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維新の停止 維新の廃止
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/304.html
投稿者 蒲田の富士山 日時 2012 年 12 月 18 日 15:52:31: OoIP2Z8mrhxx6
 

国には、それぞれのその国の物語があり、歴史がある。
外国に煽り立てられて内戦をしてはいけない。
維新の要素として、近代化の必要、国としてまとまりが必要、などがあるが、今の日本国には全部揃っている。
今、「維新」が必要であることの根拠は何だろうか?
もっと徹底的な近代化と、もうひとつは、南朝革命の推進と武家社会の否定、だろうか?
徹底的な近代化を進めると、日本は消滅する。
南朝革命の推進と武家社会の否定は、仏教がからんでいる。(と思う。)
孝明天皇の病死について、西洋人は無関係だろうか?
明治以降、仏教は変質した。
今、維新は停止している。
維新を廃止しなければならない。  

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コメント
 
01. 2012年12月19日 14:05:01 : CTj7jx56XU
幕末で維新という言葉を使った人はいるのでしょうか? あれはひょっとして明治にはなってからその出来事を維新と呼んだのでは? それ以外は皇道派と、橋下。 

02. 蒲田の富士山 2012年12月20日 12:31:49 : OoIP2Z8mrhxx6 : EKBq7DhtPE
01様、コメントありがとうございます。
当初は「維新」ではなく、後付けだと思います。(ご一新だったかな、なんかの本にあったような・・・)
毎度、200文字ちょっとの投稿で、皆様、すみません。

03. 宮島鹿おやじ 2012年12月21日 05:04:39 : NqHa.4ewCUAIk : Z76ZBlXL0k
おはようございます。
宮島です。

内戦をしているうちに母屋を則られるというのは、英米を中心とした欧米諸国の常套手段であると思います。また、彼らから見れば、日本人も朝鮮人も中国人も「同じ顔をしたインディアン」でしょう。だから仲違いさせたい。

さて、南朝革命という言葉がありますが、どういう概念でしょうか。
よろしければ教えてください。


04. 宮島鹿おやじ 2012年12月21日 05:06:03 : NqHa.4ewCUAIk : Z76ZBlXL0k
誤 母屋を則られる
正 母屋を乗っ取られる

でした。


05. あやみ 2012年12月21日 21:53:35 : oZZpvrAh64sJM : rqyLQSi0ag
蒲田さま

「ごいっしん」だったと聞いたことがあります。
ちょっと面白いと思ったのは、

安永8年(1779年)、平戸藩主の松浦清(松浦静山)が藩校を設立した際、校名を「維新館」と名付けたことに対し、幕府から「維新とは不穏当である(倒幕の意思ありか)」と問責されているが、その後も校名に変更はなかった。これもまた『詩経』より採られたものであった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%AD%E6%96%B0

です。かつて幕府が眉をひそめた言葉。
「明治維新」と後になって誰が命名したかは分かりませんが、おおかた福沢諭吉か西周あたりではないかと思います。知っている方がいらしたら是非おしえてほしいです。

新規投稿しました。蒲田さんのとすこしかぶってます。


06. 蒲田の富士山 2012年12月24日 22:22:09 : OoIP2Z8mrhxx6 : v0SpXZfqBc
宮島様。
もうちょっと、待ってください。
すみません。
「幕末維新の暗号(加治将一)」と、「長州の天皇征伐(大田龍)」を、5年ほど前に、繰り返し読んでいたのですが、たぶん加治さんの本に<南朝革命>があったと、記憶しています。
この、お二人様から、もう卒業したいなあ、という気持ちもあったので、ご返事が遅れました。
また、追記いたします。
よろしく。

07. 宮島鹿おやじ 2012年12月25日 07:46:11 : NqHa.4ewCUAIk : Z76ZBlXL0k
蒲田様

はい、お待ちします。(^^)


08. 蒲田の富士山 2012年12月29日 22:12:57 : OoIP2Z8mrhxx6 : 1LAAHWKS5U
例えば、廃県置藩を行う。
現在の「藩」には殿様はほとんどいないから、地方自治行政の名目的な変更になるだけだが、それをやってみる意義は大いにあると思う。
明治維新と、逆のことを、あえてやってみる。
それは、近代文明や、三権分立や、民主主義や、その他を、すべて敵にするとかではなく、これから先の話だ。そのために、維新を停止(廃止)しなければならない。
宮島様。
加治さんの本を、図書館から借りてきました。
正月、三連休がありますので、<南朝革命>について、ピックアップして、またコメントします。

09. 宮島鹿おやじ 2012年12月29日 23:41:09 : NqHa.4ewCUAIk : zXM2nNiAso
蒲田様

ありがとうございます。

それにしても、廃県置藩、奇想天外ですが、おもしろい発想ですね。
もう一回、幕府を開くというのはどうででしょうか。

そして、幕府に加勢するものは、「与力」として位置づける。
また、内部の衆議は、「ネット」で行う。
ネット幕府です。


10. 宮島鹿おやじ 2013年1月01日 12:10:47 : NqHa.4ewCUAIk : PxLaw1e3XY
蒲田様

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

本当にいい年にしたいものですね。
これからもいろいろとご教示ください。



11. 蒲田の富士山 2013年1月01日 19:22:13 : OoIP2Z8mrhxx6 : Us0iC13Aeo
宮島様
 
こちらこそよろしくお願い申し上げます。
 
新年早々、政治板に投稿してしまって、それを見た人が300人ぐらい。政治板に「富士山」の名前で投稿するのは初めてですが、まあなんというか、コピペで、えへへへです。コメントが1っこ付いていますが、私のコメントのみです。記事のURL付け忘れたのでコメントがもう1っこ増える予定です。



12. 蒲田の富士山 2013年1月02日 19:06:13 : OoIP2Z8mrhxx6 : koEcZLbOKY
加治将一さんの本。
「幕末維新の暗号」より。

176頁。9行目。
仇にこんなことをして、明治天皇は先祖にどう言い訳するつもりなのか。
203頁。12行目。
「楠公義祭同盟をご存知か?」
206頁。12行目。
「役に立たない君主は、替えてしまえというものです」
392頁。12行目。
「ご存知のとうり、楠公祭は南朝復活の決意表明とイコールで、そこに松蔭が祀られた。すなわち松蔭が南朝革命のシンボルとなった瞬間です」
 
なんか、この本が手元にないと、わけがわからない引用でした。すみません。
この本では「南梟団」となっているけど、大田龍さんの本によると「長州黒手組」というのもいるらしい。


13. 鎌田の富士山 2013年1月03日 11:10:23 : Qor9q0B7HbDd. : wb6kFcjKAI
加治さんって人、外国でユダヤ人と知り合い、その人脈のすごさに驚き、帰国してから、フリーメーソンに入会してみたのだそうだ。(「石の扉」を読んでみての印象というか概略というか)今もフリーメーソンなのかどうかは、知らない。「あやつられた竜馬」も読んでみたけど、この「幕末維新の暗号」が、とびぬけて面白い。いちばん迫力のあるのが、328頁からはじまる「ユカ」さんからのメール(の添付ファイル)。これが、359頁まで続く。
このあとに出た本からは、迫力が消えていた。なぜだろう。現実の「ユカ」さん(協力者)が、離れてしまったのかな。
巻末にある参考文献の最後に「裏切られた三人の天皇」(鹿島さんって著者)があり、大田龍さんがやってたところの出版社から出ている本だけど、この本がヒントになったという意味のことを、加治さんが言ってたと、大田さんがだれかの対談本で言ってた。とゆうことは、大田さんとも面識があったんだね。
「裏切られた三人の天皇」はいつか読みたいと思っているうちに、だんだんカネがジリ貧になってしまったので、いまだに読んでいない。(図書館には多分無いと思う。)
この本の巻末の次に、祥伝社のPRページがあって、そこに「宮大工千年の手と技」(松浦昭次)を発見しました。なんか記憶の片隅に残っていたから図書館で手にしてしまったのかな〜。(う〜ん???)
宮島様。
ひとり言みたいなことばっかりで、3連休終わりそうですけど、すみません。
また追記いたしますので、よろしく。

14. 蒲田の富士山 2013年1月08日 12:28:57 : OoIP2Z8mrhxx6 : ZfXxsqI7hE
掃除してたら、部屋の隅から「長州の天皇征伐」が出てきました。
−−以下、59頁から引用。
*明治天皇は、四十四年三月三日、南朝正統の勅裁を下した。
*南朝正統論を突き詰めていけば、当然北朝系歴代天皇は偽朝であり、正統の皇統ではない、との結論が導き出される。したがって、北朝系の明治天皇の正統性も問題とされる。
−−引用終了(*と*の間3行中略)
第二章、亡国の無知、第一節、明治維新を進発せしめた「尊皇」を時代の「空気」にした朱子学(106頁〜)
ここでも朱子学が出てくる。
まだまだ、大田龍さんから卒業できないかも。
前コメの鹿島さんは、鹿島fさんです。(御名前の変換が難しかったので・・)
南朝革命とは、南北朝時代の南朝を正統とし、徹底する革命なのだとしたら、明治天皇は堂々と自己否定をしたことになる、この革命は中途半端なままなのだ。
どこかに、隠蔽がある。
宮島様、真正面からのご返答ではなくてすみません。自分でもよくわかってないのです。

15. 鎌田の富士山 2013年1月09日 22:28:49 : Qor9q0B7HbDd. : DzsqrBxB8A
ひょっとしたら、武士が武士を自己否定したと、それが明治維新だったのかもしれない。

16. 鎌田の富士山 2013年1月10日 16:25:30 : Qor9q0B7HbDd. : F0GBNcv4Iw
ひょっとしたら、寅之祐君は、睦仁君の「当て馬(ライバル)」として連れてこられたのかもしれない。睦仁君の御父上のような、あまりにも消極的で後ろ向きな「攘夷」は困るというわけだ。その役割を承知していたので、寅之祐君は故郷にも戻らず、消息を消してしまった。睦仁君のその後が、明治天皇ならば、そうゆう事か?
TPPについて、自民党は大混乱の様子だが、原発についてもおおいにもめてほしい。隠蔽をするなよ。

17. 宮島鹿おやじ 2013年1月14日 12:43:10 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
蒲田様

ちょっと拝見しましたが、ちょっと難しくてただちにはお話が咀嚼できません。
すみませんです。
しかし、時期をみて、いずれは、朱子学などを中心にお話をさせていただければと思っています。

北朝、南朝の軋轢が現代史まで続いているとすればそれは驚愕の事実です。

現在、必死に物理の基礎を勉強しています。
なんとなく、原発推進側(ICRPなど)のトリックがそこにあるように思えるからです。


18. 宮島鹿おやじ 2013年1月14日 12:45:40 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
すごい雪です。

物理学習が疲れてきたので、ウイスキーをコーラで割って飲んでます。

雪見酒です。

雪が溶けたら、放射性核種も無くなるといいのですが。はは。


19. 鎌田の富士山 2013年1月15日 19:56:46 : Qor9q0B7HbDd. : IUxTv45pLE
>北朝、南朝の軋轢が現代史まで続いているとすればそれは驚愕の事実です。
維新前、江戸時代にはそれが沈静化していたのに、西洋人がいじったのではないか?ひょっとしたらですが。
大雪のため、自転車帰宅を途中であきらめて置いて、電車で帰り、また今日電車に乗り取りに行きました。
雪見酒のチャンスはなかなか無いですね。

