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つれづればなhttp://turezurebana2009.blog62.fc2.com/blog-entry-105.htmlより転載
筆者は護憲でも改憲でもない。
護憲派の方々に申し上げたい。いったい何を護ろうとお考えなのか。
改憲派の方々にもお尋ねしたい。いったいどう改めてゆくおつもりか。
先の選挙
吐き気をもよおす有様だ。思いもよらない結果とは言わないまでもここまでとは想像しなかった。日本人は烏合の衆か。
日本を出てから十一年、後悔しないようにと心がけそれなりに懸命に生きてきた。一度も帰国していない。
しかしそんな小さな意地とは無関係に、いつのまにやら日本を出たことを後悔しようがなくなってきた。音を立てて崩れてゆく日本、不安げな同胞たちを遠巻きに眺める自分、皮肉だ。
日本人として人間として親として、真剣に考えなければいけないことに目をつむって生きてきた皺寄せが来た。この負債は我々の世代だけではとても埋めることのできる代物ではない。子や孫の代まで重くのしかかるであろう。原発もTPPも日米関係も、酷すぎる借金だ。
どれも議論の余地などない危険物である。目の前に着火した爆発物がころがっているというのに雁首そろえて眺めながら「これは我々にどのような不利をもたらすか」について尤もらしく意見交換しているのが今の日本人、近代は我々を危険が察知できない愚鈍な民族に変えた。
愚鈍だからこそいまだに自民党や石原を支持する。民主党に裏切られたことへの復習のつもりなのか、二者択一しか知らないのか。国政はオセロではない。それとも流行りの国粋主義に軽い気持ちで染まったか、エエエ情けない。
平和憲法の根拠
平和を愛し戦争の永久放棄を謳う日本国憲法の素晴らしさが強調されているが、その根拠をどこに求めているのか。改憲派の指摘のとおりアメリカの傘、しかも核の傘という大前提がなければ何の効力もない平和である。地球上に日本列島しかなけれはありえるが、護憲を唱える方々はそこまで盲目なのか。
日本の経済発展は軍事費をかけず若い労働力を削らずに製造と商売に専念してきたことが大きく関与した。狂犬病のアメリカン・シェパードを前庭に放っておけば外から攻撃されることもない。そんな環境の中で日本人は平和を愛する民族であると嘯いたところで笑いものになるのが関の山である。戦争は厭だがアメリカにカネで片付けてもらうならよいというのは、核兵器は悪いが原子力エネルギーならよいと言ったり、東京に原発はあってはならないが地方ならよいと言ったり、人件費の高い日本での製造はあきらめ途上国の未成年を一日18時間働かせて安く作ればよいと言ったりするのと同様の幼稚な理屈でしかない。
日本国憲法は日本の軍事力を無力化し、アメリカに頭の上がらない国に貶めるための五寸釘である。基本的人権の擁護はその痛み止めである。「軍隊を持たない代わりに人権は最高に尊重される」と言うほうが「軍隊も人権もやらん」と書くより広く長く支持されるだろう。この憲法の原文を作成したのは「権利」のプロたちである。彼らはこの言葉をいかに麗しく魅せるかをよく心得ている。権利には必ず義務がついてくるのは小学生でも知ったことだが、その重さは常に等しいとは限らない。ちんけな権利のために甚大な義務、いや犠牲が伴なうこともある。権利を逆から読めばわかりやすい。
ならば破棄して軍国化なのか。
恐ろしい短絡である。あからさまな軍国化を目的とする意図的な破棄としか言いようがない。改憲と軍国化は本来まるで別の問題である。それが混同されているのは問題の焦点を捻じ曲げ護憲派と改憲派の睨み合いをあおって国論を分断するためである。
戦争ほど儲かる商売はない。アメリカはカネに困ったと言っては戦争をふっかけ、あるいは第三国同士を仲違いさせて漁夫の利を得ている。どこかで戦争が起これば大統領に支持率があがるという物騒な国である。建国以来この世界でアメリカの関わらなかった戦争・紛争があるか数えてほしい。
