体系-システム-化された現実はいくつも存在する
あらゆる言語や文化の違いが生まれている様に
そのどれもがそれぞれの視点をして
その者らにとって完全な"現実(常識)"として耐えるものに仕立て上げられている
そこではそれらは「事実」として機能するが
だが事実そのままに捉えて来たものである筈もなく
大いに取り違えて"言語化"されてきたのである
つまり作られた事実として「ただ存在する事実」とは違う形態を持って生まれている
そのようにそれぞれの観察者の視点に依って様々に"事実"とは創り上げられ
体系化されればその世界でそれは事実かの様に通用しつづける事になる
だが何度も言う様にそれはただ存在する「事実」とは違ってねじ曲げられて来たものだ
以上の事から"認識出来る"現実は大きく分けてその二つ在ると言えるのだ
それぞれに正誤の基準がありそこではどれもが間違ってはいない
だがどれもその基準を他の体系にも当てはめようとする事は出来ないのである
これは個人レベル組織レベルで起きている事だ
それを尚も徹底した情操教育の現場などで
普遍(不変化)を望み固定的な価値観でより良い社会を実現しようとする
その事がそもそも混乱と争いのなくならない世の原因を作る事になっているのである
子供は暗にその事を感じて社会や親に抵抗し続けているのだ
或るものはそれを否定し赦せぬといい
或るものはそれを肯定しつつも尚"分別或る立場の者として"葛藤に苦しむという
どちらも同極であるが故反発はしてもくっつかないが
同質の迷いから抜け出ていない
N極とS極なら結びつく
極は二つだけとは限らない
さてさて
"人として"大事でかつ重要な感情を常に一定に保つ事(努力)の素晴らしさを
新たな時代の到来に合わせてここに飾りたいと思う
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