20. 鎌田の富士山 2013年1月17日 17:27:04 : Qor9q0B7HbDd. : uywuLCbaKQ
政治板の「ハナの愛人」さんの投稿。

http://www.asyura2.com/12/senkyo142/msg/685.html

−−以下、引用。
>室町時代の吉田神道の創始者・吉田兼倶(1435 ? 1511/吉田神道の特徴は“神は心なり”を主張して人が神となり祀られる風習を広めたことにある/この風習に最も敏感に反応したのが遺命で神社を造らせた豊臣秀吉(豊国神社)と徳川家康(東照宮))

>「華夷秩序」とは、中華(漢民族)とその他周辺の夷狄(異民族)との間で秩序(正しい順序)が保たれているべきとする、いわゆる中華思想の元になる考え方だ。徳川幕府は成立当初、先進文明国(漢民族文明の国家)である中国に対し一定の尊敬の念を持ち続けていたが(無論、自国中心主義の政治的情念はその頃から煮立ちつつあったのだが・・・)、1636年に満洲で建国された清王朝(満州族による征服王朝)の誕生が、その思想に対して外形的変化を迫ることになった。

>その後、荻生徂徠(1666 - 1728)が現れるが、徂徠は、当初、明代の研究手法であった中国儒学研究のための古文字学を取りいれたが、やがて自己批判に転じ、遂には日本古来の国学の提唱へと転向し、その後の本居宣長、平田篤胤らの国学(日本学)の祖となった。

>国学は、儒学における古文字学派(荻生徂徠ら)の成立とほぼ同じ時期に興ったものであり、日本の古典や古代史についての研究、およびそれに伴い新たに盛り上がってき思想運動であった。それは、契沖に始まり、荷田春満を経て賀茂真淵から本居宣長へと継承されるあいだに「復古神道」と呼ばれる新たな「神道」論となった。

>やがて、国家の起源を記紀神話に求め、自国の尊厳と優越を説く論理や思想が「国体論」または「国体思想」と呼ばれるようになる。後期水戸学、特に会沢安(正志斎とも呼ぶ/あいざわやすし/1782 -1863)の著書『新論』で、その理論的体系化が深まる。やがて水戸藩の学風は、18世紀末以降における、藩主・徳川斉昭を中心とする尊王攘夷運動の理論的支柱となった。

>陰陽師の戦法ではないが、神・仏・鬼神の姿形の区別が判然としない<日本型極右ウロボロス神(構造災害)>の呪縛の渦を止めるには、先ず其の恐るべき渦の流れの中に自らが決死の覚悟で入り込むべきなのかも知れない。

−−以上、引用終了。

ここいらへんの書物も読まなければならないなあ。
今年の課題です。
朱子学も。


21. 宮島鹿おやじ 2013年1月18日 01:01:20 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
深夜に目が覚めてしまいました。
目の前の土壌や汚泥について調べるために何を思ったか物理の基礎を勉強しはじめましたが、昨日、なんとなく、特殊相対論のローレンツ変換というものが、ようやく体に入ってきた感じがします。それまでは、文字を読んではいるが、体が受け入れなかったのが、「スッと」入ってきた感じです。○○の手習い、年寄りの冷や水・・・。遅々たる作業ではありますが、まあ、続けるつもりです。

原発スレでは、東大のあり方について議論が起きていますよ。
http://www.asyura2.com/12/genpatu29/msg/718.html
私は参加していませんが、やはり、朱子学がキーワードのように思います。


22. 蒲田の富士山 2013年1月22日 18:09:10 : OoIP2Z8mrhxx6 : YliWysPIpg
東京大学を、福島に移転しましょう。なるべく、原発の近くに。
東京大学は東京の一等地にあるため、売り払ったら、移転費用など問題ない。
新入生は間近で除染や廃炉について考えると。
お国のためですよ。

23. 蒲田の富士山 2013年1月22日 18:25:25 : OoIP2Z8mrhxx6 : YliWysPIpg
新年から「鎌田」が「蒲田」のはずなのですが、エラーチェックではじかれなくなったようです。もうすこし前からかもしれませんが、確認中です。

24. 蒲田の富士山 2013年1月24日 23:39:42 : OoIP2Z8mrhxx6 : FGag9t0axk
私は仕事上のトラブルや、反省やら、また職場の人の印象やら感想なりを、ここで話題にしないようにしている。それは、「阿修羅」から見れば、「私生活」だからだ。
人は、職業を持つことは重要だが、出勤日に出勤することも必須だが、それとは別の、もっと大きな視点を待ちたいと思う。
前に務めていた、お弁当工場が閉鎖になったので、今は食品スーパーで接客補助のような仕事をしているが、そのようなことの詳細をここに投稿するのは、意味が無い、ナンセンス、場違いだ。
職場を改善しようとして労働組合を作っちゃいました、とかなら、リアルタイムで、その後どうなりましたか?とか、そういう話題も提供出来るだろう。
ただ、何もしないで、ベタベタの日頃の不満の鬱積やら、対人関係やら、ここにぶちまけたら、きりがないや。
「asy8」さんよ、あんたは、何様なんだ?
仕事が無いのなら、神奈川に来なさい。
面倒みてもいいよ。

25. 蒲田の富士山 2013年1月25日 08:20:19 : OoIP2Z8mrhxx6 : tumSXs7uyQ
上記↑コメ訂正。
ごめん、面倒はみれないです。
ご相談ならば聞きます。
以上(酔っ払いでした)。

26. 宮島鹿おやじ 2013年1月26日 20:44:17 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
もし、私が仕事にあぶれたらよろしくお願いします。

と、まあ、半分冗談はさておいて・・・。

しかし、地方によっては「仕事」がないんですね。
この、仕事が無い・・・という感覚と、原発立地というものはつながっていますね。
仕事が無い、仕事が無い、原発がなくなると仕事が無い・・・。

発電したいだけなら、なにも核分裂する必要はないと思います。
太陽光でも太陽熱でも地熱でも「仕事」にはなるはずです。

まあ、そこの自由選択の余地があるかどうかというところなんでしょうが。

それでも、蒲田さんのおっしゃるとおり、大きな視点をできるだけ保つようにしないと、弱いもの同士がお互いを掴んだまま、ずんずん引き摺り落ちていくような構図がありますね。

何にもまして、連帯が必要かと。そのための情報共有。


27. 蒲田の富士山 2013年1月26日 22:41:00 : OoIP2Z8mrhxx6 : EJftJTdqwQ
ひょっとしたら、「asy8」さんは、年金もらうまでの貯えが、実はあるのかもしれない。
それで、失業関連のあちこちの施設をひやかしているのかな?
そういうわけでもないか?
真相は不明だな。
ハローワークも、このごろは、丸投げしているしているしね。
ハローワークで地方の求人を見ると、なかなかきびしい。
神奈川だって、きびしい。
新興宗教のようなものと官僚(公務員)を、既得権者として嫌っているみたいだが、企業経営者とかにまともな人がいると信じているのだろうか?
官僚批判は昔の反スタ新左翼の看板だったが、このごろの官僚批判はまったく出所(でどころ)が違う。反スターリン主義ではなく、「警察と団結して、アメリカのために戦え!」と、そういう事か?

28. 蒲田の富士山 2013年1月27日 23:15:07 : OoIP2Z8mrhxx6 : 2qj1wcjNRA
私は、「安芸ガラス」さんが嫌う階級の出かもしれない。
私の実名(名字)がどうもそれだ。
両親は佐賀なのだが、東京生まれにしてみれば、私の実名は意味を持たない。珍しいだけなのだ。
まあ、それにしては、よくもまあ、これだけ落ちぶれたなあ、と、この頃思うが、また、落ちぶれてしまった事にもそれなりの道理があり意味がある事なのだ、とも思う。
親は官僚(国の)をやっていたが、(東大出ではないが)、私が官僚批判に過剰反応するのは、どうも、その辺の事情がからんでいるのかもしれない。

29. 宮島鹿おやじ 2013年1月28日 21:01:58 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
よかったら、私のスレにもおいでください。
武士について話しています。
日本人のメンタリティを考える上ではどうしてもはずすことはできません。
お願いします。

30. 蒲田の富士山 2013年2月02日 23:35:56 : OoIP2Z8mrhxx6 : oquLXd9xuU
「橋田邦彦」で検索をしてみると、戦前の文部大臣をやった人で、専門は医学なのだが、著作に「正法眼蔵」とかについてもあるとのこと。
「正法眼蔵」とは道元さんの著作(読んだことは無いよ)。道元さん開祖の曹洞宗の総持寺が鶴見にある。
さきの大戦について、「やらせ」ではないか、という貴重なコメントをいただいた事がある(「全的滅亡の曲譜」へのコメント)。
戦前の十年とか二十年とかの日本人の「熱狂」について、どう言えばいいのだろうか?
それは、明治維新の時から、すでに準備されていた。
計画されていた、とまでは言わないが。
私はこの歳になってみて、「十年とか二十年とかの」の時間の尺度や意味あいが、よくわかるようになった。
例えば、私は25年間、ヘンな仕事をしてきたが、それが、25年という物の尺度だ(感覚だ。概念だ。)。最初のころは、もてはやされて、懸命に頑張ってなのだが。
いや、そんなことは、どうでもいい。
何を取り戻せばいいのか?

31. 蒲田の富士山 2013年2月04日 22:33:18 : OoIP2Z8mrhxx6 : IATWmAPRYI
訂正
懸命に頑張ってなのだが。

懸命に頑張っていたのだが。
懸命に頑張ってたのだが。
以上(まあ、なんでもいいや、とりあえず。)

32. 蒲田の富士山 2013年2月05日 20:13:10 : OoIP2Z8mrhxx6 : 4Lzybya4W2
木下さんの岩波の本を、鶴見の図書館で予約しました。
1週間後ぐらいに、図書館に届きます。
「入門朱子学と陽明学」は、予約が2つあり、予約したけど、半月後ぐらいになるかも。
買うとしたら、新書だから800円。(でもねえ・・・800円・・・)

33. 蒲田の富士山 2013年2月08日 23:45:51 : OoIP2Z8mrhxx6 : XTzLm6wS5s
「asy8」さんの新投稿がありました。
この人にとっての、国際主義とは、「オリンピック」なんだ。
よ〜く、わかった。
もう、なあにも言わないよ。
さよなら。
ところで、コメント12での「役に立たない君主は、替えてしまえというものです」の、のコメント入れた時は覚えていたのだけど、「替えてしまえ!」の発想の主はだれだったか、ちょっと、ど忘れてしまって、まあ、そこらへんも、著作があるのかどうか、無いかもしれないけれど、そのへん、進めないとね。

34. 宮島鹿おやじ 2013年2月09日 20:43:27 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
ギリシア思想の本読んでて、へろへろです。
目はしょぼしょぼします。

朱子学の研究が進んだら、是非、アップをお願いします。

今夜も冷えますね。


35. 蒲田の富士山 2013年2月09日 23:11:47 : OoIP2Z8mrhxx6 : BDIqGNOnKw
宮島様。
冷えてます、冷えてます。(暖房無しです。)
憲法の条文削除とかのヘンなコメントしてすみません。
明日、あやみさんに、新年の御挨拶をしなければならない。
でも、明日は、出勤日だなあ。
それからまた、「asy8」さんの今日の投稿が、なかなかいい調子。(がんばれ!)
まあ、でもねえ、正体不明だね。

