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私の好きな王菲が尊敬する人がテレサ・テンだった。どんな関わり合いがあったのかと、調べてみると、私の知らなかったテレサ・テンがいた。日本でヒット曲を出した台湾の歌手だという認識しかなかったテレサ・テンは台湾から香港に進出して、中国語圏で絶大な人気を誇るアジアの歌姫だった。
テレサ・テンの中国語名は「ケ麗君」、父親は蒋介石と一緒に台湾に渡った軍人である。中国語圏でヒットした「何日君再来」が大陸で禁止されたがゆえに、隠れて聴かれ、口コミで彼女の歌と名前が広がっていったそうである。台湾では、積極的に彼女のカッセトテープを大陸に向けて風船に入れ飛ばし、自由の象徴としてアピールしたらしい。ケ小平が絶対的権力を持っていた1982年頃、大陸ではテレサ・テン(ケ麗君)の人気を表現するのに、“中国の昼は老ケが支配し、夜は小ケが支配する”と言われた。(人を呼ぶ時、年長の人には姓に「老」を付け、年少の人には「小」を付ける)
その後、天安門事変(1989年)に衝撃を受けて、香港で民主化運動にかかわり、中国本土の政府からにらまれてもずっと民主化運動を支援し続けて、中国政府との折り合いのつかないままタイで亡くなってしまった。彼女の活動が政治的問題を抱えていたために、日本のテレサ・テンとの縁が深かった音楽関係者も彼女を助けることをはばかった。日本人の事なかれ主義がよく表れている。中国圏で居づらくなった彼女を日本に亡命させる勇気はなかった。(今でも同じだろうが…)
このあたりの経緯が、有田芳生氏の「私の家は山の向こう―テレサ・テン十年目の真実」に詳しく書かれている。もしもの話になってしまうが、日本の音楽関係者が政治家を動かして彼女を庇うことが出来ていれば(そういう動きもあったようだが実現しなかった)、アジアの歌姫としてもっと活躍できたに違いない。アジアでの日本の評価もずっと良くなったのではないかと思う。こういう文化での価値を堂々と政治に反映させることも自主独立の大きな一歩となる筈だ。(フランスやイギリスという国では、こういう行動は反射的にとる。)
彼女は日本語の歌もうまいが、中国語(北京語)で歌うときの彼女独特の伸びやかな声は日本語の歌とは全く別物である。台湾で歌っていた10代の頃の彼女はとてもキュートで魅力的だ。香港に進出したのは1970年、わずか17歳のときである。彼女の日本でのデビューは1973年20歳、翌74年に「空港」の大ヒットにより一躍日本で有名になった。ところが1979年に不正パスポート使用事件を起こし国外退去となった。5年後の84年に再来日が許され、この年「つぐない」、85年「愛人」、86年「「時の流れに身をまかせ」、87年「別れの予感」と立て続けにヒット曲を出し、日本でもメジャーの仲間入り。
1978年頃にヒットした「何日君再来」の歌や演奏が中国本土で禁止となり、台湾政府は逆にこの件を機に、テレサ・テンを政治的メッセージに利用した。本人は軍の慰問や国父(蒋介石)記念会館でコンサートするなど台湾での活動が目立った。その後は中国での開放政策の中テレサ・テン解禁の方向へ向かった。1989年天安門事件で一気に政治色を強めていった。中国本土からは危険人物扱いをされる。同時に、中国本土の音楽好きの人達に圧倒的な人気を確立した。(王菲もその一人)
彼女は中国系人気歌手として中国語圏(台湾、香港、シンガポール、世界中の華人の間で圧倒的な人気を誇った。本人の日本の歌も他の日本人の歌も数多く中国語カバーがあり、中国本土の人も本土外の華人も原曲は日本の歌と知らずに歌ったり聞いたりしている人が多い。日本に来た留学生はなんで中国の歌が日本にあるのかと思う人が多いそうだ。
(まるで、中国語になった日本製漢字語のようである)
漫歩人生路(ひとり上手)、襟裳岬(襟裳岬)、再來一杯(二人でお酒を)
再見我的愛人(グッバイ・マイ・ラブ)、誰來愛我(港町ブルース)
北國之春(北国の春)、四個願望(四つのお願い)、X+Y就是愛 (X+Y=Z)
愛的理想(あなた)、旅愁(旅愁)、又見炊烟(里の秋)
泪的小雨(長崎は今日も雨だった)、誰来愛我(港町ブルース)
など他にもたくさんある。
動画はこちら↓
テレサ テン を偲ぶ ページ-「日本のカバーソング」-
彼女自身の日本の歌は
我只在乎你(時の流れに身をまかせ)
空港(空港)
つぐない(償還)
愛人(情人)
動画はこちら↓
ケ丽君 - 15周年纪念集
なぜか中国語カバーのない「別れの予感」が私は一番好きだ。
テレサ・テンが宋詩(蘇軾 但願人長久)を現代の音楽家の作曲で歌っているのを聞くと彼女の歌手としての素晴らしさがよくわる。全部で12の詩と現代の作曲家が作った「淡淡幽情」のアルバムは一番の出来かもしれない。続編がないのがはなはだ残念である。
1995年、タイ・チェンマイに年下のフランス人ボーイフレンドと休暇滞在中、まだ42歳の若さで、気管支喘息の発作による呼吸困難で死去(謎の死と騒がれる)。日本でも彼女の死去がトップニュースで流れた。
台北市で国葬並みの葬儀が行われ、台湾政府より国民栄誉賞に当たる「華夏一等褒賞」授与。
テレサ・テンの追悼コンサートで王菲が「我只在乎你」(時の流れに身をまかせ)をうたう。
矢津陌生ブログ http://yazumichio.blog.fc2.com/blog-entry-216.html より転載
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