通信の発達に伴い大航海時代にやっていたような卑怯な真似をやりにくくなったイギリスが汚れ仕事を任せるために作った国がアメリカである。そのアメリカも世界の警察を気取るためにイスラエルを生んで後を譲った。こうして親子三代続いた老舗だが、三代目が言うことを聞かなくなってきたために勘当し、その代りに日本を養子に取ろうという魂胆かもしれない。
日清日露と二度の大戦がそうであったと同じく日本が軍隊を持ってしまえばアメリカの代理戦争をまた買って出ることになる。つまり昨今の日本の右傾化はアメリカを中心とする軍産勢力の差し金である。わが国の対米従属を軍国化で断ち切れるなどと思うのは無知にも程がある。
憲法を持つということ
もし憲法を持つならば、それはこの国の中から生まれなければならない。先祖たちの血が条文の中に脈々と流れてなければいけない。
それなのに、この日本国憲法にはそれがない。なぜならそれは「自由」「権利」「平和」「文化」という我が国にはなかった言葉と概念で作られた舶来品だからである。自由や平和はすばらしい、その何が悪い、そうおっしゃる方々のほうが圧倒的に多いのは徹底した戦後教育の賜物であるし、ハリウッド映画によるやわらかな洗脳の成果でもある。
欧米にはキリスト教が、中東にはイスラム教とユダヤ教がある。彼らの国の法律には生活規範としての信仰がいまだ生きており、それは最後の審判を神に委ねる気質が残っていることの証拠でもある。近代法といえどその精神を踏まえて作られた。しかし日本の場合は先祖たちから受け継いだ精神を近代化のためにかなぐり捨てた。捨てさせられた。日本の憲法は外から取ってつけたに過ぎない。日本人の血が少しも生きていない。
我が国は一朝一夕で成りえたものではない。たかだか二百年たらずの近代と、たかだか二千年あまりの有史時代のその前には二万年を越す太古の時代がある。我々の五体と心にはこの古代の記憶が生きている。森羅万象に神の存在を見出し、それを畏れ敬い多くを望ます行いを正して生きてきた先祖の記憶が生きている。日本を共同体としてとらえるとき、必要なのはこの「民族の記憶」である。日本民族であれば誰もが同じように考えるとは言わないが、必ず心の共通項、数学で言えば公約数が存在する。かりに憲法を制定しようと言うのならばここから歩み始めるべきである。
現実はそうではなかった。我々の民族の記憶は非科学・非合理と形容され顧みられなくなった。それよりも輸入された近代思想を持ち上げ、その上で受け入れたのがこの日本国憲法である。民主主義という係数を掛けて公倍数を得たのである。この憲法は我々の内側から生まれなかったために軋み、揺らぐ。国の最高法規がこのざまであるからこの国が独り立ちできない。改憲派がいくら上書きしたり削除したとしても時間の無駄である。
政府内の改憲派のやりたいことは明解だ。冷戦時代とは掌を返し日本に戦争をさせたがるようになった欧米軍産勢力に国を売り渡し権力と身の安泰を得たいだけだ。まるで幕末の再来を見るようだ。あまりに不毛な150年だ。その売国奴の尻馬に乗る国民の多さはさらに不毛だ。
ばかげた憲法論争はこの先も続く。論争すべきはこの国をどうするのか、どのような国をつくらねばならぬのか、それだのに。
軍隊を持つということ
自分の国を守るために国民が戦う、ときには負傷し、あるいは命をおとす、国はその補償をする。よその国々ではこれは当然のこととなっている。この制度を肯定した教育を受けて育つので日本にあるような軍隊嫌悪症候群はみられない。日本には軍も兵役もないというと「いいなああ」より「だめだなあ」といわれることのほうが多い。他国と国境を接してしのぎを削ってきた経験のある国から見れば軍がないのは裸も同然なのである。今日は仲のよい隣国が、明日に攻めてくることもあり得る。彼らにとっての国境というものが縄張り争いの結果に張られた「縄」であり、それはいつでも「最前線」に変わりうるものだからである。そういう意味では海に囲まれた日本国は特殊な状況に見えないこともない。が、そう見えるだけである。爆弾は海の向こうからでも、大気圏外からでも飛んでくる。弓と刀で戦った時代は過ぎてしまった。