36. 蒲田の富士山 2013年2月14日 16:03:04 : OoIP2Z8mrhxx6 : PNvLLocHhU
おもいだしました。
横井小楠です。
以下引用−−−徳永洋(新潮新書)−(検索で見つけました。)
幕末維新期に活躍した人物の中で、今日、横井小楠ほど不遇な人間はいない。
 西郷隆盛や勝海舟をはじめ、錚々たる面々に思想的な影響を与えたにもかかわらず、地元の熊本でも彼が果たした役割について語れる人は少ない。地元でさえそんな具合だから、全国的な評価は推して知るべし。今では日本史の教科書でもろくに取り上げられず、幕末モノのドラマで登場することもほとんどない。半ば忘れ去られた存在だといっていい。
だが、横井小楠は決して軽んじられるべき人物ではない。むしろ幕末維新史を語る上でのキーパーソンの一人であり、小楠を抜きに維新はありえなかったと言っても過言ではないのだ。
小楠と交流のあった人々の言葉を見れば、それは歴然としている。
勝海舟は『氷川清話』の中で、「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲(隆盛)とだ」「横井の思想を、西郷の手で行はれたら、もはやそれまでだと心配して居たに、果して西郷は出て来たワイ」と語っている。
その西郷は、「小楠が諸国遊歴した際、人材であると言った人で、その後、名を挙げなかった者はいなかった」と小楠の人物鑑識眼を激賞。坂本龍馬は「西郷や大久保たちがする芝居を見物されるとよいでしょう。大久保たちが行きづまったりしたら、その時、ちょいと指図してやって下さい」と小楠に語り、吉田松陰は「先生の東遊の節は、ぜひ萩に立寄って藩の君臣を指導してほしい」と懇請している。また、高杉晋作も「小楠を長州藩の学頭兼兵制相談役に招きたい」と久坂玄瑞に相談している。
幕末維新の英傑達が、こぞって小楠に一目を置き、龍馬、松陰、高杉に至っては師と仰いでいたのである。実際、龍馬が作成した有名な「船中八策」と「新政府綱領八策」は、小楠が幕府に提出した「国是七条」と福井藩に提出した「国是十二条」をそれぞれ下敷きにしているし、また、由利公正が起草した「五か条の御誓文」にも、小楠の「国是十二条」の影響が色濃い。
華々しい“革命家たち”の陰に隠れて目立たないが、その構想力、影響力からいえば、小楠こそ、まさしく「維新の青写真を描いた男」と呼ぶべき人物だったのである。

横井小楠は、欧米列強の開国要求によって幕藩体制が揺らぎはじめようとする前夜の文化六年(一八○九)、熊本藩士の次男として生れた。勝海舟よりも十四歳、西郷隆盛よりも十八歳年長で、維新を見ずして亡くなった島津斉彬と同じ歳である。
 本書はその生涯をたどっていくが、ひとまず彼の略歴を人物事典風におさらいしてみると、こんな感じだろうか。
〈幕末維新期の思想家・政治家。熊本藩士。藩校「時習館」に学び、藩命で江戸に遊学。藤田東湖や川路聖謨らと交わり、帰国して実学党を結成、藩政改革を試みるが、藩内主流派の反撃を受け失敗。私塾「小楠堂」を開く。酒の失敗などもあり熊本藩では用いられず、二十余藩を遊歴。吉田松陰、橋本左内らと交わり、福井藩の藩主・松平春嶽(慶永)に招かれ政治顧問となる。万延元年(一八六○)、「国是三論」を著し、開国通商、殖産興業による富国強兵を提唱。春嶽が幕府の政事総裁職に就くと、そのブレーンとして幕政改革や公武合体の推進に手腕を発揮した。後に失脚し、熊本での閑居を余儀なくされるが、その間も坂本龍馬らの訪問を受けるなど、多くの志士たちに影響を与えた。維新後には新政府の参与となるが、共和制論者、キリスト教主義者と誤解され、明治二年(一八六九)、京都で暗殺された〉
要は、「熊本では認められず、福井藩主・松平春嶽の参謀として公武合体推進期に活躍した開国論者」ということなのだが、小楠はその識見の高さと交友の広さで、勝海舟などの幕臣から薩長の倒幕派に至るまで、幅広く影響を与えた。
小楠の主張は、「今の徳川幕府の政治は、徳川家ご一家の便利私営のための政治であるから、これを止めさせ、まず公武合体を実現して、さらに諸大名、諸藩士の有能な人物を登用し、それを朝廷で統治する。政治は朝廷から出て日本国中共和一致の平和な国家にしなければならない」というもの。ここでいう「共和一致」とは、いわゆる「共和制」ではなく、議会主義といった意味であり、平たくいえば「天皇の下に国家を統一し、人材を広く登用し、議会政治を実現する」というものであった。
これは維新政府が目指した政体そのものである。現に西郷は大久保利通に宛てた手紙の中で小楠の主張に触れ、「一度この策を用いたら、いつまでも共和政治をやり通さなければならない」と、覚悟のほどを語っている。また、小楠は「天下一統人心洗濯希うところなり」というのが口癖だったが、龍馬は小楠の話を聞いた後、姉乙女に宛てた手紙の中で「日本を今一度せんたくいたし申候」と書いている。小楠の描く青写真はそれほど魅力的で、説得力があったのだ。
政体の構想だけではない。小楠は国のあり方として高い理念を掲げながら、一方で現実をしっかり見据えた柔軟な対応を説いており、攘夷か開国かといった硬直した議論に流れていた当時の日本において、その思想は異彩を放っている。
小楠はアメリカに留学させた二人の甥に、こんな言葉を贈っている。

「堯舜孔子の道を明らかにし
 西洋器械の術を尽くさば
 なんぞ富国に止まらん
 なんぞ強兵に止まらん
 大義を四海に布かんのみ」

小楠の唱える富国強兵は、単なる「西洋文明の輸入」ではなかった。本書で詳述するが、小楠は「西洋文明はあくまで技術として優れているのであって、そこには徳はない。日本は東洋の徳ある文明をもとに、そこに西洋の科学文明を取り入れるべきだ」と考えた。西洋文明の行き着く先は「覇道」である。日本が歩むべきは「王道」であり、東洋と西洋の長所を生かした国家をつくり、覇権ではなく「仁義」に基づいた「富国強兵を超えた理想国家」となって世界の世話を焼け、と説いたのである。ちなみに、かつて小渕恵三首相が施政方針演説で唱えた「富国有徳国家」という言葉も、その小楠の思想を表わしたものである。
小楠は「和とか戦いとかいっても結局偏した意見であって、時に応じ勢いにしたがって、そのよろしきを得るのが真の道理である。信義をもって応接し、我が国に義があれば、万国を敵に回すようなことはない」とも書いている。時勢に応じて是々非々で考えよ、という柔軟性と現実主義。高い理念とこうした柔らかな姿勢が、当時の心ある人々をとらえたのだ。

私は大学に職を得ている者ではないし、市井の一研究者に過ぎない。だが、若い頃にたまたま小楠という存在に出会い、以来三十余年にわたって研究を続けてきた。古書店で新史料が出たと聞いては買い付け、調べれば調べるほどに、小楠の果たした役割の大きさ、その思想の奥深さを実感してきた。酒で何度も失敗したり、武士らしからぬ事件を起こしたり、そんな小楠の人間的な一面も垣間見えた。
本書はそうした私の長年の研究をもとに、また山崎正董氏、松浦玲氏らの先達の研究にも導かれながら、小楠の生涯を改めて描いてみたものだ。いくつかの新史料からわかった新事実も織り込んでおり、小楠研究の一助になるのではと思っている。だが、それより何より、本書をきっかけに、小楠という人物に再び光が当たれば、こんなに嬉しいことはない。
世界は混沌とし、文明の形は揺らぎ、日本も進むべき道を見出せず、時代は暗中模索の中にある。そんな時代だからこそ、幕末という混迷の時期に、こんな未来を描いていた人物がいたことを知って欲しい。横井小楠の生き方と思想は、今日でもさまざまなヒントを与えてくれるはずだ。私は、そう確信している。
引用終了−−−
 
新潮社のところからのまるうつし(コピペ)なので、怒られるかも。
あと、もうひとつ、まるこぴぺ。
 
以下引用−−−松浦玲(朝日新聞?)−−
「今までに恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲とだ」と勝海舟は「氷川清話」で述べている。幕末における天才的な思想家である横井小楠の恐ろしさを教えてくれたのは「文明の衝突と儒者の立場」という1973年に松浦玲が発表した論文であった。当時、幾人かの友人と会沢正志斉の「新論」など幕末思想書の読み合わせ会を行っていた。30年前の論文を今読み返しても抱えている問題は色褪せていない。この、論文を発展させたのが、朝日新聞社より評伝として書き下ろされた「横井小楠」である。この評伝に依りながら横井小楠は何が図抜けていたのか、そしてなぜに継承されなかったかを考えてみたい。
横井小楠の代表的な論文は「国是三論」である。これは五二歳の熊本藩士横井小楠が、松平春嶽の率いる越前藩に経営コンサルタントとして招聘された折りに、改革の方針として示した論文である。1960(万延元)年のことであった。三論とは富国、強兵、士道の三論であるが、要諦は富国である。横井小楠は儒学者(朱子学)である。夏殷周三代の治政に比して状況を分析し、方針を出す原理主義者である。ここで、越前藩に示した国是も日本全体へ波及し、やがては世界へ広げるための第一歩の経営方針案である。 外国との貿易について、このように言う。交易は堯舜の事跡にある。従ってこれは振興すべきものである。
「天地の気運と万国の形勢は人為を以て私する事を得ざれば、日本一国の私を以て鎖閉する事は勿論、たとひ交易を開きても鎖国の見を以て開く故開閉共に形のごとき弊害ありて長久の安全を得がたし。されば、天地の気運に乗じ万国の事情に随ひ、公共の道を以て天下を経綸すれば万方無碍にして今日の憂る所を惣て憂るに足らざるに至るべきなり。」
日本一国の利害で鎖国だ、開国だと言ってもかえって弊害が生まれるばかりである。横井小楠にとって儒学はグローバルスタンダードであり、西洋、東洋を越えた普遍的な公共の道を指し示す原理である。従って、日本のみの利害を優先させる論の立て方を行わない。開国鎖国の論議を越えた交易の必然性を主張する。水戸学や国学など前期ナショナリズムが生まれた時代に、更に高次な公共性を模索した人間がいることは驚きである。
そしてそれを実地に示す。藩が富むのが目的ではなく、民が富むのを目的にして、具体的には、越前藩の官営・官許の地域間(外国)貿易によって富を得る公共の道を提案する。これを受けて三岡八郎(後の由利公正。彼は五箇条のご誓文の原案をつくるとともに、明治初年の国家財政を担う。「日本歴史」1965年第204号掲載の「由利財政」の退場 中村尚美 参照)が、物産総会所を設立し殖産興業を実施。長崎貿易の初年度で売り上げが25万ドルに及んだと言われている。
徳川幕府の利害のみを考える「御一家の私事を経営するのみ」と幕政を批判し、英米諸国が発展した姿はより夏殷周三代の治政に近いと評価する。華盛頓(ワシントン)は三つの方針を立てたと語る。それは、争いをしない。知識を世界中から集め、そして大統領の権限を「賢に譲りて子に伝えず」「君臣の議を廃して一向公共和平をもって務めとし」としたことである。先帝三代が親子相伝をしなかったことからも血統による相続を重んじてはいない。ただし、西洋民主主義を礼賛しているわけではない。儒教に照らして正しい道であると評価しているだけである。従って、西欧的な近代個人主義を横井小楠は評価しているのではない。この点が,貴重でありまた思想的に複雑で大衆的に浸透しなかった点である。松浦玲はさらに、掘り下げて、西欧功利主義への批判分析が横井小楠において不足していたことを課題として取り上げる。
松浦玲は西洋の学(事業上の学)について、「小楠には、この事業の学の内部に立ち入って、事業の学が不道徳を生み出してくる構造を見きわめ、事業の学を拒否しあるいはつくりかえようとするまでの姿勢はない。これは朱子学の格物究理を性急に放棄した結果だと私は見る。そのため、事業の学の欠陥をカバーすることは、小楠という巨大な個性ゆえに確保している心徳の学に求めるほかはなかったのだ。小楠の学の継承されにくさも、おそらく、ここに起因する。」と論評する。自分達への課題として提起されて30年。事業の学の欠陥を乗り越える実践的な思想を2004年の今になっても私は知らない。
1866年、慶応2年4月。小楠の甥二人がアメリカ合衆国へ密航する。小楠は見事な漢詩を贈る。
  明堯舜孔子之道   堯舜孔子の道を明らかにし
  尽西洋器械之術   西洋器械の術を尽くさば
  何止富国        なんぞ富国に止まらん
  何止強兵        なんぞ強兵に止まらん
  布大義於四海而巳  大義を四海に布かんのみ
西洋の知識を得るのは、日本の富国強兵のためではない。富国強兵は堯舜の大義を世界に広げるための手段だ、と言う。ここに、恐ろしくも突き抜けた横井小楠の思想の特色がある。「和魂洋才」という思想から遙かに離れた思想である。和魂というその魂の独自な在り方について儒学者が認めることはありえないはずである。記紀に依りながら和魂という特殊性論に傾いたとたん、大義は世界普遍性を失う。儒学は世界への普遍性がある学問。大義の深さが改めて問われている。
西欧モデルの近代的な自我の確立とそれを前提とした社会政治制度が必須だと説かれ、そのために100年経っても200年経っても後進資本主義の人間と社会の在り方のいびつさを指摘され続け、これからも続けられようとしている。洋才の受容の中で弱々しい和魂は溶解していったかのようである。受容の未熟さだけが強迫観念のように、相変わらず語られる。
そして公共の道に反する様な世界政治が公然と今日でも行われてる。それは黒船によって開国を迫った同じ国が同じ手口によって行いつつある。これに反対することは可能である。しかし、「布大義於四海而巳」を言う横井小楠の思想が継承されないままでは、ついには引きずられるか、感情的な反発に終わるのではないかと思う。
横井小楠は越前藩政改革とともに松平春嶽の政治参与として1862年7月から江戸藩邸に詰めて参勤交代の廃止、海軍創設などに寄与した。だが、外国公使を交えた朝廷、幕府、大名などの大会議を京都で行う計画途中で「士道忘却」を熊本藩より迫られて1863年には全国政治の舞台から退くこととなった。4年後、再び中央政界に復帰するも日本のみの富国強兵に邁進する新政府では、堯舜孔子之道は閉ざされていた。
1867年、慶応3年12月、明治政府から横井小楠登用の知らせが来る。年が明けて4月制度局判事。更に制度改正によって太政官の元に7官が置かれ、参与は議定とともに議政官の上局を構成する。その新しい参与制度(7名)には大久保利通、木戸孝允、後藤象二郎らとともに横井小楠も任命される。しかし、京都に上がった横井小楠が力を振ることはなかった。勝海舟が怖れたのは横井小楠の思想を西郷南洲が政治実践することであった。恐ろしいとは徳川幕府にとっての文脈であった。そして、明治政府にあっても「尋常の物差しでは分からない」小楠を使うのは困難であった。同じく「氷川清話」で「維新の始めに大久保すら、小楠を招いたけれど思いのほかだ、といつて居た。」と語る。日本のみの利益を優先させ、富国強兵に走ろうとしていた大久保利通には、「思いのほか」という違和感があったのだろう。
1869年、明治2年正月5日。太政官より帰宅途中、御所寺町門から出てきた横井小楠の駕籠は、寺町丸太町を下ったところで襲われる。61歳。「夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす」との理由で暗殺された。天才的な思想家は珍妙な誤解により志を断たれた。
 (2004/1/5)

  参考資料
横井小楠 松浦玲 朝日新聞社 1976年
文明の衝突と儒者の立場 松浦玲 思想NO592 1973年10月
明治維新私論 松浦玲 現代評論社 1979年
松浦玲はこの著作の中でアジア的近代を構想している。「『アジア的近代』とは、ヨーロッパ主導の近代がすなわち普遍的近代であるという状況に対抗して無理につくった消極的が概念で、言葉それ自身として無内容だから、嬉しがって使っているのでは毛頭なく、−−孫文の言うところの『西方覇道』に切替えないで、しかもヨーロッパ帝国主義の植民地にならない道、それがアジア型近代である。」と語る。

「仁」と「三代之道」 沼田哲 日本歴史NO332 1976年1月
「由利財政」の退場 中村尚美 日本歴史NO204 1965年5月
横井小楠について 竹内良知 現代思想vol4−4 1976年4月
横井小楠と長岡監物 鎌田浩 暗河第4号 1974年
横井小楠小特集 環vol5 2001年
この小特集で、渡辺京二は横井小楠を論じて、「小楠は利害をしりぞけて公明正大の仁心に立つ道義的世界を地球規模で実現しようと望んだ。西洋対日本、西洋対東洋という対抗意識は彼には存在せず、その意味では彼は近代ナショナリズム以前の儒学的普遍主義者だった。彼の国家観は到来しつつある近代に明らかに不適合だっだのである。だが、その不適合に私は今日における思想家小楠の意義を認める。小楠、西郷、海舟らに共有された東アジア的道義国家の理想は、現実の近代に対して迂遠であればあっただけ、もうひとつの、いまだ実現されざる近代として、われわれの夢を誘うのではあるまいか。」と結んでいる。(「還」2001年5月vol5「小楠の道義的国家像」)
特集「今 明治維新を問う」 環vol13 2003年
石津達也は次のように論点を提示している。横井小楠の思索が明治政府の施政方針「五箇条のご誓文」へ連なり、また康有為の国是へと広がっていき、他方熊本では明治3年実学派の藩政府により革新的な税制が実施されたことにも連なる。(「環」2003 vol13「康有為と明治維新」石津達也)。
 
横井小楠 源了圓 新版日本の思想家上 朝日新聞社1975年
横井小楠 圭室諦成 吉川弘文館 1967年
横井小楠 堤克彦 西日本新聞社 1999年
先駆者の思想 徳間書店 1966年
幕末思想集 日本の思想20 筑摩書房 1969年
日本思想体系55 1971年
佐伝  松枝茂夫訳 徳間書店 1997年
肥後と柳川の人びと 松浦玲 小説歴史 1975年冬
氷川清話 勝海舟 講談社学術文庫 江藤淳・松浦玲編
引用終了−−−
 
横井小楠は怖い人なのか?
「君主を換えてしまえ!」と、言った人なのか?
朱子学に怖い面が隠されているのか?
よくわからない。
木下さんの岩波の本が借りれたのですが、こないだ読んだあたりところまでで、STOPです。
プロローグのところに、丸山とか司馬とかが出てくる。


37. 蒲田の富士山 2013年2月19日 16:12:02 : OoIP2Z8mrhxx6 : qk0zt0iUFg
雪見酒
2月17日0時から2時のあいだに、管理人さん、何か環境を変更した?
それ以降の投稿が見れなくなった。
<インターネットサイトhtpp://www.asyura2.com/〜を開けません。操作は中断されました。>
の箱型が、投稿記事の真ん中に出てきて、下にスクロール出来ない。
板までは開けます。
コメント投稿が出来るかどうか?
さてと。

38. 蒲田の富士山 2013年2月19日 16:41:27 : OoIP2Z8mrhxx6 : qk0zt0iUFg
雪見酒 雪は止みました。
図書館から、松浦玲の「勝海舟」を借りてきました。(ものすごく分厚い)
小倉紀蔵さんの新書も届きました。
さてと。
あやみさんの新投稿が読めません。
最初のところだけで、スクロールできないから。
コメントがひとつ付いているけど、そこまで到達は、無理。
管理板の「突然〜見てください」にコメントしなきゃのケースかもしれない。
投稿は出来るのかどうか。

39. 蒲田の富士山 2013年2月21日 15:24:26 : OoIP2Z8mrhxx6 : FzWoJfGPFw
コメント14に追加。
57頁を読んだところ、「南朝正統論」は、朱舜水(1659年長崎に亡命、1665年江戸に移る)の考えに基づいているようです。
なんで、水戸藩がそんなこと主張しはじめたのか?と、このごろ考えていたら、手元にヒントがありました。(灯台もと暗しみたいな・・・)
 
あと、コメント36にURL付けて無かったので、以下に。
 
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610101.html

http://www.geocities.jp/npowaro/raku-13.htm

40. 蒲田の富士山 2013年2月23日 00:00:42 : OoIP2Z8mrhxx6 : ohyloDK8Lo
以前に、コメントに、コメントをいただきました事がありました「彼岸楼」様の投稿が今日(雑談板に)ございました。
そのコメントのコメントは、以下に。
 
http://www.asyura2.com/11/senkyo110/msg/441.html#c4
 
彼岸楼さんは、たぶん阿修羅では古参の人なのだと思う。ずいぶん前の阿修羅の板は、読みづらくて見たくない。世代間の差ではなく、なんなんだどうな。インターネット掲示板に、遅れてたどり着いた者の愚痴です。

41. 蒲田の富士山 2013年2月23日 00:20:47 : OoIP2Z8mrhxx6 : ohyloDK8Lo
訂正
なんなんだどうな。

なんなんだろうな。
以上(すみません)

42. 蒲田の富士山 2013年2月28日 21:40:36 : OoIP2Z8mrhxx6 : AXg6glzpto
コメント36の、ふたつめの引用は「楽書快評」様のところからでした。(このひとだあれ?)
火曜日に、木下さんの本を図書館に返しました。しかし、また読むとすると、横浜市の職員が本を持って、中央図書館から鶴見まで、また運んで来るわけだ。私はそんなにしてもらえる程の知的作業をしているわけではないよ。
今まだ3冊借りている。
読まなきゃね。

43. 宮島鹿おやじ 2013年3月02日 09:30:21 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
しばし、ご無沙汰しておりました。

横井小楠のコメント拝見しました。
参考になりました。
朱子学者であったとのこと。
本当に周囲に影響のあった人のようですね。


44. 蒲田の富士山 2013年3月04日 22:59:45 : OoIP2Z8mrhxx6 : c4X8L74i6E
左翼がマルクスを捨て、右翼が天皇と離れることで、膠着状態をなんとか出来ないか?
日本的であることのすべてを天皇に帰結するから、親亀がアメリカにこけたらみなこけたで、靖国神社に行きさえすれば、日頃のバタ臭い私生活もバタ臭い職業も、エネルギー政策(原子力)も、TPPもすべて許されるとゆう、日本右翼の心情は、いまだにマルクスを捨てない日本左翼と、表裏一体なのだ。中国がマルクスを捨て、日本が天皇と離れることで、新たな展望があるはずだ。
なんて、バカボンのパパみたいな演説をしてしまいました。
宮島様。
朱子学が、敵か味方かなのかどうかは、よくわかりません。
むかしのギリシャと日本は関係ないと思うけどね。
英語圏の国に移住されるとしたら、フィリッピンとか、アルゼンチンとか?
でなくて、まさか、あの悪の帝国じゃないでしょうね?