トルコは長年、隣のギリシアと領土問題で反目し続けてきた。近年それが氷解に向けて動き出し首脳会談にまでこぎつけたがその矢先、あろうことかトルコ軍はイスラエルから対ギリシアと称しミサイルを購入、配備した。軍が政府の言うことをきかないのである。軍は必ずこうなる。それは各国の軍部の中枢には無国籍の軍産勢力の息がかかった間者が放たれるからである。もちろん政府の中にもであるが、そこに必ず介在するのが財界人、薬や食品にかこつけて兵器を売買する武器商人たちである。世界のそれを「調整」するのは国連の仕事である。大戦争を回避し小競り合いを長く続けさせるよう手心を加える。これが一番儲かり、しかも先進国の威光をより見せ付けることができるからである。
もし軍をもつならば政府に軍の首根っこをつかみ制御する力量と他国と渡り合うだけの外交手腕が必要なのである。日本政府にそれができるかなど笑止千万、軍隊を持つ持たないの話をする前に政府と呼べるものなど日本にはない。
特定の国を第三国に貶めるためには内紛を煽るか近隣諸国と仲違いをさせておくのがよい。国論を分断され戦費を費やし若者が傷つき命を落としてゆく。国力は下がり続ける。罠である。今この世の中で軍隊を持ち戦争をするということはこの罠に嵌りにゆくことである。陰で笑うのは誰か、それは国旗をふりかざす者に違いない。
そしてもうひとつ、この軍国化を叫ぶ政党は原発の推進もしたがっている。それには福島第一原発の収拾と今後も起こりうる原発事故の処理に当たらせる人員の確保が急務となる。国に軍があり兵士がいればそれは当然彼らの責務となる。汚い奴等ほど勘定高い。
何を守るのか
これまではカネに物を言わせて外国に国を守らせるていた。ただし「守る」という言い方は正しくない。アメリカが楯になり外からの攻撃をかわしてくれた訳ではなくアメリカが日本のための戦争を用意しなかっただけのことである。だから米軍は日本に無意味に駐留していたことになる。日本が米軍のために費やしたカネをそっくり寒い国にくれてやればそれでも事は済んだはずだ。我々が「平和」と呼んでいたものはこれである。白昼夢でも見たと思って忘れたほうがいい。
しかしアメリカはもはや方向を転換し、日本を防衛する気などない。なぜなら新与党は昔からアメリカの手先でありこれまでもアメリカの指示に従い政策を打ち出してきた。勝手に改憲・軍備をさけぶことなどは罷りならない。つまり日本に軍隊を持たせたがっているのはアメリカ、いや軍産勢力であり、このままでは日本の若者たちは国のためではなく武器商人たちの利益のために戦地に赴くことになる。そして敵兵とて武器商人に駆り出されただけの人の子である。あってはならない。
近代、そして戦後に手に入れた繁栄に盲執し、さらに多くを望む我々の姿ははたして日本人に似つかわしいだろうか。繁栄を失いたくないあまり原発事故にすら目をつぶる姿は、人に似つかわしいだろうか。挙句には子供たちに武器をわたし人を撃たせる羽目になる。これが親のすることだろうか。モノの豊かさを追い求めれば最後には血を流さざるを得なくなるのだ。
そうまでして守ろうとしている物は子供たちよりも重いのか。
我々が今日ここに在るのは遠い昔から命を紡いできたからである。子を産み、育て、守り、それを繰り返してきたからである。辛かろうが、飢えていようが、我が子を思う気持ちは普遍である。しかし今、若者たちは子を持つことに逃げ腰になった。貧しさを恐れてか、時間が惜しいのか、よほど邪魔なのか、理由はそれぞれだろうが子供どころか結婚まで億劫になったという。これではもう守るべきものを失ってしまったといっていい。そんな彼らと国防の話などできようか。国は国民の集まりである。国民一人ひとりを生んで育てるのは家族である。その家族を守れない、あるいは守るべき家族をほしがらない国民が集まってできた国を、誰が何のために守るというのか。
死守すべきは繁栄でも、憲法でも、ましてや日の丸でもない。遠い先祖たちから受け継いだこの命の、そのあるじたる魂の、その担い手たる我が子たちである。それを思い出さねば法も国家もただの偶像でしかない。
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