45. 蒲田の富士山 2013年3月05日 19:44:35 : OoIP2Z8mrhxx6 : K96zesuutk
あれから2年が過ぎた。
地震の死者の数では関東大震災よりも少ないが、原発被災が起き、それがどの規模に達するのか誰も予測できていない。
それは、世界トップクラス事故のさらに上を行く、人類未踏の恥ずかしい結末になるだろう。
チェルノブイニを上廻っていることだけは確実だ。
ここに、自公政権が再登場したのは、よいことだ。
責任を取らせるのだ。
自民党の、死亡。
公明党の、死亡。
きちんと脈を取ろう。

46. 蒲田の富士山 2013年3月06日 22:18:59 : OoIP2Z8mrhxx6 : ZraXpbUx3c
↑なんだい、この上のコメ。
自公心中か。
しゃれにもなんねえ。
だいたい、2年前の原発爆発が、はなしのネタにならねえんだよ。
「絶句」とゆうやつだ。


47. 蒲田の富士山 2013年3月07日 15:55:30 : OoIP2Z8mrhxx6 : rz88ZRCxo6
Wikipedia(孟子)。
−−−−−−以下引用
日本における『孟子』
江戸時代以前
日本にも『孟子』は持ち込まれたが、「易姓革命」の概念が受け容れられず、あまり流布しなかったと言われている。これは、移り変わっていく中国の政権と異なり、日本の皇室は政治体制の変動にもかかわらず(形式だけでも)頂点にあり続けたために、矛盾が発生してしまうためであると考えられる。また、明経道を家学とした公家の清原氏では、易姓革命の部分の講義は行わない例があったとされている。俗に「『孟子』を乗せた船は、日本につく前に沈没する」とも言われていたと伝わる(「孟子舶載船覆溺説」)。明の謝肇淛(しゃちょうせつ)の『五雜組(ござっそ)』には「倭奴(日本人の事)もまた儒書を重んじ仏法を信ず。凡そ中国の経書は皆重価を以てこれを購(あがな)う。独り孟子無しという。その書を攜(たずさ)えて往く者あれば、舟輒(すなわ)ち覆溺す。これまた一奇事なり」とあり、それを参考にした上田秋成の『雨月物語』で西行に語らせた台詞「八百よろずの神の憎ませ給ふて神風を起こして船を覆し給ふと聞く」の記述とも関係があると考えられる。

しかし宇多天皇の寛平3年(891年)に藤原佐世の著した『日本国見在書目録』には既に『孟子趙岐注』14巻などがあったと記録されている。おそらく上記の伝説は危険に満ちた航海者の畏怖の念から出てきたものと思われる。そもそも、『孟子』が中国において儒教の経典としての地位が認められた時代(北宋後期〜南宋前期)には、遣唐使が既に廃止されて日中間の学術的交流は大幅に縮小されており、日本における儒教は遣唐使廃止以前の唐代儒教の延長線上にあった。そのため、日本の大学寮明経道の教科書には『孟子』は含まれておらず、鎌倉時代以前の日本では『孟子』はほとんど知られていなかった可能性は高い。儒教の経典としての『孟子』の伝来は鎌倉時代に宋学の一部としてのものであったと考えられている。鎌倉末期に花園上皇が皇太子量仁親王(後の光厳天皇)に充てた『誡太子書』には『孟子』の革命説が引用されており、『徒然草』や『太平記』にも『孟子』の知識が垣間見られるなど、既に支配層や知識人の間では『孟子』は広く知られていた。なお、後醍醐天皇や足利義満が『孟子』をはじめとする四書を講習していたことを後醍醐天皇の倒幕計画や義満の皇位簒奪計画と結びつける説が行われるが、鎌倉時代末期から南北朝時代を通じて『孟子』を含めた四書を学ぶことは、天皇をはじめ公家社会の流行となっており、後醍醐天皇や義満もその流行の中にあった。『孟子』に記された性善説や仁義説などは宋学の伝来以後早い段階より日本の知識人の間で受容されており、『孟子』の一部分に過ぎない易姓革命と結びつけて、そこから特定の意図を読みとれるものではないという主張もある。

江戸時代
江戸時代には朱子学が官学とされたことによって、朱子学にて四書の一である『孟子』は、儒学研究家のみならず、武士階級にとって必読の倫理書に格上げされた。『孟子』が日本人に爆発的に普及するようになったのは、江戸時代からである。後世に朱子学批判に回った伊藤仁斎や荻生徂徠らも、当然のごとく『孟子』を熟読するところから研究生活を始めたのである。

伊藤仁斎は、朱子学を批判して、『論語』『孟子』の古い意義すなわち古義をもって読むべきことを主張し、「古義学」を提唱した。彼は、自己の学の入門的著作『童子問』において、「天下の理は、論語・孟子の二書に尽きている。さらに加える内容などないのである。疑ってはいけない。」と激賞した。彼は『孟子』の書を『論語』の意義に達するための津筏(しんばつ。わたしぶね)であると評して、『論語』の解説書として必ず熟読しなければならない、と説いた。

一方、後進の儒学者で仁斎の学説を批判した荻生徂徠は、著書『弁道』において、「思・孟ハ外人ト爭(争)フ者ナリ」と評した。この語の意味は、子思およびそれを継いだ孟子は、外人すなわち論敵と争うための言葉を費やした者たちであるということである。両名が道家・墨家ほかの同時代の論客に対して論争したのは、諸子百家が相並び立つ時代の要請でやむをえなかった。徂徠は、論争して孔子の後を守った点については、両名の功績を評価した。しかし、徂徠は孔子の伝えた「先王の道」とは「礼楽刑政」、すなわち単純に言い尽くすことができない中国古代の伝統文化総体の継承を意味していたにも関わらず、思・孟の両名は論争によって理論を重視した結果として、「先王の道」を単なる一学説である「儒家者流」に卑小化させた、と断じた。自説を遊説と論争の場で単純化・明確化した孟子は、徂徠によって、後世の者に孔子の伝えた「先王の道」を見誤らせるきっかけを作った一人として、批判された。

幕末の志士吉田松陰もまた、『孟子』の愛読者であった。彼の『孟子』講義書が、『講孟箚記(こうもうさっき)』である。この講義書には、孟子の言葉に応じて長州藩と日本を憂い、また当時の西洋列強の侵略にいかに対すべきかを思う憂憤が、よく表れている。ただし松蔭は、孟子の展開する「易姓革命論」を、日本の万世一系の国体に合わないとして否定したことは、もちろんである。
−−−−−−引用終了
Wikipediaで「易姓革命」を検索して「孟子」を見てみたところです。URLは検索すればわかるので付けません。


48. 宮島鹿おやじ 2013年3月09日 20:03:52 : NqHa.4ewCUAIk : XGQASt2yVc
蒲田様

こんばんわ。

孟子の記述、参考にさせていただきます。

なお、日本とギリシアの古代の自然観ですが、なんとなく共通したものがあるのではないかという感触はあります。まあ、日本の方はよくわからないのであくまでも感触ですが。

また、海外移住するとすれば、できればニュージーランドにしたいと思っていますが、家族(女房)を説得するのが絶望的です。それでも、なんにしても先立つものが必要ですので、ここ2年ほど、下着以外の衣服を買っていません。風呂場の照明も電球が切れたまま、仏壇にあったろうそくをつかっています。なかなか乙なものです。


49. 蒲田の富士山 2013年3月09日 23:46:33 : OoIP2Z8mrhxx6 : VeX0Ydvkmk
宮島様
 
こんばんわです。
 
ヘンな隣国が核兵器万歳をしていますが、今までは無視してきましたが、今後もさらに無視をいたします。
 
使用しない事が前提の兵器を所持したがるのは、何故だろう?
 
核兵器とはジレンマの兵器で、使用したとしたら、小国の場合、周辺国の通常戦力によって制圧されるだろう。
 
日本に原爆が落とされた件などは、この際は、置いとく。

50. 蒲田の富士山 2013年3月16日 01:00:12 : OoIP2Z8mrhxx6 : mv2gwULFOg
「asy8」さんの新投稿がありました。
いつも思うのだが、内容が、異様にというか異常に、「くそまじめ」である。
そして、「asy8」という投稿主の名前自体は、そのこととはかけ離れてふざけた名前だ。(この名前はどうゆう意味なのか?)
この、アンバランスは、相当に気持ちが悪い。
なんか、うそくさいな。
無視。(無視ふたつめ!)

51. 蒲田の富士山 2013年3月19日 00:12:26 : OoIP2Z8mrhxx6 : rC3FKkS81s
25年ヘンな仕事をしてきたが、そこで役立った「数学」の知識といえば、四則演算と順列組合せぐらいか?
三角関数とか、微分積分などは、使わない。
電気方面の知識も、たとえばフリップフロップ回路などは、わけがわからない。ま、イメージとしてシーソーみたいなものか?となる。リレーとかならわかる。電磁石に電流が流れて、スイッチが入りっぱなしになる(記憶の状態)。
なんとゆうか、高校で教えている事は、役に立たない。
数学的帰納法というのがあったが、あんなもの覚えてなんになる?
あれって、帰納法なの?
三角関数も、例えば測量とか、発電機(回転するので)とか、そういう分野に仕事を持ってからでも遅くはない、それからでいいんじゃないの。
詰め込み教育はやめるべきだ。だからといって、ゆとり教育とはなんのためだ?必要なことだけを教えるのならば、もっと余計なことを減らせ!

52. 蒲田の富士山 2013年3月21日 20:56:25 : OoIP2Z8mrhxx6 : wDVBb6u4c
ここに投稿しようかと思った記事が原発板にありました。
http://www.asyura2.com/13/genpatu30/msg/802.html
このかたは、69歳。
考えを変えるというのは、50代の私でも、なかなか出来ない事だ。
また、がんこじじい、みたいな、絶対考えを変えたくない若者も、数多くいる。

53. 蒲田の富士山 2013年3月28日 16:29:50 : OoIP2Z8mrhxx6 : qfnQSGfehk
>30
「何を取り戻せばいいのか?」
何を取り戻すたって、自分の過去にはなんにもない。
パソコンの「システムの復元」での「復元ポイント」のお話じゃない。
30は、なにを言いたかったのか?
「幕末維新の暗号」で出てくる「群像写真」について、うちの親はなにか知っていたかもしれない。(佐賀ではわりと知られているものらしいが・・)
この写真は東京新聞に確か記事があった。
そのころに、聞いてみたとして、何か答えてくれただろうか?
この東京新聞の結論と同様の見解を答えたかもしれない。
そのころの父親は「古田武彦」とかも結構読んでいて、「珍説」みたいのも好きだったから、ひょっとしたら「トンデモ」なお話が聞けたかもしれない。
まあでも、取り戻すのは、自分の過去ではなく、歴史の知識だな。取り戻すんではなく、(もともとゼロだから。)その位置というか。なんというか。


54. 鎌田の富士山 2013年3月31日 00:09:24 : Qor9q0B7HbDd. : ziMq5NU3KM
コメ42に書いたけど、とりあえず訂正。
コメント36の、ふたつめの、引用開始のところ。
「あと、もうひとつ、まるこぴぺ。」の次行。
訂正
松浦玲(朝日新聞?)→楽書快評
以上
それから、コメ23の、コメントペンネームの「鎌田」の件は、パスワード方向からは、ペンネームをチェックしていないため、本人がポカをすれば、それだけペンネームが増えてしまう。(という事だろう。)



55. 鎌田の富士山 2013年4月01日 20:34:01 : Qor9q0B7HbDd. : xJI62qVTFk
>37
<インターネットサイトhtpp://www.asyura2.com/〜を開けません。操作は中断されました。>
の箱型が、投稿記事の真ん中に出てきて、下にスクロール出来ない。
いまだに、そのまま。
管理版に同じような症状を訴える人がいないため、当方に原因ありか?
2月17日以降の投稿には、コメント出来ない。
2月17日以前のものは開けるので、言いたいことがあればここにコメントすればいいから、べつにいいけどね。
たぶん、今の状態だと、新規投稿は出来ないと思う。(試しに投稿してみるとかは、アホらしいからしない。)
新規投稿はあと1年ぐらいしなくてもいいし。
ま、このまんま。
 
ところで、まったく違う話題だけど、(申し訳ない。)
「生活の党」の党名、参院選まで変更無しか?
この党の党名は、変質してしまった「民主」へのアンチというか皮肉だと思うが、なんか迫力に欠ける。
「日本未来の党」の党名は、「日本維新の会」への皮肉か?
なんか、こう、後手なんだよなあ。
皮肉を党名にしたところで、選挙には勝てない。
「国民の生活が第一」は、数年前の民主党のスローガンとしてしか、意味がない。その当時の民主党が掲げたからこそ、意義があったのだし、効果があった。
原発の爆発後の今の状況では、生活は大事だが、それ以上に、いのちに関わる問題ではないか?
提案をしたい。
「いのちの党」は、如何?

56. 鎌田の富士山 2013年4月04日 20:21:34 : Qor9q0B7HbDd. : K3WcqWmXhg
「生活の党」のままでもいいけど、条件としては、民主党の大分裂を選挙前に仕掛ける事だ。
民主党は、労組がネックとなっている。
それは即ち、労働者が所属する企業の経営者や株主がネックとなっている。
階級闘争は弁証法であるからして、労働者は企業経営者とのコミニケーション能力とかを発揮して言いなりになっているのだ。
だだの社畜である。
民主党を再建してくれ!
よろしくたのむ。

57. 蒲田の富士山 2013年4月06日 22:59:50 : OoIP2Z8mrhxx6 : YLVZOcxgTo
>08
>それは、近代文明や、三権分立や、民主主義や、その他を、すべて敵にするとかではなく、これから先の話だ。そのために、維新を停止(廃止)しなければならない。
「これから先の話だ。」って、どうゆう意味?などと、自問してしまいますが、具体的な問題として、改憲勢力には加担したくは無い。
「これから先の話だ。」って、よくよく考えたうえでの記述ではない。
<戦後がよくないので、戦前(明治)をとりもどす。>の考え方は、明治維新を美化しすぎている。
戦後はアメリカ一国によって、日本の戦後が支配されたが(のように見える)、明治はそのような単純な図式ではなく、西洋人のブルジョア秘密結社によって操作された「傑作」なのだろう。この秘密結社の、別の大きな「傑作」は、<社会主義のインターナショナル>である。
日本の大企業と、自民党は、何か不祥事があると、全力をあげて隠蔽をするのだが、それは、儒教の影響によるものなのか?
ムラ社会と言われるが、ムラが良くないのか?
私はむしろ、西洋人のブルジョア秘密結社が日本人の一部の層(下級武士)をいじった結果の、その置き土産のようなものではないかと思う。

58. 蒲田の富士山 2013年4月11日 00:12:35 : OoIP2Z8mrhxx6 : 6RcBHtPU0U
↑上記コメは、「隠蔽」などについて、「置き土産」と、言っております。

59. 蒲田の富士山 2013年4月25日 00:05:41 : OoIP2Z8mrhxx6 : 60el8r12CQ
2月17日以降の投稿は、自分のパソコンにコピーすれば、見れます。ただし、コメント投稿が出来ないだけ。
さっき、政治板の以下を見ていたのだけど、
http://www.asyura2.com/13/senkyo146/msg/704.html
シュメール起源説とかがあるらしい。なんか、西洋人の医師が言い出したことらしいが、こいつも、フリーメーソンか?
戦前には、酒井なんとかとかいう日本人が、日ユ同祖論とかを言ってたらしいが・・。
人類の出来事には、まるっきり無関係はないだろうが、起源というのは飛躍がありすぎて、トンデモであり、右翼冒険主義であり、ただのロマンである。
西洋人が、右翼を、いじりたかったので、こういう「置き土産」が出来た。
加治将一さんの本のなかには、なにかそこらへんの影響があるんではないか、と思わせる所もある。
大田龍さんの本の場合には無いが。

60. 蒲田の富士山 2013年5月06日 22:29:21 : OoIP2Z8mrhxx6 : ARGRBS2FJ6
もうすぐ、60歳。
きらいな言葉、60歳。
いや、きらいでもないですけどね。
ああ、60歳。
あやみさんの新投稿がありました。
鹿おじさんの、原発板新投稿もありました。
なんか、もとに戻ったみたい。
鹿おじさん。
金曜脱原発デモ行きましょうか?
一人で行ってもつまらないので、鹿おじさん御一行に参加してみようかな。
職場で呼びかけるなんて、出来ないですよ。
そんな、上等な職場ではないです。
飲み会も、今年は2回キャンセルしている。
今年は、ちゅうか、去年は飲み会の誘い自体が、無かった。
ああ、非正規の職場。

61. 蒲田の富士山 2013年5月07日 22:20:16 : OoIP2Z8mrhxx6 : rs1l2Fqcjo
デモもいいけど、選挙の一票の方がまし。
脱原発のための接着剤みたいな「緑茶会」とかが活動しているらしいが、またもやヨーロッパ「緑の党」の太鼓持ちか?
緑茶会でもいいけど、農協が一歩踏み出せよ。
全農共闘会議。
略して、「全共闘」?
まあ非正規はろくなこと言わないな。
非正規がデモに参加しても意味はないと。
おやすみなさい。
明日(あした)がある。


62. 蒲田の富士山 2013年5月12日 22:59:05 : OoIP2Z8mrhxx6 : 7SGZ5UMWAo
>また、主知主義的なものを感じます。朱子学の影響は明らかかと思います。
主知主義的ってなんだろうな?
鹿おじさんの投稿を全部は見ていないのだけど、なんか200文字以下ですよとか、私が因縁つけて、それからお友達になったみたい。
「滅私奉公」という言葉を、昔、左翼の一派がかかげていたことがあったが、左翼はその時代に戻れ!
(アメリカ様が邪魔するから、戻らないかもね。)

63. 蒲田の富士山 2013年5月14日 22:11:43 : OoIP2Z8mrhxx6 : ZPDakdPJTw
「滅私」とは、「私」が、よくないって意味?
「奉公」とは、「公」であれば、なんでもいいって意味?
ちなみに、私企業も「公」である。官僚組織も「公」である。
したがって、「滅私奉公」の言葉自体は、どのような解釈も可能である。
「私」という言葉も、様々な解釈がありえる。
「私」という言葉の概念が、拡がりすぎてしまう。
↑のコメント(62)は、なんなんだ。
ああ、63歳。

64. 蒲田の富士山 2013年5月16日 00:21:57 : OoIP2Z8mrhxx6 : 1U8Yk1o966
和服のリサイクルの、お話。
http://www.tokyo-np.co.jp/feature/kigyou/news/130510.html
ここに写っている社長さん(男性)の普段着(?)がいいな。
そんなに安くて揃えられるなら、普段着を和服にしたい。
(安くは無いな・・・)
神奈川では、ジーパン姿の爺さんたちが闊歩している。
ああ、これからの日本は、「ジーパン爺さん」が天下を取ってしまうのか?
私自身にも言える事だが、私生活を変えなければいけない。
それから先の話だが、職業を変えなければならない。
それから先か前かわからないけど、明治維新を、廃止!
明治維新をしなければよかった。

65. 蒲田の富士山 2013年5月27日 18:24:50 : OoIP2Z8mrhxx6 : Hfw6taKihk
夾竹桃には毒があるらしい。
私の実家(今は無い)にも夾竹桃があった。
週刊文春の以前のコラムみたいのに、京大の女性が「私が答えま〜す」みたいのを連載していて、そこに書いてあった。
猛毒らしい。
うちの父親は知らないのか、よそで剪定していたものを拾ってきて、挿し木をしたようだ。
私は20代までは実家にいたのだが、庭木の剪定は、私と母親の役目だった。
この剪定と、因果関係があるのか、記憶が不正確だが、なんか実家にいたころは原因不明の体調不良があった。
それが、ただ私の不摂生によるものなのかどうかはわからない。
母親についても、急な、へんな体調不良で、病院に運ばれて、わりとすぐに回復して、戻ってきたことがあった。(複数回あったような・・)
父親の亡き後は、剪定をシルバー人材センターにまかせるようになった。
それから夾竹桃が、無くなってしまった。
たぶん、シルバー人材センターのおじいさんが、夾竹桃を好きでなかったのかもしれない。ほかに、青木の小さいのも、毎回駆逐されていた。
その後、母親の原因不明の不調が、無かったと思う。
夾竹桃は強い植物らしい。
広島原爆のあとで、最初に花を咲かしたのは、夾竹桃だった。
また、害虫がまったく付かない。
まあ、しかし、庭木にはよくない。
いや、どこに生えていてもよくない。
日本には、いつから来たのか?
100年前か?

66. 蒲田の富士山 2013年6月05日 00:05:27 : OoIP2Z8mrhxx6 : nHVFn7Rco6
松浦玲さんの「勝海舟」。
もう、何度も借りているのに、なかなか読み進められない。
−−「閥末」が清算されて政党政治が始まれば、それはそれで結構だと考えるところが海舟にはあった。(19頁)−−
「幕末」ではなく、「閥末」。
あと、清朝の官僚の李鴻章と年齢が一緒だそうだ。
それで、ある程度、交友があったらしい。
漢文でやりとりするのかなあ?
おととい、酔っ払って、最後の頁まで飛ばし読みした。
途中で田中正造さんまで出てくる。(716頁)
アーネストサトーが日本を離れたのはいつだっけ?
私が、以前投稿した「実践女子大学」の秋瑾さんは、明治の何年ごろ日本に来たのか?

67. 蒲田の富士山 2013年6月13日 22:05:58 : OoIP2Z8mrhxx6 : EAG37JGqnM
明治になってキリスト教徒に迫害があり、大隈重信がそれを容認する姿勢をみせた事に、グラバーはあきれ、アーネストアトウは母国に帰ることにした。
フルベッキは、大熊を支持していたのだ。
フルベッキとは、何者だろうか?
カネ(活動資金)は、どっから出てた?

68. 蒲田の富士山 2013年6月16日 22:58:13 : OoIP2Z8mrhxx6 : Za4cwcNZ2o
猛毒の、「技術」。
その、科学技術とは、原子力であり、生命工学であり、情報工学である。
「和魂洋才」というが、明治時代ではなんとかなったかもしれない、このアイデアは、今では通用しない。
新しい「維新」とは、なにを変革するのか?
新しい「技術」を、また、取り入れるのか?
人々の考え方を変革するのならば、まずこの猛毒をなんとかしろよ。
原子力をやめろとは言わないが、廃棄物をなんとかしろよな。
例えば、重水とその他未知の物質とシェイクして常温核融合のようになって、そこに放射性廃棄物を入れると、あら不思議、レアメタルが、しかも安全な状態で出来てしまったとか、なんか、そんな明るい実績だせよな。
「見切り発車をするな!」
それは、国民の総意じゃないか。


69. 蒲田の富士山 2013年6月19日 23:26:56 : OoIP2Z8mrhxx6 : lF5aondAg2
徳と農本主義と社稷。
徳と社稷は、「孟子」と、かかわりのある言葉らしい。
農本主義は戦前の右翼思想と、つながりがあるか?(北一輝、その他)
日本の鎌倉時代の新仏教は、農本主義だったのではないか?
「徳」と「社稷」は、中国の権力者の自己批判によって生まれた言葉だった。
農業を「いじる」のか?
都会人は、その選択をしようとしているが、都会人(権力者)は、農業をどうするのか?
考えてないのか?
今や都会は、権力者であふれかえっているのである。

70. 蒲田の富士山 2013年6月20日 13:16:53 : OoIP2Z8mrhxx6 : yYLtdEUtqI
今日は休日です。
4月から休日が月曜と木曜になりました。
木曜日は以前と変わりなしか・・・。
何年か前の職場で、(前の、お弁当工場とは別のお弁当工場で)、中国からの若い研修生が働いていた。
20代になったばかりの女の子(ふたり)で、夜の7時から朝の7時まで、元気いっぱいに働いていた。
聞けば山東省の田舎の出身らしい。
なんかこう、なんというか、親戚の女の子に、久しぶりに会ったような、印象だった。
私のルーツは山東省あたりにあるのかもしれない。
話はちょっと違うが、アイヌ人と沖縄人はルーツが同じ(縄文系)らしい。
加治さんの本にも(維新の暗号の後に出た本)そんなことが書かれてあって、ついでに、日本人離れした自分の容姿についても、縄文系ではないかもしれないが、別のルートではないかみたいな、手前味噌が書いてあったような、記憶があが・・・。
私について考えれば、縄文系ではない。
なので、日本を脱出するとすれば、山東省の、それも、田舎。
大丈夫かなあ。
年金送ってもらえるのかどうか?

71. 蒲田の富士山 2013年6月20日 16:29:22 : OoIP2Z8mrhxx6 : ko8if5qJnk
訂正(下から3行目)
「記憶があが」→「記憶があるが」
以上

72. 蒲田の富士山 2013年8月03日 00:38:36 : OoIP2Z8mrhxx6 : 2JWAEOQm66
磯田光一著作集というのを、図書館から借りてきた。
この、第一巻の最初が、「殉教の美学」。
40年ぐらい前に読んだのだが、私の記憶に残っていた言葉は、「まがまがしい・・・の、時代」だった。
私は、間違えて覚えていて、「まがまがしい、狂気の、時代」だと思っていた。
そうではなく、「まがまがしい挫折の時代」でした。
この記憶にもとづいて、ヘンなコメントを、どっかにした記憶がございます。
まあ、でも、「狂気の時代」のほうが、あたっている、というか、適切だとは思いますが。

73. 蒲田の富士山 2013年9月02日 06:47:09 : OoIP2Z8mrhxx6 : Pj98u5kt0U
ガラパゴス。
73歳。

74. 蒲田の富士山 2013年9月12日 23:34:00 : OoIP2Z8mrhxx6 : 45g7CpGVdY
フランス革命について、Wikipediaで検索してみました。
 
−−以下引用−−−−フランス革命
1787年に王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、絶対王政が倒れたのち、フランスは立憲王政から共和制へと展開する。さらに1794年のテルミドール反動ののち退潮へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによる政権掌握と帝制樹立に至る(1799年11月9日のブリュメール18日のクーデター)。この1787年の貴族の反抗からナポレオンによるクーデターまでが、一般に革命期とされている。
革命によりフランスの王政と旧体制(アンシャン・レジーム)が崩壊する過程で、封建的諸特権が撤廃され、近代的所有権が確立されるなど、全社会層が変革へ向かった。前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命として、 世界史上、ブルジョア革命 (市民革命) の代表的なものとされる。
−−引用終了−−−−

−−以下引用−−−−フランス復古王政
フランスにおける復古王政(ふっこおうせい, 仏:Restauration)は、皇帝ナポレオン1世の失脚によってフランスにおける王政復古を果たしたブルボン家およびオルレアン家による王政である。厳密には1814年のルイ18世の即位からナポレオン1世の帝位復帰までのブルボン第一復古王政と、1815年のルイ18世の復位からシャルル10世退位までのブルボン第二復古王政、オルレアン家のルイ・フィリップ王の七月王政に分別される。
フランス革命によって途絶えていた王政は、1814年にルイ18世が即位し復活した。ルイ18世は選挙権の制限やカトリック教会の復権などを実施した。後を継いだシャルル10世の治世であった1830年に七月革命が起った。代わってオルレアン家のルイ・フィリップは七月王政においてブルジョワ寄りの政治を行うが、これも1848年の二月革命で倒れ、フランスにおける王政の時代は終焉した。
−−引用終了−−−−
  
−−以下引用−−−−フランス7月革命
1815年の王政復古により王位に就いたルイ18世は、フランス革命による成果を全く無視して、時代錯誤もはなはだしい反動的な政治を行った。この復古王政による政権は、アンシャン・レジームよろしく貴族や聖職者を優遇する政策をとり、市民たるブルジョワジーの不満は当然高まることになった。フランスはあたかも革命以前の状態に逆行してしまったようであり、ルイの後を継いだ弟シャルル10世も言論の弾圧、旧亡命貴族の保護の強化などを始めた。とりわけ、旧貴族がフランス革命の際に被害を受けた城館(シャトー)の代償のために10億フランの資金を国庫負担にする法律の制定は、市民階級の不満を高めた。
市街戦, 市庁舎への襲撃シャルル10世は国内の不満をそらす目的で、1830年7月にアルジェリア侵略を始めた(これが1960年代まで続くフランス領アルジェリア植民地の端緒となる)。それでも国内の不満は治まらず、ついには自由主義者が大きな勢力を持つに至った議会を強制的に解散させ、次の選挙における大幅な選挙権の縮小を命ずる勅令を発したが(七月勅令)、これは火に油を注ぐ結果となった。
7月27日、学生、労働者を中心にしたパリの民衆は、三色旗を翻して街頭にバリケードを築き始めた。
シャルル10世は郊外のサン=クルー宮殿にいて楽観視していたが、パリで市街戦が始まると、鎮圧軍に戦意はなくじりじりと後退して、チュイルリー宮殿、市庁舎を相次いで占領された。7月28日、反政府派の指導者たちは、銀行家ジャック・ラフィット邸に集まって司令部を設置した。7月29日、スイス人傭兵の守るルーブル宮殿が民衆の襲撃によって陥落し、時計台に三色旗がはためいた。国王は驚き、七月勅令の破棄と内閣総辞職を決めたが、時すでに遅かった。
事態収拾はラフィットの主導のもとに行われた。国民の偶像ラファイエット将軍が担ぎ出された。7月31日、市庁舎のバルコニーにオルレアン公ルイ・フィリップがラファイエット将軍とともに姿を現し、民衆の歓呼の声に迎えられた。8月2日、ギロチンを怖れる国王シャルル10世は退位し、ランブイエ城からオーストリアに亡命した。後継政府には共和派の反対を押して、「国民王」ルイ・フィリップが立った。ここにフランスは立憲君主制に移行した(7月王政)。ラフィットは首相に就任した。
ルイ・フィリップは別名「株屋の王」であり「ブルジョワの王」であったため、市民たるブルジョワジーの不満は急速に解消されていった。ヴィクトル・ユーゴーによれば「フィリップ王はあらゆる階級の言葉に通じ、それを常に話していた。最もよくブルジョワ(中流社会)を代表した人物であったが、また一方でそれより抜きん出て万事にそれよりも優れていた」という。国王は自由主義と立憲王制を採用し、一定の成果を収めることに成功した。しかし制限選挙が維持され、革命の主体勢力であったプロレタリアートは再びないがしろにされ、不満をためていった。以後は、階級的意識に次第に目覚めていく労働者や農民の階級闘争へと様変わりし、18年後にルイ・フィリップはその報いを受けることになる。
−−引用終了−−−−
 
−−以下引用−−−−フランス2月革命
発端
1830年のフランス7月革命の結果即位したルイ・フィリップはブルジョワジー寄りの政策を採ったため、労働者、農民の不満が高まった。7月革命では一定の選挙権の拡大が行われたものの、こうした身分層までの選挙権拡大は行われなかった。
こうした不満の捌け口は改革宴会(革命宴会)という集会(選挙権の拡大や、労働者・農民の諸権利を要求する政治集会だが、名目上宴会ということにして実施していた)によってある程度のガス抜きが行われていたが、2月22日にある改革宴会が政府の命令によって強制的に解散させられると、これに激高した労働者、農民、学生のデモ、ストライキに発展した。
推移
この革命はそれまでのフランス革命やフランス7月革命とは異なり、以前のブルジョワジー主体の市民革命から、労働者主体の革命へと転化した。
革命勃発の翌23日には首相のフランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾーが退任し沈静化を図ったが、24日には武装蜂起へと発展。ついに国王ルイ・フィリップが退位、ロンドンに亡命して、事態の終結が図られた。
同日に臨時政府が組織され、ここに第二共和政が開始された。
影響
革命の影響は大きく、その後フランスに国王が現れることは無く、革命はフランスに留まらず、ヨーロッパ各地に伝播し、ウィーン体制の崩壊に繋がった。この後、フランスでは、王制は廃止され、1848年憲法の制定とともに共和制に移行した。これをフランス第二共和政という。11月に大統領選挙が行われ、ルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。その後、ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、ウィーン体制の崩壊の間隙を突き、1852年にフランス第二帝政を開始するのである。
−−引用終了−−−−
 
フランス革命からの引用は、以上ですが、ついでに、「マルクス」も検索してみました。
 
−−以下引用−−−−カール・マルクス
1843年10月からフランス・パリに移住。そこでアーノルト・ルーゲとともに『独仏年誌(ドイツ語版)』を発刊した。そこでマルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説(ドイツ語版)』を寄せ、プロレタリア階級を中心とする「人間解放」の必要性を訴えた。この後、フリードリヒ・エンゲルスの影響を受けて経済学の勉強をするようになり、のちに『経済学・哲学草稿(ドイツ語版)』としてまとめられるノート
や草稿を残した。1844年にはフリードリヒ・エンゲルスとともに『聖家族』を共著し、バウアー派を「哲学の世界だけにこもり、プロレタリアを軽視する聖家族」と批判した。これ以降エンゲルスと親しい関係になる。
1845年1月にフランス政府の命令によりパリから追放され、2月にベルギーのブリュッセルに移住した。
この際にプロイセン国籍を放棄した。1845年夏にエンゲルスと『ドイツ・イデオロギー』を共著した。
この頃からフォイエルバッハも批判するようになり、唯物史観を萌芽させた。さらに1847年にはピエール・ジョゼフ・プルードンを批判する『哲学の貧困(ドイツ語版)』を著し、また労働者の賃金と労働者の生産物の価値が異なることを主張して剰余価値理論を萌芽させた。1847年1月には国際秘密結社「共産主義者同盟」を結成する。同組織の綱領として1848年に『共産党宣言』を著した。
1848年革命が勃発するとプロイセン領ケルンへ赴き、自由主義ブルジョワの出資者を見つけて『新ライン新聞』を発行。プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、ヨーロッパ各地の民族運動を支持し、また「反動の本拠地」ロシア帝国との開戦を煽った。しかし保守派が息を吹き返した後の1849年5月に国外追放処分を受けた。
−−引用終了−−−−
  
ついでに、「フルベッキ」も検索してみました。
 
−−以下引用−−−−フルベッキ
長崎時代
上海に一時寄港した後、ブラウンとシモンズは先に神奈川に渡り、上海に妻マリアを残して11月7日に、日本語習得のために長崎に一人で上陸した。長崎では聖公会のジョン・リギンズとチャニング・ウィリアムズに迎えられ、崇徳寺広徳庵に同居した。その後、12月19日に妻マリアを上海より呼び寄せた。
1860年1月26日には長女を授かり、エンマ・ジャポニカと命名するが、生後2週間で死去する。
長崎では、開国後も依然としてキリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができなかった。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていた。1862年には、自宅でバイブルクラスを開いた。1863年(文久3年)の生麦事件をきっかけとした薩英戦争の時は上海に避難して、1864年に長崎に戻った。
1866年(慶応2年)に自宅で、佐賀藩家老の村田若狭と弟綾部恭に洗礼を授け、1868年には仏僧清水宮内に洗礼を授けた。
1864年(元治元年)には、長崎奉行より幕府が長崎につくった長崎英語伝習所(フルベッキが在籍した当時は洋学所、済美館、広運館などと呼ばれた)の英語講師への招聘があり、フルベッキはお雇い教師として幕府に雇われることになった。
到遠館の塾生と共にフルベッキ父子(上野彦馬撮影)1866年(慶応2年)には、佐賀藩前藩主の鍋島直正等と親交があった関係で、佐賀藩校で長崎にあった致遠館に招かれ、英語、政治、経済などについて講義をしている。この時の教え子には、副島種臣、大隈重信、伊藤博文、大久保利通、大木喬任、加藤弘之、岩倉具定、岩倉具経、江藤新平、高杉晋作など、後の明治維新の元勲たちがいた。(参照:フルベッキ群像写真)
また、オランダで工科学校を卒業した経歴から工学関係にも詳しく、本木昌造の活字印刷術にも貢献している。来日時、長崎の第一印象を「ヨーロッパでもアメリカでも、このような美しい光景を見たことはない」と記している。なお、上野彦馬が撮影したフルベッキの写真(広運館の日本人教師と共に写る集合写真)が長崎歴史文化博物館に残されている。
東京時代
1869年(明治2年)2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。到着したばかりの後任宣教師ヘンリー・スタウトに伝道を引き継ぎ、江戸に向かった。江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。
1868年に復興した開成学校(旧幕府開成所)の教師を務めながら、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)。1870年10月から1873年まで大学南校の教頭を務め、規則や教育内容の充実に努めた。1872年には、福井藩明新館で教師をしていたウィリアム・エリオット・グリフィスを呼び寄せて、化学の教授をさせた。ダビッド・モルレーが文部省より督務館として召還されたときには大変信頼し、高橋是清に家を探させた。
1868年6月にフルベッキは教え子の大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)
を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。1877年には、日本政府より勲三等旭日章を授与された。
−−引用終了−−−−
 
大政奉還は1867年11月9日。
 
マルクスは新聞社に勤めていたけれど、新聞は、海外には船便で運ぶ以外にないわけだ。
電話、電信は、どの程度普及していたのか。
フルベッキは、ヨーロッパの情勢については熟知してたとしても、情報が届く速度が遅く、質も量も少ない。
マルクス 1818年5月5日生まれ。
フルベッキ 1830年1月23日生まれ。
この、ふたりは面識もなく、また、お互いの仕事についても、さっぱり知らず、名前すら聞いたことも無いのだろう。
だが、御両名を、よく知っているし、遠くで観察していた人たちがいるはずだ。

75. 鎌田の富士山 2013年10月02日 01:06:45 : Qor9q0B7HbDd. : x1qdKEojEA
山梨県に道志村という村があり、10年以上前に、横浜市に合併を申し出た。
それは、昔から横浜の水道を支えてきたという、もう100年来のお付き合いの、それはそれなりに、由緒正しき縁談であったのだが、横浜市のほうが、お断りしたのだそうな。
私は、横浜市に飛び地(自治体)などがあっても、それはそれなりにいいのではないかと思うのだが。
平成の大合併(自治体の)に伴うお話でした。
それを、前置きにして、福島県の警戒区域の、市区町村が、東京都の編入されるという案は、如何だろう?
道志村と横浜は水道で結ばれているが、福島と東京は電線で結ばれているのである。縁があるのだ。東京都となれば、オリンピックは、もちろん原発の間近で開催される。

76. 鎌田の富士山 2013年10月02日 01:26:25 : Qor9q0B7HbDd. : x1qdKEojEA
訂正(下から3行目)
東京都の編入される→東京都に編入される
以上(すみません)

77. 鎌田の富士山 2013年10月04日 00:19:34 : Qor9q0B7HbDd. : FGkJDxiKKQ
訂正(下から2行目)
電線で結ばれているのである→電線で結ばれていたのである
以上(過去形に訂正)

78. 鎌田の富士山 2013年10月16日 22:56:16 : Qor9q0B7HbDd. : dKDYCNkMiE
今日の「原発板」の「むず」さんの投稿のコメントから。
−−−以下引用−−−
07. 2013年10月16日 21:39:52 : d0FNn9S7Ms
>患者本人の同意は不要にする。
そろそろアメリカが日本国民の癌データが欲しいのでしょうね。
これから日本人の癌は激増してくるでしょうから。
集めたデータは機密扱いで公表しなさそう。
甲状腺データも、子供の母親にまで開示拒否しておきながら、山下は膨大なデータと鮮明なエコー写真をアメリカで公開して発表していました。
▼『福島原発事故 県民健康管理調査の闇』(マガジン9)…県民の不安をどうやってごまかすか、ということが「秘密会」で話し…
三ヵ月後に届いた判定結果は「A2」だった。すぐに県立医大に電話したが、対応した職員は「A2判定ですから異常がなかったということです」と繰り返すだけで、長女の状態に関する具体的な説明はなかった。その後、親子確認のために戸籍抄本や運転免許証のコピーを提出するよう求められ、七月中旬に県立医大から開示された。渡されたのはコピー用紙に印刷されて不鮮明な六枚の画像とレポートだった。「改竄の恐れがある」として画像のデジタルデータは提供してもらえなかった。
http://www.asyura2.com/13/genpatu34/msg/235.html
▼ヤマシタはとんでもない野郎だ <福島県の子供の「甲状腺エコー」写真を米国で大量に公開していた>
http://www.asyura2.com/13/genpatu34/msg/235.html#c4
▼山下教授が、福島の子供達に安全だと言ってデータ収集。いろんな病気が増えてるとアメリカに報告
http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/a68f67fc483266a304827ff56e643968
▼「原爆ホロコースト」の実態
広島大学の名誉教授である芝田進午氏は、原爆の対日使用は「人体実験」だったとして、1994年に次のように述べている。「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカの覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への『人体実験』である。だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状についての報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。まさにアメリカがやったことは、「人体実験」だったといえよう。
「私は広島の生き残りのひとりです。ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実なのです。私たちは焼け跡の草をむしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありませんでした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。」
放射線の影響は、その後長期にわたってさまざまな障害を引き起こした。体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を引き起こすのか、50年以上経過した現在でもまだ十分に解明されておらず、被爆者はこれらの後障害で今なお苦しみ続けている。
現在もアメリカは被爆者たちを追跡調査している。
http://hexagon.inri.client.jp/floorA4F_ha/a4fhc700.html
−−−引用終了−−−

79. 鎌田の富士山 2013年10月17日 19:52:48 : Qor9q0B7HbDd. : TV23j0LPzk
↑上記のコメって、二重投稿になるのかな?
削除されても、文句言いません。

80. 鎌田の富士山 2013年11月03日 17:08:52 : Qor9q0B7HbDd. : 5K7X8IvsYE
首都移転という事が、随分以前に新聞紙上で取り上げられていたが、このごろはあまり拝見しない。
なぜ必要なのかというと、集中しすぎて過密になりアンバランスになり、という事なのだろう。
首都を、札幌(北海道)に移転するという案は、如何だろうか?
ふたつの意味がある。
ひとつは、今の日本人は脱亜入欧の意識が強く、ヤンキーも多く、まとめて再教育は出来ない。そのために、新天地を与える。
近代的な、すべての価値観と思想を、まとめて北海道に放り投げるのだ。
アイヌの人には申し訳ないが、宜しくお願いします。
と、同時に在日外国人に属地主義的な近代的な考えで、国籍を与える。(無理やり与える)
琉球人とアイヌ人は少数民族となる。在日外国人も少数民族となる。
まあ、近代国家としての完成形、日本連邦の新首都が札幌になる。
もうひとつの意味は、北海道以外は、廃県置藩を行い、皇居は西に戻し、東京を江戸時代に戻し、そのような作業を、しやすくする為である。
これは、弁証法ではなく、住み分けをしなければならないほど、日本人は分裂していると思う。方向を与え、新日本人(近代人)になるのか、日本人に留まるのかを、各人に選択させる事だ。

81. 蒲田の富士山 2013年12月05日 16:49:05 : OoIP2Z8mrhxx6 : syYLPFPwhQ
一年経っちゃなあ。
私は全然進歩していません。
ご安心ください。
ま、しかし、日記を縦書きで書いてみる、というのは、やってみたい。
「筆ペン」が必要。
日々のお金の事とか、手続きが未了とか、その他なんだかんだは、横書きノートでいいのだが、それ以外のことは、縦書きにしたい。
前職ソフトウエアでは、仕事は日本文も含め、横書きだった。
だから、帰宅後は新聞と雑誌の縦書きを読み、心のバランスを、どうにか維持していた。
まず、はじめの一歩。

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